私の憂鬱。
第四話
「新、お願いがあるんだけど」
「ん?なぁに?」
「う…」
本題に入る前に、おもわず呻き声をあげてしまった。
いつかやめろ、と言ってやりたいのだが、なんだか指摘できずにいる新の癖なのか(おそらく狙ってやっている)なんなのか、首をこてん、と可愛らしく傾ける仕草。
なんとも気に入らないのであるが、それが理由でやめろ!とも怒鳴れない。
ひょっとしたら苛立つのは私がそれを可愛いと思ってしまうからなのかもしれなく、命じた瞬間負けを認めた気がしてそこもまた嫌だと思う原因だった。
どちらにせよ、そんな事を悶々と考えるのはなんとも痛々しい。
流してしまえばいいのよ、そう、それがいちばん良い答えだわ。
ひとり出した結論に納得しながら、私は目の前の見目麗しい男を改めて見やった。
「…これから私は原稿に取り掛かるわ。その際、最大限の集中を余儀なくされるからどうしても神経過敏になるの。だからちょっとしたことにも苛々してしまってね。ま、簡単に言うと性格が悪くなるからあまり話しかけないほうがいいわ。きつくあたられても気にしないのなら良いのだけど」
「そっかー。文章を書くって大変なんだねぇ…。うん、わかった。集中してるときは必要最低限の会話を心がけるよ」
心得たような新の口調に安心する。
正直、そうなったときの私は普段の五割り増しできついのだ。
出来ることなら皆近付きたくないだろうと思う。
なによりも理解できずとも納得してもらえるのはありがたかった。
なんとなく、今日になって新を拾って良かった、なんて思ってしまう。
…昨日は散々後悔したくせにね。
でも綺麗になった家の中も、なんだか気分が晴れやかになるわね。
環境って清潔に保たれると気持ちが良いもの。
「で、お願いっていうのがその間ってぶっちゃけ、原稿書く以外のことってほぼなにもしたくないっていう状態なのよ。かといって電話応対は職業柄しないわけにもいかないわ。そこで、あなたに電話番をしてもらいたいの」
「電話番?」
「ええ、そう。家には固定電話がないから携帯にすべてかかってくるんだけど。出て応対してほしいのよ」
「…でも、そんなの、なんでもかんでも出ちゃっていいの?」
「ああ、それはかまわないわ。こちらが仕事用で、こちらがプライベート用だから。分けてある方が色々と便利なのよね」
「…じゃあ、僕が出るのはこっち?」
私が取り出したのは二台の携帯電話。
仕事用に、と取り出したのはほぼ通話専用のもの。赤色だ。
プライベートの携帯電話はシルバー色。
デザインが全く違うので、間違えることはない。
「ええ、お願い。こっちはいつも執筆中、電源落としてるのよ。つながらなければ真っ最中だって皆わかってくれるから」
そういって私はシルバーの携帯を机の引き出しへと放り込んだ。
今私達が話しているのは所謂、書斎だ。私が眠る場所はまた別にある。
新には、ひとつ余っている部屋をそのまま彼に与えた。
本専用にしている部屋に入りきらなかった書物なんかをちょこっと置いてあるくらいで、その部屋はほぼ使っていないも同然だったからちょうど良かったのだ。
赤い電話を、新の手にぽす、と預ける。
「なんて言えばいいの?」
「誰だって訊かれたら私に雇われてる人間だって言えばいいわ。事務処理を任された者だとでも。とにかく私の携帯電話だってきちんと相手方に伝えてもらって。折り返し電話をすると伝えてもらいたいの。その時に名前と用件と出版社名を必ずメモとっておいて。緊急だと言われたらその場で私が出るわ。その時は呼んでもらえる?」
「うん、わかった」
「創文社と泰明社の原稿は今まさに取り掛かっている所だから、その催促電話だったら〆切には間に合うって本人が言っているって伝えてくれる?創文社は中道さん、泰明社は田野たのさんていう方が担当だから。それ以外の用件だったらさっき言ったように対応してもらえればいいわ。頼めるかしら?」
「了解です!電話ってそんなに掛かって来るの?」
「一日なんにも掛かってこない日だってたくさんあるけどね。重なる時はなぜか重なるのよ。まったく嫌んなるわ。それじゃあ、よろしく。私はこもるから」
「うん、わかった。ちょっと寂しいけど、お仕事頑張ってね」
にっこりと微笑んで、新は私の唇に軽くキスをした。
…なんというか油断ならないわね。
