Artist Web Siteたけてん

かむがたりうた

第拾参章 「グウゼン」




木は
木だから。
草は
草だから。
認識の出発点は
あのあたりだった。
そこから
すべてのこととすれ違ってきた。

自分の行く先が
見えそうなところまできて
私があわてて立ちどまると
風景に
早く行け、と
追い立てられた。

        石垣りん「行く」





「智樹、放課後でいいから今日お姉ちゃんのところ行ってくれる?お母さん用事があるのよ」
「えー、俺、部活あるのに。そんな毎日行かなくてもいいだろ」
 朝食の食パンをかじりながら泉原智樹は母に向かって言った。
「何言ってるの!毎日行ってあげないとお姉ちゃんかわいそうでしょ!」
「かわいそうって……。分かったよ、部活終わってからなら」
 最後に残してあったパンの耳を平らげて、制服をパンパンと叩くと泉原は立ち上がった。




『無意識のうちに言霊遣いや能力者と近づけてるほど『運がいい』人がいるとしたら?』
 ナヲは桔梗の言葉を頭の中で反芻する。通勤ラッシュの車内。
 安の周辺を調べてみるか?
 あのムカつくオトコオンナに聞いてみるか?
 いや、どれも望みは薄そうだ。
「ミラ……」
 呟きは雑踏の中にかき消された。
(久々に行ってみるか…)




「あれ?弓さん?」
「太榎さん」
 通学路の途中で見覚えのある後ろ姿に出会った。
「そっか、学校星ヶ丘って言ってましたもんね。偶然ですね。今帰りですか?」
「はい、太榎さんは帰宅部ですか?」
「弓さんも?」
「はい、大抵帰りは巴君達のところに行ってるので…あ、太榎さんも行きませんか?」
「ええ、ぜひ」
 安は笑って頷いた。
「俺もご一緒していいかな?巴君に会いたいんだ」
 突然後ろから声をかけてきたのは桔梗…いや月子だった。
「お知り合いですか?」
「ええ…えっと…稲荷月子さん」
「二十三歳のフリーターッス。イチオー出版社でバイト中の作家志望♪かわいーね、キミ。名前は?」
「え……えっと…弓です…」
 比呂乃は顔を赤らめながら大きく頭を下げた。
「なんてね。知ってるよ。弓比呂乃ちゃん」
 月子は笑顔で比呂乃の頭を撫でた。
「え?」
 訝しげに比呂乃は顔をしかめる。
「お父さんが大学で太榎教授の助手をしてたんだよね。今は準教授になってるけど」
「は…はい」
「え、父さんの?」
 今度声をあげたのは安の方だった。
「太榎さんって太榎教授の息子さんだったんですか?てっきり単なる同性かと…」
 言って比呂乃は笑った。
「偶然ってあるものですね」




「比呂乃!…と、安…と名前忘れたヤな奴」
「館風桔梗ッス」
「違うだろ。ナヲから聞いた」
 軽く挨拶をする月子に不機嫌な様子で巴は返した。
「いや、呼ぶときは桔梗で統一してよ。めんどいっしょ?」
 月子は肩をすくめる。
「そ…それより、巴君…今日はマフィン作ってきたんだけど…」
 比呂乃はおずおずと紙袋を差し出す。
「うわーありがとー!比呂乃!」
「今日はナヲさんはまだお仕事?」
「いや、何か用があって今日は来れないって…」
「…そう」
 残念そうに俯いた。巴も何を思ったか俯く。月子はそんな巴の頭をバンダナ越しに撫でた。
「切ないねぇ、少年」
「っなんのことだよ?」
 顔を真っ赤にする巴。
「もうお前帰れ!」
「言われなくても帰りますよ?」
 ヒラヒラと手を振る。




