私の憂鬱。第二十一話




「……痕、消えちゃったか」

 

毎日、最早日課のようになってしまった。

お風呂に入ったときに鎖骨をついつい確認してしまう。

けっこう強くつけられたと思っていたから、若くないしひょっとしたら二週間もったりして、なんて考えていたけれど

……やっぱ無理か。そりゃあ、そうよね。

 

新がいなくなってから明日でちょうど一週間になる。

 

『せめてこれが消えるまでは、深咲さんの頭の中が僕でいっぱいになってればいいな。』

 

その言葉を反芻して、鏡の中の私が苦笑している。

そんなものなくたって、悔しいくらい彼の事で頭がいっぱいだ。

……まあ、小説には良い影響ばっかり与えてるけどさ。

 

『他の男に、決して許したりしないで。僕の事だけ考えて、僕の事だけ好きになって。』

 

別れ際の言葉。

私の心をいまだ占める、彼の存在。

 

「……でも、どうなのかしらね?」

 

約束の二週間。待つのはそれまでにしようと決めた。

もしも、それを過ぎても帰って来なかったら。

 

考えただけで少し痛くなる胸に自嘲しながら、いいかげんにお風呂に入ろうと服を脱ぎ捨てた。

 

 

 

 

 

 

 

「……冴島さん、いま何時だと思ってるんですか」

 

呆れにも似たため息を吐きつつも私は壁に掛かった時計へと目を向ける。

 

お風呂上り、単なる水道水を飲みつつ今日はまだ書けるだろうか、と、ぼんやり考えていたときだ。

現在時刻は午前0時をまわったところ。

普通の人間には真夜中と言っても差し支えない時間である。

私みたいな商売でもしていない限りそろそろ眠りにつく時間帯であろう。

まあ、ここ最近は執筆中ということもあって、随分と不定期な睡眠時間になっている。

 

新がかいがいしく家事をしてくれていた間は執筆中でも、わりと決まった時間に就寝できていたし、

そもそも私自身も切羽詰った状態にならない限りは、わりと生活リズムはしっかりしていたほうだったのだ。

 

……両親がうるさかったりするからね。

隙を見せれば帰って来い、の連発だしね。

 

と、まあ、そんなことをつらつらと考えている場合じゃなかった。

私は電話口の彼に一体どういうつもりか、と訊いている最中なのだから。

 

『最近ずっと夜中まで書いているみたいだからちょっと心配になってさ』

 

始めから砕けた口調で話す冴島の言葉に、彼は編集者としてではなく冴島一哉としてこの電話をかけたのだろうと、頭の片隅でぼんやり思う。

だからどうだってわけではないけれど。

 

「別に珍しい事じゃないわよ。どうしたって夜中のがはかどるから自然とそうなっちゃうの」

 

見えるわけでもないのに、私は肩を竦めながら冴島の言葉に答えた。

 

『……明日また様子を見に行ってもいいですか?』

「え、でも……前よりなにかが進んだ、ってわけではありませんよ?」

 

急に丁寧になった言葉遣いにつられて、私は背筋を伸ばす。

編集者である彼との会話は緊張感を覚える。まあ、良い事だ。

 

というか、そもそもそんなにしょちゅう普通は作家のもとに足を運ばないだろう。

途中経過をなんとなく確認して……っていうのだって、別に直接会わなくたって済む話である。

 

以前そんなことを彼に言ってみたけれど、直接対話してすすめていきたい人間なんだ、と言われてしまって、それがどこまで本心でどこまで下心なのかがわからなかった私は曖昧に返事をするに留めるしかなかった。

 

作家として私に誇りがあるように、彼にだって編集者としての矜持というものはあるだろう。

いくら私が彼に結婚を申し込まれているとしたって、仕事を口実に会いに来ているんじゃ、と疑ってもそれを口にするのは憚られる。

 

真実、彼はよく働く男であるし。

 

 

『ご迷惑でしたらかまいませんが。最近生活も不規則になっているようですし、何か差し入れでもしましょうか?進藤君がいなくなってから不便でしょう』

 

新の名前が出て、私は馬鹿みたいに心臓を跳ねさせた。

あー、本当馬鹿みたいだわ。

なんでこう、最近の私はどこぞの小娘みたいな心理状況なのよ!