それとも外国の血でも入ってるのかしらこいつ。
うーん、ありえなくない。異様に整った顔立ちだし。
まあいいか。考えるのはやめておこう。
「あ、それから最後に言い忘れたけど。時々、私用の電話が繋がらないからってそっちにかけてくる知り合いもいるのよ。もしそういう手合いがいたらそれも取り次がないでくれる?そっちは名前だけ覚えておいて後で教えてくれさえすればいいわ。最悪、とりこぼしちゃっても気にしなくていい」
「え?お友達なんでしょう、いいの?」
「いいわよ。そんなんで離れてく知り合いもうこの歳になるといないから」
肩をすくめて笑う私に、新はわかった、とくすくす笑って応えた。
そうして今度こそ閉まる扉を確認すれば、私は背筋をのばして指をぽきり、と鳴らした。
…さ、仕事よ、仕事。
書斎扉を閉めた新は、少しせつなそうに息を吐く。
傍から見たらそれは恋に悩むどこぞの乙女のようにもみえて、なんとも物憂げな表情は女ばかりか男をも虜にしそうな何かが漂っている。
「思ったよりもクールというかドライというか…」
ふぅ、とぽつり呟くその言葉は果たしてどんな感情から飛び出したものなのだろうか。
その瞳に宿した光は、確かに強い色をしている。
双眸は真っ直ぐとその扉を捕らえ、しかし欲しいものは扉などではないだろう。
その中身に、彼は焦がれているのかもしれない。
いつまでもそうしても仕方がないと思い直したのか、新はぱたぱたと廊下を進み、収納スペースの整理作業をしようと意気込んだ。
「本部屋は…手を出さない方がいいだろうな。深咲さんにとって多分大事なところだろうし」
深咲は、新に掃除するのなら好きにやってくれてかまわないと告げてあった。
ただ、書斎のものは勝手に動かされると困るので、それは後回しにしてくれ、と告げている。
つまり、新が本専用の部屋を掃除しようと本来ならば文句を言われる筋合いはないのであるが、今の彼は一応そういった距離感を慎重にはかっているようだ。
『ピリリリリリ』
押入れの中身を探っていた新は、静寂を破るその音に一瞬肩を揺らす。
しかし特段ためらう様子もなく彼はポケットから携帯電話を取り出せば鳴り止まないそれの通話ボタンを押した。
「はい、こちら成島深咲の携帯電話でございます」
『え?あ、すみません、あの…?』
随分と戸惑ったような声が電話口から聴こえ、新は一瞬噴出しそうになったのか口元をおさえた。
「申し訳ございません、生憎、成島は執筆中でして電話口に出られません。ご用件ならすべてわたくしが承りますが?」
『はあ…あの、失礼ですけど、あなたは…?』
「申し遅れました。わたくし成島から事務処理の一切を任されております進藤と申します。つい先日雇われたばかりで至らない面も多々あるとは思いますが、どうぞよろしくお願い致します」
『ああ、そうだったんですか!助かりますよ、先生真っ最中はいつもピリピリしてらっしゃるんで。こちらもタイミングが難しくて』
電話口から明るい笑い声が届いてくる。
それをきいてなにを思ったのか、新は苦笑していた。
「ええ、聞き及んでおります。色々とご不便をおかけしますが、これからはわたくしが窓口役として立たせていただくことになりますので、どうか成島共々、末永くよろしくお願い致します」
『とんでもない!先生の作品を心待ちにしている読者は少なくありません。このくらいなんともないですよ。こんなしっかりとした方を雇っていただいて良かった。こちらこそよろしくお願いします』
そうして言われた事をメモに残し、ふ、と新は安堵の息をもらした。
「深咲さんてひょっとしてすごい売れっ子なのかな…」
ぽつ、と呟いた独り言はしかし誰にきかれるでもなく、部屋に響いて消えるだけである。
先程深咲が言っていたどちらの担当でもなかったので、内心、新は驚いたようだった。
しかし安心したのも束の間、またもちゃぶだいにある携帯電話が着信音を鳴り響かせ、新は目を丸くする。
ふうっとまた息を吐き、新たは通話ボタンを再度押す。
「はい、こちら成島深咲の携帯電話でございます」
『あ?誰だアンタ』
なんともくだけた言葉遣いが耳に入り、新たは面食らう。
それも無理はない。なんせこの携帯電話は仕事専用だ。
電話相手が皆改まった態度であると思うのが常であろう。
ひょっとして個人的な知り合いのほうだろうか?
