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かむがたりうた

第拾伍章 「ショク」




見た目 どうなのか
鏡の前でじっと立ち
これが他人から見た
私なのかと目を見る
自分の目だった
妻や子どもたちを
見るときと同じ
欲目やひいき目の
両眼なのだ
世間の鏡の前で
他人の目の
コンタクトをつけ
ちらちら私を見る
目をつぶる私が見えた
自分のことさえ
見ぬ振りをする
私がいた

        児丸久「鏡の目」





「僕は何事も穏便に済ませたい方でして、一緒に来て下さいませんか、弓比呂乃さん、琉真=アークライトさん?」
「お断りします」
 都音架織に琉真はきっぱりと言い放つ。
「なら仕方ないですね」
 架織は一息おいて笑った。
「弓比呂…」
 言葉を遮り、細身のナイフが架織の顔面めがけて飛んできた。素早くそれを避け、独特の音を立てて壁にナイフが刺さる。琉真は同じようなナイフを両手の指の間に何本も挟んでいた。
「危ないですね。いけませんよ、子供がそんな物騒なもの隠し持ってちゃ」
 壁からナイフを取り、床に投げ捨てる。
「今の音を聞いて、安さんが来てくれますよ。顔を見られては、まずいんじゃないですか?弘英高校の同級生さん?」
「さすが、情報収集はお手の物ですか、琉真さん」
 困ったような笑顔を作ると、架織は煙のごとく姿を消した。死角で東子が音もなく舌打ちをした。




「つまらぬ諍いはお止めなさい!」
 石段を駆け上がってきたと同時に声を響かせたのは安のよく知った姿。
 しかし威風堂々と言った言葉が似合う、威厳のあるその姿に目を見張った。
「ハル!」
 そこにいた全員の動きを止めたのは遥歌だった。安は思わず表に出てくる。
「何だテメーは?」
 須佐之男とあづみの表情が凍りつく。
「馬鹿者が!」
 杜叶を制して、須佐之男はその小柄な少女の前に跪いた。凛と背筋をのばし、厳しい表情を崩さないその姿はまるで女神のよう。
「失礼いたしました。即刻立ち去ります」
「おい、すーさん!」
「杜叶さま、あなたはご覧になってお分かりにならないのですか?」
 あづみは杜叶の手を取った。と思うと、三人の姿は立ち消えた。
「天川…お前……」
「天川さん…」
 そこにいた全員が信じられないと言う顔をする。
「あなた、何者?」
 メガネの奥でふわりと、でもどこか意地の悪そうな笑顔を作る。それはいつもの遥歌のものだった。
「秘密です。でも、あたしはシナリオ通りに動いているだけですよ」
 言って、ニッコリと意味ありげに笑った。




「なるほど…泉原智樹の運がいいわけだ。あんな女にも近づけてるとはな」
「あんな女で悪かったですね、池条ナヲさん」
 縁側で煙草を吹かしていたナヲに遥歌は歩み寄った。
「あたしの正体、みんなにバラしますか?」
「いーや、別にどーでもいいし興味ねーし、伊邪那美のことなんか」
「助かりますよ。それじゃ、あたしはこの辺で失礼しますので、これ、弓さんに渡しておいてもらえます?」
 言うと雑貨店の名前の入った小さな紙袋を差し出した。
「自分で渡せ。俺を使いッパにするとはいい度胸だ」
「あたしは弓さんに会わない方がいいみたいなんで」
 遥歌は短い髪を揺らして平然と笑う。
「ナヲさん…あの…あ!」
 絶妙のタイミングで出てきた比呂乃は遥歌と目を合わせ、声を上げた。
「ちょーどよかったじゃねーか。比呂乃、こいつがお前に渡したいものがあるんだと」
「え?」
「あ…あの…安からあんまり食べてないって聞いて、これローカロリーのお弁当作ってみたんですけど…」
 どこか遠慮がちに紙袋を差し出す。
「あ…ありがとう、はるちゃ…天川さん」
「はるちゃんでも、ハルでもいいですよ。気持ちは分かりますが、そこそこちゃんと食べないと体壊しますよ、ね、ひろちゃん。それじゃ、これで」
 言うと軽い足どりで家の中に入った。比呂乃は困り顔で袋を見つめる。
「食べれるんならいいけど、捨てるなら俺にくれよ」
 ナヲは靴先でタバコをもみ消した。
「巴が喜ぶ」




