私の憂鬱。第二十二話




「よっし、ラストスパート!」

 

二週間くらい、と宣言したにもかかわらず、思いのほか順調な速度で原稿は仕上がっていく。

新が出て行って一週間と四日になったけれど、もう日付変更後には、あがってしまうかもしれない。

ここまで書いている中で違和感を覚える部分もない。

今度こそ文句なしで今の私に引き出せる恋愛物語としては最高のものだ。

これが果たして読み手にどう受け入れてもらえるのか。それはわからないけれど。

 

最後に食べたご飯は、佐倉の持ってきてくれたサンドイッチだったかな。

てことはほぼ二日なんにも食べてないってことだ。

今は夜の20時頃なわけだし。

 

でもあともうちょっと終わる。集中力も途切れていない。

そう、あと10ページ。5ページ。

書かせて。なんにもしたくないから。私にあるのはこれだけだから。

今この瞬間、大袈裟だとわかっていても

自分の両手はキーボードを打つ為にしか存在していないと思うくらい。

目の前のそれに夢中になっていた。

 

 

 

 

 

 

 

遠くで鳥が囀っている気がする。なんとなく、外が明るいような。

あくまでも、なんとなく、だけれど。

どうしてだろう、なんだかふわふわする。

自分が今起きているのか寝ているのかもよくわからないけれど浮遊感だけあった。

誰かに、抱き上げられてる?……まさかね。ここには誰もいないもの。

そうよもう誰も、いない。

 

「新……」

 

呟いても、むなしく響くだけ。そもそも、きちんと音にしてるのかもわからない。

あなたは、もういない。きちんと私は認識しているはずなんだけどな。

夢でも見ているのだろうか。だとしたら、これは私の願望がもたらしたそれなのか。

目を少しでも開けば、目の前に彼が見えるのかな。

ああ、でも。そんなのって余計虚しいじゃないの。

 

寂しさをなんとか紛らわそうとして、私は夢なのをいいことに正体不明のそれにすがり付いてみる。

すると幸せなのかそうじゃないのかますますわからなくて、私は結局また完全に意識を手放した。

 

目が覚めたら、きっと朝ね。

 

 

 

 

 

 

―――――――――――――――――――

 

 

 

 

 

「…………えっ、17時!!?」

 

がば、とベッドから起きたのは、夕方になってから。

起きて少し身体をのりだして、サイドボードにある携帯電話を取った時には驚いた。

だって液晶画面の時間が次の日の夕方になってるんだもの。

 

意識がなくなったのは午前4時くらい。

だとしたら私、13時間も寝た事になるんじゃないか。

原稿明けにこんなに爆睡したことあったかしら。

 

って。

 

あれ?おかしいな……私、ベッドで寝たっけ?

確か書斎でそのまま意識をなくした気が……無意識にこっちに来てたんだろうか。

少し首を傾げながらも、まあいいか、と私はとりあえず深く考えるのをやめた。

それよりも、だ。

 

仕事用の携帯電話の着信履歴をチェックしておかなくては。

私は手に持っていた二つ折りのそれを開き、画面を確認する。

 

『あ、冴島から着信入ってる』

 

今日は二件か。それ以外はなくて良かった。

急ぎの用件だったのならば、危なかったかもしれない。

こういうこともきちんと自分で管理しないといけないのだし、気をつけなければ。

 

とりあえず、終わったと報告をしよう。

携帯電話を開いて履歴から冴島の番号を選ぶ。

コール音が二回鳴ったと思ったら、もしもし!?という声が聞こえてきて驚いた。

 

『深咲?大丈夫なのか!?』

「え?大丈夫かって……」

 

あ、ひょっとして連絡が付かなかったから心配してくれたのかな。

さすがに申し訳ない事をしてしまった。

 

「あの、ごめんなさい。ちょっと眠ってしまってただけなの。原稿終わりました。冴島さんに最終チェックをお願いしたいのですが?」

 

声音を変えて後半部分を音にのせる。

電話口でも、なんとなく彼の雰囲気が張りつめたそれになった気がして私は自然背筋をのばしていた。

 

『……わかりました』

 

そう一言告げたと思えば、なぜか電話がぷつり、と切れた。

……一体何故。

 

ちょっと待てよ。まさか、今向かってきてるんじゃないでしょうね。

冗談じゃない!

