かむがたりうた
第拾捌章 「デアイ」
こころよ
では いつておいで
しかし
また もどつておいでね
やつぱり
ここが いいのだに
こころよ
では 行つておいで
八木重吉「秋の瞳」
「栄クン、西夜クン、ナヲさんは重傷。琉クンは眠ったまま。月子さんの居場所は分からない。トコちゃんと、伊邪那美様は裏切り。鏡子さんと、小夜子……それから」
病院の手術室の前で悔しげに指を折る砂城。頷く巴。黙って俯いたままの安。砂城は手術室の方に顔を上げた。中にいるのは
「……ハル…」
安は歯ぎしりをした。静寂を打ち破るようにスマホが鳴る。
「電話?病院よ?」
「ああ、メール…」
力なく安は鞄から携帯を取り出す。
「警察から?ああ、そういや父さんが死んだ時、電話が繋がらなかったらってメアド教えたっけ…」
読み進めるうちに青ざめていった。
「防犯カメラの解析…できたって……母さんを殺したの……」
砂城と巴は振り返る。
「…トネ……?」
「ナヲ、目ぇ覚ましたって!」
公衆電話から戻ってきた巴が場所も時間もわきまえずに声をあげた。
「本当に?」
砂城も声を高め、そして、あ、と口を手で覆った。
「ご…ごめん、安」
「ううん、無事で何よりだよ。他のみんなも早く目が覚めればいいのにね」
力なく笑った。
「じ、じゃあ砂城、栄クン看てくるから」
立ち上がって外に出る。
それに合わせるかのように手術室の扉が開いた。安は立ち上がるが、血で汚れた手術着の医師は…ゆっくりと首を横に振った。
ちょうど家から到着した遥歌の両親と姉は呆然と立ち尽くす。
「安君!何があったの?刺されたって…どういうことなの?あなたなら知ってるんでしょ…!」
「俺にも…何が何だか」
「あの子、昨日初めて家族皆で夕食を食べたいって言ったの!まるで今日こうなることを知ってるみたいに!」
姉は必死で母親の肩を抱きしめる。安は目を見開いた。そうだ、遥歌はあの本を読んでいたんだ。自分が死ぬことを知っていて、あえてあの場所にいたんだ、自分も一緒に…。
「知ってたら…逃げてほしかった……」
歴史が変わることが何だ?
それに人の命を賭ける価値があるのか。
「弓さんも…母さんも…ハルも……なんで生きることをそんなにあっさりあきらめるんだよ…」
歯噛みする。
「……ハル…」
安の頬をつたい涙が一粒こぼれ落ちた。
いつだったか古典の補習課題をやっていた時に遥歌が言っていた笑顔が思い起こされる。
『古事記では一行で人が毎日千人死ぬって決められるのよ』
早朝の新幹線も自由席は遠距離通勤や出張のサラリーマンで空いているとは言えなかった。
そんな中に場違いな空気を醸し出す少女。背中まである長い黒髪に服はボロボロになったシャツとジーンズ。スケッチブックに色鉛筆で何か抽象的な絵を鼻歌まじりに描いていた。
「…隣…空いてますか?」
立たされるよりはマシだと思ったサラリーマンは声をかけた。
「あ、はい!空いとります!空いとります!」
慌てて手すりに置いていた練り消しゴムと鉛筆を片付ける。
「どうも、すんまへん。これから東京に出張どすか?精が出ますなぁ」
少女はニパッと笑う。会社員の男は悪い娘ではないと判断した。
「絵、お上手ですね」
「ああ、あんま見んといてください。まだまだヘタクソなんで」
「そんなことないですよ。美大生かなにかですか?」
「ウチ、美術高校に通うとるんですよ。ちょっと親戚に不幸があって東京まで行かなならへんようになったので、その分の補講課題です」
「そうですか…ご不幸が」
「いやですなぁ、そこは気にせんといてください。ほとんど会うたことのない親戚なんで」
隣の邪魔になると思ったのだろう、大判のスケッチブックを閉じた。その裏表紙に書かれた三年C組の後に書かれた名前を男は読めなかった。
「時みのる…」
少女は普通は読めへんですわなぁ、と笑った。
「時実灯流(ときざねほたる)です」
ネットカフェで一泊した後、「時実神社」と書かれた石碑を横目に神社の離れに向かった。
