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私の憂鬱。

第十六話




「ねえ、深咲さんなんでー?」
「うるさいわね、朝から」
 
現在時刻は朝の8時。ご飯を食べ終えて歯を磨いている私の後ろを男がずっとへばりついている状態なのです。
なんで腰に手をまわして抱きついてるんだろうか、こいつは。
うっとおしいことこのうえないんだが。
ていうか本当私は顔に出ないわね、自分でもびっくりするわ。
無表情なくせに心拍数はあがってるって怖いわよねちょっと。
 
「ちょっと、うがいするから離れなさい、うっとおしいわね!」
 
肘で新を突いていまだ抱きつく彼を咎めれば、新は頬を膨らませながらも私の腰からするり、と手をどかす。
…さすがに20越えた男がやる動作としてどうなの、それは。
頬を膨らませて許されるのは5歳までじゃないかしら、なんとなく。
 
頭の中でくだらない事を考えつつ、私はがらがらと口の中を漱いだ。
洗面台の横に吊るされているタオルで顔を拭いつつ、鏡越しに見ると新がまだ後ろへ立っているのがわかる。
私は小さくため息を吐いた。
 
「いつまでそうしてるのよ」
 
うんざりした顔で言っても効果はないらしく、新はまたも腰に両腕を絡ませてくる。なんでそうスキンシップが好きかな。
本気で心臓の予備が欲しい。
 
鏡に映る彼の顔はまだ不機嫌。まあ、原因はわかってるんだけどね。
 
「深咲さん、なんで今日は部屋に鍵閉めてたの?」
「だーからぁ、言ってるじゃないのさっきから。昨夜は身の危険を感じたって。新があんな事言うからよ」
「そんなに僕が信用できなかった?」
「そうよ」
「嘘吐き」
 
新が短く反論の言葉を呟いて、私の腰を少し強く抱きしめる。
顔はずっと私の肩に置いたまま。さっきから吐息がかかってくすぐったい。
 
「深咲さんだってその気になってたくせに。昨夜、信用できなかったのは僕じゃなくて自分自身でしょう?僕が触れても拒む自信が、あなたにはなかったんだ。だから鍵をかけた」
「違うって何度も言ってるでしょう」
「…一夜明けたらすっかりいつも通りなんだもの、つまらないな。冴島がここに来る前に、僕でいっぱいにしちゃいたかったのに」
「そんなだから昨夜鍵をかけたんじゃないの」
「でもいつも通り押し切れば良い話じゃないか」
「疲れてたからよ」
「………素直じゃない深咲さんも、そそるし僕は嫌いじゃないけどね」
 
耳元で囁かれて、私は肘鉄をお見舞いしてやる。
ぐえ、と呻いた新を冷ややかに一瞥すれば、書斎へと向かう。
まったく、朝からしつこい奴。
本当にそうだったとしたら、どうするつもりなんだろう。
 
一回したら、彼は満足して私から離れていくのだろうか。
それとも全財産を奪い尽くすまで?
最近、そんな事ばかりぐるぐると考えてしまう。
いっそ全て壊してしまばいいのか。
けれど、彼のすべてが終わるまでは待ちたいと思った。
もしも騙されていたとしても、新の口から終わった、という言葉が聞けたら伝えてもいいかもしれないと。
けれどそれも、自分にとっては逃げなのだろうか。
 
傷付くのがそんなに怖いのか、私は。
それこそ、どうなってもかまわないなんて思っていたはずなのに。
ああ、心が痛むのはきっと慣れていないんだろうな。
身体が傷付くのは良いけれども、心が傷付くのはわからない。
自分が立っていられるのかどうかがわからないんだ。
 
仕事をして、稼いで、日々の生活をする。
それができるのかどうかすら、わからないから怖い。
なんて弱い心なのだろう。馬鹿みたいだ。
 
ああ、なんでこうなっちゃったんだろう。
せめてもっと早く、初恋を迎えたかったなあ。
 
ため息を吐いては、同じ所を行ったり来たり。
いつからこんなに女々しくなったのか、臆病になったのか。
…いや、きっと元から私は臆病者なんだ。
 
「…ああ、ったく面倒臭いわね」
 
そのうち決壊して全て伝えてしまったら、どうしよう。
とりあえず、タイミングが最悪でなければいい。
基本的に、私はあまり堪え性ではないのだ。
 
頭をがしがしとかいて乱してしまってから我に返る。
なにをやっているのやら。
 
ぱしん、と頬を叩いて、私はプロである事を思い出し、それに恥じない仕事をしようと固く決意した。
お金を稼ぐ以上、一定の期待を常に裏切ってはならない。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
セットしていたアラームが鳴り響いて、私はびくりと身体を震わせた。
時間を見ると13時50分。
集中していた為か心臓が妙にばくばく鳴っていた。
 