 陽が西に沈みかけた頃に、泉原は憂鬱な足どりで墓地を歩いていた。手には通学鞄と一緒に先ほど買った仏花を持っていた。
(やだなぁ夕暮れ時の墓場なんて。くわばらくわばら)サッと掃除だけして帰ろうと「泉原家先祖代々之墓」と書かれた墓石に向かう。そこでふと目についた、自分の家の前にスーツ姿の男性の立ち姿。向こうもこちらに気がついた。
「泉原…智樹…?」
 整った顔立ちの青年は自分の名前を呼んだが、自分にはその顔に記憶がなかった。
「……あなたは?」
 不審げに目を細める。
「そっか、赤ん坊の時に何度か会っただけだもんな。参ったな。あの時の子供がこんなに大きくなったのか」
 独り言を言いつつ、ふと青年はある事に気がついて目を丸くした。
「その制服…弘英高校ですよね?何年ですか?」
「え?はい、二年になったばかりですが…」
「なるほどそういうことか…」
 青年はため息をついてから、軽く頭を下げた。
「池条ナヲです。あなたのお姉さんの彼氏でした」
「彼氏?」
「はい、ミラ……いや『泉原巴』さんの」




「『比呂乃』って、太榎教授の『万夫』からつけられたんです」
「へぇ、通りで似てるわけだ。よっぽど父さんのこと尊敬してくれてたんですね」
 もう陽も落ち、帰り道も街頭とネオンの灯りに照らしだされていた。
「ええ、私もよく話を聞かされました。優秀で立派な方だったと……」
「あ、危ない!」
「痛っ!」
 後ろから来た自転車を避けようと比呂乃の手首を引っ張った。途端、比呂乃は顔を歪めた。
「え?弓さん、怪我でもしてるんですか?」
「え…ええ…ちょっと…」
 庇おうとする右手を安はゆっくりと取った。手首を見ると大きな青痣がくっきりとついていた。
「どうしたんですか、コレ!」
「…ええっと…階段で転んじゃって」
 ふと見ると脚にもまだらに痣がある。
「違う!転んだくらいでこんな傷できません!」
「……その…お義母さんが……」
 比呂乃はためらいがちに言う。
 安は目を尖らせた。
「殴られたんですか?」
「も…もう慣れてますから…仕方ないんです。実の娘じゃないから、可愛くないのは当たり前だし」
 比呂乃はかぶりを振った。
 安が左手首も見ると、ギョッとした。そこにあったのは無数の深い切り傷。
「これは…自分で…?」
 バッと安の手は振り払われた。
「気にしないでください。クセみたいなもので……」
 無理に笑顔で取り繕うとする比呂乃は安の顔を見て目を丸くした。安の眼からこぼれ落ちていたのは大粒の涙。往来の人目も気にせず、涙は滴り落ちる。
「ど…どうして太榎さんが泣くんですか」
「だって…哀しいじゃ…ないですか……」
 ギュッと安は比呂乃を抱きしめた。
「お…太榎さん」
「なんで…弓さんは…こんなに優しいのに……そんな目に遭わなきゃならないんだよ…」
 比呂乃の目からも一筋の涙が流れた。
「ありがとうございます…太榎さん…」




 ナヲは電車の中で鞄の底から一通の古びた手紙を取り出した。封筒には入っていない、便箋四枚を束ねただけのもの。そこにあったのは「池条君へ」から始まる太榎万夫の筆跡だった。
「池条ナヲ君へ
 君にこの本を託す。君の考えは分かっているつもりだ。後は自由にしてもらって構わない。」
 そう始まる手紙の三枚目の前の方。
「まだ誰も見つけていない能力者の名前を教えておく。
 それは」




