私の憂鬱。第三十話




「深咲さーん、冴島さん14時に来るって」
「はいはい」

 

肩をこきこきと鳴らしながら、私は返事をする。

ちょっと休憩しようかしら。

 

ふう、と息を吐いて眼鏡を外した。

 

「深咲さん、ホットチョコレートあるけど飲む?」

「え?珍しいわね」

 

ちょうど休憩しようと思ってたからいいんだけど。

私は立ち上がって書斎を出ると、新の後姿をみつつ茶の間へと歩を進めた。

 

「はい、どうぞ」

「ありがとう。……嬉しいけど、なんで?」

「……深咲さん、すっかり忘れてるんだね」

 

はあ、とため息を吐いて呆れ顔を作る新に私は疑問符の浮かんだ顔で応える。

……忘れてるってなにをだろうか。

 

「今日は何月何日でしょう?」

「今日?2月14日…………ああ」

 

受け取ったマグカップの中身を見つめて、私はそうか、と頷く。

世の中はバレンタインであったか。うわあ、新ってこういうの本当細かいなあ。

 

「ごめん、本気で忘れてたわ」

「いいよ……クリスマスだって特に何したわけでもないしね。でもほら、今日は愛の告白をする日だからね!少しでも愛を囁きたいからー」

「はいはい、どうもありがとう」

 

こく、とマグカップの中身を一口飲み込む。

 

うん、文句なく美味しい。

 

「じゃあ、ホワイトデーはなにかお返ししないとね」

「お返し?」

「そうよ、貰いっぱなしじゃ悪いもの。何気にこれけっこう手間だったでしょ」

 

飲んでみてわかるけれど、チョコレートも生クリームもかなりいいものを使ってる。

マグカップもさらっと新品だし。恐らくプレゼントなのだろう。

 

新は相変わらず家事をやりながらも外で働きに出ている。

私の稼ぎでふたり食べていくにはじゅうぶんなのだし、別にいいのよ?と言っても新はけじめだと言って聞いてはくれない。

 

「じゃあ、結婚しようよ」

「は?」

「籍、入れよう?」

「はああ!!?」

 

いやいやいやいや、待ってくれ。

確かに、いずれは……と思ってはいたけど。

 

私達、一緒に暮らしてまだ一年とちょっとなんだけど。

一昨年の10月半ばだし、新がここに来たのって。

間出て行った時だってあるんだし。

 

「だっていいかげんご両親、誤魔化せないんじゃないの?」

 

う。痛いところを。

確かに30になる前に結婚させようと躍起になってる感じはする。

見合いしろ攻撃もなんかはんぱなくなってきたし。

一応、お付き合いしているひとがいるとは言ってあるんだけどね。

 

新は元々ちょっと世間知らずの母とはメル友のようになっていて仲が良い。

けれども父親は、かなり難しいと思う。

なんせ昔気質もいいとこのひとなのだから。

私が家を買ったときだって「女が家を買うなんて何を考えてる」と怒り狂っていたし、短大にしなきゃ婚期を逃すだとか、家に入ってこそ女とか、そんなことばーっかり平気で言うひとだからなあ。

 

結婚となったらもちろん新が主夫で、私が世帯主になる。

今は新も外で働いたりしているけれど……。

 

「結婚てなったら、僕完全に家の事に専念するつもりだし」

 

あ、やっぱり?けじめってそういうことなのね。

それは構わないし、倹約とかも新は得意だから貯金もうまそうだ。

というかもうほぼこの家の財布は彼が握っていると言っても良いくらい。

 

だから、私はむしろ嬉しいかも、とか思ってる、んだけど。

 

「……果たして説得できるのかしら」

「えー、大丈夫だよう。僕何回だって頭下げるし」

「そうねえ、まあ、許しもらえなくてもいいんだけどね」

「それは駄目だよ」

 

私がホットチョコレートを啜りながら言うと、新がそこに待ったをかける。

その言葉がなんだか意外で、私は目を丸くした。

 

「だって深咲さんをずっと育ててくれたひとたちじゃないか。確かに難しい面もたくさんあるってわかってるけどさ。主に僕が頑張るから大丈夫だよ」

「……それが嫌なんじゃないの」

 

ぼそり、と呟いた言葉は、聞こえていたらしい。

新はえ?と声をあげながらも続きを要求しているかのような態度だ。

でも私は、先を話すつもりになれない。恥ずかしい。

自分で呟いておいてなんだけど。

 

「深咲さん?」

「……だって。私はいいんだけどさ。新はたくさん特に父にひどい事言われるかもしれないじゃない。嫌なのよ、そんなのは」

 

だって。

私は彼がどれほど上等な男の人かっていうのをよくわかっている。

彼みたいに色々な事が出来るのに、わざわざ私を支えてくれるような人間は、そうそういないって知っている。

 