「お昼食べてからそんなに間がないのにけっこう集中してたわねえ」
 
いつもほぼきっちり正午に昼休憩を取る。
大体が30分くらいで作業を再開させるから、そのあと仕事していた時間なんてたいしたことないけれど、保存したデータを眺めればけっこうな長文がそこにはあった。
 
忘れないように、浮かんだネタもノートに書きなぐる。
きちんと文章を書く時は完全にPC上での作業にはなるけれど、いまだにアイデアを書いたりプロット段階のものを書く媒体は紙だ。
恐らくそういう人はいまだに多いだろう。
…というか、逆にネタ帳がアナログじゃないひと見たことないかもな。
 
「深咲さん」
「!…もう来たのね」
 
またも思考があちこちいっている間に、時間が経過していたらしい。
アラームの意味がなかったな。
携帯電話を折りたたんで懐にしまい、私は新と共に書斎を出る。
 
「成島先生、コーヒーでよろしいですか?」
「ええ、お願い」
 
返事をすれば、新はにっこりと微笑んで台所へと向かった。
 
仕事相手が居る場合、新は私の事を成島先生、と呼ぶ。
奇妙な事に、私はこう呼ばれている瞬間の方が余程現実味がある。
雇う側と、雇われる側。
そういう繋がりで私達は成り立っているんだと考えれば、彼が一線を引くのもとてもわかりやすいから。
 
茶の間に座る冴島は、穏やかに微笑んでこちらに顔を向けたので、私もそれにならって微笑を返す。
席に着いた私に、冴島は真面目な顔をして姿勢を正せば、そのままゆっくりと頭を下げた。
 
「改めまして。新しく成島深咲先生の担当に付かせていただきました冴島一哉です。いい結果が出せるように、誠心誠意働かせていただきます」
 
その真っ直ぐすぎる言葉に私は少し苦笑しながらも、こちらこそ、と、お辞儀を返す。
 
「お互いに、いい仕事につなげられるように頑張りましょう。私にはない引き出しも、冴島さんとなら発見できる気がします。どうか、よろしくお願いしますね」
「……はい、よろしくお願いします」
 
私と冴島は、もう一度ふたりで笑い合う。
そこに、新が静かにお茶を運んできた。
こういうときの彼は本当に目立つ事無く、私の影のように振舞う。
普段こそ人目を惹く容姿をしている新だけれど、こういうときの気配の消し方は改めてすごいなと感心してしまう。
 
コーヒーを運ぶ新に、冴島がありがとうございます、と礼を言う。
 
「…そういえば、進藤さんはいつから成島先生とお仕事を?」
「まだ一ヶ月程になります」
 
新が控えめな笑顔を湛えながら、冴島の質問に答える。
一ヶ月、という言葉は意外だったようで、訊いた彼は目を丸くした。
 
「そうなんですか。随分と呼吸がぴったりにみえますけど」
「そうね…波長が合うからかしら。彼を雇う決め手になったのは、ひょっとしたら無意識にそういうものを感じたからかもしれません」
「それはまた。ちょっと妬けてしまいますね。私達も是非それに負けないくらいの関係性を築きたいものですが」
 
きらり、と眼鏡の奥で光る彼の瞳が、一瞬男のそれになった気がして、私は情けない事に、それを感じ取った瞬間どくん、と心臓を跳ねさせてしまった。
それでも、初心な小娘のように頬を赤らめてやるつもりもない。
 
私は冴島を真っ直ぐに見据えればにっこりと微笑む。
 
「…そうですね、仕事上でそういう関係を作れたら素晴らしいですよね」
「仕事上、ですか」
「私達の間にそれ以外なにがありますか?」
「……長期戦も覚悟の上なので、かまいませんけどね」
「!」
 
にやり、と笑ったその男は成島深咲の担当編集者、冴島の顔をしていない。
私が一哉と呼んでいた昔の男だ。
それにまた眉を寄せれば、彼は察してすぐにその表情をひっこめた。
 
