あとりえ透明2
「アフタヌーンティーセット3つ」
千春ちゃんを笑さんに会わせるかどうかはかなり悩んだ。
彼女は産まれた時から知っているが、別に性格は難しい子ではない。むしろ良く出来た子だ。
会いたいというのは単なる好奇心で、中条憲司さんから何か吹き込まれたとかではないのだろう。
何より図らずしも自分が仲介になって両親が結婚したのだから、彼女からの頼みはあまり無碍にしたくない。
しかし、今はようやく親子三人で平穏に暮らせているのだ。そんな家に前夫の娘を連れ込ませたくないのも事実。
考えあぐねて、私は笑さんをあとりえ透明に連れてくることにした。
タクシーで笑さんをお店に連れてきたら白い杖で前を探りながらも、彼女は慣れた様子でドアを開けた。
簡単な経緯は話してある。
返事はあっさりしたもので「けんじさんの子供なら会いたいなー」の一言だった。
彼女にとってもう『けんじさん』は過去の人なのだろう。
普段、服を選ぶのは私だが、笑さんが久々にお洒落をしたがった。
ロングスカートは転ぶと危ないので、膝下のフレアスカートと白いブラウス。それにネックレスをつけて、髪を整える。
美容院にもほとんど行かないのでくせっ毛は私が揃えていた。昔バッサリ切った髪は元の長さ以上に長くなってる。
栗色のふわふわした、せつなちゃんと同じ髪だ。
「おはようございます、朋さん、笑さん」
出迎えたのはせつなちゃんだった。
「おはよう、一花ちゃん。千春ちゃんは?」
「もう二階で待ってます」
私は笑さんの背中を支えながら二階への階段を上った。
千春ちゃんは、何も注文せずに水に口をつけていた。
「せつなちゃん、アフタヌーンティーセット3つ」
「はい、少々お待ちください」
せつなちゃんは頭を下げて階下に降りていく。
「えっと……千春ちゃんー?」
「はい」
「はじめまして、でいいんだよねー?」
「はい」
「けん……お父さんは元気にしてるー?」
「はい」
千春ちゃんはただ頷くだけだ。
何を話していいのかわからないのだろう。
「よかったー。幸せにしてるんだねー」
「なんで……」
「ん?」
「なんでお父さんと別れたんですか?」
笑さんはきょとんと目を丸くする。
「うーん、ちょっとむつかしいなー。とりあえず、千春ちゃんのお父さんは全然悪くないよ。私が悪かっただけ。それに……」
一呼吸おいて穏やかに笑う。
「今のお父さんとお母さんが結婚したから、千春ちゃんはいるんだよ」
「……それじゃあなたはどうなんですか?」
「幸せだよー。家族三人で過ごせる。こんな幸せなことってある?」
「三人……?」
「成瀬さんと、せつなちゃんと、私」
「……せつな……さん?」
「私の自慢の娘だよー、ねー?」
せつなさんがトレイに三段重ねのティーセットを持ってきたところだった。
「せつなさんって……高校生ですよね?」
「厳密には高校は行ってないけどね」
「その歳なら、お父さんと別れる前に子供産んだんですか!?浮気?不倫!?信じられない!そんなことしてよくのうのうと生きてられますね!」
「ちょっと、千春ちゃん……そんな言い方……」
「それで今は幸せに暮らしてる!?馬鹿じゃないの!?非常識!なんで笑ってられるの!?」
千春ちゃんが手を振り上げた瞬間、ティーセットのお皿とカップが床に落とされる。重い音を立てて、粉々に砕け散った。
床にこぼされた紅茶やサンドイッチを踏み潰し、それでも千春ちゃんは続ける。
「ふざけるな!お前なんか生きてる価値ない!お父さんを不幸にして、何笑ってるの!?死ねばいいのに!」
「やめろ!」
呆然とする笑さんの代わりに立ちふさがったのはせつなちゃんだった。
「あんたはいいわね、幸せで!」
千春ちゃんはやめなかった。
今度は矛先がせつなちゃんに向く。
「丁寧な素振りして、人馬鹿にしてんの!?イヤホンつけて人と話すな!」
