私の憂鬱。
第二十七話
新の言葉にしばし混乱するも、私は即座に彼の言葉を否定した。
「何言っちゃってんのよ。私ちゃんと数えてたんだから間違えるわけないでしょ」
「そんなの僕だってそうだよ!深咲さんでしょう、間違えてるの」
お互いが眉間に皺を寄せて全く同じような表情をしているのだろう。
そう考えると目の前の男が鏡に思えてちょっと面白いが今はそんなことを笑っている場合ではない。
「だって、新が出て行った日から数えてちょうど昨日が二週間目だったじゃない」
「え?僕が家から居なくなった日からちょうど二週間が今日でしょ?」
……いやいやいや、ちょっと待て。
ええーと。考えたくないけどひょっとして?
「新君?ちょっと確認したいんだけどいいかしら」
「奇遇だね、僕もだよ」
「……あんた、ひょっとして私の家を出た次の日からカウントしてたわけ?」
「だってその日はまだ僕、深咲さんの家に居たじゃない。出たの夕方くらいだったよ。普通、半日は家に居た日をカウントしないよ」
「何言ってるのよ!その日に出て行ったんだから居ようが居まいがそこから数えるのが普通でしょうが!」
「深咲さんこそ何言ってるのさ!そんなの厳しすぎるよ!!」
ええい、話が進まん!
……つまり?
私は自分の賭けにてっきり負けたと思っていたんだけど。
約束を守ろうとしてくれていたのは新も同じで。
しかも新からしたら約束はばっちり守った形になっているわけ?
いや、ちょっと待ってよ。これどうしたらいいのかしら。
「ねえ、深咲さんは?原稿いつ終わったの?」
「え?えーと……」
確かぶっ倒れたのが一昨日と一日前だから。
「今から三日前、かしら」
「そんなに前?やっぱり深咲さんにはまだまだ届かなかったのかな」
「あら、そんな事思ってたわけ?」
「だって僕はあなたからしたら子どもなわけでしょ?といっても深咲さんだって子どもみたいな所たくさんあるけどさ」
……反論できない所が悔しいわね。この子が居ない間いろいろあったし。
倒れたのがその最たるものかしら。
「ねえ、深咲さんも二週間にこだわって何か決め事を作ってたんだよね?冴島がそんな雰囲気出してたし」
「え?ええ、まあ」
「それがなんなのか訊きたいんだけど」
…………。
待ってください。
それは私に告白をしろと言っている事と同義なんだけど。
まずい、それはちょっと心の準備が。
往生際が悪いとでもなんとでも言うがいい。
無理なものは無理!若さで突っ走れる歳じゃない!
「そ、それよりも。新の話を先に訊きたいかも……」
「何?僕に言ったらなにかまずいの?」
「そういうわけじゃないわよ。でも、秘密が多いのはあなたでしょ。だって私、新がどこの誰なのか未だに知らないんだから」
「ああ、そう言われたらそうだったったね」
初めて気が付いた、とでもいうように、新が苦笑する。
「元々話すつもりだったからいいけど。そんな凄い話でもないよ?」
「まあいいじゃないの」
「その好奇心旺盛な瞳を向けるの深咲さんらしいなあ。
こういう時ばっかり欲求に素直なんだから」
「作家魂ってやつよ」
「野次馬根性をいいほうに置き換えたね」
「うるさいわね、戻ってきてからなんか生意気じゃないの。反抗期?」
「もしそうならとっくに押し倒してるけどね?」
おどけるように首を傾げてのたまう新に私は眉を顰める。
やっとポーカーフェイスも作れるようになってきたけれど、まだまだ油断したら頬を染めてしまいそうで危ない。
「あんたこそ話すの渋ってるじゃないの」
「そういうわけじゃないけど……じゃあ、約束してくれる?」
「なに?」
「僕がすべて話し終わったら、深咲さんも僕に全部白状して」
新の物言いに私は多少不満気に方眉を動かした。
「……白状ってなによ」
「だってなんか言いたくなさそうなんだもん。だから自白を強要してるの」
「楽しそうに物騒な事を言うんじゃない!ったく……いいわ。約束する」
ため息を吐いて少し困った顔して笑う私に、新は満面の笑みで頷く。
しかし次の瞬間にはふ、と疲れた様に息を吐くので、私は少し彼の言葉を聞くことを躊躇った。
けれど新はそんな視線に気付いたのか、大丈夫、というように再度微笑んだ。