「大丈夫だった?西夜」
「痛たた…あんまし大丈夫やないかも…」
 体中に包帯を巻きながら、西夜は「制服が冬服の時でよかった」と苦笑した。
「最初につけられた首の傷はもうカサブタになってるな…。……って、この痣は?」
 西夜の首筋に今日斬られた傷と平行に古傷のようなものがあった。まるで首を絞められたような痕が。西夜は「あ!」と声をあげ、手のひらでそれを隠した。
「昔ちょっとな……」
「ひょっとして、いつもハイネックしか着なかったり制服の首ホックまでちゃんとつけてるのって、それを隠すため?」
「う…うん」
「西夜さん、ちょっといいですか」
「どないしたん、琉真」
「東子さんのことなんですが…」
 部屋に入ってきた琉真は言葉を選びながら切り出した。
「『あの人』僕と弓さんの能力は欲しがったのに、東子さんには何の興味もないようだったんです。もし僕が伊邪那岐側の人間だったら、預言者の能力なんて何をおいても欲しいはずなのに…」
 西夜の顔色が変わっていくのが分かった。長い沈黙の後、歯ぎしりをして西夜が言葉を絞り出した。
「…それ、他の誰かに言うた?」
「いえ」
「黙っといて。安も聞かんかったことにしといてもらえるか」
 西夜の態度に二人は頷かざるを得なかった。
「…西夜、この際だから、もう一つ聞いていい?東子ちゃんのことでずっと気になってたこと」
 おずおずと安が切り出した。
「どうして東子ちゃん、学校行ってないの?西夜の妹ってことは義務教育終わってないよね?」
「安には関係ないやろ。黙っといて」
「でも口が利けなくても…普通の学校が無理なら障害者の…」
『こっちには預言者がついている』


  バン


 怪我をした腕で思いきり机を叩く。
「黙れって言うとんのが聞こえんのか!このアホが!ほっとけや!こっちにはこっちの事情があるんや!」
「ご…ごめん」
 苛立ちが頂点に達したらしい。そのすごい剣幕に安は謝るしかなかった。
 安と琉真は部屋から何も言わずに出て行く。
 西夜は行き場のない拳を机に何度もぶつけていた。
「まさか…東子が……」
 一番考えたくない答えが頭から離れない。
「違う!違う!絶対に違う!」
 西夜の部屋のふすまが静かに開けられた。そこに立っていた少女。
「東子…東子は違うよね…『今生きてる人』だよね…」
 すがるように言う西夜に頷いて、今にも泣きそうな兄を抱きしめる。
「…東子…」
 西夜からは見えない位置で東子は目を細め口の端だけで笑った。
 その笑顔は、まるで深い深い夜を護る死神のようだった。




「だーかーらー能力に頼って先輩は無茶しすぎなんですって」
 いつも通りの口調で遥歌は栄を叱責した。
 横で砂城は布団に寝かされている。栄曰く、眠っているだけだそうだ。
「うるさい、このくらい一人で……痛っ」
「ほらぁ!」
 傷口を消毒し、不器用な手で包帯をグルグル巻きにしながら遥歌は言った。
「……しかし、一体お前は何者なんだ?私に触れるだけでなく、あの須佐之男たちの反応は……」
「秘密です。もうじき分かることですよ」
 唇に指を当てた。

 月子は別室で自分で治療していた。怪我人全員の傷は安が言霊で一通り治したが痛みは取れないらしい。比呂乃は自分の能力で治そうかと言ってくれたが、全員がそれを断った。「比呂乃のことを忘れたくない」と異口同音に言う皆に申し訳なさと同時に嬉しさも感じたようだ。




