天球儀 其の零
ep.13 三月「魚座の手紙」
試験だけあって、十二宮室にかなりの人数が揃っていた。試験は十二宮なら特に勉強しなくてもクリアできるレベルになっていた。
3科目が終わり、十二宮室には今まで学校を休んでいた葵と斉太郎もいた。しかし、小紫沙羅だけはいなかった。朝、一度斉太郎を引っ張って来たが彼を席に座らせ自分は試験開始前に帰ったらしい。
玲奈は芽々たちに言われたことを十二宮にも家族にすら言えなかった。言わなければと思いつつ、今更自分が何を言っても信じてもらえないだろう、というのが本音だった。
凛子も口にすることがなかった。芽々に聞いたところ、パニックを避けるためらしい。ごく一部の人に伝えると伝聞でどう広がるかわからないので正確な情報という証拠がない限り、伝えないほうがいいらしい。
しかし、予兆もない。本で調べた地震雲や動物の動向に気を払っていたが、それらしいものは見なかった。
ただ、なるべく学校など頑丈な建物に長くいるようには心がけた。自分可愛さと言わればそれまでだが、仕方ない。正直、自分が可愛いのだ。
悔しいが、こんな時にまで
私は私が大好きなんだ。
親より、友人より、自分が可愛い。
なんて身勝手なのか。
自己嫌悪で眠れないこともあった。
そもそもいつ部屋の天井が落ちてくるかと思えば、おちおち眠ってもいられない。
天罰だ。
身勝手に生きてきた天罰なんだ。
せめて心配はかけまいと、出来る限り明るく振る舞った。演技が苦手だったがそれなりに上手く出来たと思う。
退学になったメンバーを含めると、地震を知っているのは芽芽、凛子、高坂、市川、それに自分、追加すると館林だ。高坂と市川は恐らく避難しているだろう。そこまで馬鹿ではないはずだ。
しかし、今頃になってふとした疑心が湧き上がる。
もしかして、これは嘘ではないか。
もう3月だ。
ひょっとして、伊賀リュウイチの差金で皆がグループになって自分を騙そうとしているのではないか。
しかしそれはそれで、いい気もする。自分一人の取り越し苦労で済むのなら安い話だ。騙されてやろうじゃないか。
そもそも、テレビもネットもそんな話は聞かない。芽芽たちだけが予測できたなんておかしな話だ。
全部自分のせいなんだ。自業自得で嘘で脅された。そう思えば、死人が出るよりよっぽどマシだ。
そうだ、卒業したら伊賀に謝りに行こうか。
十二宮室は皆、次年度の十二宮の実習をしていたのだが、今日は試験中なので休みだった。とりあえず、という雰囲気で集まり、とりあえず、さほど必要のない勉強をしている。趣味の本を読んでいる者もいる。凛子と館林はしきりに携帯の情報を気にしているが、ここのところずっとだ。
凛子に聞いたところ、芽芽は神戸にいるらしい。元々そこが拠点だそうなので、向こうの方が研究が進むとのことだ。通信は試験も必須でなくレポート提出でも卒業できる。恐らくそうしているのだろう。芽芽の正体が女優の芽衣子だとは、他の十二宮にも知らせていない。
「暇だしー、今日はそろそろ解散するー?」
正午前だった。未歩梨が切り出したのは。
「そうだね、学食も開いてないし」
暁子が頷いて、それを合図に皆がおもむろに帰り支度を始めた。
玲奈は正直一秒でも長く頑丈な校舎にいてほしかった。いや、いたかった。
「私はもうちょっと残っていくわ」
何故その時「皆で残ろう」と言わなかったのが後から思えばひどく悔やまれる。
部活動も試験休みで学校に残っている人はほとんどいない。
昼に近所の弁当屋で買った弁当を食べ、一人で勉強をしていた。医学部に進むための勉強を。思えば自分のために必死に勉強するなど初めての事だった。
この春が来たら、大学生だ。
そう、この春が無事に着たら。
14時を少し過ぎた頃だった。
突然世界が揺れたのは。
玲奈は驚いて思わず身を伏せた。
しかし、思っていたほど、大きな揺れではない。
数分で収まり、ホッと息をつく。
これが凛子の言っていた地震なのだろうか。胸を撫で下ろすと、携帯が鳴った。芽芽のアプリだ。
『今すぐ避難しろ』
たった一言、芽芽からだった。
