かむがたりうた
第廿章 「シンジツ」
安とナヲの「賭け」から二か月が経っていた。今年はさほど猛暑ではないが、それでもTシャツを着て、なお暑がる季節になっていた。叔母の家の前に立って、安は固唾を飲んだ。インターホンを押そうか戸惑う安の背中から声が聞こえた。
「安くん?」
振り返ると、そこにいたのはスーツ姿の安の従兄・駿だった。
「アポなし、手土産なしか?」
「駿!」
「す、すみま…」
「これつまらないものですが」
謝ろうとする安の前にクッキーの缶が包装されたものが差し出された。いつの間に買ってどこに持っていたのだろう。灯流のソツのなさにはいつも驚かされる。駿がつまらなそうに舌打ちした。
「で、用件は?時実の後継ぎもご一緒に」
「駿!だからその態度は改めなさいって!」
リビングのソファで安、灯流、駿、加奈の四人はテーブルを囲んでいた。
「この度は大変ご迷惑をおかけしました」
灯流は頭を下げる。
「お伺いしたいことがあるのです」
葉桜が再び花をつけるように、彼らの気持ちを変えられたらいいのに。
安は本気でそう思った。
「父の教え子だった人に言われたんです。俺は『原初の言霊遣い』だって。それってどういうことなんですか?」
「…分からないわ」
「そもそも言霊遣いってどういうことなんですか?太安万侶が始まりなんですよね?」
「…ええ、そのはずよ。よく知らないけど」
「なら俺が『原初の言霊遣い』っていうのはどういうことなんですか?」
「だから分からないと…聞き間違いをしたんじゃない?」
「しつこいよ、安くん」
「ほんなら…」
灯流が鞄を探った。取り出したのは古事記の本。
「これを読んだ事はありますか?」
「……ないわ」
「結局、収穫なしか」
「いや、そうでもないでっせ」
「え?」
「加奈さんも駿さんも嘘をついている。全部知ってはりますよ。ただ駿さんがことあるごとに加奈さんに目をやっていた…要は見張られていた。だから帰り際に加奈さんのアドを聞いてきました」
灯流は携帯のアドレス帳を見せた。どこまでソツがないのだろう、この人は。
「でも叔母さんも…」
「加奈さんは教えたがってることがあるみたいですけどな。駿さんは反対して母親に口止めしてはるんやろ。だからメールなら、大丈夫やろ。早速送ってみますか」
灯流が携帯を手早く打ってから、返信があったのは京都に帰った後だった。用があったのか、単に打つのが遅いのかは分からない。長いメールなのか読むのに時間がかかっている様子だった。しかし読み進めるごとにその表情は厳しくなっていく。
「叔母さん何て?」
画面を覗き込む安に灯流はサッと携帯を隠した。
「え?なんで?ちょっと…俺にも読ませてよ。何て書いてあったの?」
「太安万侶…原初の言霊遣い…」
独言を呟いてからにっこりと笑った。
「いや…なんでもありません。大した話じゃなかったですわ」
明らかに無理のあるひきつらせた笑顔だった。
夜、灯流が風呂に入っている隙に、彼女の部屋からスマホをこっそりと盗み出した。悪いとは思っているが、普段から無理に笑ったりしない彼女のあの反応は尋常じゃなかった。
受信メール画面を見ながら叔母からのメールを開く。ごく普通の挨拶から始まったその長い文章を読み進めていくうちに安は青ざめていった。
「原初の言霊遣いって…化け物って…こういうことかよ…!父さんも知ってて…それで俺にこんな…」
紐解かれた謎を結び直すことはできない。こっそりと元通りに携帯を机の上に元通りに置いてから部屋を後にした。手足が…いや、全身が震えてよろめきながら。
「俺が…太安万侶の…でも…」
(これが…こっちが嘘だと言ってくれ。誰か……誰でもいいから。こっちが嘘だと…)
