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私の憂鬱。

第二十九話




人通りもかなり多い、週末の飲み屋街。
僕は特にどこに行くでもなく賑やかな街をぶらついていた。
漫画喫茶にでも入って夜明かしをするか。
それともまたおねーさんでもひっかけようかな。
あれこれと考えてひとつのお店の前でなんとなく立ち止まった。
 
『……ここで座っていたら、野垂れ死んだりするのかなあ』
 
今の自分は、ひとにとってどれ程の価値があるんだろう。
両親が夢のように消えてしまって、親友と呼べる男も自分の手で失って、あとに残ったものは言いようのない孤独と絶望だった。
寂しいという気持ちは終始さまようけれど、だからといって誰に慰められたいわけでもない。
自分でも面倒だってわかっているけれど、納得できるほど大人になれなかった。
 
ああ、本当に賑やかなここで誰の目にも留まらず死ぬのもいいのかもしれない。
それとも誰か拾ってくれたりするのかな。
餓死するまでって、どれくらい時間がかかるんだろう。
 
あれこれとくだらないことを考えては道の端に座り込んで丸まった。
そのときだ。一組のカップルがお店の一つから出てきたのを僕は視界に留める。
なんだか騒がしいふたりだった。
 
「おい、成島。吐くのだけは勘弁してくれよ」
「うるさいわね、そこまで酔ってないわよ!」
「お前普通に見えて次の日んなったら覚えてなかったりするから怖いんだよ」
 
苗字で呼んでるから、ひょっとしてカップルじゃないんだろうか。
男が呆れながらも背中に手を添えて女を支えている。
二十代半ばくらいだろうか。
 
あのひとたちは、少なくともひとりきりじゃない。
そう考えてまた僕はなにかを胸に詰まらせた。
 
まあ、どうだっていいことだ。自分から手放したくせに、いつまでそんな未練たらしいことを言うつもりなんだか。
そう思って僕は彼らから視線を逸らす。
 
しかし次の瞬間、女が声をあげてこちらに近付いてきた。
 
「あ、見なさい佐倉。捨て猫よ」
「は?どこだ」
「どこって、そこよ!」
 
僕はその言葉に反応して、きょろきょろと辺りを見回す。
けれど女が叫んだ場所には僕しかいない。……ということは。
いや、まさかだよね。
 
でも、彼女は完全に僕を指差しているし、どう考えてもこちらに歩み寄ってきていた。
 
「おい、猫って……」
「君こんなところで座り込んでなにやってるの?」
 
戸惑う男をよそに、少しきりっとしたお姉さんが僕に話しかけてきた。
肩より少し下までのびた黒髪を揺らして首を傾げる。
前髪は真ん中から分かれていて、そこからのぞくおでこが可愛らしい。
 
……顔はどちらかというと綺麗系なのに、なんだか可愛いのがふさわしい気がする。
 
「ねえ、どうしたの?そんな顔して」
 
何も言わない僕に、おねえさんは再度話しかけてきた。
しゃがみこんで、僕に視線を合わせる。
 
ええっと。これはどうしたらいいんだろう。
とりあえず、僕はいちばん可愛らしく見えるであろう角度に首を傾げて、きょとん、と目を丸くした。
 
これをやると、大体の女の子は頬を染めてこちらをみてくる。
しかし予想外に、僕はお姉さんに軽く頭をはたかれてしまった。
……地味に痛い。
 
「ちょっと、可愛さ振りまいて誤魔化すんじゃないわよ。野良猫は別にお愛想つかわなくたっていいの!」
「……いや、僕人間だけど」
「ふぅん?じゃあ負傷した野良猫が人間に化けたのかしら」
 
まだ言うのか、それ。さすがに呆れて僕はため息を吐いた。
 
「…………おねえさん、酔ってる?」
 
僕の言葉に、おねえさんはさあね、なんて言ってくる。
案外口調がしっかりしてるし、どっちなんだかわからない。
困って連れの男をちら、と見るが、男は肩を竦めるだけで、別段この状況をどうにかしようともしない。
 
……止めようよ、ここは。
 
「あなた、拾われたいの?」
「え?」
「そんな顔してるわよ」
「そうだって言ったらどうする?」
 
悪戯っぽく笑った僕に、おねえさんはにっこりと微笑んだ。
 
「いいわよ、拾ってあげても。私もねちょっと最近疲れてたの。誰か傍に居たら少しは浮上できるかしら」
 
その言葉に、僕は少し身体を揺らした。このひとも寂しいのだろうか。
一晩なら、相手になるのもいいかもしれない。
 
「佐倉、先帰ってていいわよ。私猫拾ったから」
「好きにしろ。……おい、青年」
 
ちょいちょい、と手招きされたので、僕は若干警戒しつつも彼に近寄る。
すると予想外に、彼が真顔で口にしたのはなんともいえない言葉だった。
 
「あいつ相当酔ってると思うからさ、避妊はしてやってくれる?ま、どうなっても自業自得っちゃそうだけどさ」
「…………はあ」
 
そこは、まあ。僕もマナーは心得ているつもりだし、大丈夫だけど。
普通言うか?
 