避難と言ってもどこに行けばいいのか。とりあえずここは鉄筋コンクリート建ての学校だし、倒れるような棚も固定してある。さほど問題はないだろう。
「!?」
そう思った矢先に、更に大きな揺れが襲ってきた。
これか?芽芽たちが言っていたのは。
思わず机の下に身を伏せる。
反射的に携帯を握りしめた。
十二宮室は二階だが揺れが長い。大丈夫だろうか。
数分経っただろうか。揺れが収まる。しかし、余震があるかもしれない。玲奈は机の下に居続ける。
すぐに携帯が鳴った。
『みなさん、大丈夫ですか』
ミナトからだった。
『千条姉妹、一緒に図書館にいたので大丈夫ス。周りはパニクってるけど怪我はないスよ』
『ミナト、バスの中なんですけど、出たほうがいいですかね?』
『久都です。無事です。バスなら運転手さんに全員下ろしてもらってなるべく高い建物のないところに行ってください』
『取石葵、無事。妹と連絡つかないんだけど図書館とかいないか?』
『葵クンの妹の顔なんて知らないよ~。でも中では怪我してる人とかいないよ~』
『初めまして、永戸譲の妹の滋と申します。兄の携帯の電波が届かない状態なんですが、どこにいるかご存じの方はいませんか?』
『滋ちゃん、譲、電車で帰るって言ってたぜ』
『関東と東東北の電車はほぼ全線止まっているようだ』
『芽芽クン?大丈夫?』
『大丈夫だ。早めに水と保存食の確保を。それから携帯の充電器』
『携帯の充電器ってどこで売ってるの?』
『コンビニや電機屋さんにあります。ただ在庫があまりないと思うので早めに』
『てか図書館入り口自動ドアだから開かないんじゃ?』
『係員さんに言えば手で開けてもらえますよ』
『それがさ、係員さんも混ざって机の下にいる状態だから~。本が落ちてきたら危ないって~』
『皆、沙羅がどこにいるか知らないか!?』
『剣くん?』
『沙羅ちゃんは早退したでしょ?家じゃない?』
『今、家に行ったら帰ってないんだよ。実家の方にもいないって』
「って言ってるけど、どうする?小紫?」
携帯の画面をオフにして道路の脇で座り込んでいたのは葵と沙羅だった。
「…………せーちゃんが無事でよかった。まだ私のマンションにいるかな?だったら帰ろうかな…」
「それで、お前は結局剣と暮らすのか?」
「うん……だってそれしかないんだもん。心配して病院連れて行ってくれてありがとね」
言って消毒の匂いと混乱が広がる病院を人波に逆らって、沙羅はとぼとぼと歩き出した。
「なんか、大変なことになってますね。大丈夫でしょうか」
「大丈夫だよー。でも電車が動かないのは困ったねー。ごめんねー金城のところ行くの付き合ってもらったせいでー」
「いえ、こちらこそ申し訳ありません」
譲と椿は住宅街にいた。
とりあえず広めの公園で立ち止まっている。周りには同様の住民が大勢いた。
「俺の携帯、充電も切れちゃったしねー」
「私がアプリを入れておけばよかったんですが、機械はどうも苦手で…ここは電波も悪いですし…。申し訳ありません」
「椿ちゃんが気にすることはないよー。でもどうしたものかなー」
しばらく余震が続いたが、じっとしていても仕方ない。その時だった。
校内放送の非常回線が響き渡ったのは。
『十二宮山羊座・久都凛子と申します。専門機関の予測の結果、あと5分は大きな余震は起こりません。至急、校舎から遠い場所…グラウンドに集まってください。譲り合って、慎重な避難をお願いします』
久都の声に玲奈はゆっくりと部屋から出た。
とにかく一人でいるのが不安だった。
蛇遣座の使っている会議室に向かう。ドアは開いていて、館林が一人、床に倒れていた。頭から血を流している。慌てて玲奈が駆け寄る。
「わた…り……会長……」
「館林!」
「だい…じょ……ぶ……です…か…?」
「何であんたが私の心配してんのよ!?馬鹿じゃない!?」
「あはは……ばか…ですね……」
館林はうっすらと目を開け苦笑した表情を作る。
「頭打ったの?」
「いえ…棚のガラスが割れて…破片が…頭に…」
どうすればいいんだろう。分からない。
「とりあえず…擦れただけで……刺さってはいません……えっと…こんなこと……お願いするの…なんですが……少し…頭を持ち上げてて……もらえませんか?」
