私の憂鬱。第十七話




『聖女のように清らかでここに存在出来るはずがない。どうしたって、重ねた歳月は覆せないのだから。』

 

『触れるたび痺れる指先があまりにも不可思議で、いつしか毒を盛られているのではないかと愚かにも考えた。』

 

『その表情の意味を、知りたいのだと彼女は言いたかった。けれどもそれは酷く難しくて、きゅう、と萎む喉は何事も発することはできない。』

 

 

 

 

 

「ああああーもう、だめだっ!!」

 

集中力が途切れた事に苛立ちを覚えながらも、ここで粘ってもきっと良くないものができると誰よりもわかっている私は観念してどさ、と椅子の背もたれに体重をあずけた。

 

書いていてどこか恥ずかしい、という感覚は最初の数枚を上げてどこかに吹っ飛んでしまった。

開き直れるのが人間である。なんとも素晴らしい順応力だ。

 

首を数回まわして、私は書斎の扉を開ける。

今が何時なのかわからない。

ぼうっとした顔で茶の間へと足を運べば、窓から夕陽が差し込んでいた。

どうやら今は夕方らしい。

少し前まで熱いくらいだったのに、この時間になるともう肌寒くなっていて、長袖の薄いTシャツ一枚だった私は思わずぶる、と小さく震えた。

 

ちゃぶ台に目をやれば、ひとつのメモが残されていて私は無言でそれを取る。

 

『晩ご飯は冷蔵庫です。食べてなかったらお仕置き。明日の朝には帰ります。 新』

 

「お仕置き…それはちょっと勘弁してほしいところね」

 

ふ、と少し笑って、私は台所へと足を運ぶ。

冷蔵庫の中をチェックしながら、ポケットに入った状態の携帯電話を取り出した。

どうしても集中していると電話に出る事を忘れてしまう。

新がいればわざわざ心配することもないけれど、こんな日は急ぎの用件がないかと少し心が落ち着かない。

もっとも、今はなるべく取り掛かっている原稿に集中したいとは思っているけれど。

 

「今日はオムライスかー。珍しく洋食ね。あと…アボカドのサラダとコーンスープ!相変わらず完璧すぎて笑えるわ」

 

新は、なかなかどうして一日三食に手を抜かない。

前にたまには手抜き料理だってしていいんだよ、と言ったことがあったけど、それは自分のプライドが許さない!と彼は胸をはっていた。

彼にとって、家事労働を疎かにすることは自身の矜持に関わることらしい。

反芻してはまた微笑む。

 

……いやね、四六時中顔を合わせてるっていうのに、会えないときも新のこと考えてにやけるなんて。乙女かっつうのよ。

 

頭を振って、電子レンジにオムライスをセットする。

その間に携帯電話を開けば、着信履歴をチ確認した。

 

「……冴島から三回も電話入ってるなあ」

 

これは。

担当としての電話なのだろうか。

それとも?

 

「だー!仕事に決まってんでしょうが!!プライベートな電話は別だって伝えてあるし!むこうだっていい大人なわけだし!!」

 

誰に言い聞かせるでもなく盛大な独り言を声高に発して、少々むなしくなった私は、眉間を揉みながら冴島へ折り返し電話をする。

しばらくコール音が鳴って、それにどこかどきどきする自分が嫌だった。

私も結局ただの女であったか。

 

『もしもし、冴島です』

「冴島さん、すみません。何度もお電話いただいたようで…成島です。なにか御用だったんですよね?」

『進捗具合はどうかと思いまして…順調ですか?』

 

どこか弾んだ声の冴島に、私は見えないとわかっていながらも肩を竦めて苦笑した。

 

「さあ、どうでしょう。今までよりはちょっと遅いかもしれませんけど、それほど書けないってわけでもないみたいです」

『そこまであけすけにおっしゃる先生は珍しいですね』

 

受話器から、くすくすと小さく笑い声が聞こえて、私も同じように小さい笑いを返した。

 