「ハル」
「安?何でこんなとこに?」
「それはこっちのセリフだよ」
 通勤客のごった返す新宿駅のホームで安と遥歌は顔を合わせた。
「あたしは古典の研究会があったから」
「俺はこの近くに知り合いがいて…」
 言うと後ろからパタパタと比呂乃が遅い足で走ってきた。
「太榎さんすみません。SUICAの残高がなくなってるとは思わなくて…」
「知り合い?」
「うん、弓比呂乃さん。星ヶ丘の二年生」
「こ、こんにちは。太榎さんのお友達ですか?」
 はぁはぁと息を切らす比呂乃は顔を上げる。その瞬間、表情が凍りついた。
「あ……ああ…あ…」
 声にならない声を絞り出す。
「し、知り合い?ハル!」
「知らないわよ!」
「い…いやぁああああああああああ!」
 ホームの雑踏の視線が一同に注がれるが、構わず比呂乃は悲鳴を上げてその場に膝をつく。大粒の涙がこぼれ落ちる。
「どうしたんですか!弓さん!」
「…いや…思い出したく…ない…!お母さん…」
 遥歌が比呂乃の両肩を支える。
「はる…ちゃん…ごめんなさい…はるちゃん」
「え?」
「……思い出しました…太榎安…さん…太榎家の末裔……太榎教授の息子さん……忘れちゃならないこと……」
「弓さん!どうしたんです!」
「思い出したんです……私は十年前自分で自分の記憶を消した……ごめんなさい……全て…話します……」
 途切れ途切れだったがそこだけははっきりと言った。
「私は…能力者です」




「それは弓比呂乃という私の助手の娘だ」




「伊邪那美様」
 小夜子に呼ばれた伊邪那美はゆっくりと振り返った。
 手には黒の髪染め液とタオルを持っている。
「ああ、今日は十五日でしたね。分かりました。すぐに向かいますのでお風呂場で待っていてください」
「はい」




 とりあえず、と泣きじゃくる比呂乃を西夜の家まで連れてきた。
 玄関を開けると西夜が走り出してきた。
「安、大丈夫?一応、言われた通り栄さんと砂城ちゃんは呼んでおいたけど…」
 遥歌も後に続いて一礼する。
「弓さんが、あたしも一緒に話を聞いてほしいと仰るので、ご一緒させていただきました」
「あなたが…弓比呂乃さんですか…。栄さんにも東子にも見つけられへんかった能力者の…」
 比呂乃はコクリと頷いた。
「ナヲはとうの昔に気づいていたみたいだがな」
 居間から顔を出した栄が言った。
「……栄…さんですよね?お久しぶりです」
 涙を拭いながら比呂乃はまた頭を下げた。
「知り合い…なんですか?」
「やはりお前か。私がストリートにいた時から、しょっちゅう来てた」
「とにかく中に入ってください」
 西夜が比呂乃の背を押した。