「頭?う…うん」
玲奈は頷き、床にガラスがないことを確認し、自分も床に座る。館林の頭を軽く持ち上げ、膝の上に乗せる。
館林が苦しそうに笑った。
「……こんな時なのに…嬉しいなぁ…」
「何言ってんの!」
「だって……もう…覚えてないですか…?……俺が会長のこと…好きだって言ったこと……」
「覚えてないわよ!覚えてないから、これが終わったらもう一回告白しなさい!」
その言葉に微笑し、ゆっくり目を閉じた。
どうすればいいんだろう。どこに連れて行くか、そもそも動かさないべきなのか……。
うろたえていると扉が開いた。見たことのない少女だ。アッシュグリーンの髪を後ろに束ねている。
「初めまして、亘会長。高坂南と申します。高坂累の妹です。兄に成り代わりまして様子を見に参りました」
突然現れた少女は館林の横に膝を立て座ると、背負っていたリュックから包帯や消毒を取り出した。
手際よく見たことのない種類の液体絆創膏を塗り、ガーゼで覆い、手慣れた様子で包帯を巻く。
「あなたは…」
「来月から入学予定の者です」
「高坂くんはどうしてるの?」
「東北です。連絡は付きませんが、おそらく今は津波に向けての避難誘導をしていると思います」
「それって危ないんじゃ……」
「危ないですよ。でも兄の意志ですから」
館林の一通りの処置が終わると、高坂南は立ち上がった。
「私は一通り学校を見て回ってきます。間取りは兄から教わっていますので。それから、これ」
胸ポケットから一枚の封筒を出した。
「兄からです」
両手で受け取り、白い封筒をじっと見つめる。
南は一礼して、部屋を走って出た。
自分はなんて無力なんだろう。
何もできない。
ゆっくりと封筒を開けた。
メモ帳の切れ端を破ったような紙が一枚入っているだけだった。
一言
ただ一言
「お前は生きてるか?」
生きてるよ。
醜く、みっともなく、しぶとく、生きてるよ。
ねぇ、あなたは生きてるの?
ねぇ、みんなは生きてるの?
「館林!逃げるわ……」
と言いかけた途端、またしても大きな揺れが部屋を襲った。
「小野さん、大丈夫ですか?」
『はい、道場の皆様ももちろん会長も大丈夫です。公民館を借りての対外試合の打ち合わせ中だったので。もし帰られていなかったらそちらに連絡お願いします』
ナルの手を引きながら逃げるまゆりは携帯のアプリで香歩子に話しかけていた。
『未歩梨と暁子さんは大丈夫でしょうか?』
「図書館にいるらしいわ。大丈夫だと思う」
「あの…中務さん……このアプリ図書委員のグループがあるんで……よかったら聞きますが……」
後ろから息を切らせて走ってくる真人が自分の携帯を指さした。
「香我美くん図書委員?」
「はい」
「じゃあ、千条姉妹はいるかって聞いてくれたらわかると思うわ」
「落ち着いてください!階段はゆっくり!」
誘導する凛子の頬に一発の硬い拳が浴びせられた。
「うるせぇ!それどこじゃねぇんだよ!死んだら責任取れんのかよ!十二宮様!」
凛子より二回り体の大きな男子生徒が怒鳴りつける。それでも必死に睨みつけると二発目の拳が振り上げられた。
が、下りなかった。細い腕が軽々とその腕を押さえつけていた。
そして、そのまま投げ飛ばす。男子生徒は床に放り出された。
そして仁王立ちしているのは長い黒髪の女生徒だった。
「っせーんだよ。非常時なのは全員なんだよ。じゅ・ん・ば・ん・は・ま・も・り・ま・しょ・う・ね。センパイ」
自分に集まる視線を感じて少女は慌てて顔を隠し、人並みを躱すように逃げていった。
「おい…あれ……華道部の……」
「……矢井田……桂子……?…」
人のごった返す公園でミナトは腰を下ろしていた。
喉が渇いたが電気が止まっていて自動販売機は動かない。コンビニは危なくて入れそうもない。
携帯の充電より体力の残りが心配だ。バスを降りたが、ここから家まで歩ける距離ではない。
「みなと いきてるか」
声をかけられ、顔を上げる。
「夏希?」
そこに立っていたのは辻夏希と妹尾亮良だった。
「いえに こい。いまなら くそおやじも いない」