「へたに順調でーす、なんて言えませんよ。皺寄せは自分にくるんですし。とりあえず触りはもう出来上がって、全体の構成も輪郭だけだけどみえてきました。書き上げる事は難しくないとは思います。けど、スピードは期待しないで下さい」

『なるほど、とてもわかりやすくご説明いただいてありがとうございます』

「いえ。えーと、御用件てそれだけですか?」

『あ、いえ!その…途中経過を見せていただければ、と。近いうち、お伺いしても大丈夫ですか?』

「ええ、進藤がいる時間帯ならばいつでもかまいませんが」

 

間髪入れずにそう答えた私に、冴島はしばし無言になった。

彼ははっきりとした好青年ではあるけれど、融通がきかないわけでもないし極端に鈍い人間でもない。

多少の強引さはあるが、それはわかっていてやっているものだ。

単に鈍く自身の意見を押し付ける人間と、果たしてどちらがたちが悪いのかと考えると……私は内心疑問だった。どうにも答えに窮してしまう。

 

しかし現在は、冴島の性格に苛立つことはない。

そういった種類で腹を立たせることはないのだし、やっぱりこちらのが楽といえばそうかもしれない。

今の言葉の意味を、正しく理解したのだろうから。

 

電話口から、長いため息が聞こえる。

 

『…随分とわかりやすい牽制をするね』

「あらあら、お仕事中じゃないんですか、冴島さん?」

『これくらいは許してくれてもいいじゃないか。厳しいな、深咲』

「一人暮らしの部屋に男をあげるなって言ったのあなたじゃないの」

『そうだったね。言わなきゃよかったなあ。ああ…でも、俺以外を招き入れられても不愉快だからいいけれどね』

 

さらっと放たれる口説き文句に、私は顔を赤くする。

ああ、良かった、誰も居なくて。

なんというのだろう。

新の口説きを流せるのは本気なんだかなんだかわかんないからで、可愛いと思える範囲だからなのかもしれない。

でも、一哉は違う。

洗練された大人に甘い言葉を囁かれるのはどうにも経験値が足りなくて、慣れない言葉の数々にくらくらするのだ。

 

…まあ、だから、残酷な事を思えば彼でなくとも多分赤くはなるな。

 

そんな風にひとり納得してしまえば、どこか頭が冷えた。

こういうところは相変わらずドライだ。

 

「もう、口説くつもりなら電話切るわよ。忙しいんだから私」

『ごめんごめん!ちょっと待って!わかった、じゃあ、外で昼間!これなら会ってくれる?』

「…………」

 

返事をしない私に、冴島が口調を変えて姿勢を正すかのように話し始めた。

 

『打ち合わせをしましょう、成島さん。明日、駅前の喫茶店までなら出て来ていただけますか?』

「………朝の10時ならいいですよ。それ以外なら嫌です」

『わかりました、明日の午前10時に』

「え!ちょっと仕事は!?」

『最優先で動いていいって言われてるから大丈夫』

「げっ…」

 

てっきり朝早くを時間指定すれば渋ると思ったのに、なんとなく先手を取られたかのようで悔しい。

というか今の話が本当なら、期待値がかなりのものなのだろうか。

ひええ。

 

「ちょ、ちょっと待った。だったら午後14時とかにしてよ。さすがに嫌よ、朝の10時なんて」

『はじめから素直にそう言えばいいのに。それじゃ、14時に待ってるよ』

「……わかりました」

 

からからと笑う男にすっかり調子を狂わされながら私は携帯電話を閉じた。

 

やっぱり計算のがたちは悪いのか?

いやいや、天然のあの空気読めなささは度し難いものがあるぞ。

苛立ち度でいえばやっぱり天然男のが嫌だなあ…。

 

「…まあいいや。ご飯食べよう」

 

結局、考えるのも面倒になったので私は美味しいご飯をいただくことにした。

食生活の潤いは、私になんともいえない喜びを与えているのである。

新、明日の朝には帰ってくるって言ってたけど、本当かしら?