「なんで…なんでなんだよ…」
メールの最後の一文が忘れられない。
『ニワトリが先か卵が先か、よく考えてみてください』
怖かった。ただただ恐ろしかった。
自分自身の存在が。
いっそ、どこにでもいる矮小な人間になりたいと強く願った。
「太榎さん、今日は…」
「悪い、俺帰る!」
翌朝、声をかけた灯流に安は手で制止した。荷物は昨夜のうちにまとめてある。
「でも…」
「いいから!早く帰らないと手遅れになる!」
その声に灯流は目を丸くした。
「メール見はったんですか?」
「あ…えっと…ごめん…」
「まぁウチの態度にも問題ありましたからその件は不問にしといたりましょ。でもしつこいようですが焦りは禁物でっせ」
「けど賭けなんか…池条さんと賭けなんかしてる場合じゃなかったんだ。俺がやらなきゃいけなかったのは過去を読み解くことじゃない。先に進むことだった。それをあえて足止めしようと池条さんはこんな賭けを提示してきたんだ」
灯流は安の背中をポンポンと叩いた。
「…分かりました。じゃあウチも同行します」
「いや、灯流さんはここにいて。いざという時のために」
「それじゃいざという時は駆けつけますで」
そして、部屋の壁に人が通れるほどの大きさの四角を描いた。
「東京までのどこでもドア。ね、ウチがおると便利でしょ」
砂城にナヲの退院がまだだと確認した安は東京に着いてまっすぐ病院には向かわなかった。
寄り道したのは学校からほど近い都音架織の家。東京を出るときはマスコミに囲まれて近寄ることもできなかったが、その姿も今はない。
ピンポーン
「……………はい」
しばらくの間を置いて、女性の小さな声がインターホンの向こうから聞こえた。
「あの……太榎安です……架織くんの同級生だった……」
「太榎さん!」
「本当は事件のあった直後にお詫びに伺いたかったのに休学されていたみたいで」
通されたリビングでソファに座った安に架織の母親は頭を床につけて土下座した。
「本当に申し訳ありませんでした!」
「え…いや…俺そんなつもりじゃ…お母さんのせいじゃないですし…」
「でもっ…でも、あなたのお母様を…架織は…架織は…」
大粒の涙を流しながら謝り続ける。
「それはもういいんです。今日俺がここに伺ったのは、そうじゃなくて架織くんの行きそうな場所ってありません?」
「それは警察の方にも何度も言いましたが…」
「でも見つけられなかったんですね」
ゆっくりと顔だけを上げ頷いた。
「それだけです。ありがとうございました」
安は立ち上がり足早に去っていった。最後まで母親は頭を上げることはなかった。
「いよいよ、明日退院ですね。池条さん」
「ええ、お世話になりました」
「看護士から大人気だった池条さんが退院されると、ちょっと複雑な気持ちですけどね」
言って笑う。
(太榎はやっぱり間に合わなかったか…)
枕の位置を直して寝転んだ。
「池条さん!」
病室を開いたのは安の右手。
「げ!まさか…!」
安は得意げにレポート用紙を差し出した。
「チッ」
遠慮なく舌打ちをする。
「いえ、まだ全部はできてません。でもそんなの必要ないんですよね。むしろ必要なのはここの白紙部分を埋めることだった」
驚いた表情で目を見開くナヲ。安が本の最後のページを見せつけた。そこに汚い字で殴り書かれた一文にナヲは額を押さえる。
「本当の意味で負けちゃったねぇ、池条君」
後ろから偶然出会った月子が着いてきた。
「……にゃろ……。分かったよ。ちょうど栄達もいなくなったことだしな」
「いなくなった……?」
「それは後で説明した方がいいよね、安君」
月子は安の頭をポンポンと撫でた。
病院のロビーに集まったのは、安、西夜、砂城、琉真、ナヲ、月子の五人。
