豚汁の話

突然だが、私は豚汁が苦手だ。
別に見たら吐き気がするとか、生理的に受け付けないとか、ましてやアレルギー的なものではない。中学生までは当時まだ元気だった祖母が豚肉たっぷりの豚汁をよく作ってくれ、むしろ好きだった。ただ見るとあることを思い出すのだ。
あれは高校時代のこと。私の通っていた高校はマラソン大会がなかった代わりに耐寒登山という学校行事があった。行事の内容はいたって単純なもので、1月下旬の朝、山のふもとの駅に受験を控えた3年生以外の学校生徒全員がジャージ姿で集まり20~30キロの登山を一日がかりで行うというものだった。ちなみに病気だろうとなんだろうと、その日休むとペナルティとして後日「放課後に何日かかってもいいから校庭1000週」という地獄が待っている。そのせいで私は死ぬほど嫌なその行事もサボることなく2回乗り越えた。
で、その耐寒登山にはタオルや軍手などの簡単な登山道具と一緒に用意するものがあった。茶碗一つ。そのかわり弁当などはいらなかった。
お昼に折り返し地点になる山頂でPTAの人たちが先回りして、大鍋で豚汁を作ってくれていて、温かい豚汁を振る舞ってくれるというもので、茶碗はそれを入れるためのものだった。
その行為は今思えば大いにありがたい。私が高校生の親なら、そんな役回りごめんだが、PTAの親御さんの愛情のなせる技だろう。
ただその豚汁は豚の汁といいながら、豚肉は宝くじくらいの確率でしか入っていない野菜の味噌汁であり、高校時代の私には正直ありがた迷惑でしかなかった。
そして、それは2回目の耐寒登山の山頂だった。わざと家で一番小さな茶碗を持っていった私はPTAの親御さんに「そんな少しでいいの?お代わりできるからね」と言われながら野菜汁をすすっていた私の横で、見知らぬ男の子がしみじみと言った。
「あ~、この豚汁食べるとここまで登ってきた苦労もチャラになるなぁ」
私は驚愕した。
何言ってんだこいつと思った。
何も悪い事してないのに、この学校に入ったと言うだけで、この氷点下の山を25キロ以上歩かされ、明日から数日筋肉痛に悩まされることになるのに、それがこの豚汁とは名ばかりの特に美味しくもない野菜味噌汁でチャラになる?
私はあたりを見回した。見るとほとんどの生徒が野菜味噌汁を満足そうに啜っており、これから13キロ下山する地獄など考えている者など一人もいない。
嫌味になるから言わなかったが、通っていた高校は決して偏差値の低い方ではなかった。学年上位にいれば国立大学にも余裕で行ける高校だった。私はその中で成績は下の方だった。なので、周りの連中は野菜汁一杯で今までの苦痛もこれからの苦労も忘れてしまうほどの鶏頭ばかりではないはずだ。
私は愕然とし、周りにいる人の思考回路が理解できなくなった。
そして、目の前の豚汁の皮を被った野菜汁に嫌悪した。
それ以来「豚汁」と聞くたび、どんな状況でもあの顔も覚えていない男子生徒の満足げな声が思い出されるのだ。

それから20年経った。
高校時代の知り合いで今も交遊のある人は一人もいない。
あの男子生徒はもちろん、他の耐寒登山に行った生徒が当時あの行事をどう思っていたか、あの豚汁に本当に満足していたか知る術はない。
今はあんな脳筋なイベントなくなっているだろう。
ただ、確かに思うのは、あの「豚汁」で満足して耐寒登山を楽しめる思考を持った人物のほうが、その後の人生確実に楽しめるだろうということだ。
今頃、あの豚汁で全てがチャラになった男子生徒はすごく充実した人生を送っていると思う。

私は未だに豚汁が苦手なままだ。

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