「でも…」
「いいから わたしは みなとの いもうと だろう」
差し出された小さな手は小刻みに震えていた。
ミナトはかぶりを振る。
「無理するな、夏希」
夏希、俺は一人で生きていくから。
お前は大切な人といればいい。
「みなと わたしは」
「夏希…ミナトは…俺は」
ここで夏希を生かす選択をしなければいけない。
だって、夏希。お前にはほら、隣にそんなにも思ってくれる人がいるじゃないか。
「俺はお前のことが大嫌いだった」
それに気づいて生きていてくれれば
「辻さん…ミナトさん」
ミナトは手をぐいと引っ張られた。夏希のものではない、ゴツゴツとした大きな手。顔を上げると亮良が微笑んでいた。亮良の左手に自分の右手が繋がれ、彼の右手には夏希の手がしっかりと握られている。
「探しましょう。誰も不幸にならない道を。時間はかかるかもしれない。俺は夏希に笑っていてほしい。ミナトさんにも悩んでいてほしくない」
両手に力を込め亮良は笑った。
「そのためなら、俺も微力ながらお手伝いします」
「沙羅!」
人波に逆行して斉太郎は走って叫んでいた。
「沙羅!どこだよ!?」
どこに行けば会えるのだろう
思えばずっと自分の後ろをついてきてくれた
自分から探したことはなかった
沙羅のマンションの部屋に行ったが鍵が閉まっていた。エレベーターが動かないので非常階段を降りる。
ゆっくりと上ってくる音がした。
何故だろう、足音で分かった。
確かに分かったのだ。
「沙羅!」
その時、大きな揺れが襲い、斉太郎の体は5階半ばから投げ出された。
「せー……ちゃ…ん……?」
ねぇ、私
せーちゃんがいれば、なんでもできたよ
なんにもこわくなかったよ
私、私ね
葵くんのことも好きだけど
やっぱり
せーちゃんと
地面に落とされた四肢はあらぬ方向に曲がり血の海が広がる。
せーちゃんと一緒にいたかった
お願い
一人にしないで
「椿!こんなところにいたのかよ!」
メールで呼び出された金城辰哉は公園の人混みの中で椿と譲を見つけ出す。
「辰哉、ありがとう。滋のお兄様が辰哉にお詫びしたいからって家に伺おうとしたらこんなことに」
「いいから!滋は?」
「さっき、大丈夫って携帯で言ってたわ」
「そうか、よかった。永戸先輩」
辰哉は譲に向き直り、頭を下げる。
「椿を守ってくださって本当にありがとうございました」
「え…いや…こちらこそ……その…」
ためらいながら譲も頭を下げる。
「本当に申し訳なかった」
言う譲に大きなペットボトルを差し出した。椿にも同じものを渡す。
「さっきコンビニ行ったらラスト3本だったから買ってきた。大事に飲めよ」
ニカッと笑った。
それを受け取った椿と譲は再び座り込む。
「あのさ……こんな時に言うことじゃないし、椿ちゃんに言ってもどうしようもないけど……俺、やっぱり葵が好きだわ」
「はい」
「どうこうなりたいとかじゃなくて、どうしようもなく好きなんだ……」
「はい」
「気持ち悪くないの?」
「譲さん、私はですね、親友から好きな人を奪って、親友が今もその人が好きだと知っていて、その親友の目の前で男と付き合うような女なんですよ。滋がそれにどれほど傷ついているのかも知っていて。そんな姑息で卑怯な私に比べれば譲さんはよっぽど純粋で正々堂々としています」
ペットボトルの水を一口だけ飲む。
「だから胸を張って生きてください」
「椿ちゃん~。取石椿ちゃん~」
未歩梨は図書館の中を歩き回っていた。
「ちょっと、ミポリン、危ないスよ」
「だって~、取石くんの妹が~」
「だからって、私らが本の下敷きになったらどうするんスか」
「でも助けなきゃでしょ~」
「あんたら、なにしてるんですか」
「イチくん!?なんでここに!」
「大学受験でこっちに戻ってきてたんです。もう図書館には誰も残っていませんよ」
「じゃあさ~キョーコちゃんをお願いしていいかな~」
「え?」
「私行かなきゃならないところがあるんだ~」
「逃げなきゃ……いけませんね…」
館林がヨロヨロと立ち上がる。
「無理よ!」
せめてもう一人人手があれば。さっきの累の妹を引き止めておけばよかった。