ぼろぼろのひどい格好だし、部屋もけっこう荒れている。

とてもじゃないけれど他人を上げられる状態じゃないっていうのに。

 

まずい。一体どのくらいで到着するのかしら。

今更彼に体裁を繕ってもあまり意味がないというのはわかっているけれど、それにしたって彼と居た期間はあまりに短い。

正直、今はなんとも微妙な距離に彼はいて、私は汚い部分を見せられるほど、彼に何かを許したわけでもない。

 

担当としてだって、もうちょっと長く付き合わないと、さすがに醜態は見せられない。

いや、というか外面はけっこう頑張ってたから歴代の担当さんにも、そういう部分を見せたことはないのだ。

親が何かとうるさいし、どこでどう漏れ伝わるかわかったもんじゃないから。

 

……ってもう、とりあえず掃除よ、掃除!

茶の間の洗い物をとりあえず片付けちゃわないと。

ああ、書斎にマグカップもたまってたはずだわ、洗わないと。

 

やらなければいけないことを頭の中で思い描きながら、私は弱った体に鞭打ってなんとか動き出した。……ああ、体力がほしい。

 

 

 

 

 

『ピンポーン』

 

玄関の呼び鈴が鳴ったのは、2時間程してからだった。

思ったよりも遅い訪問ではあったかもしれないけど、やっぱり時間が足りない。

家に蓄積された汚れはなかなか取り除きようがなく、とりあえずの見える所しかやっぱり片付きはしなかった。

 

……ていうか、私自身がいちばん汚いけどね。

でもそこはね、そう、いいのよ。

だって冴島に好かれたいわけではないんだし。

……ああなんかどんどん女が下がっていくな。

 

落ち込みのため息を漏らし、私は玄関まで小走りで足を運べば、開錠して扉をひらいた。

 

「深咲!」

「え、ちょ!!?」

 

驚いて悲鳴に近い声をあげてしまったのは、仕方がないと思う。

だって。

 

私はどうして今、彼に抱きしめられているのでしょうか。

 

扉を開いた瞬間に、真っ青な顔をした冴島と目が合った。

私はどうしたのだろうか、と一瞬不思議に思ったのだけれど

私を見る彼がどんどんその目を見開いてやがて固まったので

大丈夫か、と声をかけようとしたら。

 

私はすっぽりと彼の腕の中におさめられてしまった。

 

ええー、と?

とりあえず私は、拒否してもいいのよね?

 

抱きしめられた瞬間はひどく狼狽していたはずなのに、

きゅ、と腕を回されている今はなんだか冷静になっている。

目の前の彼がなんだか私以上にどこか困った様子だったからだろう。

 

でも、いいかげんこの状態はよろしくない。扉開きっぱなしだから

道を歩くひとに見られちゃうかもしれないし。

 

「あの、冴島さん?ちょっと、そろそろ解放していただけませんか」

 

冷静な声でなんとかそう訊ねる私に、冴島がふう、と息を吐いたのがわかった。

耳元に彼が作り出した風がかかってくすぐったい。

どうしたらいいのかわからずに、再度声をかけると、

冴島はゆっくりと私の背中から自身の腕を放せば、その身体も引き離した。

私に真っ直ぐと顔を向ける彼は、もう作家成島深咲の担当編集者冴島一哉だ。

 

「……原稿、とりあえず読ませていただいてもよろしいですか?」

「ええ、もちろんです」

「書斎で、拝見させていただきますのでその間先生は休憩してください。……随分とお疲れのようですから」

 

苦笑混じりの言葉を放つ彼を一瞬見つめ、それから私は羞恥に内心身悶えた。

 

そ、そんなにわかりやすく疲弊した表情してるの!?