私は彼の瞳を真っ直ぐに見つめる。
「どこから話したらいいかな……僕の両親てさ、所謂かけおちだったんだよね」
「駆け落ち!」
「そ。最初から食いつきいいなあ」
「そういうワードにはどうしても……面目ない」
「あはは、全然。まあ別にこそこそしながら生活しているわけでもなかったしかけおちしたくらいだから両親の仲は良かったし幸せだった。幸い金持ちの血筋だったのは母親の方だったからね。跡取りとかでもなかったから、家を出たとき見切りをつけたんだと思う」
「ご両親から、そういう話って聞いたりしてたの?」
「いや……まあ、祖父母の話とかすると言い辛そうにしてたし。父さんは天涯孤独だったけど母さんは違うって知ってからぽつぽつとはね。当初の話んなると盛大な惚気話が始まるからさー、参るんだよね」
遠い目をする新に、なるほど、と私はちょっと想像してみたけれど、あの両親が惚気話をする図を少しでも考えたら寒気が走った。
でも、新はもうすっかり両親を喪失した色々な感情を自分の中で処理したのね。
なんというか、初対面から思った事だったけれど、この子はなかなかどうして強い。
「僕の両親が交通事故で亡くなった話はしたよね?」
「ええ」
「今からちょうど二年前くらいになるかな。当時はまだ大学生で」
「……そうだったの」
こくり、と新は頷く。
「友達とか、皆腫れ物に触るような感じでさ。嫌んなってどんどん避けたら自分からしたくせに孤独で気が狂いそうになったり……あんときはかなり荒れたなあ」
「まあ、理解出来る範疇を超えてしまえば人間パニックになるものでしょ」
「深咲さんさらっと言うよね。本当好きだな、そういうところ」
くつくつと笑う新に、私は不思議な気分になった。
ともすればかなり不快になる物言いだったんじゃないかと思うのだけれど、新は好きだなんて言う。
変わった趣味と言うかなんというか。
「で、そんな俺を拾ったのがじーさん」
「おじいさん?あら、じゃあ新のお母様のお父様?」
「そう。意外でしょ?ずーっと縁切ってるもんだとばかり思ってたし、俺の存在なんて知られてないと思ってた。葬式だって近所のひととかが手伝ってくれてやったけど、そんときだって母さんの兄妹とかだーれも来なかったしさ」
「へええー…じゃあ、お家に引き取られたの?あ、もしかして」
私の言葉に、新は首肯する。どうやらなにに気が付いたのかわかったようだ。
「そうそう。ここに来たのはじーさんの秘書やってる伊達さんってひと。保険金でまあ卒業まではなんとかなったから別に良かったのに、自分が払ってやるからそのお金は今後の為にとっとけとか言っちゃってさあ」
「じゃあ、ずっとそこでお世話になってたのね」
「まあね。でも屋敷では母さんのお兄さん、僕には伯父さんにあたるひとだけど、が夫婦で一緒に生活しててさ。使用人とかもいるしなんか居心地悪くって。元々僕は共働きの両親に代わって家事やってたから余計落ち着かなくてさー」
ああ、やっぱり昔から家事はやってたのね。うん、納得。
……でも、家にその伊達さんとやらが来た理由ってなんなのかしら。
「あんた、ひょっとして度々そのお屋敷抜け出してたんじゃないの?」
「あは、ばれたぁ?」
「いやいや、あは、じゃないわよ」
「うーん。お金も別にいいって言ったし住む場所だって自分でなんとかするしって言ったんだけどねー」
「ああ、色んな女の子の所渡り歩いていたわけね」
「深咲さん、嫌な所ばっかり指摘しないでよう」
「はいはい」
「向こうはお金があるぶん容赦なくてさー。興信所とか使ったり探偵使ったりして僕の事毎回屋敷に連れ戻して……でも今更なんのつもりなのかって聞いても答えてくんないんだよね。何度ひとりで暮らすって言っても駄目。そもそもじーさんが会ってさえくれなくて」
へえー、色々とややこしい。
凄くないって言ってた割りにかなり面白い話じゃないの。
……って他人の苦労を面白いはさすがに最低ね。
こういうところは本当自分を呪うわ。ああ嫌な商売。
「そんな生活が、卒業しても続いてさ。しかもなぜか一族の子会社に強制的に就職させられたりしたし」
「え、じゃあ今も会社員やってたりするの?」