千春ちゃんがせつなちゃんの腕を掴むとイヤホンを無理やりもぎ取った。
「あ……」
せつなちゃんが自分の耳を触って、ゆっくりと落ちたイヤホンを見る。
それを拾おうとして、手を伸ばした瞬間、千春ちゃんが踏みつけた。部品が潰れる鈍い音がする。
「なんなの!?あんた達!?ふざけてるわよ、この店!」
「お客様……」
せつなちゃんは、全身を小刻みに震わせながら、ゆっくりと頭を下げた。
「お帰りください……。お代は結構ですので……」
それは蚊の鳴くような声だった。
「お願いします……お願い……します……」
千春ちゃんは眉間にしわを寄せ、バッグを持ち踵を返す。
階段を降りる音をわざと大きく立てながら、降りていった。
イヤホンより先に食器や食べ物を片付けようとするせつなちゃんの肩を押した。
「イヤホン、大丈夫?」
「えっと……買い直さなきゃだと……」
「大変だったわね。千春ちゃんがあんな子だとは思わなくて……」
「そんなことないです。あの子、すごく怖がってました。暴れるとどうなるか分からなくて、怖くて、でも怒らなきゃ感情のぶつけどころがないっていう……」
ケーキの残骸をゆっくりナプキンの上に乗せていきながらせつなちゃんは漏らした。
「そういう心臓の音をしてました」
私は我と我が耳を疑った。
「千春ちゃんの言ったこと……」
帰り道のタクシーで笑さんは苦笑しながらポツリと零した。
「全部本当なんだよね。私は非常識で馬鹿なんだー」
自嘲めいた、でも卑下はしない。
「ああ……痛いなぁ……」
涙が一筋、頬を伝う。
「胸がすごく……痛いなぁ……」
姉から電話があったのはその夜。
千春ちゃんのやったことを聞いたらしく、ひとしきり謝罪を言ってきた。
「進藤さんと成瀬さんに何かお詫びをしたいのだけど……」
「そんなのいいわよ。そうね、じゃあ今度お店に来て」
「いいの?」
「せつなちゃんは自分の淹れた紅茶を飲んでもらえなかったのを一番残念がってたから」
翌日、姉から憲司さんと千春ちゃんを連れて店に行くとの連絡を受けて、笑さんを連れて店に行く。
せつなちゃんはイヤホンを買いに行くというので遅れるとの事だった。
賢司さんは店の場所は覚えていたらしい。三人が空いてる時間に入ってきた。
千春ちゃんは気まずそうに俯いて目をそらしている。
「けん……中条さん、いらっしゃいませ」
「久しぶり、進藤さん」
笑さんと憲司さんは他人のような挨拶を交わす。
姉や千春ちゃんに気遣っているのではなく、もう二人の中でお互いは他人なのだろう。
「お席に案内いたします」
和泉ちゃんが笑さんの横から出てくる。
「その……今日はあの人は……?」
ふくれっ面で千春ちゃんが口を開いた。
「せつなちゃんなら、午前中はお休みです」
「その……じゃあ、適当に謝っておいてください……あと弁償……」
「結構です。せつなちゃんは全然気にしてませんから」
「でも……」
「じゃあ、またいらしてください。お得意様になってくだされば皆嬉しいです」
「う……うん、分かった……」
笑って、そのまま二階へ先導する。
その後姿を見えない目で見つめながら、笑さんは微笑んだ。
「よかった。けんじさんが幸せになってて本当によかった……」
そして深く頭を下げる。
「ありがとうございます。あなたがいたおかげで今の私があります」
憲司さんには聞こえない言葉だったが、静かに頭を上げ、微笑んだ。
自己満足といえばそれまでだが、それはとても大きな一歩。
ここまでたどり着くのに、笑さんはすごくすごく遠回りをしたのだ。
それはもう気の遠くなるような時間。
それを25年前に言えてたなら、彼女の人生は全く違うものになっていただろう。
でも、今彼女はたしかに幸せなのだ。
和泉ちゃんが階下に降りてきた。
「アフタヌーンティーセット3つ、オーダー入りました」