「弓さん!」
「旗右…さん…あなたも能力者だったんですね…」
 居間に座っていた砂城は声を上げる。
「栄クンと紛らわしいから、砂城って呼んで。それより知ってて近づいたんじゃないのよね」
「はい…全て…偶然です」
 東子と琉真は揃って軽く頭を下げた。比呂乃も頭を下げて自分から下座に座る。鏡子が人数分の緑茶を出してきた。
「…えっと…何からお話ししましょうか…」
 少しの沈黙を置いて比呂乃は言葉を切り出した。
「私の能力は…どんな怪我や病気も治す代わりに、その相手の自分に関する記憶も消してしまうことです」
「記憶?」
「はい。小さな頃は怪我をした動物の手当をしたりしていましたが、人間相手に初めて使ったのは実の母です」
 一呼吸おいて目に涙を溜めながら俯いた。
「母が重い病気にかかって…それを治すために……この能力を使いました。母はすぐに元気になりましたが、私のことを…産んだことさえも忘れて、それで両親は離婚しました」
 ようやく落ち着いてきたのか、哀しげなのはそのままだが口調はスムーズになってきた。
「私の能力に気づいた父は誰かに…おそらく太榎教授でしょう…に相談し、環境を変えることを勧められました。それで神奈川に引越して…はるちゃん…天川遥歌さんに出会い、仲良くなりました」
「あたし?だってあたし、確かに小一まで神奈川に住んでたけど貴女のことなんて全然知らないわよ!」
 思わぬ話の振られ方に遥歌は声をあげた。
「それも偶然…ですか?」
 琉真の問いかけに、比呂乃は、恐らく、と頷いた。
「……小学一年の夏くらいの頃のことです。立入禁止の場所で遊んでいたら、不意の事故で天川さんは崖から落ちました。相当な重傷で…それを治すために、また能力を使いました」
「それで天川は弓のことを知らな…いや覚えていないのか?」
「はい。それがきっかけで今度は天川さんが引越して…。でも…母親に次いで親友をなくした罪悪感と後悔で私はしてはならないことをしました」
「してはならないこと?」
 頷いて自分の胸に手を当てる。
「自分自身に術をかけました。記憶をなくす能力を自分で自分に使いました」
 全員が揃って目を見開く。
「それって…」
「弓さんが完全に記憶をなくすってことじゃ…」
「そうです…。皆さんが私を見つけられなかったのは、私自身が自分が能力者だと忘れていたからだと思います。確かに私には六歳以前の記憶は全くありませんでした。ただ、やっぱり自分にかけた能力は不完全なものだったみたいです。先ほど、以前術をかけた天川さんにお会いして、全て思い出しました。そして…」
 ようやく言葉がしっかりしてきたと思ったら、また俯いて、言葉を選んでいるようだった。
「私が小学四年の頃、こっちに戻ってきて父が再婚した相手は」
 それは安に向かって言っているようだった。
「私の記憶をなくした私の実の母です」
「え?じゃぁ、虐待受けてるっていうのは……」
「私を産んだ記憶のない…私を義娘だと思ってる実の母です」
 言った瞬間、比呂乃の両目から涙が溢れ出す。
「…私は…実の娘じゃないんなら…嫌われても仕方ないと思ってました。でも…覚えてないとは…いえ……あの人が本当のお母さんだったなんて…」
「辛いね…辛かったね…」
 安が後ろから強く抱きしめる。
「…お母……さん…」
 比呂乃は安の腕を強く握った。




「じゃあ、俺が送って行くから」
 栄と砂城が帰った後、比呂乃と肩を並べて安は言った。
「ほんじゃ、天川さんはウチが…」
 西夜の言葉に遥歌は頷く。




「大丈夫ですか?」
 すっかり暗くなった道で安は比呂乃の顔をのぞきこんだ。
「……はい…すみませんでした」
「謝ることじゃないですよ。西夜達も能力者が見つかったて喜んでたし」
「…能力者…ですか」
 慣れない言葉を比呂乃はかみしめる。
「私なんかでも…誰かのお役に立てるんでしょうか」
「ええ、だからこそ来てもらったんでしょうから」
「私…この能力を思い出した時、こんな能力なければいいって思ったんです。こんな能力なければお父さんもお母さんも天川さんももっと普通の人生を歩めたんじゃないかって」
「でもそうだったら、お母さんもハルも今頃死んでたかもしれないでしょう。もっと自信を持ってください。弓さんは優しいし、よく気がつくし…その…」
 安はその時自分の中に沸き上がる感情に初めて気がついた。始めから彼女のことを「可哀相」なんて思っていなかったんだ。
「家ここですので、それじゃ…」
 笑顔で振り返った比呂乃を強く抱きしめた。
「…その…とっても可愛いです」
 自分と比呂乃の体温が上がって行くのが分かった。
「……太榎……さん…ありがとう…ございます……」




「……………」
「……………」
 普段雄弁な二人が並んで歩いているのに口を開かなかった。
「天川さん…機嫌悪いですか?」
「当たり前じゃない!何よ、あの子。あたしだって安に抱きつかれたことなんてただの一度もないのに!」
「あ、怒るのってそこなんや。てっきり自分の記憶を消されたことかと…」
「もーなんで男って、こう頭が悪いんだろ!記憶なんてどうせ時間が経てば消えて行くものよ。そんな曖昧なものをいじられたからってどうってことないわ」
 不機嫌に地面を蹴った。