「早く逃げなきゃ……せめて会長だけでも……」
「……私ってさ…どこまで無力なんだろ……何であんなに付け上がることができたんだろ……ごめん……ごめんなさい……」
自惚れてた
もうちょっと
私は強いと
思ってたんだ
「誰か~誰か取り残されてないかな~?」
外から声が聞こえた。
「千条さん!」
「あ~レナちゃんだ~ひとり~?」
「私と館林くん!館林くんが怪我して立てないの!」
外から未歩梨が引き戸を開ける。玲奈と未歩梨が両横から館林の体を起こした。未歩梨のポケットから雑音混じりの音がするのが聞こえ玲奈が不思議そうに見る。
「ああ、これ、イチくんから借りた携帯のラジオ~。情報を入れろって~」
その時、再び揺れが起き、蛍光灯のガラスが割れ、降ってくる。ガラス片が未歩梨の太ももを貫いた。白制服が赤く染まり、未歩梨がその場に倒れこむ。
「千条……さん…?」
未歩梨の右足から血が流れて止まらない。
「だい……じょぶ…だよ……早く逃げて……ね……できたら……人を呼んで……」
「し、止血?館林くん、どうすれば…?」
「……正直、俺も……」
未歩梨は、足を手で押さえてゆっくりと立ち上がった。
「ほら……大丈夫……だよ……」
口だけで笑顔を作ってみせる。
「でも……」
「行って!」
声を荒げる。
「大丈夫だから!あたしはレナちゃんの親友なんだから!」
「千条さん……」
「館林くん、会長がいれば大丈夫だよね?しっかりしてね。後から、追いかけるから……」
館林が奥歯を噛み締め玲奈の手を握り、痛みを堪え、走りだす。
その背中を見送って未歩梨は膝をついた。
ポケットから音質の悪いアナウンスが聞こえる。
『皆さん聞こえますか。芽衣子です。沿岸部の方、今すぐ高台等に避難してください。津波が来ます。繰り返します…』
「亘玲奈さん……悔しいけど……」
「ん?」
「俺はやっぱり貴女を好きになって幸せです」
なんでだろう こんなにも 苦しくて
「バカ…」
自分のバカさに 死にたくなる
「あんたは死ぬな…私が側にいてやるから…みっともなく足掻いて…生き延びろ…」
「イチくん、ミポリンだいじょうぶスかね」
「大丈夫ですよ」
「なんで助けに来てくれたスか?」
「俺のこと……」
「え?」
「俺のこと好きだって言ってくれる人を見捨てられるほど薄情じゃないですから」
「やっぱりアタシ、イチくんのこと好きスよ」
「どこがいいんスか」
「うーん、頑張ってるところスかね。一年の時そんなに成績良くなかったでしょ。でも頑張ってどんどん上位に上がってきたスよね。順位表で名前見つけた時に面白い名前だなって思ったんス。その時から心のなかでずっと『イチくん』って名づけて『頑張れイチくんー』って思ってたんス。そしたら本当に十二宮に来ちゃうし、なんでそんなに頑張れるんスか?」
「俺、高坂先輩と常磐さんに恩返ししなきゃならなかったから……それだけ」
少しだけ息をつく。
「それだけです。俺に好きになってもらえる価値はない」
「気長に待つスよ。恩返しが終わるの。アタシ気は長いスよ。で、全部終わったらアタシのこと好きになってください」
「嫌」
「なんでスか?このまま一生一人でいるんスか?」
「一人でいい」
「じゃあ、勝手に傍にいるス。イチくんがどこに行っても行く先行く先で待ち構えてるスよ。そしたらアタシはイチくんのこともっともっと好きになるんス」
「馬鹿か?」
「馬鹿スよー。アタシはどうしようもなく馬鹿スー」
「アホや……ホンマに……あんたら……みんな……」
「関西弁だ。アタシはそうやってイチクンの新しいとこ見られたらそれで幸せなんスよ」
「館林くん……私、悔しい……悔しいよ……何もできない……」
校庭に出ると大勢の生徒や教諭が避難していた。教諭が駆け寄ってくる。
「亘、館林!お前らで最後か!?」
「2階の会議室に千条さん……未歩梨さんがいます!足を怪我しています!助けてください!お願い!助けて!私の……」
大粒の涙を流しながら玲奈は叫ぶ。
「私の親友なの!」
未歩梨が二人の教諭に抱えられ校舎から運び出されるまで数十分ほどかかった。