新は少々戸惑いつつも、先程と同じ口上を述べれば電話相手の声色がどんどん不機嫌なものになっていく。
『そんな事一言もあいつから訊いてないぞ。おい、成島に変われ』
「申し訳ありませんが、成島は執筆中です。緊急ではないのでしたら電話はお取次ぎしかねます」
『私用の切ってるんだから仕方ないだろ!いいから変われ緊急だ!』
「…失礼ですが、緊急というのは、あなた個人が成島にお話があると言うことですよね?」
『それがどうした』
「もしそうなのでしたらやはり出来かねます。あくまでも緊急というのは仕事上の話ですので。私用電話はすべて取り次ぐな、と成島から固く禁じられております。わたくしの立場上あなたとの電話を取り次ぐわけには参りません」
『…チッ』
舌打ちを最後に、電話がぷつり、と途切れた。
さすがに不快だったのだろう。
新はあからさまに眉間に皺を刻みつつ電話を睨みつけていた。
「…誰だよ。彼氏いないっつってたよな深咲さん。僕をさしおいて親しげなのがすごいむかつく」
おっと、どうやら不機嫌の理由は違ったようである。
恋する青年のなんと狭量なことであろうか。
それ程、彼女にたいする想いが強いということなのか。
しかし深咲は現段階でそれを知ることも信じることも出来ないだろう。
それからまた連絡がくるかもしれないと、しばらく携帯電話を気にした様子の新であったが、
2時間もすればそれも忘れ、各部屋の整理に没頭し始めていた。
時計を見れば、12時を回ったところで、新はなにかに気付いたように目を丸くすれば、慌しく台所へと駆けて行った。
どうやら、深咲の昼ごはんを用意するのを忘れていたようだ。
台所で鼻歌でも始まりそうな程上機嫌になりながら、冷蔵庫から適当な材料を取り出せば、リズミカルな包丁の音が台所に響き渡った。
『ピンポーン』
新の大事な仕事を中断させた音が気に入らなかったのだろう。
訪問者を告げるその玄関チャイムに新は眉を顰めた。
昼時に訪ねてくるなど、なんと非常識な人間だろうかと思ったのかもしれない。
新は不機嫌顔をそのままに、玄関の扉をがらりと開けた。
「はーい、どちらさま」
「…さっきの電話の声だな」
「!」
無愛想な声は、訊かずとも分かる、先程の舌打ちをして切ったなんとも失礼な電話相手だった。
新は先程の不機嫌さとは打って変わって、相手を確認した途端にっこりと微笑んでみせた。
「ご用件は?」
「成島は書斎だろう?勝手に上がらせてもらう」
「!ちょっと待ちなよ」
新をのけてそのまま玄関へと入ろうとしたのだろう。
しかし新とてはいどうぞ、とそれを許す性分ではないらしく両腕は組んだ状態で、扉に右足をつっかけつつ、目の前の見知らぬ男の侵入を阻んでみせた。なんとも柄の悪い通せんぼだ。
「…なんのつもりだ?」
「それはこっちの台詞だね。さっきといい失礼なひとだな。礼を失くすとはよく言ったものだね?舌打ちして電話を切るなんて、いい大人が果たしてする事かな」
「それこそお前に言えた義理か?なんだその足は。いい大人のすることじゃない」
その言葉に、新は鼻で笑ってみせる。
どうやら彼の中で、目の前の男性は気に入らない認定をされたらしい。