安は血の跡が生々しく残る玄関をじっと見つめていた。
『おかえりなさい、安さん』歳の割に澄んだ上品な声が聞こえて来た気がした。
「鏡子…おばあさん…」
「西夜ー!」
突然後ろから聞いたことのない少女の声が飛びつくように抱きついてきた。
「五年ぶり!背ぃも伸びてしもうて、ウチより高なったんちゃう?」
「ど、どちら様ですか?西夜なら病院で意識不明ですが…」
「へ?」
少女はキョトンとして大きな目で安の顔をマジマジと見た。同い年くらいだろうか。脇には大きな黒いキャリーケースが置いてある。
「誰?あんさん」
「それはこっちのセリフなんだけど…俺は太榎安」
ハッと表情が変わった。飼い猫がおもちゃで遊ぶような無邪気な顔から、訓練された狩猟犬のような凛とした顔へ。すっと、かしずいた。
「ご無礼をお許し下さい、太榎様」
今度は安が戸惑う。
「申し訳ありませんでした。私は時実灯流。時実鏡子の孫で、時実小夜子の妹でした」
「おばあさんの…て時実…小夜子?」
「ご存知ありませんでしたか?時実は太榎の分家で、姉の小夜子は万夫様の命であの屋敷にお仕えしていたと」
「父さん…の……?」
それでなくとも整理のつかないままの安の頭は混乱の頂点を迎えていた。それを察して灯流はまた頭を下げた。
「失礼いたしました。ともあれ、私は祖母と姉の遺体を引き取りにきただけです。そちらもご迷惑でしょうから、今回の襲撃の件に立ち入る気は全くありません」
「あ……うん…それから…その敬語…止めてもらえないかなぁ…」
「太榎家のご長男にですか?」
「その太榎家のってのも、俺自身あんまり嬉しくないから…」
「そうですか、ではお言葉に甘えて」
顔を上げて、フフフと笑う表情がどことなく遥歌に似ていた。その時、安の携帯が鳴る。灯流に「ごめん」と言って電話を取り出した。
「メール…砂城ちゃんからだ。西夜の意識が戻ったって!」
灯流の顔がパッと輝いた。
「ホンマですか?病院はどこですか?」
「ここからすぐ!時実さんも来る?」
「もちろん、あと名前紛らわしいでしょうから灯流でいいですよ!」
言うより早く二人は駆け出していた。
「先生、昨晩亡くなった天川遥歌さんのご遺体が…!」
遥歌の手術を担当した外科医師は、看護士に引っ張られ地下の霊安室に連れて来られた。遺体があるはずのベッドを見て愕然とした
「遺体が…ない…?」
「鍵が内側から開けられていました」
「死体が勝手に動いて鍵を開け、散歩に出て行ったとでも言うのか?彼女は病院に運ばれた時点で既に心停止していた!それは間違いない!」
「はい…でもご家族には……」
「……正直に…言うしかないだろう」
「西夜ー!」
病院の個室に響き渡る高い声。
「灯流?京都からわざわざ来たん?いや、婆ちゃんと小夜子さんのためか…」
「うん、でも会いたかったでー!西夜!」
痛そうに脇腹を押さえつつ、灯流の背中をポンポン、と叩いた。
「先生に聞いたら、完治には時間がかかるけど、手も頭も動くし、歩いたりするのはもうできるみたい」
「そう、よかった」
「安も心配かけたね。ありがとな」
「いや、池条さんと旗右先輩も目ぇ覚ましたけど、西夜が一番軽傷みたいだ。特に旗右先輩が…重傷なんだけど、ほら、能力のせいで治療できる人がいなくて、今は伊邪那美さんの館に寝かせて、朝から砂城ちゃんが看てるけど…」
「そっか…」
しょげる西夜の肩を叩いた。
栄は痛みに目を覚ました。
(ここは…伊邪那美様の……そうか…私…)
見ると、横の椅子で砂城がウトウトと眠っている。
(砂城が…看てくれたのか)
「紅音のこともあるのに、ありがとうな」
そっと手を伸ばしたが革手袋をしていないことを思い出し、引っ込めた。不意に扉を開ける音がした。
「誰だ?」
「旗右先輩」
出てきたのはよく知った顔。
「……天川」
胸元から血がにじみ出た。遥歌はしょうがないですね、と呟く。
「すまないが、包帯だけでも巻いてもらえるか?」
「そんな必要ありませんよ」
「え?」
「ちょっと失礼」
