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私の憂鬱。

第二十五話




「……はーあ。なんか疲れたなあ」
 
昨日はあれからしばらく呆けたように部屋の中に居たけれど、しばらくして自分の部屋に戻ってベッドへ突っ伏した。
一応、佐倉には『負けた。』と一言メールを送って。
 
それからずっと眠ってしまっていた。
時間を確認すると12時だった。……ちょうど12時間くらい寝てたのか。
一体私はどれだけ眠るつもりなのよ。
 
「あー、化粧落とさないで寝ちゃった……まずい」
 
もう若くないというのに。
私はのろのろとベッドから鏡台へと身体を移しとりあえず化粧を落とそうと、道具一式を取り出した。
 
あー、またお風呂入ろうかな。そしてなんか美味しいものが食べたい気分。
でも何か作る気にもならないし、どっか出かける気にもなれないなあ。
……どうしようかな。
 
いいや、とりあえず先にお風呂入ってから考えよう、うん。
頷いて、私は着替えとタオルを持って移動した。
……うわあ、ワンピースが皺くちゃ。
 
 
 
 
 
 
「……ん?」
 
お風呂から上がってさてどうしようか、と髪を乾かしていた時だ。
携帯電話の着信音が鳴って、それがシルバー、プライベート用のほうだとわかった。
一瞬また親からかと思ったのだけれど短い着信だったのでメールみたいだ。
母親も父親も電話はしてもメールはしない。
今時あのくらいの人たちだってメールは打つもんだけどね。
どうにも我が両親は堅物のようである。……ま、時代錯誤のあのひとたちらしいけど。
 
髪の毛を乾かし終わって、ドライヤーをしまった私は、ちゃぶだいに置いてあった携帯電話を手に取る。
 
「……一哉?」
 
なんでこっちに。
なんか、すっごく嫌な予感がするのは気のせいだろうか。
今日は土曜日。休日出勤じゃなきゃ彼も休みなのだろう。
そんな日に、プライベート用の携帯電話にメールがくるということは。
 
とりあえず内容をみないことにはなんともいえない。
私はメールを開いて、中身を確認してみる。
 
『起きてる?』
 
簡素な文がそこにはのっていて、思えば彼は学生時代もあまり長いメールのやりとりというものをしなかったな、と、頭の中で昔の記憶を引っ張り起こす。
 
とりあえず、無視する理由もないので私は『起きてる』と返信した。
 
「うわ!」
 
次の瞬間、いきなり着信音が鳴り響いたので、思わず私は声を上げてしまった。
電話がかかってくるとは思っていなくてびっくりしてしまったのだ。
 
……そういえば、これも彼のパターンだった。
大体最初のおうかがいをメールで立てて、そのあと電話をかけてくるのよね。
なんだか懐かしいな。
そう思って、私は少し笑いつつ通話ボタンを押した。
 
「もしもし?」
『深咲、ごめんね。電話大丈夫だった?』
「ええ。今家に居るから大丈夫よ」
『そっか。……あの、さ。突然なんだけど、今日会えない?』
「え…………」
『ちょっと話したい事があるんだ。ごはんでも、どうかな。外で会ったのって打ち合わせくらいだったし、再会したお祝い……っていうのも変だけど』
「でも、今すぐってわけにも」
『そうだよね、時間ももうお昼時を過ぎちゃったし……支度もあるし。だから、夜はどう?せっかくだし飲みながらでも』
 
確かに、もう14時前くらいだし。……なんか異様にお風呂長くなっちゃったのよね。
ああ、でもどうしようかな。なんとなく今は会ったらまずい気が。
というかどうしてこんなタイミングで誘われるんだろう。正直驚いた。
まさか、とは思うけど。
 
「でも、あの、今日はちょっと……」
『今日会って話したいんだ。無理を言っているのはわかっているよ。誓って君を酔い潰してホテルに連れ込むだとかそんな真似はしないから』
 
いや、さすがにそんな手段をとるとはこっちも思ってなかったんだけど。
むしろ流されそうで怖いというか。ばっちり失恋したてなわけですし。
……ああ、でもなんか。どうでもいいかも。
 
いやいや、やけになってるとかそういう意味では決してなく!
なんか彼が自分に幻滅する気がまだどこかでしているのよね。
そうなったらなったで、きっと彼にとってはそのほうがいいんだ。
今はただでさえ弱ってるし、みっともないところをとことん晒すチャンスかもしれない。
 