「ううん。半年もしないうちに辞めちゃった。僕お勤め人って向いてないんだよねえ」
「そうかしら?秘書業かなりしっかりやってたじゃない」
「でも会社って組織でしょ?色々とやり辛い事はたくさんあったし、僕の素性知ってる人たちに囲まれるのも嫌だったんだよ。縁故採用なわけじゃない要は」
「あー……まあ確かにそうよね」
自分で就職活動した会社に勤めるなら別だけどそうじゃないわけだもんね。
そりゃあ色々とやり辛いわ。
「で、まあどうしたもんかなと思いつつ逃亡と捕獲を繰り返す日々で。深咲さんに会うどのくらい前だったかなあ…協力者をみつけてね」
「協力者?」
「伯父さんと伯母さんにはひとり息子がいてね。僕にとっては従兄弟。聡さんって言うんだけど。そのひとの婚約者」
「あら、跡取りいたのね」
「そう。だから余計不思議でしょ?僕が引き取られた理由って」
「確かにそうねえ。……で、協力って?」
―――――――――――――――――
「僕はいい加減この暮らしから解放されたいんだけど突破口が開けないんだ。奈津美さんは聡さんの婚約者だし、なんとか探りとか入れられないかな?」
「そんなの、出来るかわかんないわよ?婚約者といっても形だけみたいなものだし」
「じゃあお互いに協力しよ?」
「お互いに?」
「奈津美さんが聡さんの気持ちを知る為に僕も協力するよ」
「そんなの……」
「大丈夫。だから奈津美さんも協力してよ、ね?」
「……わかった」
―――――――――――――――――
「……新クン?」
「深咲さん、その顔やめてくれない?」
にんまりと笑む私に新が引き攣った笑みで答えている。
その顔でやはり、と私は確信した。
「あんた、その婚約者殿と寝たでしょ」
「深咲さぁん……」
「そういうきっかけがあって協力関係になったんじゃないの?酔った勢いで一回やっちゃったとかそんなの?」
「なんかセクハラオヤジみたいな質問の仕方ー」
「うっさいわね。とっとと続き話なさい」
「話の腰折ったの深咲さん……いひゃいいひゃいほへんははい」
新の両頬をひっぱってやるとあっさり謝ってきたので渋々放してやる。
ちっ、もうちょっと抵抗しなさいよやりがいがないわね。
「深咲さん、何考えてるかすごいわかる顔してるんだけど……」
「あら、じゃあもう一回ひっぱってやりたいと思ってるのも、もちろんわかってるのよね?」
「ごめんなさい、もう言いません」
「…………」
目を細めて新を見やれば、新はこほん、とひとつ咳払いをして続きを話し出した。
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「新!」
「達樹たつき。悪いな、度々」
待ち合わせの喫茶店にて、名前を呼ばれた新が顔をあげる。
新と年頃も恐らく同じくらいであろう達樹と呼ばれた人物は、いかにも好青年といった風情の爽やかな雰囲気を醸し出している。
「にしても、お前本当にあそこに就職してたんだな。もっと早く仕事なにしてんだか訊いとけばよかったよ」
「新こそだろー。おばさんがそんなどえらい会社の令嬢とか知らなかったし!菅原さんの従兄弟とか本当いまだに信じられねえよ。大体、絶縁状叩きつけてきたのもそっちだもんな。ったく勝手な奴」
唇を尖らせる達樹に、またその話か、と新は苦笑していた。
「でさ、どう?聡さん。会社で親しい女性とか」
「皆無だなー。女の影とか全然なし。そもそも婚約者いるって俺知らなかったくらいだし」
「奈津美さんの存在はあまり知られてないんだ」
「少なくとも、会社で話題んなってんの訊いた事ないな。でも風当たりかなり強くなると思うよ。菅原さん相当もてるし。その奈津美さんだっけ?同じ会社に勤めてるわけだろ?絶対女子から嫌がらせとか受けると思う」
「……ありがとう。多分、これで僕も確信持てたよ」
「新?」
訝しげに様子をうかがう達樹に、新はにっこりと微笑んでみせた。
「伊達さん、その不審者をみるみたいな目つきやめてくんないかな」
部屋で何をするでもなく、くつろいでいる新に伊達は信じられないものでもみるかのように何度も新に視線をやっていた。
「……もう一週間ですよ」
