Artist Web Siteたけてん

あとりえ透明

「パレットナイフ」




 「絵が美しい」という自分の名前が嫌いだった。
 


 誰に言っても厭味だと思われるから言わなかったけど、あたしの絵は美しくなんかない。
 


 両親が画商だった。家には仕事で手に入れた珍しい画材と貴重な絵で溢れ返っていて、小さい時から文字を覚えるよりも先に絵の描き方を教えられた。小さいころから遊ぶのは人形でもボールでもない、画材だった。
 それでもあたしは小学まで割と普通の子どもだった。学年に一人はいる絵が上手い子、ってレベルだ。
 変わったのは中学に入ってからしばらく経った頃だった。
 勉強が苦手なあたしは中学の授業について行けず、いつも先生から怒られてばかりいた。
 絵を描くのことだけが救いだった。すぐに授業には出ずに美術室にこもるようになった。
 そこで、出会ったのがけんじせんせーだった。
 新任のけんじせんせーは、あたしが授業をさぼって絵を描くために美術室の隅に棚で小さな囲いを作ってくれた。これで外からは見えない。誰にも気づかれず一日中絵が描ける。テストの前は勉強も教えてくれた。
 むつかしいことばかりの中学の中でけんじせんせーだけが味方だった。
 一年の二学期が始まったころだった。
「画展?」
「ああ、先生の昔の先生がね、若い参加者がほしいって」
「えっとーそれはむつかしいことかなー」
「難しくないよ。進藤さんはただ絵を描いてくれればいい。書類や梱包、発送は全部先生がやる」
「うんー、じゃあいいよー」
「名前は本名でいいかな?」
「やだー本名はずかしいー。進藤絵美なんてありがちな名前だしー。なんかきれいな名前がいいー」
「そうだなぁ、じゃあ先生のおばあさんの名前はどうかな、『侑那』っていうんだ」
「しんどうゆきなー。うーん、なんかもにょっとするー」
「じゃあ、侑那絵美。これでどうだ?」
「あー、それはいいねー。ゆきなえみーかわいいー」
 


 その日から あたしは 侑那絵美に なった。
 


 画展は大賞だった。
 生まれて初めてパーティーというのに出た。
 おとうさんはドレスを作るって言ったけど、せんせーは制服で出るのが一番だって言った。
 けんじせんせーに言われた。
「ただ笑って『ありがとうございます』って言えばいいんだよ。笑顔だけは絶やしちゃいけない」
 



 大きなホテルの広間で開かれたパーティーは別に楽しくなかった。
 いっぱい写真を撮られた。
 いっぱい名刺をもらった。
 雑誌の人にインタビューもされた。
 美味しそうなものが並んでるのに、ほとんど食べられなかった。
 いろんな人に「ありがとうございます」ってずっと言ってた。
 


 中学の間、学校ではずっと絵を描いていた。
 担任の先生も、クラスの子もだんだんと何も言わなくなった。
 日曜日がほとんど取材やパーティーでつぶれるのは嫌だった。
 何の賞をいくつもらったか数えるのはすぐに飽きた。
 ただ、おとうさんとおかあさんとけんじせんせーがほめてくれるのはうれしかった。
 


 高校にはどうやって進学したかあんまり覚えていない。
 おかあさんは美術で有名な私立の高校に入るべきだと言っていたけど、けんじせんせーが公立の方がいい。私立の有名な学校だとお嬢様のイメージが作られてしまう。とか説得していた記憶はある。後から思えば、勉強の全然できない私がそこそこ頭のいい公立高校に入ることができたのは、特待生とか推薦とか、そういうのの扱いになるように、けんじせんせーが他の先生にとりなしてくれたのだろう。
 高校は楽しかった。勉強をしなくても皆、優しかった。
 けんじせんせーが三日に一度は放課後に会いに来てくれた。取材にも付き添ってくれた。
 自分の口座を作るように言われた。みるみるうちにお金が増えて行ったので、好きな画材を好きなだけ集めることができた。
 


 大学には無試験で美大に入れた。
 あたしよりも絵の上手い人がいっぱいいた。
 でもいつもほめられるのは私だった。
 ともだちはできなかった。
 ひたすら絵を描いてすごした。
 雑誌や新聞に載るのも当たり前になってきた。それでも、取材にいつもけんじせんせーはついてきてくれた。
 


 大学三年生になって皆が就職とか大学院とか言い出して来たころだった。
「卒業したら結婚しよう」
 けんじせんせーがそう言ったのは。
「うん、いーよー」
 結婚したかったわけじゃない。一人でもお金は稼げたし、さみしいと感じたことはない。
 ただ、けんじせんせーならいいかなって思った。
 