 

少し不安に思いながらも、彼が作ったご飯をちゃぶ台へと並べれば手を合わせてご飯と新に礼を尽くす思いで声を発した。

 

「いただきます!」

 

彼はいま、なにをしているのだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「18時かあ…深咲さんご飯食べたかなあ」

 

壁かけ時計に目線をやりぽつりと呟いた言葉に、しかし返事をする人間はいない。

新はどこか寂しげな顔をしながらひとつ息を吐く。

 

広大な城のような家に、彼はいまだ自分の居場所を見出せずにいる。

あてがわられた自身の部屋だけで、昔一家が住んでいたマンションすべての部屋が、すっぽりと入ってしまうのではないかと考えれば新はなんともいえない気分になった。

 

この屋敷に戻りひとりこの部屋で暇を持て余すと、どうにも昔の事を思い出してしまって新は嫌だった。

家族三人で暮らしていた日々。

貧乏でも豊かでもなく、父と母は割りと仲が良く、一人息子である自分は過度な期待を受ける事も、酷く甘やかされる事もなかった。

要は、平凡かもしれないが、とても幸せだったということだ。

 

そんな日々は、ある日を堺にぷっつりと途絶えてしまった。

夫婦水入らずで旅行に出かける、と言ったきり彼らは戻る事はなく、新はいとも簡単に底無しの孤独に放り込まれてしまう。

大学も卒業出来るかわからない、住む家も出て行かねばならない、と途方に暮れてしまった新を救ってくれたのは、絶縁状態の祖父だ。

 

何故今、新をここに呼びつけたのか、彼はその理由を知りたくてこんな茶番にいつまでも付き合っている。

大切な存在がなくなり、すべての人間と関わるのが面倒になった新は友人ともどんどん疎遠になった。

周りの変わっていく態度に、どう対応していいかわからなかったのだ。

今でこそ唯一友人と呼べる人間と連絡を交わすようになったが、それはすべて深咲が暗闇から引きずり出してくれたからである。

寂しさが頭をもたげたところで深咲を想えば、新は心が温かくなった。

どこか元気付けられたと感じれば、彼は部屋を抜け出す事にする。

 

この家に住んでいる人間は何人かいるものの、昔の進藤家とはまるで違う、と新は感じていた。

多くを持ち過ぎると、人間は色々と不便になったり、小利口に生きるようになってしまうのかもしれない。

 

若年である自分がそんな事を偉そうに語ったところでどうにもならないが、新は彼らの生活を羨ましいとは思えなかった。

結局、持つものが増えればそれだけ責任も増える。

それを放棄した罪を、母は一生背負う覚悟をしたのだ。

だからこそ新の母は父と結婚し、新を産んだ。

そのことがわかっているから、今更この家でなにをどうこうしたくもない。

せめて、もらった恩を返すくらいはしたいものだが、新には今すぐ返せそうもないし、それならばどうすればいいのかもわからない。

その方法や理由を教えてほしくて、彼は何度も祖父の部屋を訪ねるも、まったく相手にはしてくれないのだ。

そもそも、祖父は家自体に帰っていないようだった。

 

だからこそ、何度も祖父の秘書である伊達にどうにかしてほしいと、お伺いを立ててみた新であったが、一年以上待っても進展がない。

痺れを切らしたのと、自身に色々と失望したこと。

それがあの日、新がすべてを投げ出してしまおうかと考えた理由だった。

拾われたのが深咲のような女性だったのはなぜなのか。

価値もなにもないと思った自分に、どうしてあんな人を与えてもらえたのか。

馬鹿馬鹿しいとも子どもっぽいとも笑われてもいい。

新は、それが上にいる両親からの言伝のように思えてならなかった。

 

まだ生きていてくれないか、という、両親からの意志のようなものが感じられて、新はあの日、深咲に生き直す理由をもらおうと考えたのだ。

彼女には、きっと迷惑以外のなにものでもなかったろう。

 

色々と頭の中で考えつつも廊下を歩いていると、どこからか声が聞こえてくる。

新は、はっとして意識をそちらへと集中させれば耳を傾けた。

 