「では、今回の仕事の具体的な内容についてお話しましょうか」
「ええ」
「最近、長編をお出しになってないんですね」
「そうですね…一年くらい前にシリーズ物を一本書き終えたので、そこから特にやりたい題材みたいなものが浮かばなかったから」
「初仕事でこんなことをご提案するのも失礼かもしれませんが」
 
その言葉に、私は少し緊張して喉の渇きを覚えれば、一口コーヒーを含む。
しかし潤す為に飲み込んだそれは、あまりにも美味しくて、私はなんだかもったいない事をしてしまったという気持ちになった。
新に美味しいと伝えたかったけれど、今はなんだかいけない気がして、隣に控える彼に小さく微笑んだ。
新はその真意をわかってくれたのか、そうでしょ?といわんばかりの、得意げな表情を作るので、私は噴出しそうになるのをこらえるはめになった。
 
そうして一呼吸置いてから、冴島へ視線を戻す。
 
「…なんでしょう?」
「恋愛主軸の物語、ここらへんで一本書いてみませんか?」
 
なんとなく予測がついたその言葉。
挑戦していないもので私が書けそうなテーマってそれくらいだもんな。
…恋愛物語か。
 
「それって、ショートとかではなく、ですよね?」
「そうですね。出来れば長編をお願いできないかと」
「うーん……」
「成島先生のお話は、それこそメインにそれを据えているものはありませんが、それらが絡んでいる物語はたくさんあります。だったら書けないと安易に決めてしまうのはもったいないと思うんです」
「それは…そうかもしれないですけど。長編となるとやっぱり書ききれるかどうか自信がありません」
「読者は皆、先生の恋愛物語が読みたいと思ってるんじゃないでしょうか」
 
熱く訴えかける冴島が、なんだか別人に見えてくる。
今ここで私を説得する彼は、本当にS社に勤める冴島一哉なのだ。
それがなんとも不思議で、私は目の前の彼をじ、とみつめる。
 
「……軋んだのは骨か、私の身体のどこかの欠片のはずだが、…わからない」
「!」
「これは成島先生がお書きになった、最果ての町という物語の一文です。私は、これを読んだとき思ったんです。あなたの書く恋愛物語が読みたいと」
「冴島さん…」
「お願いします。出来る限り、サポートさせていただきますから。一度だけでも、やってみませんか?成島深咲の初めての恋愛小説は、わが社から出版させていただきたいんです!」
 
そう言った冴島は、す、と後ろに下がって土下座していた。
私は作家になって以来、こんな風にされたのは初めてで、情けないほどに狼狽してしまった。
 
「冴島さん、やめてください!そんな偉大な作家先生でもないのに!」
「私にとって成島深咲は偉大な作家です!」
「わ、わかりましたから、顔上げてください!」
「……わかりました、って言いました?」
「え」
 
顔を上げた冴島は、悪戯が成功した悪ガキのような顔をして、新を視界にうつせば今の聞いてました?と訊ねる。
それを受けて新は苦笑した。
 
「ええ、この耳ではっきりと」
「ではスケジュール、調整していただけますよね?」
「今のところ、来週中に短編一本〆切がありますが、それ以外は特に時間がかかる仕事は引き受けていませんので、じゅうぶん可能です」
「ちょっと、進藤君!なに勝手に話を進めてるのよ!」
 
私が慌てて声を上げると、新はきょとん、とした顔をして首を傾げる。
例の可愛い悩殺ポーズだ。ちくしょう!殴りたい!!
 
「先生は今、わかりましたとおっしゃいました。
やると言った仕事を放り出すのは先生が一番嫌っている行為だと僕は今まで認識していたのですが…その考えは改めた方がよろしいですか?」
 
新のすらすらと紡ぎだされる言葉に、私は何も言えずにぐ、と詰まる。
こいつめ、いつのまにこんなに秘書業うまくなりやがった!
 