 せんせーって呼ぶのは変だと言うことで「けんじせんせー」は「けんじさん」になった。
 あたしはやっぱりむつかしいことは苦手だ。
 おとうさんとおかあさんは手放しで喜んでくれた。
 やっぱりいいことをしたんだと嬉しかった。
 けんじさんの両親は死んじゃっていて、兄弟もいなかった。
 


 結婚式はしなかった。
 呼ぶともだちがいなかったから。
 けんじさんにはともだちはいたのかもしれないけど、何も言わなかった。
 取材に来る人には特に隠していたわけではないけど、戸籍の名前が変わっただけで絵を描く名前は『侑那絵美』の名前だけだったし、けんじさんと一緒にいるのは中学のころからだったので、気づく人はほとんどいなかった。
 


 あたしの貯金でそこそこ大きなマンションが買えた。奥の一室を自分の『アトリエ』にしてもらえた。
 絵を描いていても安定した職は必要だろうと、けんじさんは先生を辞めなかった。
 あたしは料理をしたり、掃除や洗濯も覚えた。きちんとやったことはなかったけど、頑張れば覚えられないことではなかった。空いた時間で絵もいっぱい描いた。学校に行ってるよりよほど楽しかった。
 休日はけんじさんに車でいろんなところに連れて行ってもらった。外に出るのは苦手だったけどいろんなものを見ていろんなものが描けるようになった。いろんな画材屋さんにも行った。
 楽しかった。
 すごく楽しかった。
 そして
 絵が少しずつ売れなくなった。
 


 分からなかった。
 何故か分からなかった。
 おとうさんに聞いても
 おかあさんに聞いても
 けんじさんに聞いても
 言ってくれた。
 ただ「がんばれ」って。


 
 がんばらなきゃ。
 がんばって絵を描かなきゃ。
 がんばって売れる絵を描かなきゃ。
 がんばらなきゃ。
 


 ある日、美術部の部長だった京子ちゃんからメールが来た。
 京子ちゃんは有名な大学の医学部に行って、それ以来会っていなかったけど、今度就職する病院に飾る絵を探していると言う話だった。私は喜んで指定された喫茶店に行った。
 あたしは席に座ったスーツ姿の京子ちゃんを見てすごくびっくりした。
 京子ちゃんの膝に赤ちゃんが乗っていたからだ。
「できちゃった婚なんだけどね。生徒会長だった澤くんと。学校卒業した途端、妊娠が分かってどうしようかと思ったんだけど産んじゃった。もうすぐ一歳になるからそしたら保育所に預けるわ」
 うらやましかった。
 こんな幸せもあるのかと。
 京子ちゃんがひどく輝いて見えた。
 


 あたしはけんじさんに言った。
「子供がほしい」って。
 けんじさんは ただ ゴミクズを見るような目で 言った。
「自立も出来てないくせに」
 


 あたしは だめな奴だ。
 絵を描くことしか出来ない。
 絵を売ることも出来ない。
 お金も稼げない。
 役立たずだ。
 役立たず。
 役立たずだ。
 役立たず。
 役立たずだ。
 役立たず。
 役立たずだ。
 役立たず。
 役立たずだ。
 


 ある日、成瀬さんという画商さんが声をかけて来た。
「君の個展と画集の企画があるんだ。僕の一存で何とでもなる」
 あたしはさほど考えなかった。
 


 だって 絵が 売れるんだから。
 


 すぐにけんじさんとおとうさんとおかあさんにバレた。
 個展と画集は予定通りに行われたが、成瀬さんとは連絡がつかなくなった。
 


 個展が終わった途端、けんじさんが引っ越しの準備を始めた。
 何が悪かったんだろう。
 決まってるね。
 あたしだね。
 突然十五年以上前に言われた言葉が浮かんで来た。
 それは けんじさんが優しかったころの話。
 


「ただ笑って『ありがとうございます』って言えばいいんだよ。笑顔だけは絶やしちゃいけない」
 


 ああ、そうなんだね。
 うん、わかった。
 


「……ありがとうございました」
 


 笑って言った。
 途端だった。
 けんじさんが あたしの頬を ありったけの力で叩いた。
 


 分かんないよ
 なんでみんな怒ってるの?
 あたしの何が悪かったの?
 何がよくて何が悪いなんて だれも教えてくれなかったのに
 あたし頑張ったのに
 すごく
 すごく頑張ったのに
 怒らないで
 あたしが悪いの?
 悪いならあやまるから
 あやまれば
 ううん
 あやまっても
 ゆるしてもらえないかな
 どうすればよかったのかな
 教えてほしかったなんて
 あまえてたのかな
 絵を描いたのが悪かったのかな?
 おとうさんとおかあさんが絵を教えてくれなければよかったのかな?
 ううん
 悪いのは あたしだ
 人のせいにしちゃいけないって
 けんじさん言ってた
 ねぇ  私は どう すれば   よかったの か    な 
   目が  こ  ん   な目な     け ればよか った?
 