シャツをまくり上げ、肩から胸にかけての傷を見て、顔をしかめた。
「ありゃー、すごい傷ですね。それじゃ……あと最後に」
傷に手をかざすと、遥歌は笑った。
「あたし、旗右先輩のこと結構好きでした」
「え?」
「楽しかったです。いろいろありがとうございました」
遥歌の手から光が出る。
「これは…術…?」
「『誰の』術か分かりませんか?」
「天川…まさか……貴様…」
みるみるうちに傷が塞がり痕も残らなくなる。痛みが薄れて行くうちに意識も薄れて行った。
「栄クン!」
砂城の声で目が覚めた。
「砂城…?」
「どうしてケガ、完治してるの?」
「完治……何故?」
「こっちが聞きたいわよ」
ゆっくりベッドから起き上がる。足どりがおぼつかないのは今まで横になっていたせいだろう。
「痛みも…ない……どういうことだ…?」
血の付いたシャツの中を確かめた。
月子は人通りのない道端で一晩中、意識を失っていた。携帯の指を動かすこともできない。このまま死ぬかと思っていた。そこへ向かってくる少女の足音が聞こえて来た。うっすらと目を開ける。
「稲荷さん」
遥歌は声をかける。
「ちょっと待っててくださいね」
栄のときと同じように手のひらを光らせる。
「あの子の……能力か」
「生きのびてください…」
腹の傷がきれいに消え去る。
月子が立ち上がるより前に遥歌は踵を返した。
都音架織は通りの奥で立ち止まっていた。遥歌がそこから出てくる。
「これで充分ですか?」
「あと筑波あづみさんに琉真君の目を覚まさせるよう伝えてください」
「かしこまりました。それだけですか?」
「ええ、あとの処遇はお好きにどうぞ」
「悪くはしませんよ、願いもどうぞご自由に仰ってください。あまか…いや『伊邪那美様』」
遥歌より一歩下がって歩いた。
「結局俺が一番重傷だってワケか」
身を起こすこともできず、右太股の痛みに耐えながらナヲはため息をついた。そこにそろったのは安、栄、砂城、巴、月子、松葉杖をついた西夜、そして物見遊山に来た灯流だった。
「安、メールした通り、あの本は持ってきたか?」
「あ…はい…」
鞄から和綴じの本を取り出す。
「よし、じゃあ俺と賭けをしてみる気はないか?」
「賭け?」
「ああ、ここに全員集めたのはその立会人になってもらうためだ」
言うと、枕元から古びた便箋を取り出した。
「これは太榎教授から送られた手紙だ。俺と水吹の傷が完治するまでにその本を全て訳せたら、この手紙含め、俺の知りうる全てを教えてやる」
「一人で?」
「もちろん」
「無茶よ!安クンの古典嫌い知ってて言ってるでしょ!」
砂城が口を挟むと、ナヲは面倒そうに灯流を指差した。
「じゃぁ、あんた。時実の人間ってことは古典の基礎は叩き込まれてるな?」
「え?……はぁ、でもウチ全然興味なかったから、ほとんど分かりませんで」
灯流は突然話を向けられ、両手を振った。
「そのくらいがちょうどいい。よし、太榎。こいつだけには基本的なところは教わってもいい」
「え?でもウチ学校が…」
「じゃぁ、太榎。お前が休学して京都に行け」
一見、むちゃくちゃに思えるが、的確な指示だった。今、安を落ち着かせるには学校も含め、母親と遥歌のいた場所から遠ざけることだ。しかも関西に行けば、それだけで太榎の親戚などから情報を得られる確率も高い。それに…
さすがナヲだと西夜は息をついた。
「行って来なよ、安。どうせ学校には行ける気力ないやろ。時実の家ならよくしてくれるやろうし」
「うん」
安にもナヲの意図は伝わったらしい、ゆっくりと頷いた。
「それに能力の使い方も教えてもらえる」
「能力…って、灯流さんも言霊遣い?」
「ちゃいますよ、まぁ似て非なるものですけど代々伝わる能力はあります」
「じゃぁ、しばらくお世話になっていいですか、灯流さん」
「そ、そんな!畏れ多いですが、ウチでよろしければ」
「よろしくお願いします」
砂城と栄は病院を出てまた病院へ…紅音の入院先へ向かった。
「無茶言うわよね、池条さんも」
「大丈夫だろう。あいつは頭がいい」