一緒に居て無理することなく過ごせる存在が、どれほど尊いか。

その存在にどれだけ救われているか。

折れそうになったとき、彼がいて私は何度も立て直しているから。

 

マグカップの中身はすでに飲み干していた。

空になったそれを眺めながら、私は無表情に俯く。

すると、横から温かい何かが私を包み込んできた。

 

「深咲さん、可愛い」

 

まただ。

新はいっつも、こういうとき可愛いを連発する。

恥ずかしいわ居た堪れないわでどうにもこうにもな状態になるんだけど、顔を赤くしても新はまた可愛いというので、正直けっこう困っている。

 

抱きしめられるのは嫌とはいわないんだけれど、これをしょちゅうやるのはどうなのだ、と冷静な自分が問いかける。

 

「嬉しいな」

「!新……」

「深咲さんが、僕の事好きでいてくれれば、なんにもいらないよ。何を言われたって、大丈夫だって思えるから」

「……新は、本当に良い男ね」

 

くす、と笑って言えば、新が目を丸くする。

 

「本当にそう思ってくれてるならますます嬉しい」

「思ってるわよ、なんで疑うのかしら」

「だってあんまりそういうこと普段言わないじゃない、深咲さんて」

「新と違ってどうしても照れが入るのよ、仕方ないでしょ!」

 

仕事の続きをするから、と私は彼の腕を引き剥がした。

 

去年の今頃は、もっと不安になっていた気がする。

想いが通じ合って、お互いがお互いを好きだと言っても、なんだか色々な事が恐怖だった。

 

包み込む腕も、優しく微笑むその顔も、好きだと紡ぐその唇も、いつか手の平を返したかのように消えてしまうんじゃないかって。

 

でも、今はなんだか開きなおってしまえている。

 

だって、彼はいつだって言葉をくれる。心をくれる。

だったらもう、丸ごと信じていればいいんじゃないかと、思えた。

 

いつか失う日が来ても、また取り戻してやるくらいに思っていれば良いんだ。

確かにもう彼が居なくなったらどうなってしまうかわからにないくらいに、新の事が好きだと思うけれど、

だからといって失う怖さをずっと引き摺っても仕方がない。

 

だったら今のうちに形にして、示せばいいだけの話なのだ。

幸い私は作家だし。彼への気持ちはきっとその都度思い出すから、怠惰になりそうになったら自分の作品に渇を入れてもらえばいい。

 

「まあ、とりあえずホワイトデーは温泉でも行きましょうか。休み欲しいのよねー、ゆっくりしたい。今から調整すればなんとかなるでしょ、進藤君?」

 

悪戯っぽく笑ってそう言うと、新が嬉しいやら悲しいやらといった風情で、複雑な顔をしていた。

 

「嬉しいですけど……」

「けど?」

「そんっなに僕と結婚したくないわけ?」

「そういうわけではないわよ。ま、そのうちね」

「そのうちそのうちってそればっかりー!」

「チョコレート、美味しかったわ、ご馳走様ー」

「深咲さん!!」

 

私はさっさと書斎にこもって仕事に逃げる。

こういうとき家でお仕事してるひとって便利。はっはっは。

仕事に逃げるってまあ、ちょっとあれだけどさ。

 

「冴島の事もあるからさっさと形がほしいってのに……」

 

ぶつぶつと後ろで新がなにやら呟いていたけれど、聞こえないふりをして私はそのまま書斎の扉を閉めた。

 

結婚、ね。考えないわけではないけれど。

今はまだいいかなあ、なんて思っている。

 

初めての恋をもうちょっと楽しみたいのかもしれないし、嫌な事に真っ向勝負する力がまだ蓄えきれないからなのかもしれない。

両親のことは、やっぱりまだ頭痛の種だ。

それでも毎日が楽しいと思えているのは、やっぱり新がいるからで。

 

書斎にひきあげたというのに、私はさっぱりキーボードを叩けていなかったらしい。

気が付けばもうそんな時間になっていたらしく、私の耳にも呼び鈴らしき音が聴こえてきた。

 

とりあえず文章を保存して伸びをする。

眼鏡を外し、束ねた髪をほどいた。

 

「深咲さーん、冴島さん来たよー」

「はいはーい、今行くわ。お茶なにかいれてくれる?なんか最近冴島さん胃が調子悪いらしいのよね」

「了解。……なんか詳しいのはなんでなの?」

「いいかげん彼に過剰反応するのはやめなさいよ」

 

ため息を吐きながら茶の間へと歩く私の後ろで、新が口を尖らせている。

それを見て私は密かに噴出していた。

 

今はまだ、こんな毎日が続けばそれで良い。

憂鬱な毎日に、彼がいつも通りの明かりを灯してくれるならば

 

特別な形はまだいらない、と贅沢な事を考えてしまう私だった。

 

 

 

 

【私の憂鬱。完】  

 

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