 

「い、いえ、大丈夫です。体調管理は怠らないように努めますので」

 

多少言葉をつっかえさせながらも、なんとか普通の調子で声を出した。

冴島はしばらく沈黙したけど、やがて了承の言葉を口にしたので私は胸をなでおろす。

正直、この不安定な状態で彼と会うのはなんとなく嫌なのだ。

 

小説が佳境に入り、私の心理状態もそれに多少ひきずられるように、妙な気持ちになっている。

ここ最近、安定している時なんてほぼなかったろうけど、それにしたって今は浮き沈みが激しい。

 

書いているとこんな状態になってしまうことはわりとあるんだけれど、それにしたってここまで影響を受けるのは珍しい。

きっと今の自分と、恋愛物語という組み合わせがシンクロしすぎているのだ。

……設定とかは別に全然違うものなんだけどな。

 

『じゃあ、何かあったら遠慮なく電話をしてきて。個人的に助けに行くから』

「あはは、うん、ありがとう。あなたも明日会社でしょ?早く寝ないと。冴島さんに先に倒れられたら困りますからね」

 

悪戯っぽい口調で言えば、電話口で冴島は同じように笑いを返し、お互いに就寝のあいさつをかわして電話を切った。

 

ぱちん、と閉じた電話をじっとみつめる。

プライベート用のシルバー色した携帯電話は、いまだに電源が落ちたままだ。

新はこちらの番号も知っているから、用事があれば連絡はできる。

でも一週間経った今だって、音沙汰はないままだ。

 

「……やっぱり、帰ってこないつもり、なのかな」

 

それとも二週間きっかりでただいま!といつものように、笑顔でこの家の扉を開いてくれるの?

 

ああ、口に出さずにいたのに。

少しずつ汚れていく部屋をみて、インスタントのご飯を食べて、静まりかえった家で寝て。

 

そんなことをしていると嫌でも実感しちゃう。

 

「寂しいな……」

 

ぽつり、と口からついて出てしまった言葉を私は取り消す事も出来ずに、しばらく卓に肘をつきながらぼんやりしてしまったのだった。

 

 

 

 

 

 

―――――――――――――――――――

 

 

 

 

ここに存在する意味を彼女は考えていた。

それは酷くくだらないことのような、とても重要であるような、とにかく彼女がそれを思考したのは事実だ。

 

いつからなのか、と彼女は思う。

昨日ではない。一昨日でもなく、一昨昨日でもない。

気が付いたら、という、曖昧な言葉をどうしたって使いたくはなかった。

そうしなければお互いの存在がぼやけてしまうようで不安だったのだ。

けれど特定できたからといって、果たして自分は形作られるのか。

首を傾げしばらく想像してみたが、彼女は結局、あれこれ考えたそのどれにも何某かの結論を出すことはできなかった。

きっとそういうものなのだろう、と開き直るには些か時間を要する。

またも耽ってしまいそうになったので、彼女はゆっくりと自嘲するように首を振った。

 

 

―――――――――――――――――――

 

 

 

 

 

 

今何時だろう。

手が止まってそんなことを考えるってえのは集中が途切れてる証拠だ。

気が付いたらお腹の虫もぐーぐー鳴っている。

ああ、最近インスタントばっかりだし、何か作ろうかなあ。

 

「……でも新のご飯ほど美味しく作れないし」

 

口を尖らせて呟いたせりふにいいかげん泣きたくなる。

どれだけ考えりゃ気が済むのよ、私。

一週間と一日経った。

ということは、あと6日過ぎれば結論が出るって事なんだけど……ああ、なんか胃が痛くなってきたかも。

 

とりあえず、ご飯は保留にしてコーヒーを飲もう。

そう思い至って、私は書斎を出る。

携帯電話の液晶をのぞくと時刻は午後3時だった。

……世間一般でいうところのおやつの時間じゃないか。

 

いいかげん不規則すぎる生活に、私は落ち込みのため息を漏らした。

だっていい大人がさー……なにやってんのかしら。ああ。

 

「!……ん?」

 

息をすべて吐き出した時だった。

なんともいえないタイミングで携帯電話が鳴り響いて私はちょっと驚いた。

びくん!と身体を上下に揺らした様はなんだかすごく間抜けである。二重に情けない。

 

電話の主に罪はないがなんとなく苛立ちを覚えてしまう。

私は多少不機嫌な顔をしつつ、通話ボタンを押した。

……電話だから顔はみえないしね。

 

「はい、成島です」

『お前今、家に居るか』

「……ちょっと佐倉、何を突然」

『居るんなら開けろ』

「は、」

 

『ピンポーン』

 

ディスプレイで誰からの電話かはわかっていたけれど

まさかすでに家の前に居るとは思わなかった。あんたはメリーさんか!?