「レナちゃん、ありがとね~」
「…………」
玲奈よりも先に暁子が駆け寄る。
「ミポリンのバカバカ!大バカ!何やってんの!病院行かなきゃ!」
「ビョーインは混んでるだろうからムリだろうな~車も動かないだろうし~」
「千条さん……ごめんなさい」
玲奈が一歩前に出て頭を下げた。
「何が~?レナちゃんは私を助けてくれたよ~。これでめでたしめでたし。さすが私の親友だ~」
「馬鹿だなぁ。千条さんは本当に馬鹿だ」
その時、玲奈の携帯が鳴った。
『小紫です。亘会長と館林くん、もしお時間ありましたら病院へ来てもらえませんか?館林くんのお家の病院です』
病院の待合室は人で溢れかえっていた。その中から沙羅を探し当てる。
「……剣くんは?」
「せーちゃんは……そのせーちゃん……重体で……目が覚めるとしても何ヶ月もかかるだろうって……それで……あの……相談なんですが……」
沙羅はガバリと頭を下げた。
「……私を留年させてください!」
「はい?」
「これからの十二宮はすごく大変になります!だからお手伝いさせてください!一年待てば、せーちゃん帰ってくるかもしれないから!お願いします!私はせーちゃんと同い年で……同学年でいたいんです!」
「……ああ」
沙羅の言葉に館林は手を伸ばす。
「ようこそ。十二宮へ」
いつも いつも 考えていた。
世の中に自分が好きな人はどれくらいいるのだろうか?
私はいつもそんなことを考えている。
そして、結局考えても分からないが必ずいるだろうという結論に達する。
要するに私は私が大好きだ。
そして、私は私が大嫌いでもある。
「でね!矢井田さんひどいんだよ!自分が家の跡継がなきゃならないから、お兄ちゃんを婿養子にしたいって!婿養子!ありえなくない!?売れっ子ミュージシャンがしかも長男が婿養子なんて!」
「母子ともに良好…と。お母さんはあまりストレスを受けないようにしてくださいねー」
「そういうことは矢井田さんに言ってよ!あー!もー!ムカつく!拓海も拓海なのよ!昨日ね…」
「はいはい、拓海くんは相変わらず感情表現が下手ねぇ。ナルは帰った帰った。六ヶ月過ぎたからって油断しないでね。そのミニスカートとヒールはやめなさい」
ボールペンを振りかざし、足元のスカートとヒールつきのブーツを指す。
「むー、まゆり冷たいー」
「あんたはホント変わんないわね」
「あ、昨日、加藤くんと加賀美くんと飲んでたんでしょ?元気だった?」
「どこで聞いたの?」
「ミホリ先輩がさっき通りがかって」
「元気も元気よ。さっさと小野さんと道場継いでもらわないと、お父さんの目が痛いっての」
「どゆこと?」
「お父さん、いまだに私に継いでほしいらしくてね。加藤くんと私が結婚するんじゃないかって狙ってるの。小野さんに迷惑ったらありゃしない」
「加藤くんと?ありえない~!」
ナルは大声をあげて笑う。
「そうよね。ありえない…」
「中務先生。次の患者さんが控えているので…」
「あ、ごめんなさい。じゃぁ、薬だけ出しとくから」
「はいはい~、じゃあね~。あ、今晩忘れないでね」
「わかってるって」
診察室が閉まるのを待って玲奈はまゆりに背後から抱きついた。
「なになに?どこに行くの、まゆりちゃん?」
「レナ先輩!外科から遊びに来たんですか!?」
「うん、いい予感がしたから来ちゃった」
「いい予感って……飲み会とかじゃなくて、大体ナル妊婦ですし、取石さん……椿ちゃんの十二回忌だから集まろうって」
「あ、そっか、ごめん。でもそれなら私も行きたいな」
「姫先生~、今日は夜勤です~」
背後から気配もなく現れたナース姿の女性が玲奈の首根っこを捕まえた。
「未歩梨!何でここが…!?」
「姫先生の~行くところなら~ゴビ砂漠の真ん中でも~探し当てるのが~私の仕事だから~」
「見逃してよ!友達でしょ!」
「はいはい~友達友達~友達だから~見逃さない~。中務先生~失礼いたしました~」
未歩梨は玲奈を引きずりながら、診察室から連れ出した。
私は私を好きだと行ってくれる人の隣で手紙を胸にしまい続けている。
ねぇ、あなたは生きてるの?
ねぇ、私はずっとここにいるよ