「なにが?」
「あなたが屋敷に留まっている日数です!どういう風の吹き回しですか!?」
「どうもなにも。一応ここも僕の家でしょ?」
「それは、そうですが」
ぐ、と詰まる伊達に新はおかしそうにくつくつと笑っては広いソファに足を投げ出して片足を立てる。
その行儀作法に口を挟みたくなったが、伊達は結局何事も発しはしなかった。
新がそういった事を注意されるのを何より厭うことを彼はよく知っているからである。
「ねえ」
「は」
「今日って伯父さんと伯母さんどこか行ってるの?」
「ああ……本日奥様と旦那様は揃って出張しておいでですが」
「ふーん。じゃあ帰って来ないんだ?」
「お帰りは明後日とうかがっております」
「そっかー。伊達さんは?仕事しなくてもいいの?」
「会長からはあなたの見張り役をおおせつかっているので」
「大変だねえ」
まるで他人事のように呑気に言葉を紡ぐ新が伊達はどこか恐ろしく思っていた。
やがて今まで読んでいた雑誌を閉じると、新はさて、と立ち上がる。
「どちらに?」
「ご飯作るんだよ。伊達さんも食べるー?」
「は!?」
ぐるぐると腕を回しながら部屋を出て行く新を伊達は慌てて追いかける。
「新様、お待ちください!」
「なに?」
「いつもそのようなことをなさっておられるのですか!」
「だって何日もやんなかったら腕鈍るでしょ?深咲さんに振られたら大変だし」
「何意味不明な事を」
急停止した新に反応が遅れた伊達がぶつかりそうになったのをつんのめってこらえる。
倒れそうになった伊達の様子が珍しくて一瞬笑いそうになるが、新はこらえてびし、と人差し指を突きたてゆっくりと左右に振った。
「だ・て・さん」
「な、なんですか」
「僕にとって家事労働の腕が落ちる事は死活問題なんだ」
「はあ?」
「深咲さんは僕の事は好きじゃないけど僕のご飯は愛してくれてるの。わかる?僕はね、深咲さんの愛を失ったら死んじゃうんだよ」
間抜けなのか凄いのかよくわからない言い切りに呆気にとられた伊達は固まる。
その隙に新はスキップでもしそうな勢いで廊下を駆け抜ける。
頭の中は今や晩ご飯のメニューでいっぱいだ。
厨房で働く人間も初めは戸惑っていたようだが今ではすっかり慣れており、新専用のスペースが一角作られている。
使用人と親しくなれたのは新にとって逃亡する上で今でもかなり重要な事であった。
「……毎日ご自分で作られているんですか?」
「冷蔵庫も僕専用のスペースあるからねー。食べる?庶民の味だけど」
「けっこうです」
「あそう」
無駄に広い食卓にて、こじんまりと新は自ら作ったご飯を並べていく。
今日のメインは和風オムレツだ。中身が肉じゃがベースになっている。
味噌汁を啜りながら、新は深咲の事を考えていた。
『深咲さん、ご飯食べてるのかなー。ないんだろうなー……〆切近づくと話しかけないと忘れてたりするし。まさか倒れたりしないだろうな』
むう、と眉間に皺を寄せながらもくもくとおかずを咀嚼する。
まさしくその予想は大当たりしてしまうわけであるが今の彼はそれを知る由もない。
「おい、進藤新は居るか!!!」
屋敷中に響き渡る大声で誰かが足を踏み入れてくる。
新はそれをわかっていたのか落ち着いた様子で傍らに立つ使用人に話しかけた。
「松田さーん!ごめんなんだけどこれ部屋に運んでもらっていーい?」
「はいはい。あら、今日もおいしそうね」
「この前教わった和え物作ってみたんだ。これいいねー」
「でしょう!」
「うん!あ、伊達さん、聡さん部屋に突っ込んでおいて。僕すぐ行くからさ」
言って新はぱたぱたとどこぞに姿を消してしまう。
伊達は新様、と呼び止めたがそれに立ち止まる事もなく広い食堂を退室してしまった。
彼は声の主がなぜ聡だと知っているのか。
「おい!進藤は居ないのか!!」
「聡様」
「伊達さん?なんでここに……ああ、彼の見張りか」
「新様なら自室におられるかと思いますが。ご案内します」
「ああ、ありがとう」
多少苛々した様子を隠しつつやり取りをしていたが、先程彼が喚き散らしていたのも本当だ。
いつも冷静でどこか人を食うような微笑を絶やさない聡が、なんとも人間らしい表情でここに立っている事に伊達は内心驚きを隠せない。
