かむがたりうた 最終章「コトバ」




隠処の 泊瀬の河の

 上瀬に 斎杙を打ち 下瀬に 真杙を打ち

  斎杙には 鏡を懸け 真杙には 真玉を懸け

   真玉なす 我が思ふ妹 鏡なす 我が思ふ妻

    在りと言はばこそよ 家にも行かめ 国をも偲はめ



        「古事記」下巻・允恭記



















『始まる』架織と深琴が同時に呟いた。

「これは……?」

 安が眩しさに目を細めた。眼下に見える地上が−地球が−ほのかに光っている。

「伊邪那岐が動き出しました」

「伊邪那岐?そうだ!伊邪那岐って…!」

「この世界のことですよ」

 安の言葉に答えたのは架織だった。

「神としての役目を終えた伊邪那岐様は、この世界…神界と人界そのものになったのです。世界が滅びるとは即ち伊邪那岐様が亡くなられること。伊邪那岐様の死を止める方法はただひとつ。伊邪那岐様に神全員の力を捧げること」

「じゃあこれって…」

「世界の再構築ですよ」

 ビル街や伐採された森が緑で埋め尽くされて行く。神界までに轟く人々の驚愕の声。

「人と自然の共存できる世界。争いも格差もない世界。まさに人々の…いえ、生物全ての理想郷を全ての神の力を使って再構築しようとしているのです」

 架織が安に微笑んだ。

「…やめろ…」

「何故です?誰も傷つかない、何も犠牲にならない世界ですよ?」

「犠牲ならもう充分に払った!ハルは?旗右先輩は?砂城ちゃんは?西夜は?東子ちゃんは?琉真は?ナヲさんは?弓さんは?巴は?それからそれから……」

 あらんばかりの声で叫ぶ。

「父さんと母さんは?」

 安の目から大粒の涙がこぼれ落ちた。

「こんなお仕着せの世界、理想郷なんかじゃない!人が…自然が……宇宙が何億年とかかって積み上げて行ったものを、こんな簡単にリセットするなんて間違ってる!絶対に間違ってる!止まれ!元の世界に戻れ!人はまだ生きて行ける!この世界はこんな力なくても自力で生きて行けるはずだ!」

 あらんばかりの力を使って叫んだ。

「元の世界に戻れ!」

「無駄ですよ。これは太安万侶が作ったシステムです。ご存知でしょう?『言霊は先に言った方が絶対に優先される』」

「無駄なことなんてあるもんか!」

 叫び続ける。











『止まれ!』











 その時だった。

 世界を覆おうとしていた緑が水泡のように消えたのは。

 またしても人のざわめきが聞こえる。

「な!」

 深琴は両手で口を覆った。

「………目覚めて……しまいましたか」

 架織は俯いたまま呟く。

 振り返ったのは、虚ろな目から涙を一筋流す安…いや

「『原初の言霊遣い』……太安万侶」

「長年に渡りご苦労であったな。我が子孫達」

 低い声で安は呟いた。















「始まりよった…安さん…」

 突然の出来事にざわめく雑踏の中で灯流は呆然と空を仰いだ。

「結局…安さん一人に全部背負わせて終わるつもりなんか…この世界は」

 加奈から届いたメールにあった通りのことが起ころうとしている。

 『ニワトリが先か卵が先か、よく考えてみてください』

「ニワトリが先やったんや…言霊遣いという能力は。突如発生した能力でも、まして神様から授かった能力でもない…」

 灯流の声を打ち消す強い風は止まなかった。

「だからこそ、万夫さんも加奈さんも安さんをあんなに恐れた」

 『化け物』だと言った。

「安さんこそが全ての始まり…太安万侶やったんやから」















「我はこれから千と三百年前に向かう。汝らはどうする?」

「僕は手が血で汚れすぎた。いまさら人界には戻れませんよ。ここに残ります。でも姉さんは…」

「架織が神界に残ると言うのなら私も…」

「姉さんは人として生きるべきだ。今までの分も取り返さなきゃ。大丈夫『多分』僕らはまた会える」

「言…霊…」

「『多分』だけどね」

 言って架織は深琴に笑いかけた。

 それが彼の最後の言霊になった。

「承知した。では我は和銅の世へ…」

 安が…いや、安万侶が手を上げるとその姿が薄れ始めた。

「駄目ぇ!」

 その場にないはずの声が響き渡る。

「天川さん!」

「伊邪那…」

 弾けるように安の表情がクリアになった。

「ハル!」

 そこにいたのは天川遥歌の姿。

 そして太安万侶ではない『安』

 遥歌は消えようとする安の腕にしがみついた。

「あんたバカじゃないの?あんたみたいな古典赤点常習者に古事記なんて書けるわけないじゃないの!古代文学を甘く見すぎよ!補習の勉強のとき、何度も言ったわよね。古事記は稗田阿礼が暗誦して太安万侶が記したって!覚えてないって言ったらまた古語辞典の角で殴るわよ!」