ああ、部屋必死で片付けた意味がなかったかもしれない……。

それでもなんとか慌てるでもなく、同じように苦笑してみせた。

うーん、年齢は無駄に重ねてない。かなり面の皮は厚くなったと思う。

 

「では、お言葉に甘えて。あちらでお茶でも飲んで待ってます」

 

茶の間を指差して言えば、冴島はうなずいて書斎へと消えて行った。

ああ、ついに読まれちゃうのか。……どうなるかなあ。

あれこれ考えそうになって、私は首を振った。

また疲れが蓄積されちゃう。

 

……とりあえずココアでも飲もう。いいかげんコーヒーは胃が荒れるわ。

 

 

 

 

 

 

 

 

「……い、先生、成島先生!」

 

名前を呼ばれて、私は意識を覚醒させた。

がば!と起き上がってみれば、隣には冴島の顔。

 

い、いかんいかん。

どうやら茶の間で落ち着いている間に居眠りしてしまったらしい。

ちゃぶだいに突っ伏していた私を起こしてくれたのだろう。

目の前の冴島にすみません、と声を上げた。

 

「私寝ちゃってたんですね」

「いいえ、初めての試みだったにも関わらず、この期間で書き上げたんです。お疲れなのも当然でしょう」

「そう言っていただけると……恐縮です」

 

私は向き直って居住まいを正し、彼に頭を下げる。

冴島は、にっこりと微笑んだ。

 

「読ませていただきました、先生の原稿」

 

うわ、ついにきた。

この瞬間は、もう何回も経験しているのに緊張する。

担当は、自分の作品を一番に読んでくれる、いうなれば読者第一号だ。

 

そのテにかけてはプロなわけで、所謂一般の読者様とは違うわけだけれど

今の私にとってはそう変わらない心持ちなのである。

一番最初の人間に面白いと思ってもらえない作品を、お金を払わせてまで色んな方々に読ませるわけにはいかない。

まるで一世一代の大勝負をしている気分だと毎度思う。

 

私は、私の作品は、果たして勝つのか負けるのか?

 

「もう、なんと言ったらいいのか……とにかく」

「は、はい?」

 

ああ、中途半端なところで言葉を切らないでよ。怖いじゃないの!

心の中が雑になってしまうのは余裕がないので今だけどうか許して欲しい。

ごくり、と唾を飲み込みながら、目の前の彼を見据える。

 

……あ、れ?ちょっと待てよ。私の気のせいでなければ。

 

『うっすらとだけど……な、泣いてない?』

 

目の前の光景に驚愕して固まれば、彼がその理由を察したのか、すみません、と呟いてごしごしと瞳をこすった。

 

「心が震えました。私は今ほど……この仕事をやっていて良かったと思った事はありません」

「さ、冴島さん……」

「新しい成島深咲の誕生の瞬間に立ち会えた事に感動してます。本当に、最高の仕事でした。お疲れ様でした!」

 

ありがとうございました!!という冴島の声と

彼が床に額をこすりつけるようにして下げた頭。

 

それらを耳で、目で、認識しているはずなのに。

薄膜が張ったみたいにうまく感じ取る事ができない。

なんだろう、この感覚。

 

ああ、もしかして、私。また一歩前進できたのかな。

 

頭を上げた彼が、やがてはにかむように笑って、深咲、と私の名を呼んだ。

その意味もなかなか理解できなかったし、彼がゆっくりと私の頭を自身の胸に引き寄せるのを拒絶できなかったのも、なんでだかまるでわからなかった。

 

緩慢な動きであったから、突っ張って避ける事はできははずなのに。

なんだか。

 

「本当に、よく頑張ったね。ファンとしても、礼を言うよ。成島深咲の新しい作品を読了した読者第一号だ。すごく嬉しい」

「か、ずや」

 

あれ。なんで私声が上擦っているんだろう。

なんだかうまく音にできない。呼吸も、なんか、苦しいな。

 

「深咲。声を出して泣いたっていいんだよ。

押し殺そうとすると苦しいだろう?」

「え?」

 

笑い混じりにそっと囁かれたその言葉に、私は驚く。

今の今まで、認識できていなかった。

 

……泣いているの?私。

 

頬をこぼれる何かを感じ取って、私はそうか、と心の中で呟いた。

そうして私は、なんとか涙を引っ込めようと努力してみる。

なんだか、こんなときに泣くのってすごく嫌だ。

女性である私の弱い部分を晒してしまったみたいで落ち着かない。

 

それにしても、おかしいな。滅多に泣く人間ではないのに。

最近、泣くのは二度目だ。

 

……新。

 

そういえばあのときも、しばらく泣いてるってわかんなかったんだっけ。

ひょっとすると自分でわからないのって、滅多にその感覚を味わっていないからなんだろうか。

泣くのにも得意、不得意とかあるのかな。

 