 比呂乃が家に入るのを見届けて、自分も帰ろうと踵を返したその時だった。

  パン


 慌てて、安は比呂乃の家の門を開けた。
 その途端、玄関に人の体がぶつかる音がする。
「…お…母さん……」
「何?いきなり気持ち悪い!『お母さん』なんて呼ばないでって一番最初に言ったでしょ!」
「でも…」
「弓さん!」
 安は扉を開けると足下に比呂乃が倒れ込んできた。
「何、あなた?」
 母親が声を荒げる。
「…太榎…さん?」
 安は比呂乃を庇うようにして、両肩を抱き上げた。比呂乃は乱れた髪のまま、よろよろと立ち上がる。
「いいんです…いつもの…」
「いつものことだから問題なんだろ!」
 安は激昂した。
「出よう、弓さん!こんな家出よう!我慢するのは強さじゃない!」
 言って安は母親の方に向き直った。
「すみませんが、しばらく比呂乃さんを預からせてもらいます」
 自分の家ではないが、西夜なら事情を話せば住まわせてくれるだろう。
「太榎さ…キャ…!」
 安は比呂乃の肩とひざを支え抱き上げる。
「それじゃ、失礼します!」
 玄関扉を開けた安はそのまま外へ出た。




「す、すみません、思わず勝手なことしちゃって!」
 我を忘れていた安はハッと正気に戻る。門の外まで出て、ゆっくりと比呂乃を降ろした。
「立てますか?」
「はい、ありがとうございます…」
 大丈夫、と言いかけてよろめいた。安はそれを胸で受け止める。
「なんか黙ってられなくて…。俺も父からネグレクト…っていうんですか?そういうことされていたので…」
「何だか似てますね、私達」
 言って笑顔を作る比呂乃の唇に安は唇を重ねた。まるでそうすることが決まっていたかのように自然に。夜道を襲う静寂は一層唇の味を広げさせる。
 そう『可哀相』なんて一度も思ってなかったんだ。心の中にあったのは北国の雪のように少しずつだが降っては積もる想いだけ。ほんの一瞬だったのか、長い時間だったのかも分からない。
 唇を離して最初に声を出したのは比呂乃の方だった。
「……ありがとうございます。でも私好きな人がいるんです」
 言って頭を下げる。
「俺の知ってる人?」
「……巴君を知ってるならご存知だと思います」
 恥ずかしそうに頭をかいた。
「池条ナヲさんです」




「なぁ、おふくろ。池条ナヲって知ってる?」
 墓参りのせいでいつもより少し遅い夕飯になった泉原は、二杯目の白飯を頬張りながら母親に尋ねた。
「あぁ、お姉ちゃんが生きてた時、何度かウチに遊びに来てたわねぇ。それがどうかした?」
「いや、今日姉ちゃんの所行ったら、偶然出くわしてさ」
「そうなの?元気そうだった?」
「うん、なんかスーツ姿で、宮内庁に勤めてるって言ってた」
「そう、よかったわ」
 言うとどこか寂しそうな笑顔で自分の分の皿を並べ始めた。




「そういう事情なんでしばらくここにおいてやってもらえないかな?」
 西夜の家の居間で安は比呂乃と肩を並べた。
「私はいいですが…」
「ウチは構わへんけど…」
 東子も頷く。
「でももう空き部屋あらへんで」
「安さんさえ構わなければ、僕の部屋を安さんと半分こしてもいいですよ。それで安さんの部屋に弓さんが来られれば…」
 琉真が笑顔で言う。
「そんな…太榎さん達にあまりに悪いですよ」
「いや、そうする!琉真、ありがと!」




 さほど広くない浴場に伊邪那美は下着姿で入ってきた。先に洗い場に立っていた小夜子は、伊邪那美の髪を持ち上げる。
「決まりとはいえ、毎月面倒ですね」
 伊邪那美は軽く笑った。
「そう仰らないでください。では一度色を落としてから黒く染め直しますね」
 髪に液を塗りシャワーで流す。その長い髪はみるみる黒色を消し去っていく。伊邪那美の髪の地毛は安や万夫と同じ鮮やかな茶色だった。