「え?でもテストはいっつも赤点で」
「バカなふりをしているだけだ。仕事の飲み込みの速さを見ていれば分かる」
「でも、ついてるのが遥歌ちゃんならともかく…」
「遥歌?誰だ?」
「へ?だってあんなに親しげにしてたじゃない、天川遥歌ちゃん」
栄の返答に砂城は目を丸くした。
「天川…遥歌…?」
フザけているようには見えない。そもそもこんなフザけ方をする性格ではない。
「何を……」
問いつめようとした途端、砂城の携帯が鳴った。
「西夜クンからメール……琉クン、目ぇ覚ましたって!」
「全部話すって、君の能力もかい?」
「それは言わねー」
見舞いの果物のメロンを一人で食べながら月子は笑った。
「相変わらず小狡いねぇ、君は」
「機転が利くって言えよ」
「ただ俺の中で辻褄の合わないことがあるんだ。抜け落ちてしまったみたいに」
「何だ?」
「伊邪那美って……誰だっけ?」
「琉真、大丈夫?」
「はい、どこも痛くないし、ちょっと頭がボケた感じがするだけで。昔の夢を見てたんで」
病室のベッドから身を起こした。
「それって……」
松葉杖姿の西夜は言った。
「十中八九、あづみの能力です。僕、検査が済んで退院できたら、マンチェスターに戻ろうと思ってます」
「イギリスに?」
「すぐ戻ってきますよ。どうしても父さんに会って確かめたいことがあるんです」
翌日、さっそく荷物をまとめて、鏡子と小夜子の寝台車に同乗させてもらった。荷物は最小限にしたつもりだったが、鏡子から借りた喪服は持って行った。
『亡くなった主人のものがピッタリでよかったです』
鏡子の笑顔が思い返される。自分を初めて家族として迎え入れてくれた人。
「何で…こんなに優しい人が死ななきゃならないんでしょうね…母さんも…鏡子おばあさんも小夜子さんも…弓さんも……」
隣にいる灯流は黙ったままだった。
「ハルも……」
安は必死に涙をこらえた。
灯流は優しく頭を撫でる。
「優しい人…やったんですね…」
力なく頷く。
(ハル…俺はお前のためには泣かない)
ずっと側にいたのに彼女の想いに気づかなかった、俺のせいだ。
「あんまし自分を責めたらあきませんよ」
灯流は微笑んでトランクから一冊の新しい本を取り出した。
「京都までの道のりは長いでっせ。古典読解の専門書、賭けには絶対勝ってもらいますから」
その意地の悪げで、でも「仕方ないなぁ」と言わんばかりの笑い方は「誰かさん」に似てる、その言葉を呑み込んで安は苦笑して頷いた。
安の母親と鏡子と小夜子の神葬祭はごく少数で京都で行われた。喪服を着た安は、しかし入りがたく入り口で思案していた。
「安君…」
後ろから喪服を着た女性が声をかけた。
「加奈叔母さん…」
「……久しぶりね…やっぱりロクなことにはならなかったでしょ?」
悔しさに奥歯を噛み締めながら、それでも頷く気にも否定する気にもならなかった。
「俺は……」
「あなたは太榎の血が濃すぎるのよ、だから災いを呼ぶ」
「え?」
「知らなかったの?あなたのお母さんは私と兄さんの従妹で言霊遣いだったのよ」
「だ…だってそんなこと……父さんは……」
不意に葬儀会館の陰から、ある人影が目に入った。
「都音架織!」
叔母を通り抜け、走り出した。追いついたのは会館の裏庭。
「てめー…よくもぬけぬけと顔を出せたな」
安は架織の肩を持ち、殺意に似た視線を送る。
「別に葬儀に来たわけじゃないですよ。あなたにこれをプレゼントしようと思いまして」
取り出したのはレポート用紙の束。
「万夫さんが書いた古事記の訳です。これさえあれば大手を振って東京に帰れますよ」
バシィ
紙が辺りに飛び散る。
「誰がお前の助けなんて借りるかよ」
予想通り、と言う顔で架織は笑う。
「そうですか。いつまであんな世界を滅ぼそうとする連中と一緒にいるんですか?」
「世界を…滅ぼす?」
「それじゃ僕はこれで。ああ、それから言うの忘れてました」
踵を返してまた振り返る。
『あなたは僕が殺します』
(言霊?何でトネが?)