いるかわからないが一応はノックし、伊達は失礼致します、と扉を開く。
思ったとおり新はそこにおらず、彼が作った夕飯だけがテーブルに置かれていた。
「……居ないようだけど」
「こちらで夕飯をお召し上がりでしたので席を外しているだけかと」
「そうか、じゃあここで待たせてもらうね」
少し乱暴にソファへ腰を下ろした聡に伊達は目を丸くする。
彼は幼い頃からそれなりの教育を施された人間だ。
洗練されていないその動作はおおよそ聡らしからぬ行動だった。
ほどなくして部屋を訪れた新に、伊達は内心安堵の息を漏らす。
正直今の状態で聡とどう接していいのかわからず戸惑っていたのだ。
「あれえ、聡さん。どうしたんです?」
「進藤君。相変わらず間抜け面だね」
くつ、と笑う聡に、新はきょとん、と首を傾げる。
「まあ、聡さんとは生きる環境も違うし……今更じゃないですか?あ、伊達さん、悪いけど外してくれる?あと人払いお願い」
後半は伊達の横にさりげなく立った新がほぼ唇を動かさず囁いた言葉だった。
伊達はぴくり、と眉を動かし、新はにこにこと微笑む。
「聡さん伊達さん、お茶飲みます?さすが菅原家、高いの飲んでるよねー」
急須を片手に持ち上げた新と伊達の目が合う。
伊達はふ、と短い息を吐き出した。
「いいえ、私は。聡様、ごゆっくりどうぞ」
「ああ、ありがとう伊達さん」
不自然にならないきっかけを作った新を一瞬視界に留めて、伊達はなるべく音を立てずに退出する。
虎と獅子の対決でも見るかのようだ、と多少不謹慎な事を考えながら、伊達は静かに与えられた命令を遂行しようと動きだした。
「で、聡さんお茶いります?一応湯呑みふたつあるけど」
「遠慮するよ。……というか君はこの状況で夕飯を食べるつもり?」
「だって冷めたら美味しくないじゃん。ひとのご飯時に押しかけて来たのそっちでしょう」
「……へえ、本性出すんだ?」
「なんのこと?」
見えない火花がふたりの間で散る。
新はそれをまるで気にしないかのように箸を持ち上げた。
聡は少し苛立たし気にソファを立ち上がり、テーブルに座る新へと近付けば、開いている一脚に腰かけた。
そうしてひとつの何かを取り出せばテーブルに放る。
「……この写真、身に覚えは?」
「あれ……いつ撮られたんだろうこれ」
「認めるのか?」
「認めるって、なにを?」
「君が我が婚約者とホテルに出入りしていたことをだよ」
「嫌だなあー、そんなわけないでしょう?確かに彼女とは飲み友達だけど、そんな関係じゃないですってば」
声をあげて笑う新に、聡は次の証拠品を取り出した。
自身の携帯電話を取り出せば何かを操り机の上へ置く。
液晶には何かを起動させる画面が映し出されていた。
新は目を丸くしつつもそれをながめる。聡が、再生ボタンを押した。
『ねぇ、新。最近会えなくて寂しいわ』
『僕もだよ。ごめんね、ちょっと仕事が忙しくて』
いつかの会話が、一言一句違わずに繰り返される。
今度こそ言い逃れできない事に狼狽したのか、新は慌てて停止ボタンを押した。
「消しても無駄だ。マスター音源は俺が持っている」
「……まさか、いつの間に」
「奈津美の鞄にどうやら盗聴器が仕掛けられていたようだね。うかつだったな?進藤君」
「…………どうするつもり?」
「奈津美とはきっぱり別れてもらう」
強い口調で話す聡を、新は睨みつけた。
「何故?彼女の事を好きでも何でもないくせに」
「婚約者を取られたなんて風評が回ったら俺の立場も危うくなるんでね」
「別に大丈夫でしょ。会社ではあなたと奈津美さんが婚約してるって皆知らないんだし。それこそ伯父さんと伯母さんも全力で回避するんじゃないの?なんとも思ってないなら切り捨てたらいい。奈津美さんはご令嬢ってわけでもないんだしかまわないだろう?」
新の言葉に、みるみる聡の顔つきが変わっていった。
怒りを抑えきれないように、今度は聡が新を真正面から射殺さんばかりに睨みつける。
「……彼女との婚約は解消しない」
「だからなぜ。僕と奈津美さんはお互い愛し合ってる。こんな形でばれたのは心外だけど近々きちんと話そうって言ってたんだ」