「じゃあ成島、またな」
「ん、お疲れー」
 
僕が暫し呆然としていると、成島と呼ばれたおねえさんは僕を引っ張って歩き出した。
行き先はまあ当然予想はついたけれど、そういう場所だ。
ちょっと意外だったのは、彼女がビジネスホテルを選択したことだった。
ひょっとして案外こういう事に慣れていないのだろうか。
 
次の日になって我に返った後に騒がれても面倒だけど、どうしよう。
少し迷いつつも、結局はされるがままで部屋までたどり着いてしまった。
ここまできて回れ右、もないよなあ。
 
「ねえ、おねえさんお名前は?」
「私?深咲よ。成島深咲。あ、ここに名刺があるわ、はい」
 
ごそごそと懐を探って取り出したのは、作家成島深咲と書いてある間違いなくこのひとの名刺だった。
……おいおい、いいのか?こんな個人情報行きずりの相手に渡しても。
 
面食らって固まる僕に、深咲さん(と呼ぼう)はにっこりと微笑む。
 
「あなたが疲れて休みたいっていうんなら、そこに来たらいいわ。私はどっちでもいいけれど。君、なんか生きようとしてない感じだからね」
「……え?」
「その顔、図星?なんか色々あったのねー?まあ、疲れるよね生きてりゃ」
「…………深咲さんも?」
 
僕の質問に、深咲さんは目を丸くして私?と自身を指差した。
 
「私は、そこまでじゃないんだけれど。うーん、なんていうのかな。生き難い、わね。私はもうちょっと楽になりたいけれどそうさせてもらえないから。だからね、もしも誰かが私の為に生きてくれたらちょっと嬉しいかもと思ったのよね」
「……あなたの為?」
「そうよ?だから君を拾っちゃおうかな、なんて思ったんだけれど。もしもあなたに今生きる理由がないんなら私をその理由にしてくれればいいわ。そうしたらきっと私は今より救われるもの」
「深咲さんを?」
「単純に、傍に居てほしい時ってあるわよね。あなたは、休む場所が欲しいんじゃないの?」
「!!」
「いいわよ、私を休む場所にしても。元気になったらまたどこにでも行けばいいじゃない。野良猫なんだから」
 
ぼす、とベッドに横たわってくすくす笑う彼女を、呆然と見つめた。
先ほどからこのひとは、自分がどれだけ凄い事を言っているのかわかっているのだろうか?
もしもそれで僕が本当に彼女を生きる理由にしても、いいっていうのか?
 
「僕、進藤新って言うんだ」
「しんどうあらた」
「そう。進むに藤の花の藤に、新しいで新」
「新、ね。いい名前ね」
「深咲さんのこれって、本名なの?」
「そうよー、ペンネームでやってないから私」
「ふーん、そうなんだ」
 
名刺をとりあえずナイトテーブルに置いて、僕は深咲さんの上に跨る。
 
「とりあえず、今夜の寂しさはあなたに埋めて欲しいな」
「……まあ、いいけど」
「なんか誘ったわりにそこまで乗り気でもないよね、変わってるなあ、深咲さんて」
「だって別にセックスしたいわけでもないもの」
「そうなの?でも僕したいからしていい?」
「かまわないわよ」
 
そう言ってきょとん、とした顔をする彼女が心底可愛らしいと思って。
このとき僕はもう既にやばいかも、なんて考えていた。
 
女性の表情一つに、こんなにどきどきしたのはあまりないかもしれない。
恋心を最後に抱いたのは、奈津美さんの時以来だろうか。
あれも一夜の夢で終わったけれど。
 
腕の中でのぼりつめていく彼女を見つめると、どこか胸がせつなくなる。
もっともっと色々な顔をみたくなって、普段の彼女が、どんな顔をしているのかも知りたいなんて思ってしまう。
 
「あ、新……っ」
「深咲さん、可愛い」
「やあ、かわいく、な…てな……」
 
途切れ途切れに紡ぐその喘ぎ声も、吐く息もすべてが可愛いと思うのに。
深咲さんは今まであまり可愛いと言われた経験がないのだろうか。
 
ああ、溺れてみたいな、もっと。
彼女の事が、ただ単純に知りたい。もっと、もっと。
 
 
 