 答えは聞かずに遥歌は続ける。

「だから、あたしが稗田阿礼になる!」

「え?」

 そこにいた遥歌以外の全員が声を上げた。

「知らないでしょうけど、柳田国男の唱えた稗田阿礼女性説ってのがあってね!それもこれで合点がいくわ!あたしなら古事記の内容ほとんど暗誦できるから!だからっ!」

 すがるように叫んだ。

「あたしも連れて行きなさい!安!」

「本当にいいの?家族も友達も誰もいない世界だよ」

「あんたがいるじゃない!あたしは全部捨ててあんたについていく!」

 遥歌はきっぱりと口にした。

「それがあたしの出した結論!あたしの書き直した古事記の結末!」

「そうだった。忘れてたよ。ハルはいつでもそうやって答えを出すんだった」

 安は遥歌を強く抱きしめた。

「ハルも一緒に行こう」

「うん」

 それを最後に二人の姿は掻き消えた。

(ありがとう、皆)

 空から声が聞こえたと思うと架織と深琴の周りに次々と人影が現れた。様々な時代の服を着た年齢もそれぞれ違う皆、神として死んで行った者ばかり。何十何百という人々。

 これからそれぞれが選ぶのだ。

 神界で神として生きるか、人界で人として生きるのか。

 神の意思ではない、それぞれが 自分で















 そう、それは十年も前のこと











「今日から一緒に勉強する天川遥歌ちゃんです」

「天川遥歌です。得意な教科は国語です。よろしくお願いします」

 赤いランドセルを背負った遥歌は頭をペコリと下げた。

「みんな仲良くしてあげてね。じゃあ、席は窓際の一番後ろの机ね」

「はい!」

 通りすがる席の今日から同級生になった児童に笑顔を振りまきながら遥歌は教室の後ろに向かった。

「お隣の席だね。よろしくね」

 隣の席で俯いている少年に明るく声をかける。

「ちょっと、名前は?」

 少年は肩を叩かれハッと顔を上げる。

「え?だ、誰?」

 茶色い頭の少年は遥歌を見て目を丸くした。

「今日から転入してきた天川遥歌よ!あなたの名前は?」

「あ…ああ…よろしく……おおえ…やすし…」

「なんで授業前から寝てるのよ?」

「え…いい天気だったから…」

 寝ぼけて答える少年の代わりに周りの男子が笑って言った。

「ムダだぜ、安、理由聞いても、いい天気だったからか、雨でダルかったから、しか言わねーもん」

「そうそう、この前の日曜参観まで寝てたくらいで…」











  それが全ての始まりだった。











 そう例えるならば

 それは灼に燃える炎のようなもの

 柔らかに暖かに照らすかと思えば

 簡単に人を殺す

 人がヒトでなくなった最初の証

 そう

 それはまるで

 まるで……………………………………











 言葉のようではないか。











































「じゃあ、みんな元気で」

「いきなり中退してアメリカって…大丈夫なのか?英語とか…」

 夏休みがもうすぐ終わるかという季節、成田空港の出国口で、みんなに見送られて砂城と紅音は手を振った。

「あ〜砂城が得意なの英語のオーラルだって知らないなぁ」

「いや、お前もだが、紅音も…」

「大丈夫よ、すぐ慣れるわよ。私は茅原の名前が届かないところで自分を試したいの」

「だいじょーぶ、さかえ!」

 紅音がピースサインを見せた。

 栄と離婚し、茅原との養子縁組も解いた砂城は苗字が母親のものに変わっていた。

 もちろん紅音も。

 義兄二人は砂城が能力を失うと、コロリと症状は治っていた。砂城曰く「もう十分でしょ」とのことだ。

「栄クン、こっち来て」

「?」

 おいでおいでという仕草に栄は数歩前に出る。

 その隙を見たように、砂城は背伸びし、栄の唇に口づけをした。

「な…」

「やった!」

「さかえとさき、チューしたー!」

 赤面し唇を覆う栄とは対照的に砂城はガッツポーズを決める。

「能力がなくなったら絶対、栄クンのファーストキスは砂城が奪おうと決めてたの!じゃ、あとは伊邪那美様…じゃなかった深琴さんに任せたから」

 深琴はニコニコと頷いた。ナヲと巴は笑いをこらえようと必死になっている。

「またねー」

 砂城と紅音は明るく大きく手を振った。

「じゃあ、僕も…」

「琉真もええん?イギリス戻って。ずっとこっちおっても構わへんのやで」

 西夜が気遣わしげに言う。

「いえ、もうマンチェスターの学校に編入決まってますし」

「そう…」

「父さんの側にいたいってのもありますが、もう一度、年相応の小学生から始めたいんです。今度はスキップなしで。僕、勉強はできましたが、きっとやり残したことがたくさんありますから。それよりいいんですか?東子さん連れて行っちゃって…」

 琉真の横には黒いコートを着た東子がちょこんといた。

「わたしがきめたこと…はじめて自分できめたことだから」

「それじゃ行ってきます」

 しっかりとした口調でペコリと頭を下げた。

「西夜さんも京都で頑張って!栄さんも巴さんも学校しっかり行ってくださいね」

 西夜は新学期から京都の家に戻ることになっている。鏡子がいなくなったこともあるが、本人曰く「逃げるのはやめた」とのことだ。

 時実神社は灯流が高校を卒業したら継ぐことになっていた。宮司になっても、絵を描くのはやめないで済む。むしろ普通に就職するより時間にゆとりができると灯流は喜んでいた。

「大きなお世話だって」

 巴がぶっきらぼうに言う。

「比呂乃は結局戻らなかったしな…」

 巴も公立中学校への編入が決まっていた。保護者になってくれたのはまたしても旗右良一だった。いくら感謝してもし足りない。巴としては苗字が「旗右」になるのはどうしても気に入らないらしく、名前は「綾瀬川紅葉」を名乗ることにしていた。