 

呆れながら私が玄関扉を開けると、佐倉はよう、と軽い声で短くあいさつをした。

 

「ちょっとあんたね、急に来るんじゃないわよ!」

「いや、近くまで来たからどうしてるかと思ってな。邪魔するぞ」

「あ、佐倉!」

 

ったく、どんだけ図々しいんだこの男は。

茶の間に迷いなく踏み込んでいく男の後姿をみて殺意が芽生えた。

 

「メシ食った?」

 

佐倉の質問に無言で首を振れば、奴は呆れたようにこちらをみてくる。

なんだ、その顔は!あんたは私のオカンでも彼氏でもないんだから関係ないだろう!

顰めっ面に何事かを察したのだろう。

佐倉はくつ、と噛み殺すような笑いを少しだけ漏らして、台所へと歩を進めればレンジ扉をぱかり、と開けた。

 

「佐倉?」

「俺もまだなんだよ。成島、コーヒー淹れろ。インスタントは不可だ」

「あんたねえ!」

「いいだろそんくらい。これ俺のおごりなんだし」

 

そう言って指し示されたものは某有名ファーストフード店のサンドイッチ。

……こんな事一度でもされた経験あったかしら。

たまに急な訪問をする事は確かにあったけど、むしろ私が何か食べ物を提供してやっていたことのが多かったはず。

胡乱な視線を奴に寄越しつつも、それでも昼がふってわいてきたのはありがたいので、私は渋々コーヒーを淹れてやる事にした。

別にそこまで怒ってるわけじゃないんだけどさ、一応ね。

ポーズよ、ポーズ。これ以上佐倉に図々しくなられちゃたまんないもの。

 

「はい、コーヒー」

「ああ。じゃ、食うか」

「あんた仕事は?大丈夫なの、抜けて」

「元々直帰だったからな。問題ねえよ」

 

ふうん、と呟いてコーヒーを啜る。

インスタントじゃないの飲んだの久しぶりだなあ。当たり前だけど美味しい。

でもやっぱり、新のよりは美味しくない。

 

……ってだからそうじゃなく!

 

「思ったよりは普通みたいだな」

「はあ?どういう意味よ」

 

佐倉の呟きにわけがわからなくて、私は眉間に皺を寄せながらサンドイッチを齧って咀嚼する。

……これけっこう美味しいな。

 

「新、出て行ったんだろう?」

「……ええ」

「冴島に軍配があがったのかと思ったがそうでもないみたいだな」

「は?」

 

頬杖をついてこちらを見てくる佐倉の瞳がなんだか怪しい色をしている。

なんだ、この無駄に雰囲気がある男は!

 

「成島」

「……なによ」

 

呼びかけたのは佐倉のほうなのに、なぜか奴は言葉を切ってにやにやしている。

ああ、腹が立つ。

こういうもったいぶる男はあまり好きじゃない。

 

友人関係になる前、正直どうなんだろう、と思った事があった。

所謂男女の、っていうそういう雰囲気がないわけではなかったから。

でも踏み込む前にお互い察した。

私みたいな人間と、こういう男とはとことん合わない。

それは佐倉も私も十二分にわかっている。

 

かたや面倒臭がりで、恋も愛もなにそれ美味しいの?状態な私。

かたやフェロモンむんむんで、何をするにもスマートな男。

 

私は彼を胡散臭い男だと感じてしまうし、佐倉は佐倉で私みたいな女性に色気を感じないのだ。

 

まあ、割り切って遊び相手だったら案外適しているのかもしれなかったけど、私も佐倉もそこまでそういった事に執着はなかったし、奴はとことんモテる男だから、私じゃなくともそういう相手はいたみたいだし。

それよりも、女友達になり得る相手のが貴重だったらしく、私と佐倉は今日までずっとこういう関係を続けている。

 