「花が…ない」
ナヲは大きくため息をついた。
「砂城がいるじゃない!花十人分くらいにはなるわよ!」
「でも…随分減っちゃったね」
二か月前より少し大人びた表情で安は苦笑する。
「それにしても何も全員呼ばなくても…」
「見届けないとどんな嘘吹き込まれるか分からないからね」
「うわー、信用ねー、オレ」
「全員?旗右先輩や巴は?」
「話を聞いてれば分かるわ」
安の問いかけに砂城は肩をたたいた。
途中までできた古事記の訳はあらかじめナヲに見てもらい「まあ、こんなもんか」と分かりにくい合格をもらっていた。しかし、ナヲをはじめとする誰もが舌を巻いていたのは火を見るよりも明らかだった。
「じゃあ、何から始めようか。順序立てて話すがいいか?」
安はコクリと頷いた。
「まず言っておきたいのは、古事記の神は太安万侶に作られた存在だ」
「作られた?」
「お前もバカだが、世界が伊邪那岐と伊邪那美が淡路島から生み出したものだとは思わねーだろ?地球の成り立ちは科学的に考えてもらって構わない。隕石が衝突して…まぁ、その辺は俺の管轄外だから多くは言わねーけど、しかし、太安万侶と稗田阿礼は天皇主権の国を作るために、そこに無理に『国産み伝説』を組み込もうとした。そこで選ばれたのが神の数だけの能力者だ。太安万侶は『神の力を持つ者』と『神界』を作り出した。全て言霊で」
一気に話すと、手元に持ってきていたペットボトルを一口飲んだ。
「ついて来れてるか?」
安は頷いた。
「で、神界って?」
「能力者が死後行き着く……まぁ、能力者限定の天国みたいなものだ。そこでは能力者としての務めを果たした褒美に一つだけ願いを叶えてもらえる。このシステムが話をややこしくした。最初は皆、家庭の安泰や世界の平和を願って殉じていたんだが…物のない時代だから願い事も限られるよな。しかし、ある時一人の能力者がとんでもないことを言い出した」
「とんでもないこと?」
「『神界へは行かず生き返りたい、もう一度人生を歩み直したい』これを知った他の能力者は我も我もと同じ願いを言い出した。そこで太安万侶は『能力を持ったままならば赤ん坊からやり直していい』と条件付きで許可を出した。能力を持ったままってのが、厄介だったがな」
「それじゃぁ、今いる能力者って…」
「何度も何度も千年以上にわたって生き返りを繰り返した末裔だよ」
「ちょっと待って…じゃあ西夜が言ってた『死ななきゃならない』って、この世界に見切りをつけて『自分で納得して』死ななきゃならないってこと?」
「ご名答。だから敵も安易には手は出せない。銃で頭を吹き飛ばしても、『生き返りたい』って言われちゃ終わりだからな。むしろ赤ん坊からやり直させられるわけだから、時間は余計にかかる。だから、その代わりに妙案を考え出した。生き返らせた能力者に不遇の人生を歩ませること。俺たちが揃いもそろって普通の人生を歩めないのはその為だ。人生に嫌気がさして自殺するのを促すこと。比呂乃みたいにな」
バン
安が両手でテーブルを叩いた。
「な…何だよ、それ!そんな権利どこにあるんだよ!」
眼が潤んでいる安にナヲは言った。
「言っておくと、それを決めたのは全部お前の先祖だぞ」
「……っ、じゃあ、何のためにそうまでして能力者を集めるんだよ?」
「贄にするため」
「ニエ?生け贄のニエ…?」
「能力者が全て神界に揃うと、地球は永遠に平穏と秩序が保たれるらしい。逆を言えば、俺たちは自分可愛さに世界を犠牲にしようとしてる悪者だよな。誰もが知ってる通り、人間様のおかげで、この星はもうボロボロ。向こうからすれば一刻も早く能力者を集めなきゃならない」
「で…でもそんなの……」