 栄は来春から湊大学の理工学部への推薦入学を決めていた。万夫とナヲがいた大学だ。

「栄君なら真面目な大学生になるんだろうなぁ」

 髪をバッサリと切った月子が笑って言う。

「私も頑張らなきゃな。バイトしてた編集部に就職決まったし」

「よく『実は女で名前も違いました』で雇ってくれたな、奇特な会社だ」

「実際社員にならないかってよく誘われてたしね。能力が同じならカンケーないみたい。まぁ相変わらずに目指してるのは小説家だけどね」

「しかし見事に女らしくなっちまったなぁ、お前」

「まあね、変わっていくね、みんな」

「変化ないのは俺だけか」

 ナヲはどこか不満げに言った。

「じゃあ婚活でもしてみれば?アラサー男」

 月子は笑う。

「それも悪くないな…」















「旗右センセー!」

 ノックもせずに研究室の扉は開かれた。そこは私立湊大学理工学部物理学科の教員専用の研究室。入って来たのは見知った顔の男子学生数名。

「なんだ?ようやく再試験を受ける気になったか?」

「違いますよ〜。合コンですよ、合コン!今日一緒に行きませんか?センセーが来るんだったら行ってもいいって、保育学科の白藤さんが!」

 白衣姿の栄は不機嫌に眉をひそめる。

「お前ら、私が既婚者だと知って誘っているのか?」

「それは知ってますけど、いいじゃないですか〜。合コンくらい」

 ネクタイの位置を少し直しながら呆れた顔をする。

「どの道無理だ、今日は午後から予定が入っている」

「予定?」

「海外にいた旧友が帰ってくると言うのでちょっと会いにな。あと再試験を受けるんなら泉原助手に言ってくれ。今日中に受けないと本気で単位落とすぞ」

「智樹センセーか。ならいいや。優しいから、どうせ期限延長してくれるもんな」

「ったく」















「深琴さん。足下に気をつけてくださいね」

「大丈夫ですよ、このくらい。栄は心配しすぎです」

 JRで東京駅に入ると、栄は深琴の手を取った。深琴はフフフ、と笑う。

「習慣ですから」

「それにしても」

 深琴は懐かしげに目を細める。

「皆揃うのなんて…八年ぶりでしょうか」

「八年と三か月ですね。砂城がなかなか帰って来ないから…」

 待ち合わせの中央口へ向った。















 スラリとした長身に金の髪が陽に映える。サファイアのような凛とした青い瞳。長い髪の女性と手をつなぎ談笑しながら通り過ぎた。

「ち、ちょっと、今の人見た?」

「見た見た!外人?ハーフ?モデルとかじゃない?」

「サ、サイン……」

「ちょっと!有名人じゃなかったら大恥よ!それに女の人連れてるし…」

「ってか、女の人もむちゃくちゃ美人じゃない?やっぱり芸能人とかよ!」

 女子高生二人が言い合っている間に青年は見えなくなってしまった。















 皇居外苑に一番早く着いたのは栄と深琴、次いでイギリスから来た琉真と東子だった。

 そしてスーツ姿のナヲが四人の姿を見て「よっ」と小さく手を挙げる。

 それから京都から新幹線を乗り継いで来たのだろう、西夜が軽く頭を下げた。

「琉真ー!カッコようなったなぁ!東子も美人になって!髪伸ばしたんかぁ!」

 琉真と東子に同時に抱きつく。

「西夜さんもすっかり大人っぽくなっちゃって」

「そうかなぁ、琉真は今は大学生?」

「はい、遺伝子学の研究を。バイトでモデルもやってますが…。西夜さんはお家を継がれたんですよね?」