 
 
 
 
―――――――――――――――――
 
 
 
 
 
 
 
 
「……深咲さん?」
 
ぼんやりと浮かぶ彼の顔をみて、私はうっすらと目を開く。
先程から、なんだか涙が止まらないのだ。
どうしてなんだろう、初めてってわけでもないのに。
 
身体ぜんぶが、悲鳴を上げているみたいだ。
嬉しいとか、好きだとか、そういう感情が一気にふきあげてきて、もうどうしたらいいのかわからない。
 
「深咲さん、泣かないで」
「……勝手に、出ちゃうのよー……」
 
うう、本当になんでこんなに泣いてるんだか。情けない。
 
「僕、深咲さんの為に生きていいんだよね?」
「新?」
「もう、自分の為に生きる事と、同義みたいになっちゃってるんだもん」
「別にいいけど……ちょっと重いわ」
 
涙浮かべた自分が言うのもなんか間抜けだけどね。
ふふ、と笑いながら私がそうこぼすと、新が私の頭を小突いた。
 
「またそういうことを言う!まったく、紙一重のところで冷静なんだから」
「今は冷静じゃないわよ?なんかもう、本当どうにかなっちゃいそう……」
 
うう、と呻きながら私が顔を覆うと、
新がすぐさま私の両手を彼の手で顔から引き剥がしてしまった。
 
「だぁめ。顔みたいから隠さないでよ」
「やー……」
「っ!ちょ、その声と顔は反則……!」
 
新が顔を顰めたかと思うと、何が反則だったのか、突然押し倒された時のような激しい口付けをされてしまった。
 
急なことで息が詰まりそうになり、私は思わず口を開く。
しかし口腔内に押し入ってきた彼の舌が
呼吸さえも呑み込んでしまいそうな勢いですべてを奪いつくそうとする。
 
心細くなって彼の首元に両腕を絡ませれば、応えるように新の両手が私の頬を優しく撫でてくれる。
 
ああ、幸せだなあ。
本当に幸せな時って、こういう瞬間なのかな。
なんか感情が昂ぶってるからなのか、すぐに涙が出てしまう。
嬉しくても出るし、驚いても出るし、愛撫に反応した理性的な涙も、なにもかもとめどなくあふれてくる。
 
私は彼が好きで、彼も私を好きだという。
その事実があるだけで感じ方はこうも違うものなのかと、驚き戸惑う。
 
「ふ、」
 
離れた唇に安堵しながらも、どこか寂しさを感じるのは、本当にどこかがおかしくなってしまったんじゃないだろうか。
 
「深咲さん……」
「あ、らた……」
 
好きだと、言葉にするのさえ難しい顔をしてしまう私に、彼はいつも微笑んで過剰なまでのそれらをくれる。
自分を防衛することに必死で、砦を守る事に必死で。
どうしたらいいのかもわからずに足踏みばかりしていた。
 
毎日が憂鬱で、いつもいつも頭を痛めて。
どうしてこうも、生き難い世の中なのだろう、それとも自分が悪いからなんだろうか。
何度も自問自答した。
 
作家のくせに、月並みなことしか考えられなくてちょっと笑ってしまいそうになる。
暗闇に光を照らしてくれたのは、きっとあなたね。
私の人生に、いつだってため息を吐く私に、あなたがあたたかいものを注ぎ込んでくれた。
 
「愛してる」
「!」
「愛してるわ、新。……会えない間、寂しくてどうにかなりそうだった」
 
私の言葉に驚き固まる新をみて、私はちょっと噴出しそうになる。
さっきからずっと私がうろたえてばかりだったから、ちょっといい気分かも。
 
「……深咲さん」
「え?」
「僕に殺されても、知らないから」
「え!?」
 
にや、と微笑んだ新の愛撫に私はその言葉の意味を、行為がすっかり終わって気絶するように眠った頃、嫌と言うほど理解する。
 
「深咲、愛してる……」
 
そうして囁かれた言葉に、せっかくひっこんだはずの涙は、いとも簡単にまた流れ出していたのであった。
 
感情がいったりきたりで、今日は本当になんという日なんだろう。
きっとこんな風に自分の心が揺さぶられるのも、彼だけなのだろう。
 
作家としての自分も、成島深咲自身も、きっと彼から離れられなくなってしまうんじゃないか。
たくさんの喜びを感じて、同時にとてつもなく大きな恐怖を感じた日。
 
それでも私は母親に抱かれ眠る赤子のように、彼の腕の中、穏やかな眠りについていた。


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