あとりえ透明
「ラテアート」
「ともちゃん。あたしね」
「ともちゃんを利用したんだ」
「もうあたしを愛してくれる人はいないから」
「あたしには画材しか残ってないから」
「画材しか愛してくれないから」
「ねぇ、誰かあたしを愛してよ」
「絵美さん」
「いないよ、そんなの」
「だって、絵美さんが自分を愛してないじゃん」
「誰も愛そうとしてないじゃん」
「あなたは誰でもよかったの?」
「あなたは誰に愛されたいの?」
「うーん、やっぱり、世の中はむつかしい」
「あたしにはむつかしすぎるや」
「だから」
「手伝ってくれる?」
***
「もー、心配しましたよ」
絵美さんの目が見えなくなって『あとりえ透明』が閉店していると聞いたのは事件から三日後、愛理ちゃんから由理を通じての又聞きだった。
「いちかちゃん、お見舞いきてくれたんだー。ご心配おかけしましたー」
澤さんに病院を聞いて、個室病棟で持って来た切り花を松島さんに渡す。
「入院って聞いたから、手術したのかと思いました」
「視力が完全になくなったからねー。検査と生活リハビリー」
「『あとりえ透明』やめちゃうんですか?」
「うーん、画材はまだ残ってるしーどうしよっかなー」
「目が……もう見えないんですよね?」
「うんー、それが問題なんだよねー」
私は絵美さんの手を取ってあるものを握らせた。
「えーっと、これは筆……じゃない、銀串だねー。結構いい奴ー。どしたのー?」
「日雇いバイトで買ったんです。私を雇ってください!」
「へ?」
声を上げたのは松島さんだった。
「ラテアート教えてください!」
「ばかだなーいちかちゃんー。目の見えない人にラテアートなんて……あたし……もう……」
スティックを指でなぞりながら絵美さんは笑う。
「うーん、こまったなぁー。どーしよー」
絵美さんは見えないはずの視線を私と松島さんに向ける。
「まだあたし、絵を描きたい」
眉をひそめながら、困ったように笑い、そして俯く。
「きっとあたしが生きてる間に、もっといろんな画材が出来て、いろんな絵が出来て、それを全部、見れなくていいから触りたい。ダメかなぁ。無理かなぁ。それに一生付き合ってくれる人はいないかなぁ」
松島さんは絵美さんの頭に手を乗せた。
「馬鹿言わないでよ。専業主婦の夢が壊れちゃうじゃない」
「いいじゃーん。カフェ店長の兼業主婦で。えっとー今の結婚相手の目標年収いくらだっけ?」
「……五千万……」
「無理だねー」
「無理ですねー」
「うるさい!いるかもしれないでしょ!」
「で、私は採用ですか?」
「店長に聞いてー」
「一人くらいなら雇えるかしら。放課後と休日よね。時給は……1000円くらいでどう?」
「はい。十分です」
「じゃあ、手続きしておくわ」
「あ、これ、履歴書と免許証です」
「しっかりしてるなー」
「そういえば、絵美さん『侑那』って通名なの?高校時代からそうなってたから、本名だと思って従業員登録してたわよ。本名違うんだったら本名で登録しないと税金還付とか後々厄介に……」
「うんー、お願いー。本名は進藤絵美。でも絵美って名前も嫌いなんだよねー」
「じゃあ、好きな名前決めてよ。登録を『進藤絵美』にして、呼ぶ時はそっちの好きな名前で呼ぶから」
「でもねー嫌いだけどねー『えみさん』って呼ばれ慣れてるんだよねー。そうだ。『笑』って書いて『えみ』はどうだろー?」
「いいわよ。じゃあ『進藤笑』でいい?」
「カッコワライ、みたいですね」
「いいのー。わーい、新しい名前ー。嬉しいなー。進藤って呼ばれるの何年ぶりだろー」
絵美さん……いや、笑さんは子供のようにベッドの上を転げ回った。
「あと笑さん、これ見せようと思って。福祉学科の先生に教えてもらって作ったんです」
私は一枚のカードを取り出す。
それは最初にあとりえ透明に行ったときに作ってもらった会員証。何を描けばいいか分からず、ずっと白紙のままだった。
笑さんは手に持たされたそれをなぞり、驚いた表情をする。
「これ……点字?点字だけじゃないね。シーリングワックスも貼ってる」
『あとりえ透明』の字にかぶせて点字を打ったのだ。自分の名前のところには下手くそながら薔薇の絵の封蝋を作った。
「これなら笑さんにも分かってもらえるでしょ」
「うん、分かる。すごいね、いちかちゃん」
笑さんは何度も何度もその点字をなでていた。
「ねぇ、ともちゃん、いちかちゃん。目が見えなくなるって全部真っ暗に見えるって思ってる?」
「へ?うん」
「違うんですか」
「違うよー、黒に慣れるとねー、そのうち全部無色に見えるのー。暗闇じゃなくて全部がない世界ー。透明の世界ー。だから『あとりえ透明』」
「透明に……」
「それを知ってて……」
笑さんはまたケラケラと笑う。
「目が見えなくなって初めて見える色があるんだよー」
その日から私は『あとりえ透明』のアルバイトになった。