 聞き慣れた着信音に安はスマホを手に取った。液晶画面に表示されたのは父が馴染みだった弁護士事務所。
「はい、お世話になってます。太榎安です」
『お世話になってます。桑田です』
 案の定、電話の向こうから聞こえたのは万夫の知人であった弁護士だった。
『万夫さんの遺産の件で確かめたいことがあるんですが…』
「なんでしょうか?」
『万夫さん、家を二件持ってらっしゃいましたよね?』
「え?」
『知らなかったですか?安さんがお住まいだった家の他にもう一件』
 愛人でも作って住まわせていたのだろうか。安は一人ごちた苦笑を浮かべる。
「住所を伺っていいですか?」
『はい、えっと東京都……』
 住所がどんどん具体的になるにつれ安の顔から笑顔が消えていった。
 伝えられた家は伊邪那美が住んでいるあの家だった。




 ケホ、ケホと紅音の小さな咳が止まないことに砂城は気がついた。
「風邪?栄クンも顔色悪いって言ってたし病院行く?」
「だいじょーぶ!あかね、おいしゃさんきらいだから、だいじょーぶ!」
 全然通ってない理屈で両手をブンブンと振って否定する紅音の額に手を当てた。
「少し熱いような…じゃぁ、今日はお薬飲んですぐ寝るのよ。明日になっても治らないならお医者さん連れて行くからね」
「お薬、甘いのがいい!」
「はいはい。家のシロップの風邪薬まだ使用期限過ぎてなかったわよね…」
 よいしょ、と紅音を抱き上げる。
「重くなったわねえ、紅音」
 夜道で二つの影が重なった。




「で、貴様に一つ聞きたいのだが、何故私の部屋にいる?」
「安にフラれた腹イセです。いいでしょ、あたしは触れても死なないんだし」
 パソコン作業をする横で遥歌は栄にピタっと抱きついた。
「やめろ、邪魔だし気持ち悪い」
「ひどいなぁ。可愛い後輩が失恋したのに慰めてもくれないなんて」
 手を離すと、ソファベッドに寝転んだ。
「このくらいで諦める貴様ではないだろう?」
「まあね、『シナリオ』はまだまだ用意されてますから」
 不敵に笑った。
「先輩、せっかくだから、あたしとつき合いません?」
「断る」
「え?、誰か好きな人でもいるんですか?」
 遥歌の問いに返って来たのは無言だけだった。
「あ、いるんだ!どんな人です?」
「関係ないだろう」




「伊邪那美様」
 部屋をノックした後に、小夜子の声が聞こえた。
「はい?」
「見覚えのない少年が伊邪那美様にお会いしたいと言ってきてるんですが…」
「少年…?分かりました、とりあえず通してください」
「承知しました。何かあったらすぐにお呼びください」




  ドサッ


 弓家のリビングで人の倒れる音がした。
「比呂乃が出て行っただと?あいつのことはお前に任せると言っただろ!また殴ったりしたんじゃないだろうな!」
「そ…そんなこと…」
 帰宅したばかりのスーツ姿の比呂乃の父親が、ソファに頭をぶつけた母親の胸ぐらを掴む。
「でなければ、あの聞き分けのいい子がそんなことするものか!」

  パン


 頬を叩く音がこだまする。パンパンと同じ音が繰り返された。母親は頬を押さえ、声をかみ殺す。
「あの子はなぁ…あの子はお前の……」
 それ以上は口にできなかった。
「……ええい!もういい!」
 口惜しそうに舌打ちをする。そしてとどめに、と言わんばかりに女の鳩尾を強く蹴った。




 安はぐっすり眠る琉真の横で、なかなか寝付けずにいた。
(全ては偶然なんかじゃなく)
 嫌な予感が胸を掠める。
(父さんが仕組んだことではないのか?)


Back Next