「そんな事許さない」
「僕は彼女を愛している。でも聡さんは違うでしょ?だったらあなたに彼女を引き止める権利なんてないよ」
「俺は、奈津美を手放すつもりはない!!」
かっとなった聡が立ち上がる。新もそれにならって立ち上がれば、聡の胸倉をつかんだ。
「そんなに自分の立場を守りたいのかよ!プライドが大事か!?」
「うるさいっ!そんなものどうでもいい!お前は何も知らないだろう!俺が奈津美を手に入れる為にどれだけ手を尽くしたか!あいつはご令嬢でもなんでもない。普通に申し入れた所で両親は納得しない。だからこそ、俺がまず揺るがない地位を築き上げる事が必要だったし、秘書課での彼女がいかに優れているかを両親に知らしめる事も必要だった!彼女が嫌がらせを受けないように会社では婚約した事を隠し、その弊害で彼女の周りに群がる男共も皆排除してきたのに…何故よりにもよってお前が!あいつに手を出すんだ!!」
「婚約してすっかり安心しちゃってたわけだ?彼女の生真面目さに。奈津美さん、浮気なんてするひとじゃないしねー」
「気安くその名を呼ぶな!!」
これ以上挑発しては殴られてしまいそうだ。
新はふう、と息を吐くといつの間にか聡に掴まれていた胸倉外した。
「奈津美さんは浮気してないってば」
「だから名前を呼ぶなと……はっ!?」
「誤解だよ、全部。その録音会話とか写真とか、送りつけたの僕」
「それは、どういう」
「とりあえず、今度はこれ観てくれる?」
今度は新が携帯電話を操作して動画を再生させる。
聡が訝りながらもそれを見やった。
そこには、打ち合わせした会話を録り終えて口を尖らせる奈津美の姿があった。
『こんな事して聡さんが振り向いてくれるとも思えないんだけど』
『でも奈津美さん好きなんでしょ?これで妬いてくれたら上々じゃん』
『そうだけど!そんなの期待してないもの……』
『じゃあなんでこんな茶番続けてるの?』
『そ、それはっ…』
『まあ確かに間抜けだけどね。若い男女が毎回ホテルで別々にお風呂入ってなんにもしないで別々に帰るとか。』
『……新君は?好きな人出来たって言ってたじゃない。どうなの?』
「とはい、ここまでー。こっからは僕のプライベートなので」
「…………ちょ、ちょっと待ってくれ。どういうことだ?」
いまだ混乱する聡に、新は座るように促して自身も腰を下ろした。
「奈津美さん、不安だったんだよ。彼女が好きなのにずっと本音を言ってくれないあなたが。だから僕が協力するって言ったの。僕からみれば聡さん奈津美さんを溺愛してたから」
「そ、それは、」
「まだ疑うなら、他にも証言者を呼ぶけど。時々ホテルに同行してた僕の友達と奈津美さんの友達がいるよ。四人で話してる映像もあるから。そもそも真面目な奈津美さんが僕とそんな関係になるわけないじゃん」
「……じゃあ、君と奈津美は、なんでもないのか?」
「だからそうだってば」
「それに、その、今の映像を見る限り」
「うん、奈津美さんは聡さん大好きだよ」
「!!!」
「聡さん。奈津美さんにきちんと全部伝えてあげて。お互いすれ違ってただけなんだし。鉄は熱いうちに打てっていうでしょ、ほらもう今すぐ行っちゃいなよ」
ぐいぐいと腕を引っ張る新に、いまだ放心したような聡は力が入らない。
しかしやがて何か物言いたげに新の顔を見上げた。
「し、進藤君」
「ん?」
「君は、どうなんだ?もしや奈津美を」
「安心して。僕は深咲さん以外愛してないから」
蕩けそうな微笑をした新をみて、彼もまたその表情の意味を痛いほど理解する男として納得したのだろう。
半ば混乱している胸中はいまだざわついているが、奈津美に会う決心がついたのかやっと席を立ち上がった。
「……進藤君、ありがとう」
「礼を言うのはまだ早いんじゃないの?あ、あのさあ、聡さん」
「なんだい?」
「もしも彼女とうまくいったら、協力してほしいことがあるんだけど」
「ああ、そのときは約束しよう」
言って部屋を弾丸のように飛び出した男の後姿を、新はみつめてため息を吐いた。
「僕も深咲さんの元にあんな風に走って行きたいなー……」
冷めた夕飯を口にすれば、新はいっそう憂鬱な気分になった。