「うん、一応ね。ただ彼女が仕事が楽しくて京都に行くのは嫌だって結婚してくれないからまた親ともめとる」

「彼女?」

「うん、美容師。2つ年上の。めっちゃ美人やで」

「ホモップル発見ー」

 茶化すように、やってきたのは月子。

「ここは日本ですよー、過度のスキンシップは自重しましょう」

「月子さん」

「そうそう、雑誌見ましたで。直木賞の一次審査通ってましたやん」

「まあね、私なら当然?」

「でも二次審査で落ちてたけどな」

 後ろから声をかけたのは巴…いや綾瀬川紅葉だった。

「お久〜」

「巴は音大だよな?」

「ああ、今は研究生だけど」

「意外な才能もあるもんやなぁ」

「あと来てないのはあいつだけか」

「ハッロ〜!」

 栄のつぶやきを待っていたかのように重いトランクを引っ張ってきたのは

「砂城……」

「紅音ちゃん大きゅうなったなぁ、何年生?」

「五ねンセい」

 若干おかしいイントネーションで、それでもしっかり日本語で返事を返した。

「せイやもおオキくなった。みんなゲんきでウれしい!」

 一瞬気まずい雰囲気が流れたが、栄が紅音を抱き上げた。

「そうだな、みんな元気だ」

「ダメー!」

 紅音が栄をはねのけた。

「紅音をハグしていイのは、砂城とアンディとロブだけなの!」

「……誰だ?アンディとロブって」

 砂城に向かって尋ねる。

「アンディは砂城の今の彼氏で、ロブは紅音のボーイフレンド」

「ボーイフレンド?」

「そのくらいの自由あってもいいじゃない。あ、結婚とかはする気ないから。通訳と日本語教師の仕事掛け持ってて忙しいし」

「貴様は本当にどこででも生きていけるな…」

 栄はため息をつく。

「でも一番変わったのは池条さんちゃいます?」

「へ?何で俺?」

「だって…」

 パッと巴がナヲのポケットからスマホを取り上げる。それを開くと待ち受け画面には、ナヲとその同年代でそれなりにきれいな女性と子供二人が映っていた。

「か、返せ!」

「日曜は動物園とか行ってるんだぜ!」

「うわ〜パパだよ〜、あの池条さんがパパになっちゃったよ〜」

「返せって!」

「やーだね」

 巴を追い回すナヲの横を不意に栄の横をランドセル姿の少年と少女が駆けて行った。

「早く行かないと電車遅れるよ、安!」

「も〜、ちょっと待ってよ、ハル!」

 どこかで見た人影。その言葉に栄は振り返った。

 二人はすぐに見えなくなったが、栄は目を細め微笑した。

「でも…」

 西夜は顎に指を当てた。

「なんでウチら出会うとるんやろ?過去が変わって能力も言霊遣いもなくなったのに…」

「それはあれよ」

 砂城は笑顔で長い髪を翻した。

 クスクスと笑い空を真っすぐ指差した。

 青い空を。

 そして、満面の笑みで皆を見渡す。

「神のご加護ってヤツじゃない?」











 俺達はどこまでもちっぽけで

 私達はどこまでも愚かしい

 でも、今ここに生きている

 知っている

 ここにいるのは誰のおかげなのか

 それが 誇り

 何十億分の一の力で必死にもがいて生きている

 それが 誇り

 辛くとも寂しくとも、この空の下

 両足をしっかりと大地に根付かせ

 空を見上げる











 どこまでもどこまでも青い青い空を。











 愛おしく、切なく、私達を見下ろし続ける

 このどこまでもどこまでも青い青い空を。





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