「それじゃ、お前ならどうする?『お前が…ここにいる全員が死ねば、世界は永遠に平和になります。紛争も破壊もない理想郷になります』って言われたら」
「…!」
安は唇を噛んだ。
言えるわけがない。
それを否定して必死で生きてきた人達の前で。
『自分なら死ぬ』などと。
「筑波あづみや館風桔梗みたいな連中は神界の伊邪那岐に忠誠を誓った上で、俺たちを殺すためにこの世界に戻ってきた連中だ。恐らく…」
「トコちゃん…水吹東子も……」
「ああ、潜伏期間が長過ぎて誰も気づかなかった。いいや、西夜は薄々気付いていて目をつぶっていたのかな?」
西夜は痛ましい表情で眼をそらした。
「じゃあ、何でハル…天川遥歌は殺されなきゃならなかったの?まさか…ハルも能力者…?」
ナヲは鞄から便箋の束を差し出した。
「太榎教授から大学を卒業する時にもらった手紙だ。あと、お前に送った本も俺が受け取った物だ」
安は恐る恐る便箋を開く。
「これが…父さんの…」
池条ナヲ君
卒業おめでとう。
君を信用して、この古事記上巻を託そうと思う。
君がそう決めるのなら処分してもらっても構わない。
私はその古事記の、正確には言霊遣いのせいで
妻も、子供も犠牲にしてきた。
それが正しいと、言霊遣いの宿命だと。
しかし、時折だが、
何故自分にそんな権利があるのかと思うことがある。
母を亡くし、妻を廃人にし、我が子を家に閉じ込めて、
そうまでして言霊遣いであるべきなのかと。
言霊遣いは常に三人。
私は古事記によると七年後に死を迎えるらしい。
深琴はとうに能力を受け継いでいる。
安はその七年後に言霊遣いを継ぐだろう。
問題はあと一人だ。
都音架織が表舞台に出て来ないことを、
祈るしかないのは無念だ。
妻の「跡継ぎ」として。
そのために伝えておかなければならないことがある。
今、私の別宅に幽閉しているのは、伊邪那美ではない
私の長子の言霊遣いの太榎深琴だ。
本当の伊邪那美の能力者は弓比呂乃という記憶を操る能力者によって
自分に能力があるということを忘れている。
その能力者の名前は天川遥歌。
安の同級生で家も近所の少女だ。
「嘘だ!」
そこまで読んで、安はかぶりを振った。そして便箋をナヲに突き返す。
「嘘だ、嘘だ、嘘だ!」
「本当だ。続きに書いてあるが、伊邪那美の能力は『死を選んだ能力者の能力を全て受け継ぐこと』」
「あ!」
砂城が声をあげた。
「だから遥歌ちゃんは栄クンに触れても平気だったのね。雪の能力を継いでいるから。それに怪我を治して、栄クンが遥歌ちゃんのこと忘れちゃったのも弓さんの能力…」
「俺の怪我も治してくれたのはその子だったのか。通りで伊邪那美のことがポッカリなくなってるわけだ」
月子が息をつく。
「違う!ハルは普通の…ごく普通の古典が得意な高校生で…」
「その『古典が得意』ってのも誰かの能力かもな…」
安は言葉につまる。
「じゃぁ、続きを始めていいか?次は太榎のことだ」
神妙に頷いた。
「太榎教授が言霊遣いってのは言ったが、その妻…お前の母親も言霊遣いって知ってるか?」
「うん、従妹だって」
「なら、話は早い。まず言っておきたいのだが、お前は兄弟はいないと思っているだろうが、実は事実上三人兄弟だ」
「え?」
「姉の名は太榎深琴。お前らが伊邪那美と言っていた女だ。そして実質的に弟だった奴は、今は都音架織と呼ばれている」
安は言葉を失った。
ナヲは続ける。
「最初、太榎の言霊遣いはお前の祖母と両親で三人だった。しかし深琴が産まれて、ほどなく祖母は死に、深琴が後を継いだ。そこまでは問題がなかった。しかし二人目を身ごもった時、マズいことが起こった。産まれてくるのが双子だった」