そう思うとなんだかちょっと面白くて、でも同時にとてつもない違和感があった。

彼を思って泣いた時、私はひとりだったのに。

今どうして、好いた男のそれではない腕の中で私は泣いているのか。

 

それを考えると変な嫌悪感すら芽生えてしまって、すぐさま突っ張って彼と距離をおきたかったけれど、それはさすがに悪いと思い、緩慢な仕草で彼の腕から自身を解放した。

 

冴島が、困っているのか笑っているのかよくわからない表情で私の顔を覗き込む。

 

「……ちょっと、あんまり見ないでよ、みっともないじゃないの」

「どうして?君の泣き顔は、とっても綺麗なのに」

 

綺麗。

ああ、こんなときでさえ、彼は綺麗と言うのか。

 

……なんだかそれも面白い。

 

『かぁわいい』

 

脳内で言葉が再生されて、私は頬を染めた。

冴島は、それを勘違いしたのだろう。

満足気に微笑みながら、私の頬にそっと手を添えてきた。

 

ああ、相変わらず最低。違う男の事で頬を染めるとか。

そしてこんな勘違いするタイミングって。ああもう。

なんかどんどん自分が悪女に思えてきて嫌だわ。

 

私は頬に添えられた手をやんわりと避けると、冴島の目をじ、と見つめた。

私達の間になにかは生まれない。そういう意味を込めて。

 

「……なあ、深咲」

 

その視線の意味を、彼が理解してくれたのかどうかはわからない。

ただ、真面目なその声音は、何事かを察したようにも思えた。

彼の呼びかけに、私は再度視線だけを用いて返事をする。

 

「構わない」

「え?」

「今は、他の男が好きだとしてもいい。俺の事を、排除しようとしないで前向きに検討してくれないか」

「な、何言ってるのよ急に」

「急じゃないよ。原稿が終わったら、言おうと思ってた」

「!か、一哉」

 

一度置いた距離を、彼がまたじりじりと詰めていく。

空間に突如おとずれたこの空気が、とても耐えられないと思うのに、これを一掃できる術を今の私は思いつかない。

 

「好きな男は、君の近くに居るのか?」

「!!」

「深咲の傍に居て、深咲を好きだと言ってくれているのか?」

「それは、」

「もしもそうじゃないのなら。正式に付き合っているわけじゃないのなら。君の元を立ち去った男に義理立てする必要なんてどこにもないじゃないか」

 

一哉の言葉が、酷く胸に刺さる。

そうなのかもしれない。でも、私は。

 

「……ごめんなさい。私、ひとつ賭けをしているの」

「賭け?」

 

一哉の言葉に、私は首肯する。

 

「もしもそれに負けたら、色々な事を忘れて、新しく生きようと、思う」

「……それは、好きな男への未練を断ち切る、ということ?」

 

『未練』

 

ああ、言葉にされるときついなあ。そうか、未練、なのか。

苦笑する私の顔は、きっとひどく歪に違いない。

 

「本当はね、言いたくなかったのよ。だってすごく卑怯でしょう?私の言っていることって、本命とうまくいかなかったらあなたの事を考えるわ、って言っているようなものだもの」

「そうかもしれないね。でも……」

 

言葉を切った一哉に、私はぐい、と腕を引っ張られる。

今日三度目になる彼の腕の中はどうしてか居心地は悪くなかった。

 

「それくらいの手管は、多少使って当然じゃないのかな?俺達はもう、大人と呼ばれるに十分な歳になったのだし」

 

それに、と続ける彼の唇は、私の耳元すぐ近くにある。

空気が揺れて、すごくくすぐったいし、艶かしい雰囲気に羞恥心が沸き上がる。

 

「俺も弱っている君に付け入っている卑怯な男だと自覚しているからね」

「!一哉……でも、」

「深咲、好きだよ」

「!!」

 

反論の言葉は、彼の唇によってすべて塞がれてしまった。

いつかの熱が私の身体を戦慄かせる。

 

ああ、どうして大人ってこうなのだろう。

好きではない男のはずなのに。

今、胸が締め付けられて、完全に拒絶できない。

それを汚いと思うもうひとりの自分も確かに居るのに。

 

触れた唇は情熱的で、恋に弱った私の心はすっかり悦びを見出していた。  

 

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