しばし逡巡して、けれども結局は了承の返事をした。
 
「じゃあ、妙に雰囲気あるところとかやめましょう。安い気取らない居酒屋で。それ以外なら却下ということで、どう?」
『あはは、かまわないよ。じゃあ待ち合わせは山城駅でいいかな』
「ええ、かまわないわ」
『じゃあ、山城駅に19時で。楽しみにしてるよ』
 
そうして、彼からの電話は切れた。
……にしても、一哉の話って一体なんなのかしら。
多少強引なところがあるのも、やっぱりあまり変わらない。
昔から、曲げられない時はとことん食らいつくひとだった。
そういう真っ直ぐさも、嫌いじゃなかった。
それでも、やっぱり恋していたわけじゃないんだけど、ね。
 
ああ、やっぱりひどい女だな、私。
 
 
 
 
 
 
 
「深咲」
「一哉」
 
ちょうど待ち合わせ時間。
駅前で手をあげた彼を視界に留めて私は微笑む。
待った?なんて言葉も聞こえてきて、これだと本当に恋人同士の会話そのものよね。
 
「一哉、どこか行くお店決めてた?」
「ああ、予約はしてないけど…深咲どこか行きたい所でもあった?」
 
一哉の言葉に私はちょっと悪戯っぽい顔で微笑む。
 
「ね、学生時代に戻った気分で安いチェーン店のとこ行かない?話があるって言ってたけど若干高級志向の所ならそんなにうるさいお客もいないし」
 
どう?と提案した私に、一哉は少し驚いて目を丸くしていたみたいだけれど、すぐにくす、と笑って私の頭にぽん、と手の平を乗せた。
 
「デートでそんな店もう随分使った事ないな」
「じゃあデートじゃないってことで」
「つれないこと言わないでくれよ。学生デートって事でいいだろ?」
「……まあ、そういうことにしてあげなくもないわよ」
「光栄ですよ、成島先生」
「急に先生って呼ぶな!」
 
笑いながらやりとりすると、本当に学生時代に戻ったみたいな気分だ。
こんな風に、牽制しちゃってごめんね。
でも、ムードたっぷりな店なんか連れて行かれたら、それこそ私はどうしたらいいのかわからなくなる。
今日ほど雰囲気に流されそうな日はないから。
どうせなら女を感じさせないような流れに行くように仕向けたかった。
 
……たいがい私も往生際が悪いというか。
 
歩いて着いた先にあったのは、本当にどこにでもある居酒屋だった。
私はけっこう来たりするときあるけどね。赤提灯の店とか。ははは。
 
 
 
 
 
「それじゃあ、まずは。原稿完成、お疲れ様です」
「ありがとう。一哉も校了頑張って」
「ははは」
 
かちん、とグラスが重なる音がすれば、とりあえず頼んだビールで喉を潤す。
しばらくしたら、適当に頼んだメニューが次々とテーブルに並んでいった。
 
「なんだかんだ結局このくらいがいちばん馴染み深い味だよな」
「そうねえ……食べなれてるのはきっとこのくらいの味だもんね」
 
お互いにくすくすと笑い合いながら
なかなかどうして、馬鹿に出来ないものだなんて口にしていた。
 
しばらくは学生時代の思い出を語ったり、編集者の仕事、小説家の仕事、それぞれがお互いの今までなんかを話した。
 
考えてみれば、再会してから今までの話ってしていなかったなと改めて気が付いて私達は本当にねじれたように妙な関係に発展していたんだな、と感じる。
だって普通はよ。
旧知に再会したんならそれぞれの話をするのが当然じゃない?
それなのに全く。まあ、元恋人だから色々と気まずさもあったとは思うんだけどね。
 
お酒もそこそこすすんで、少し気分が高揚してきた時。
タイミングを見計らっていたのか、それはわからないけれど、一瞬の沈黙を捉えて、一哉が真剣な表情を作った。
 
あ、そういえば何か話そうとしていたんだった。
私は今の今までそれを失念していたようで、自分にほとほとあきれ返ってしまう。
今日絶対にしたい話があったと、彼は言っていたのに。
 