「双子?」
「ああ、言ってなかったな。それを知った教授は産まれてきた赤ん坊の弟を自分の手で殺した。しかし、無念を晴らせない赤ん坊の魂は伊邪那岐側に拾われ、伊邪那岐に忠誠を誓う代わりに、全く違う家庭の胎児に魂を埋め込まれ生まれ変わった。それが……都音架織だ」
「トネが…俺の…弟?」
「お前、都音架織と誕生日近いだろ?」
「う…うん」
「教授は恐れていたんだ『三人目』が現れたら、遅かれ早かれ自分と妻を殺し、彼が言霊遣いになると。教授が我が子を手にかけたと、妻が知ったのは二、三年後のことだ。死産と言っていたらしいから。それを知って絶望に打ちひしがれた彼女は……」
「俺を連れて二人で心中しようとした」
「その通り」
「それで母さんは半昏睡状態に、俺は奇跡的に軽傷ですんだけど」
「そう、しかし都音架織が太榎を潰しにくるのを恐れた教授は深琴を隠すことにした。わざわざ家を買い、時実の娘までも借り受け、そこに『伊邪那美』として深琴を幽閉した。あいつは見るからに『お姫様』然としていただろう。本当の伊邪那美である天川遥歌よりよっぽど。それは少しでも伊邪那美を演じさせ、俺たちの目を欺くためだ。ご丁寧に「事故」と称して比呂乃に本物の伊邪那美である天川の記憶を消させてな。比呂乃が死んで、自分の役目を思い出した天川は、あえて自分が死ぬことで太榎に全てを分からせようとしたみたいだが…」
ふーっと息をつく。
「そして、後は知っての通りだ。こんなもんかな、俺の知ってることって言ったら。あー喋った喋った」
「『ミラ』のことは?」
横から月子が言った。
「それは関係ねーから特に言うこともないだろ」
「ミラ?」
安が首をつっこんだ、その時だった。
「安!」
自動ドアから入ってきたのは
「イズミ!」
安にガバッと抱きつく。
「もー、どうしたんだよ、突然休学なんて!天川さんも死亡確認されてから行方不明とかいうし、都音は指名手配だし、神社も空き家になってるし、ワケ分かんなかったよ!」
「わ、悪かったよ…ごめん」
「『イズミ』ってまさか…」
月子がナヲに尋ねる。
「…って、池条さん!どうしてここに?」
「一応、太榎の知り合いだから」
「あ…どうも、安と同級生の泉原智樹です」
「ミラ…泉原巴の弟だって言った方が通じるだろ」
「ここにいる皆も姉さんのこと知ってるんですか!」
「ああ、大体な」
「巴?」
今度は安が尋ねる。
「巴の前の能力者だ。こっちの巴の名前をつけたのは俺だから」
「ついでに言うとナヲクンの元カノ☆」
「だからてめーはどこまで知ってんだよ、稲荷!」
月子の指摘にナヲは怒鳴る。
「あーでも、安が無事でよかった。じゃぁ、俺部活抜けてきたから、これで!」
頭を下げて出口から帰って行った。
「イズミのお姉さんが…能力者…?」
「ああ、歳はずいぶん離れてるけどな。姉が幸運を分ける能力者に繋いで運の良さは残したらしい。お前にオレに天川遥歌、都音架織にまで会っていた」
「でも、今の巴は……」
「ああ、分かってるよ。俺が前の『巴』の幻想を追っているだけだ」
「さて、太榎。お前はこれからどうしたい?」
答えを分かっているような問い。
「……旗右先輩や稲荷さんがハルのことを思い出せないってことは、まだハルは死んでないってことだろ?なら…取り返す。全部取り返す」
「それが世界を滅ぼす道だとしてもか?」
ナヲは尋ねた。
「ああ、俺はこの世界を信じる。そんなバカなことしなくてもこの世界は自分で生き残る、絶対に」
「……安さん」
琉真はおずおずと手を挙げる。
「僕、安さんに黙っていたことがあるんです」
「?」
「僕の能力です『一生に一人だけ死人を生き返らせる能力』」
「!」