「うーん、困ったなぁ」
 あたしはゆっくりとした足取りで画材の引き出しを開ける。
 パレットナイフを取り出した。
 むかし、おかあさんが買ってくれたチェコ製のパレットナイフ。持つところにちいさな花の絵が描いてあってお気に入りだった。
「な、何をする気だ!」
「そんなもので、俺たちを刺せるとでも思ってるのか!」
 


 なにをいってるのかなぁ
 悪いのはあたしだって
 みんないっぱい言ったじゃない
 


 あたしはパレットナイフを右目に掲げ、突き立てた。
 


 それ以降のことはよく覚えてない。
 気づいたら病院のベッドで横になっていた。
 集中治療室って言うのかな。
 視界が狭い。
 ゆっくりと左手で右目を触ると包帯がぐるぐる巻かれていた。
 


 お医者さまは丁寧に説明してくれた。
 治療には半年くらいかかるってこと。
 視神経まで傷が出来ているので数年で左目も見えなくなるってこと。
 人工の眼球を作れば、見た目は普通とほとんど変わらないようにできるってこと。
 おとうさんも、おかあさんも、けんじさんも、もうあたしには会いたくないってこと。
 集中治療室を出てすぐに、代理人を名乗るむつかしい顔をした人が離婚届にハンコを押すように言ってきた。
 当然だと思う。
 


 絵を描かないあたしなんかに価値はないんだから
 


 ああ、終わっちゃったんだ。
 病室で変わらない景色を眺めながら、あたしが思ったのはたった一つ。
 


 今まで置いていた画材はどうしよう。
 


 病室でいろいろ考えた。
 捨てちゃうのはもったいない。
 画材がかわいそうだ。
 でもあたしの目が見えなくなるまでに使い切れるとは思わない。
 だれか、もらってくれる人はいないだろうかとがんばって考えたけど、事情を全部話して引き取ってくれるともだちなんてあたしにはいない。
 そうだ、いないなら作ればいい。
 ともだちを作ろう。
 話を聞いてくれるともだちを作ろう。
 すべてが見えなくなるまでにいろんな人と会おう。
 それにはどうすればいいだろう。
 みんなで絵を描くお店を作るのはどうだろう。
 いっぱい人が集まって、あたしの、あたしがもう使えない画材を使ってくれれば
 


 それは なんて しあわせなことなんだろう。
 


 お店をひらくにはどうすればいいんだろう。
 たぶん、いっぱい書類とか書いたり、むつかしいことをしなきゃいけない。
 そういうのが得意な人はいなかっただろうか。
 そんなしっかりした人なんて
「ともちゃん……」
 高校の美術部で予算が合わないってよく怒られた。いつもいっぱい数字の書いてある書類を持って走り回ってた。めがねのよく似合うともちゃんなら
 ともちゃんなら
 あ、でもダメだ。
 連絡先がわからない。
 あたしが高校の頃は携帯電話なんてほとんどの人は持ってなかったし、卒業名簿はけんじさんが持って行ったままだ。
 


 入院中も絵を描き続けた。
 売れる絵はもう必要なかったのに、また絵が売れるようになった。
 個展と画集のおかげか、絵が変わったのかは分からない。
 退院して季節が二回りして、文字を見るのもむつかしくなってきたころだった。
 高校の生徒会長だったさわくんからハガキが来たのは。
「同窓会のお知らせ」
 そこには大きな字でそう書いてあった。
 


 同窓会に行くと、視力の落ちてきている目でも、ともちゃんはすぐに分かった。
 お化粧しているが、眼鏡も黒い髪も高校の時から変わらない。
 つまらなそうな顔をしてお酒をいっぱい飲んでいる。
 


 ねぇ、最後の悪あがきをしていいかな?
 ともちゃんにはいっぱい迷惑をかけちゃうと思うけど
 おとうさん
 おかあさん
 けんじさん
 これが、あたしにできる最後のことなんだ。
 


「あたしね、ともちゃんに会いたかったの!」


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