 そこは見覚えのある病室だった。個室に響き渡る悲鳴。
「お母さん、痛いの?」
 ベッドに横たわる若い、しかし老け込んだ女の横で、ぬいぐるみを抱いた少女は立っていた。
「お願い…砂城……ころし…て」
 後ろから少年が入ってきた。
「無理ですよ」
「雪!」
「この子の能力は『特定の人物に半永久的に死ぬより辛い痛みを与え続けること』ですから。しかも一度かけた術を解くことができない」
「私が……何を…したって……いうの……?」
「お母さん、砂城のこと、ぶった。砂城のこと、悪い子だからって、何度もぶった……雪のことも…悪い子だって…言った」
「そんな……そんなことで…」
「そんなことが人を傷つけることもあるんです」
 言うと、雪はポケットからナイフを取り出し、枕元に置いた。
「貴女が楽になれる方法はこれだけです。首か心臓を正確に狙ってくださいね。もちろんこのまま使わなくても構いませんが…」
 雪の言葉が終わるか否かと言う矢先、何のためらいもなく母親はナイフを心臓に自分の手で突き立てた。
 血しぶきが部屋中に散らばる。
 もちろん、雪と砂城にも。血のりのついた自分の足下を見て



 ようやく目を覚ました。
「起きたか、砂城」
 砂城は現実に帰るのにしばらく時間がかかった。和室に寝かされていたのだと把握して息をつく。
「夢…?……昔の…夢か……」
「雪の夢でも見ていたのか?」
「うん……雪とお母さんの昔の夢」
「そうか」
 言って革手袋で頭を撫でる。
「もう少し休んでいろ」
「ううん、寝たらまた嫌な夢見そうだから起きてる。怪我したわけじゃないし。バイト行って、紅音を迎えにも行かなきゃならないし」
 言って立ち上がり、欄干に駆けてあったスプリングコートを手に取った。
「分かった。だが無理はするな。それから最近紅音の顔色が良くない。気をつけておいてやれ」
「そう?分かったわ」
 砂城が立ち去ってから、隠しておいた銃と拾って来た空薬莢を手に取って見つめた。
「まったく…誰だ?こんなもの渡したの…」
 一呼吸おいて苦笑した。
「……雪しかいないか」




「何で俺を呼ばなかったんだよ!」
 怒号が辺りに広がった。巴がナヲの胸ぐらを掴む。
「何で俺ばっかりいつもカヤの外に置いてるんだよ!ナヲ!」
「お前には死なれちゃ困るからだよ」
 言って頭を撫でた。
「嘘つくな!ナヲも比呂乃も俺のことなんて歯牙にもかけない!」
 目を潤ませながら叫ぶのを止めない。
「俺はそんなに非力か!俺の能力は何の役にも立たないって言うのか!知ってるんだぞ!俺の前にいた、巴って女のこと!俺はそいつの代わりでしかないのかよ!」
  パン
 ナヲが巴の頬を叩く。
「お前が『巴』のことを口にすんじゃねーよ。そうです。お前はただの代替品です。『巴』の能力を持ってるから拾いました。って言えば満足かよ」
「…ああ、そういうことかよ。いいよな、お金持ちの坊ちゃんはなんでも気軽に棄てられて」
 左頬を押さえ巴は呟く。
「比呂乃だって…どうせ棄てるんだろ?」
 夜闇の中、ナヲは踵を返した。




「あら、砂城さま」
 立ち寄った伊邪那美の家の庭を竹ぼうきで掃いていた小夜子は突然の来訪者に驚いた様子だった。
「メールくれたでしょ、知らない子が来たって。確認したくて」
「ええ。ですが、申し訳ありません。どこのどなたか分からないんです」
「そんな人を伊邪那美様は通したの?」
「はい」
 砂城はカバンからスマホを取り出しボタンを何度か押して一枚の写真を小夜子に突きつけた。
「この人じゃない?」
「あ、そうです。確かにこの方です」
 素直に頷く小夜子に砂城は舌打ちする。
「あなた、これが誰か分からないの?万夫さんに雇われてるんでしょ!」
「雇われ……では……」
「小夜子さん、あなた一体何者?」
 小夜子はしばらく考えてから、ゆっくりと首を傾げた。
「誰かは言わないように万夫さまから強く申し付けられておりますので」
「やっぱり……」
 『強く申し付けられて』ということは言霊で口止めされているということだ。
「でも」
 砂城の言葉に静かに人差し指に口を開けた。
「これも秘密なんですけどね」
 辺りを軽く伺う。
「私の本名は時実小夜子と申します」