身構える安に、ニッコリ柔らかく笑った。まるでバカにするように。そのまま歩き去る架織の姿が見えなくなると安は砂を踏みしめた。そしてネクタイを取り、上着を脱ぐ。
「あれ?太榎さん、どないされました?」
「時間が惜しい。帰って訳を進める」
灯流の言葉にぶっきらぼうに答えた。
夜半過ぎ、灯流の家の客間で本と格闘する安は襖が開いたことにも気づかなかった。
「ハヤクネロ!ハヤクネロ!」
野球ボールほどの白い球体に落書きのように書かれた顔の物体が、安に体当たりしてくる。
「痛っ!痛っ!何だコレ?」
「えへへ、あんまり根詰めてるみたいやったから」
襖から出てきた灯流は悪びれもせずに笑う。
「それ、何?」
「ウチの能力です。というか代々伝わる術なんですが」
スケッチブックをめくる。見るとそこでころころと体当たりを続ける物体の絵が描かれていた。
「描いたもんを実現化する能力」
「……言霊遣いになんか似てますね」
「そりゃ、分家ですから。描く手間を考えれば言霊遣いに勝てるわけないんですけどね」
どこか寂しそうに笑った。
「ハヤクネロ!」
「直接言ってくれればいいのに」
両手でガシっとつかみ、目の前に差し出す。
「そういや、俺…これに似たの持ってる…」
「え?」
持って来ていた鞄の一番奥を探る。万夫と過ごした家から引っ越す時に見つけたマスコット。鞄に入れっぱなしにしてあったのだ。
「ホンマや、ウチはじいちゃんが…先代の能力者やったんですけど、描いとったっの真似ただけで…でもかわいいでっしゃろ、シロちゃんいいますねん」
「……単に見せびらかしたかっただけ?」
言いつつ、灯流はニヤッと笑った。
「能力の使い方も教えられまっせ」
「でも……」
「焦りは禁物。池条さんもそんなに早う治りやしませんって」
「紅音の手術、うまく行きそうだって?」
「うん、栄クンのおかげで。まだ大変だけど、砂城がちゃんと看てるから。でも出席日数足りなくてマジ留年しそう。それでなくとも紅音産む時に一年休学してたのに」
病室の前で、栄と砂城は話していた。
「安クンは?」
「メールで聞く限りでは、それなりに元気らしい。かなり無茶をして頑張ってはいるようだが、ナヲの退院に間に合うかは微妙なところだな。まぁ、時実の家の者が太榎に限界まで無理をさせるとは思えない」
「そっか、ところで遥歌ちゃんのことまだ思い出せない?」
「だから誰だ、それは?」
砂城は小さくため息をついて、髪をかきあげた。
「まあ、いっか。栄クンはこれから仕事?」
「いや、ちょっと用がある」
病室の中の紅音に手を振って廊下を歩いて行った。
「安さんには僕の能力のこと言ってないんですよね?」
成田空港で出国手続きをしながら琉真は西夜に尋ねた。
「その方がええやろ?」
「ええ、きっと能力を使うように言われますから」
身に合わない大きさのトランクを持つ。
「一週間ほどで帰ってくるつもりなんで」
ペコリと頭を下げた。
制服姿の高校の中で、よれよれのシャツとジーンズでしかも長身の栄は目を引いた。自分のことを覚えている生徒も少なくないようで、何かひそひそと話しているのが耳障りだった。職員室の扉を開ける。
「失礼します。旗右と申しますが、河合先生はいらっしゃいますか」
一番近くにいた事務員が「少々お待ちください」と職員室の奥に小走りに行った。
「旗右!どうしたんだ?」
「ご無沙汰しています。実は話がありまして…」
一瞬ためらって口を開いた
「一浪しても学費免除のある大学ってあるんでしょうか」
「大学に行く気になったのか?」
「…今、ちょっと厄介ごとを抱えていてそれが片付いたらになるんですが…」
「ああ、大丈夫だとも。普通じゃ難しいが君は成績も実績も問題ない。私立なら引く手数多だろう!」
「それでは、手続きをお願いできますか。勝手ばかり言って申し訳ありません」
栄は深く頭を下げた。
「驚いたな…人は変われば変わるものだ」
河合教諭は目を丸くしたが、栄にはその意味が分からなかった。
「どこか志望校とかあるのか?」
「…できれば、でいいんですが、ひとつだけ…」
(ちくしょう…負けてたまるかよ……)
結局、灯流の力はほとんど借りずに訳を進めていた。彼女に教わるのは能力の使い方。眠らない日も珍しくなかった。
しかし苦ではなかった。初めて父親と会話をしているような気がしていた。一文字ごとに伝わってくる厳しさ残酷さ、そして哀しさ。そこに書かれていたのは自分を主人公にした自分がこれまで歩んできた道。父はこんな風に自分に生きてほしかったのか。こんな残酷な運命に何故自分を置き去りにしたのか。未だに…いや、考えれば考えるほどに分からない。
父は同じ能力を持った自分をなぜあれほどまでに恐れていたのか。しかも向こうには「本」も知恵もあるのだ。自分にあるものとは…何だ?叔母の言っていた「血」か?ナヲに聞けば分かるのか?都音架織か?それとも……
頭をよぎったのは
幼い頃眼に焼き付けられた母親の顔だった。
「ごめんね
ごめんね安
母さんも一緒に死んであげるからね」