「だから、いつまであの子をここに居させるつもりなの!?」

「そんなのわからない。お父さんの意向なんだ、従う他ないだろう」

「でも…後継者争いなんて事になったらどうするのよ!」

「血統としては聡のほうが有利だし、彼は若く実績もない。もしもレースに参加したところで早々にリタイアせざるをえないだろう」

「お義父さまがあの子を気に入っているのかもしれないじゃない!聡が可哀想だわ、今までずっとこの家の後継者になるべく育てられてきたっていうのに…あんまりじゃありませんか!!」

 

その会話は、彼にとってあまりにも突飛で、ともすれば物語を読んでいるような気分にさえなる。

もしも深咲なら、真っ先に小説のこやしだと喜んだかもしれない。

こんなところでまで彼女の事を考えるとは、いよいよ重症だ。

新は自身の心中に自嘲した。

 

わざと立てた物音に、新の両親より多少年配であろう男女が彼の方に揃って振り向けば、目を見開いた。

次には取り繕うかのようにぎこちない笑みを浮かべる。

 

「あ、あら。進藤君…いらしたの」

「新君、そこでなにをしているんだい?」

 

このふたりは、新の伯父と伯母である。

新の死んだ母方の兄にあたるのが伯父の悟で、その妻であるのが伯母の妙子だ。

 

妙子は、新がここに来てからもう一年の月日が経ったというのに頑として彼を名前で呼びはしない。

「進藤」という、新の父方の姓を強調する意味で苗字を呼ぶのだ。

この母方の家は世間でいうところの金持ち一家で大企業の社長を勤める悟は、世襲で継いだ会社を切り盛りしている。

『菅原』というこの一家の姓は、そのまま会社名にもなっており、その名前は一般人でも知っている有名なものだ。

単なる学生の新でさえ、その名を知っているくらいだった。

 

同系列の子会社へ勤めている長男の聡は、この家の跡取りとして、かなり期待されている。

次男である賢まさるは、出来は悪くはないらしいが、女性関係があまりよろしくないようで、両親には悩みの種であるようだ。

 

この家には、菅原家の夫婦と賢、そして新の祖父で会長でもある正則が住んでおり、長男である聡は会社近くにて一人暮らしをしている。

もっとも、前々から賢は家に寄り付かず、今は祖父の正則さえも滅多に顔を見せない始末なので、この家の広さは日々増すばかりだ。

 

新は心中で呆れながらも、にっこりと顔だけで微笑んで見せる。

 

「僕は元々庶民なので、する事もなくて暇だから掃除でもしようと思いまして」

 

そう言って掲げて見せた新の手には、伸び縮みするタイプのハンドモップが握られていた。

その新を見た妙子は、あからさまに侮蔑の表情を見せながらも言葉だけは感じの良い伯母を演出する。

 

「あら、そんなことなさらなくてもいいのよ。あなたはうちの親戚なんですから。ご自分の家だと思ってゆっくりなさっていて?ねえ、あなた」

「あ、ああ…、新君、家内の言う通り、そんなに気にせずともいいんだよ?」

「自分の家だというんなら、やっぱり家事をします。そのほうが落ち着くので」

 

そう言って笑顔を貼り付けたまま、新は失礼します、とふたりの横を通り過ぎていく。

小さく変な子、と言われたことに新は苦笑しながらも、適当に部屋を点検していくようにどこぞの扉を開け放った。

 

こうして、ゆっくりゆっくりと、新が色々な事をしでかそうとしていることは、夫婦は気付いていないようだった。

軽く息を吐き出せば、新はざっと部屋を見渡す。

まだ入った事のなかった部屋だと思い起こせば、新はふむ、とひとつうなずいた。

家探しをしてわかったことは、聡の婚約者の存在。

そうして近付いた婚約者と聡は、うまくいっていないという事実。

 

しかし、それだけでは足りない。とにかくもっと材料がほしい。

大切なものが出来てしまった今、新は問題の解決を早めたかった。

堂々と、彼女に告げられるその瞬間を、とにかく一日も早く迎えたい。

 

ふりだけではなくきちんと掃除をしながらも、新はまだガサ入れしていないその部屋の要所要所を検分していくのだった。

 

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