「私…帰ります」
「え?」
 それは翌日の朝。比呂乃の言葉に安たちは顔を上げる。
「家に帰ります。ここにいたら皆さんに迷惑かけるだけだし」
「でもお母さんと…」
 安が言うと、比呂乃はスマホの送信ボックスを見せた。そこには何十件にも及ぶ『お母さん』と記されたアドレスからのメールが並んでいた。
「ここに来たときからずっと、謝ってきてくれたんです。だからもうきっと大丈夫。どうしてもダメだったら、お父さんと一緒に能力のことも含め真実を全部話します。いっぱいいっぱい話をして……そうじゃないと道は開けないと思いますから」
 西夜は少し考えて、顔を上げた。
「ほんじゃぁ弓さん、帰るのもう一日だけ待ってもらえる?それから今日は学校が終わったら寄り道せんとなるべく早う帰ってきて」
「え?は、はい…」
 比呂乃は戸惑いながらも頷いた。




「あの…何でしょう、早く帰ってきてって…」
 翌日、戸惑いつつも夕方には帰ってきた比呂乃にエプロン姿の西夜は笑った。
「今日な、給食の時に栄養士さんに聞いてきたんや。カロリー低くて胃に優しくておいしい料理」
「はぁ…」
 エプロンを比呂乃に押しつけた。
「中華粥と白身魚のお刺身」
 じゃん、っと丁寧に作り方の書かれたメモを見せる。
「一緒に作ろう、な?自分で作ったもんなら食べられるかもしれへんし、食べられんでも作るだけでも楽しいで」
「……はい」
 頷いてエプロンをつけ、髪を後ろに結んだ。




「料理うまいですやん」
 手早くネギをみじん切りにする比呂乃に西夜は感心する。
「……食べられなくなる前は自分で作ってましたから。水吹さんは?」
「京都にいたとき、お手伝いさんに教わって。なんか楽しそうやったんで…性に合ってたんやろうね」
 言って笑う。




「へぇ、中華粥なんて初めて見ました」
「ファミレスで食べたことが一回だけあるけど、なかなか美味しかったよ」
「あ、そっか。琉真はイギリス育ちやから口に合わへんかもなぁ。まぁ、せっかくの弓さんのお手製なんやから食べてみぃや」
「うん、いただきます」
「……いただきます」
 比呂乃は皆より少し遅れて、呟いた。
「あ、独特ですが、なかなか美味しいものですね」
 琉真は言った。比呂乃は白いレンゲを持って、迷いつつもほんの少し口をつけた。
「どう?」
 安が気遣わしげに覗き込む。
「おいしい…です」
 二口目を口に含んだ比呂乃の頬から大粒の涙がこぼれ落ちた。
「…く、口に合わへんかった?」
「……違うんです。なんで…」
 とめどなくこぼれる涙を必死に拭いた。
「なんで…私のために…」
 比呂乃はポロポロと涙を流す。
「…私なんかのために…ここまでしてくれるのかって…私はトロくって、何にもできなくて、人に迷惑ばっかりかけて…なのになんで愛想尽かさないんですか?なんで追い出さないんですか?」
 安は後ろから比呂乃を優しく抱きしめた。
「みんなね」
 比呂乃の髪を撫でた。
「みんな弓さんのこと好きだからに決まってるじゃんか」
 振り向くと安が優しく笑った。比呂乃は目に涙を浮かべたまま微笑んだ。




「それじゃ、お世話になりました」
 玄関先で深々と頭を下げた。
「俺が送っていくよ」
 安は言って携帯と財布だけをポケットに入れて、比呂乃の背を押した。
「弓さん、この家には血のつながってへんもんばっかりや。だからこそ家族になれる」
 東子がギュッと比呂乃の右手を握って笑った。
「だから…」
 西夜に安、琉真と鏡子も微笑んだ。
「困ったら、いつでもここに帰っておいで」