それこそ、好かれるようなことはなにひとつしていないのだから、当然といえば当然かもしれないが。
「僕はね、雇い主に忠実なだけさ。話があるんならちょっと待ってくれない?今お昼ごはんを作ってる所だ。もうすぐ深咲さんは昼休憩に入るからそのときに話せばいい。おとなしく待てないんなら今日は帰ってもらうよ」
「…居間で待っていればいいのか」
「どうぞ?」
にっこりと微笑んで新が客人を招いた。
その様子が気に入らないのだろう。
新を睨みつけながら訪問者である男は乱暴に靴を脱ぎ捨て居間へと向かった。
新は別段それを気にする様子もなく、台所で続きの作業を開始する。
切った材料を火にかけて炒めたり、また新たな食材を出したりとくるくる動き回っている。
「…おまえ、どこかでみた顔だと思ったら一昨日の男か?」
「今更。佐倉さんってあなたのことでしょう?声だけじゃわからなかったけど。姿見て安心したよ。目の前で男を引き連れていくのを黙って見ていたって事は彼氏じゃないんでしょ?深咲さんも腐れ縁って言ってたけど」
「…まあ、そうだが。戦友とでも言おうか」
「ふぅん?砂糖とミルクは?」
「結構だ。…お前、男にしとくにゃもったいないな」
くす、と笑う佐倉に、新は肩を竦めて見せる。
目の前にはブラックコーヒーと、灰皿が置いてある。
まだ佐倉は煙草を取り出してはいなかった。
「スーツから匂いがするし、胸ポケットが盛り上がってるから。馬鹿でもない限りわかるよ。お客様にお茶をお出しするのは僕の仕事だしね。そっちの趣味はないからお断りするけど」
「安心しろ、俺にもない。…そうか、成島の奴、本当にお前を拾っていったんだな」
「そうだね。…心配?」
ちら、と新は佐倉の顔をみつめた。
整ったどちらかといえば可愛いその顔が、大人の男である佐倉と視線を合わせるその様は、なんだか倒錯的といえなくもなかった。
意識が途切れたのを感じたのはつい先刻。
私はきゅう、と腹の虫が鳴ったのを耳で確認した。
そういえばもうお昼時なのねぇ。
集中しちゃうとそういう意識飛んじゃうけど珍しく頃合の時間に覚醒できたわ。
新はなにか用意してくれているだろうか。
頼んだ電話番も、そつなくこなしてくれたかな。
正直、彼には出来ない事がないように思えてしまっていて、ついついあんな任務を課してしまったのだけれど。
…短い期間に彼をそんなにも信用してしまったという事なのか。
それとも私自身がいいかげんなのか。
きっと半々だろうな。
苦笑して書斎から出れば、廊下に漂ういい匂いに空腹をあおられた。
あー、お昼ごはんはなにかしら。新のご飯ってば本当美味しいのよね。
昨日の焼きおにぎりとスープは絶品だった。
シメにおにぎりをくずして入れるとおかゆっぽくなって美味しいんだよー、なんて言うから試してみたらそれがまたもう最高で。
胃にもやさしくて本当言うことなかったなぁ。
「あら…」
た、と言おうとしたところで固まってしまった。
視界にうつった茶の間の様子があまりにも非現実的だったからだ。
私の家の中で、なぜかそれぞれ系統の違う美男子ふたりが、まるでそこだけ別世界であるかのように熱く見つめ合っていたのだ。
…夢とかじゃないわよね。