感じた事は冴島も同じであるらしく、次の瞬間には声を上げて笑い出す。
 
「これは、一本取られましたね!ここでやめれば作家・成島深咲に傷が付くということだ。さ、成島先生、どうなさいます?」
 
冴島にまでそんな事を言われてしまっては、私はやる他なくなる。
はあ、とため息を吐けば、私はもう一度了承の言葉を発するしかなかった。
 
「わかりました、やります、やればいいんでしょう!?そのかわり、どんだけかかるかわかりませんからね!!」
「もちろん、待ちますよ、いくらでも」
「……まさか、あなたが私の書いた文章をそらでいえるほど、読んでいるとは思いませんでした」
 
半ば睨みつけるように冴島をみれば、彼はにっこりと微笑む。
 
「ご存知なかったんでしょうけれど、私はあなたの大ファンですよ」
「…ありがとうございます」
 
飲み干したコーヒーは、少し冷めても美味しかった。
ああ、やっぱりこんな風に飲んじゃうのはもったいなかったわね。
…はあ。
 
 
 
 
 
「…それでは、私はそろそろ失礼します」
「初仕事、頑張りますね」
「ええ、私も精一杯やらせていただきます」
 
細かい話をいくつかしたあと、冴島は席を立ち上がる。
けっこう長いこと話していたようで、時計を見れば時刻は17時を回っていた。
 
新とふたり、玄関口まで冴島を見送る。
 
「深咲」
「!」
「仕事はもちろんの事、プライベートでも親密になれる事を願ってるよ。そうなる為の努力も、惜しまないつもりだから」
「な、なにを言ってるのよ」
「…それじゃあ、またうかがいます、成島先生」
 
にっこりと微笑んで、自分だけ言いたい事を伝えた冴島は満足して帰路へと着いていった。
…なんなの、あの男は。
 
「やってくれんな、あいつ」
「!新…」
「深咲さんも、まんざらでもない顔してくれちゃって」
「ど、どこが」
「ほっぺた、赤くなってるよ」
「!」
 
新の指摘に私は慌てて頬に手を添えた。
帰り際で油断してたせい!?なんかすっごい恥ずかしい。
 
「…ねえ、冴島さんが来たときに、一哉って呼んでもいいよ」
「は?なんで」
「あの男の前で、深咲さんにキスする口実ができるから」
 
そう言って新が私の唇へ軽い口付けを落とした。
しかしおまけのように離れていく前にぺろり、とその舌で唇をなぞられる。
それが妙に色っぽくて、私は赤面してしまう。
 
「あ、新!!」
「大人の男って無駄にスマートでずるいよなあ。言葉だけで深咲さんを照れさすにはどうすればいいんだろう」
「知らないわよ、そんなことっ!」
「ちぇー。…あ、深咲さん」
「ん?」
「夕飯はいっしょに食べるけど、明日は帰って来れないんだ。外泊は今までした事なかったけど…これからは時々あると思うんだけど…」
 
新の言葉に、私は一瞬反応が鈍くなる。
 
外泊。
なんでもないはずのその言葉に、私はひどく反応してしまって、動揺を隠すのに必死になってしまった。
 
「ええ、前も言ったけどかまわないわよ。新の自由にしてくれていいんだから。事前に教えておいてくれれば大丈夫だから、そんな顔しないの」
 
目の前の新は、捨てられた子犬よろしく情けない顔をしている。こいつは、犬にも猫にもなれるのか、便利な男だな。
なんだか可愛らしくて、私は新の頭を撫でてやる。
 
「ありがとう、深咲さん。……僕ね、決めたから」
「え?」
「深咲さんの初めての恋愛小説が完成するまでに、僕も全部片付ける」
「新…?」
「そのときは、僕と結婚しようね、深咲さん」
「………そうね、間に合ったら考えなくもないわよ」
 
くすり、と笑った私に、新は少し驚いたものの、次には顔中で笑いながら約束だよ、と元気な声を出した。
 
いまだ、私の中に燻る猜疑心や女としての自覚の欠落。
それらを抱えたままぐるぐる同じ所を行き来しているのを、目の前で笑うこの子は知らない。
 
すべて曝け出したら、彼はなんて言うかしら。
もしも目の前から去ってしまっても、私は私を再生できるかな。
冴島のことも、結局なんだか宙ぶらりんのままだし。
ああ、でも骨を拾ってもらえたりして。
 
…いや、いくらなんでもそれは彼に失礼だ。最低だろう、私。
彼にはやっぱりきちんと断りを入れるべきなんだけれど。
どうしたら納得してくれるのかな。
誠意を持って愛を伝えるなんて、今までしたことあったかしら。
ああ、本当に最低ね過去の私は。
…ごめんね、一哉。
きちんとした言葉を、近いうちに必ずあなたに伝えよう。
 
とにかくこの物語が、なにかのきっかけになるのはきっと間違いない。
怖くて竦みそうになりながらも、私は作家・成島深咲の名前を汚す気はなかった。


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