……基本佐倉って、からかいがいのあるタイプのが好きなのよね。

私と真逆というか。

タイプって私はピンとこないけど、新みたいのがタイプだったのだろうか。

わからないなあ。

でも佐倉みたいな薄膜一枚張って気取る男より(素でそれだから面倒臭い)、新みたいに軽いノリのが疲れないのは確かだ。

 

友達付き合いだとそうでもないんだけど、男女として隣に立つと多分笑っちゃいそうになるんだよね。

え、なに気取っちゃってんの?みたいな。

ああ、ムードもへったくれもないな、私は。女としてどうなんだ。

 

「おい、ひとりでどっかいくな」

「うるさいわね、基本作家ってーのは頭の中が忙しいのよ。三秒ほっといたら人の話なんて聞きゃしないんだから今度から言いたい事は素早く簡潔に述べなさい。あんた普段からこういう人種と接してんだからわかりそうなもんでしょ、鈍いわね」

「言ってくれるな、成島。相変わらず可愛気が皆無でつまらん」

 

佐倉の言葉に、私ははあ?と呆れの声をあげる。

なんなのだこいつはさっきから。

 

「あんたに可愛さ振りまいてどうすんのよ」

「ほう。新にならばそういった面も見せる、と?」

「!!!」

 

……言いたかったのはそういうことか。

ちきしょうなんでバレた。いつバレた!

自覚してからこいつと会った事ってあったっけ?

 

頭の中は混乱していたが、表には出してなかったはず、なのに。

佐倉はより一層にやけ面を深くした。

 

「髪を耳にかけなければ良かったな。耳が赤くなってるぞ」

「!…………チッ」

「舌打ちかよ」

 

眉間に皺を寄せながら慌てて髪を下ろすも、もう遅い。

たまりかねてした舌打ちも、奴はなんだか楽しそうだ。ああ、腹の立つ。

 

「連絡とか、くんのか?」

「新から?出て行ったきり音沙汰なしだと思うけど」

「思うけど、っていうのは?」

 

コーヒーを一口飲みながら、私は肩を竦める。

 

「プライベートは電源落ちてるから。あっちに連絡いってたとしたらわからないわ」

「新はどっちも知ってるんだろう?」

 

その問いに私は首肯する。

 

「だから、まあ、ほぼ100%音沙汰なしだとは思うわ」

「なるほど。……お前、どうするんだ?新のこと」

「どう、って?」

 

ちらり、と佐倉に視線をやっても、奴は答えない。

まあ、言いたいことはわかるんだけどさー。

素直に言ったら説教とかされそうで面倒だなあ。

ああでもそんなことするような男でもないか。

 

「まあ、なるようになるわよ」

「ここまできて結局それか?お前なあ」

「私が出来る精一杯よ。……27歳持ち家暮らしの独身女がする精一杯」

 

その言葉に、佐倉がしばらく無言で私をみつめる。

私も佐倉をじ、とみつめた。

 

沈黙を破ったのは、佐倉の盛大なため息だ。

 

「……まあ、いい。俺はどちらとどうなろうと知ったこっちゃないしな」

「あら、一哉とどうにかなると思ってる?」

「可能性はなくはないだろう。お前がまだ無意識に一哉と呼ぶ間はな」

「…………」

 

少しどきりとする佐倉の言葉に私は思わず口を噤んだ。

佐倉は、苦笑しながら私の名前を呼んだ。

 

「成島。確かに俺達はもう自由ではないだろう。女のお前は特にな。でも、譲れない部分は何歳になっても守ろうとしていいんじゃないのか」

「佐倉……」

 

ああ、なんか。色々と痛いところをつかれた気分。

でもどうなのかしら。何を選択したら、私は守るべきものを守れるんだろう。

案外、今の状況だとけっこうわかんない気もするんだよな。

 

また沈黙が続いたけど、やがて短く着信音が鳴り響いて私は携帯電話を手に取った。

 

「……噂をすれば、か?」

「ん。……昨日断ったんだけどなあ」

「別に訪問くらい受け入れてやればいいんじゃないのか?変に操立ててやる必要もねえだろ」

「あんたね。別にここに来たからってなにがどうなるわけでもないわよ」

「だったら尚更かまわないだろ」

 

佐倉の言葉に、私は確かに、と心の中で頷いた。

でもなんでだろう。

何かがきっかけでころり、と心が転がってしまいそうな。

そんな妙な胸騒ぎを、私は感じていた。



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