「……訊いても、いいかな」
「なに?」
 
静かな彼の声音につられるように、私も少しトーンを落として訊ね返す。
視線を一旦逸らし、また私に向き直って彼は少し気まずそうに口を開いた。
 
「深咲の好きなひとって、さ。……進藤君だった?」
「!!どうして、」
「……やっぱりそうか」
 
ふ、と苦笑されて私は驚きに目を見開いた。
いつから気が付いていたんだろう。
もしかして何か彼の前でそういう態度をとってしまったろうか。
 
私はきっと、情けない顔をして彼をみつめていたんだろう。
少し困ったように彼は笑って、あのときだよ、と呟いた。
 
「深咲、原稿終わってすぐに寝ちゃっただろう?」
「え?う、うん……」
「実はさ。ベッドに深咲を運んだの、俺なんだ」
「ええええええ!!!?」
 
あまりの衝撃的事実に、私は思わず仰け反って叫んだ。
じゃあ。夢だと思ってたあの抱き上げられているような浮遊感は。
ような、じゃなく本当に『抱き上げられていた』んだ。
 
「でも、なんで?」
 
当然の疑問を私が口にして、一哉はばつが悪そうに頬を掻いた。
 
「電話しても、深咲が出なかったからさ。心配になって……迷惑だとわかってても家を訪ねずにはいられなかったんだ。鍵も開けっ放しになってて、慌てて俺が書斎に向かったら……お前が突っ伏して寝こけてたんだよ」
「そ、そうだったの」
「ああ、悪いと思ったんだけど、ベッドのある部屋に連れて行った。その日は体調のことがちょっと気がかりだったからさ。なんか眠りの深さが尋常じゃなかったし。電話きた時は安心した」
 
ああ、だから。
あの日電話したとき血相変えてこっちに来てくれたんだ。
案の定、倒れちゃったわけだしね。
 
「で、まあ、そんときにさ。寝言で『新』って。言ってたから。進藤君の下の名前って新だろ?ああ、そうなんだろなって思った」
「…………そ、う」
 
覚えてる。彼の名前を呼んだことは。
あれを聞かれてたのか……なんかものすごく恥ずかしい。
 
「なあ、深咲」
「ん?」
「賭けは負けだった、んだって?」
「…………やっぱり。佐倉から聞いたのね」
「気付いてたのか」
「だってこんなタイミングで誘われるのおかしいじゃないの」
「まあ、そりゃそうか」
 
苦笑する一哉を私は睨みつける。
まあ彼が悪いわけじゃないんだろうけど、それでもね。
やっぱりなんか。
それを知った上でここに居るっていうのはなんだか嫌なんだもの。
 
「でも、これからは遠慮しなくていいんだよな?」
「え?」
 
す、と真っ直ぐに見据えるその双眸が力強い。
なんだか捕捉されてしまったみたいで私は思わず身を竦めてしまう。
テーブルに置いていた右手に、彼の左手が重なった。
 
きゅ、と握りこまれて、私は動揺を隠せなくなる。
 
「か、一哉?」
「何度でも言うよ。俺と結婚を前提に付き合ってほしい。これからの人生を、君と一緒に歩んでいきたいから。それくらい、俺は深咲の事が好きだ。いや、愛している」
「……私は、それを受け入れるつもりはないわ」
「わかってるよ。今は、ね」
「一哉!」
 
私が半ば悲鳴のような声をあげたけれど、一哉はそれを気にする事もなく、どころかますます大胆な行動を見せる。
 
握った手をそのまま持ち上げると、一哉は私の指先に自身の唇を触れさせた。
びくり、と身体を揺らすと、彼の視線が私をまた射抜く。
 
「今だって、俺にどきどきしてるくせに」
「そ、そんなの、」
「キスをすれば、気持ちいいと感じるくせに」
「……っ仕方ないでしょ!ある程度経験ある大人なんだから!身体は勝手に反応しちゃうのよっ!」
「てことは俺に嫌悪感は抱かないわけだろう?」
「ど、どうしちゃったのよ一哉」
「うーん、いいひとやめようかなあ、と思ってさ」
 