 神社の石段を降りてすぐ比呂乃の様子が変わった。急に顔が青ざめる。
「気分悪いんですか?」
 安がそういうより先に、道の端の溝に吐瀉物を落とした。さっき食べた夕飯が全て溝に落ちる。
「ご…ごめんなさい。我慢…してたんですけど」
 ハンカチで唇を拭く。
「私、どうしてこんなことになっちゃったんだろう…」
「え?」
「最初はただ…綺麗になりたかったんです。池条さんに釣り合うような綺麗な人に…。でも私、美人でもないし…だからとりあえず…痩せようと…。食べるのを減らして…食べ過ぎたら自分で薬使って吐き出して…そのうちに…何も食べられなくなって……」
「もう…やめましょう…弓さん…やっぱり…無理ですよ。あの家に帰るなんて」
 比呂乃は安の方に向き直りながら笑顔を作ってみせた。
「大丈夫です。ちゃんとお母さんとも話し合って…」
 涙を流しながら、背筋をのばして言った。
「強くなるって決めたんです」
 安は比呂乃の両手を取った。
「強くならなくても頑張らなくてもいいんだよ。弓さんは弓さんでいればいいんだから。ちょっと内気で照れ屋ででもよく気が利いて優しい、そんな弓さんが好きなんだから」
 比呂乃は頬を赤く染めて頷いた。
「ありがとうございます」




「……ただいま…」
「比呂乃!心配したんだぞ!」
 玄関を開けた途端、父親が飛んできた。母親は不機嫌な様子を隠さず、しかし父親の手前か何もしなかった。
「ごめんなさい…でも…お父さん…私全部思い出したから」
「え?」
 父親が言葉に詰まる。
「話がしたいの。お父さんもお母さんも…話し合いたいんです」
 比呂乃はリビングのソファに静かに腰を下ろした。
「お母さんって言うのやめてって……!」
「ううん、お母さんは私のお母さんだから。聞いてもらえますか?長くて非現実的な話になると思いますが」
「比呂乃、話してくれ。お前の考えてきたこと感じたこと。夜通しでも構わない」
 父親は比呂乃の細い肩を強く抱きしめた。
「話し合おう」




「夜分、恐れ入ります。伊邪那美様」
「栄、どうかしましたか?」
 突然の訪問に伊邪那美は目を丸くした。
「小夜子から、先日見知らぬ少年が訪ねてきたとの連絡を受けまして…」
「ああ、何でもありませんよ」
 伊邪那美は笑顔で返す。
「『何でもない』相手を通したのですか?」
「それを言うなら栄も本来は入ってはいけない者なのですよ」
 栄は言葉に窮する。
「ここに入ってもいいのは太榎万夫さまの許しを受けた者のみ。万夫さま亡き後、通す相手は私自身が決めることです」
 いつになく強い口調だった。
「それなら一つだけ答えてください」
「はい?」
「その訪ねてきた者とは誰なのですか?」
「私に最も近しい者の一人です。それ以上は答えられません」
「でしたら伊邪那美様。一つだけ約束してください」
「?」
 栄は伊邪那美の手を取った。
「私を貴方の百番目に大切な人にしてください」
 伊邪那美は一瞬キョトンとして苦笑する。
「栄、私には百人も知人はいませんよ」
「ええ、ですからいつになっても構いませんから作ってください。九十九人の人に囲まれて笑う貴方を一番遠いところから見守らせてください」
「栄?」
「私はそれだけで幸せなのです」



「やだー!あかね、おいしゃさん、やだー!」
 開院時間ちょうどに、小さな小児科の門の前で砂城と紅音は言い争っていた。すると座り込んで手足をジタバタさせる紅音がひょいと宙に浮いた。
「わがまま言うんじゃない、紅音」
「栄クン!」
 抱きかかえられたままでは抵抗のしようがない。紅音はすぐに大人しくなった。扉を開けると、砂城が診察券を取り出した。
「こういう時、健康保険には入ってないのは痛いな」
「どうせ病院なんて年に一度来るか来ないかなんだから、保険入ってたらかえって高くつくわよ」
 一番乗りだったのですぐに診察室に通してもらえた。栄は待合室の座面が低く設計された椅子の隅に座る。
「今日はどうされました?」
 中年の医師が尋ねる。
「風邪だと思うんですけど、咳が止まらないのと顔色も優れなくて…」
 砂城が答えた。
「咳?」
 医師が聴診器を当てたり、扁桃腺を看たりするが首をひねる。
「お母さん、採血してもいいですか、念のため」
「は…はい」
 数分後、待合室越しに絶叫が響き、栄は受付の事務員と他の患者にひたすら謝った。




 揺るぎなかった絆に小さな傷がついたことも知らずに。


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