「どんな条件下でも…たとえ遺体がなかろうが…」
「でも…じゃぁ、何で筑波さんにそれを使わなかったの?」
「死に際に言われたんです。『生き返らせるな。能力を使ったら、もう一度死ぬ』って…だから安さんが望めばお母さんでも天川さんでも弓さんでも…」
「……教えてくれてありがとう。でもそれは琉真が自分で選んで使えばいい」
安はそっと琉真の小さな肩を抱いた。秘密にしていた罪悪感から解き放たれたせいか、琉真はポロポロと涙をこぼした。
「ありがとう…ございます」
「安、これやるよ」
ナヲはポケットからチョーカーを取り出した。大きめの十字架のついた革ひものどこにでもありそうな装飾品。
「え?」
「ずっとつけてろ、黙って話聞いてたご褒美だ」
頭に疑問符を浮かべながら、安はチョーカーをつけた。
「それから」
付け足すように言った。
「栄と巴は死んだ。自分で死んでそれぞれの大切なものを取り返すために神界に行った。自分で…な」
「…………」
全てを聞かされた安には何も言葉を継げなかった。
「大丈夫よ、戻ってくるって約束したもの」
「俺も……俺もその『神界』ってところに行けますか?」
取り返すために。
「ああ、言霊を使えば行けるはずだ」
「なら俺も行く」
安の目は決意に満ちていた。
「俺も取り返すために」
「俺さ…どうしても分からないことがあるんだ」
安と琉真は久々に神社の離れの客間に布団を敷いていた。
「西夜や琉真達がこれまで大変な目にあってきたことは、大体だけど分かってる。でも池条さんって…こう言っちゃ何だけどそんな苦労人には見えないんだよね」
「そういえば……聞いたことありません」
(日記を捜せって言われてもなぁ)
姉の部屋は姉が死んでからそのままになっているらしい。しかし、十数年前の日記など見つかるものだろうか。いぶかしみつつも部屋を極力荒らさぬように本棚を捜し始めた。
『貴方は私と生きることも、自分だけ幸せになることも選ばなかった。これは約束なの。もう一緒にいられない。でも私、生まれ変わってくるからね。そうしたら思いっきり幸せにしてやってね『私』のこと』
「ミラ!」ナヲは飛び起きた「また昔の夢かよ…」
日記は意外と早く見つかった。
「日記って…これだよな…」
死んだ姉とはいえ、人の日記を読むのは少々の罪悪感があった。開くよりも前に表紙と裏表紙を見る。表紙にはーこれは買った時からだろうー箔押しで「日記帳」の文字。そして裏表紙には右下に小さく『ナヲへ』と書かれていた。恐る恐る本を開く。
「君が池条ナヲくん?私、泉原巴。呼びにくいから泉原から二文字とって『ミラ』って呼ばれてる」
それが彼女との出会いだった。
エスカレーター式のエリート私立中学からの帰り道。ふと通った新宿の公園でその少女に出会った。
「能力者でしょ、あなた。それにしてはぬくぬくと暮らしてる」
無視して立ち去ろうとした瞬間、指差してニヤと笑った。
「綾瀬川さんの能力。そんな自分勝手な人いないと思ってたのにあなた適合したんだ」
思わず振り返る。
『周囲の不幸を餌に、自分だけを幸せにする能力』
二人の声がシンクロする。
「俺に能力をかけると満足そうにしてどっか行ったけどな。今はどうしてるんだか…」
「私は無条件で自分の運がいいって能力。気が合いそうね、私達」
「ぜってー、合わねー」
それだけ言うとナヲは踵を返した。
「みら、いまのだれ?」
公園の茂みから、遅い足で走ってきたのは黒髪にボサボサ頭の幼児。
「池条ナヲ。もうすぐ私達の仲間になる人だよ」
寒い季節でもないのに長袖長ズボンに手袋をした子供をよいしょ、と抱き上げる。
「栄も一度顔会わせとかなきゃな。きっと仲良くなれるよ」
言って泉原巴は笑った。