くす、と笑んで、一哉はやっと私の手を解放する。
私はそれを自分の元へと慌てて引き戻し、テーブルの下へさっさと引っ込めた。
 
「本当はゆっくり待とうかな、とも思ったんだ。でも、それだと学生時代と同じ轍を踏む事になるかと思ってさ」
「どういうこと?」
「押し付けすぎるのももちろん良くないってわかってるけど、引くのは絶対にいけなかったな、って今は感じてる。特にあのときの俺は、あまり深咲に男としての自分を見せてなかったなと改めて気付いたからさ」
「……まあ、そう、かもしれないけど」
 
友達としての延長線上、じゃないけど。確かにそんな感じではあったかな。
 
「だからそういうのやめるよ」
「!!」
「迷惑にならない程度に、押してみようかな、と思って」
「……そんなことされたって私の気持ちは変わらないわ。ていうかもう既にけっこう迷惑よ」
「まあ、そうかもしれないけれどね。ぎりぎりまで引きたくないんだ。ごめんね、諦めの悪い男で」
 
くす、と笑う目の前の一哉をみて、私はどうしたものかと頭を抱えたくなった。
正直、あっちがだめだったからこっち、なんて、うまく切り替えられる頭を私は持っちゃいないし。
そんなの彼にだって失礼だろうと思うんだけどね。
 
……でも、こんな一哉初めて見た。
そんなに私のことを好きだと言ってくれるのか。なんでなんだろう。
 
「……私さあ、家事全般大嫌いなのよ?」
「別に気にしないけど」
「けっこうだらしないし、すぐに怒鳴ったりもするし」
「大丈夫、俺は基本的に怒る事滅多にないから」
「…………とにかく、私はあなたに嫌われる努力をしてみるわ」
「そう?」
 
諦めの境地で深いため息を吐いたけれど、目の前の男は楽しそうに笑うばかりで。
なんだか本当にどうしたらいいのかわからなかった。
 
 
 
 
 
 
 
 
「もう、何度もいいって言ったのに」
「俺がしたくてしてるんだからいいじゃないか。危ないよ、女性がこんな時間にひとりで歩くのは」
 
こんな時間って言っても、まだ23時少し前なんだけどね。
昨日なんてこれより遥に遅い時間にここを歩いていたんだけど。
……まあ、それは言わないでおこう。
 
家の前に到着して、私は隣に立つ男に頭を下げた。
 
「送ってくれてありがとう。……今日は家には上げられないわ」
「ああ、懸命だと思うよ」
 
苦笑した私に、一哉は楽しそうな笑みで返す。
というか、ちょっと怪しいその顔はなんなのかしら。
爽やかな一哉がどっかいってしまいそうでちょっと怖い。
 
「出来れば、これからもこうしてちょくちょく会いたいんだけど」
「私はちょっとご遠慮したいわね」
「……本当つれないね、深咲は」
「だから、何度も言うけれど私は」
 
あなたとどうこうなるつもりはない、と言おうとしたけれど、後半の言葉は発せられる事なく胸中でのみ呟かれた。
 
引っ張られた彼の腕の中にすっぽりとおさまった私は、後頭部にしっかりと右手をそえられ、彼に深い口付けを施されていたからだ。
いつかの激しいキスを思い出して、私は拒否の意を示すように彼の胸を叩く。
 
すると、案外あっさり彼はその唇を解放した。
 
「……あんまりへこむことばかり言わないで」
「っあ、あんたね!」
 
いまだ抱きしめられていた私はなんとか彼の腕を抜け出そうと、身体をばたつかせようと、した。
けれどそれは、そう行動する前に必要がなくなってしまう。
なぜならば、今私は彼の腕の中にいないからである。
 
何者かが私の身体を引っ張って一哉から遠ざけたかと思うと次には私をその腕に包み込む。
後ろから抱きしめられて、私の身体は一瞬強張った。
 
この、温もりは。
 
「……深咲さんの浮気者」
 
信じられない声が私の耳元で囁かれ、
目の前の一哉は、驚愕に目を見開いている。
 
私もだ。驚いてまさしく身体全体が固まっている状態である。
 
うそ、うそ、嘘!!
 
「…………あ、らた?」
 
震える声で呟いたそれは、しっかり音になっていたのだろうか。
私は少し心配だったけれど、隣で空気が揺れる気配がしたからきっと大丈夫だったのだろう。
彼が、微笑んでいるのがわかる。
 
「ただいま、深咲さん」
 
それだけの言葉に、不覚にも私は既に涙目になっていた。


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