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かむがたりうた

第拾弐章 「オンナ」




ぱさぱさに乾いてゆく心を
ひとのせいにはするな
みずから水やりを怠っておいて

気難しくなってきたのを
友人のせいにはするな
しなやかさを失ったのはどちらなのか

苛立つのを
近親のせいにはするな
なにもかも下手だったのはわたくし

初心消えかかるのを
暮らしのせいにはするな
そもそもが ひよわな志にすぎなかった

駄目なことの一切を
時代のせいにはするな
わずかに光る尊厳の放棄

自分の感受性くらい
自分で守れ
ばかものよ

        茨木のり子「自分の感受性くらい」





「館風(たちかぜ)君、館風君はいないのか?」
 小さなビルをワンフロア借りただけの出版社に低い男の声がこだました。
「ええ、今日はもう帰りましたよ。これからデートだって張り切ってましたから、呼び戻すの無理だと思います」
 パソコンに向かっていた女性が答える。
「困ったなぁ、この特集記事頼もうと思ってたのに」
「俺がやりますよ。所長はいつも『館風君』ですよね。バイトに社員より優先して仕事回さないでください」
 青年が詳細を書いた紙を中年の男から取り上げた。
「悔しかったら彼よりいい記事を書いてみろ」
「ええ、書いてみせますよ!まったく、館風君も何で社員にならないんだか」
「彼、小説家志望らしいですよ。週刊誌のライターじゃ終わりたくないんでしょ」
「ライターやりながら小説家目指してる人なんてたくさんいるだろ?」




「さて、ようやくお目にかかれるか。誰が一番いいリアクションするかなぁ」
 長い髪を荒く縛った青年は鼻歌を唄いながら、神社の境内に入った。そこに黙って佇んでいた東子は深く頭を下げ、家の中を指差した。




「どうしたの、安?」
「いや、ちょっと考え事」
 入学式の片付けに駆り出されたはいいが、パイプ椅子を両手に持ったまま表情は上の空の安に遥歌は声をかけた。
「立ってるだけだと邪魔よ。何か用事があるなら帰っていいのに。先生にはうまく言っておくわよ」
 困り顔の遥歌に安はパイプ椅子を預けた。
「……ごめん!」
「やれやれ。ほら、行ってらっしゃい」
 走る後ろ姿を見送ると遥歌はパイプ椅子を倉庫に運んだ。




「あれ、誰か待ってるんじゃない?」
「ホント、結構可愛い子ね」
「でも弘英高校でしょう。そんな高校の生徒と親しくしている人なんているのかしら」
 綾楓女学院の校門の門柱にもたれて、生徒の顔を一人ずつ確認している少年。
「ねぇ、茅原さん」
「やす…太榎君」
 安はてっきり「やっすしく?ん」と抱きつかれるとでも思ったが、砂城はニッコリと首を傾けて上品な声で言った。
「あら、茅原さんのお知り合い?それは失礼なこと言ってしまったわね」
「いえ、気になさらないで。それでは私ここで失礼するわ」
「ごきげんよう」
 軽く会釈をして、砂城は友人達…といっても、昨日知り合ったばかりなのだが…と別れる。
「で…何の用、安クン?」
 安の方に向き直った砂城はいつも通りの顔だった。
「とりあえずここから離れるわよ」




「ただいまー」
「お帰りなさい、西夜さん。お客さまがお見えですよ」
 ホームルームだけで授業はなく昼前に帰って来た西夜を、鏡子が割烹着の裾でぬれた手を拭いながら迎える。
「客?ウチに?」
「と、東子さんにだそうです」




「でさ、その時四回生だったからさ、俺さ…」
 西夜が居間に行くと、明るい声が一人分だけ聞こえて来た。膝を崩し、日本茶を傍らに何やら愉快そうに話しているのは青年だった。
 向かい合う東子はただ黙って頷いてるだけなのに一体何が楽しいのか。
「よぅ、西夜君、おかえり」
 二十代前半くらいだろうか。歳の割には高い声。長い髪を無造作に後ろで束ね、黒い長袖のシャツにジーンズ姿。
 青年は西夜の姿を見つけると、白い肌でニパッと笑いかける。
「…って…誰?」
「やだなぁ、忘れたの?まぁ、君達が小さい時に会ったきりだったからな」
 立ち上がり笑って右手を差し出す。
「生きててすんません。館風桔梗(たちかぜききょう)と申します」




 砂城とようやく落ち着いたのは学校とは反対側にあるコーヒーショップの窓際のカウンター席だった。
「びっくりした?、ガッコ来られると困るわよ。一応『お嬢様学校』なんだし、女子校だから目立つし」
「ごめん、でもやっぱり昨日のこと聞いておきたくて」
「昨日?ああ、バイトのこと?だから割いいんだって、それだけ。フーゾクで働くのがそんなに悪いこと?歳ごまかしてたのはともかく今になったら悪いことだなんて微塵も思えないわよ。安君に説教される謂れはないわ」
 不機嫌そうにホットコーヒーに口をつける。
「旗右さん?」
 少女の声に砂城はビクリと肩を震わせた。
「旗右?」
「やっぱり。制服姿ですから分かりませんでした。横にいるのは…太榎さん?」
「弓さん」
「お二人知り合いだったんですね」
 盆にアイスティーを乗せて、比呂乃は嬉しそうに笑ったが、砂城の表情は固まっていた。
「旗右って…」
「え、違いますか?旗右砂城さんですよね?」
「え…ええ…」
 こんなに戸惑った砂城を見るのは初めてだ。安はきょとんと目を見開いた。
「高校生だったんですね。娘さんがいるので、てっきり二十歳は超えてるんだと思ってました。お父さんもお若いですしね。あ、別に私、事情は人それぞれだと思ってるので高校生で子持ちでも変な目で見たりは…」
「ち、ちょっと、弓さん!その話題パスで!」
 砂城が比呂乃に両手でストップをかける
「砂城ちゃん…聞きたいことが山積みなんだけど」
 左隣から安の声がした。




「生きてた?だって、確かにあなたは…恋人をかばって死んだって…」
「人の口ってのはいい加減なものさ、どこでそんなことになったのか。かばって死んだのは彼女…稲荷月子(とうかつきこ)ってんだけどね…。生きていたのは俺の方」
「それで、俺は死んでないよ?、て自己紹介とコレを取りにね」
 言って差し出したのは親指の先ほどの小さな黒い機械。
「何これ?」
「アキバで買った盗聴器☆三九八〇円」
 青ざめる西夜に対し、桔梗は何の悪意もない風に飄々とした表情は変えない。
「いつからや!」
「ここに太榎安が住み出してから。なので安心してよ。何の説明もいらないから。あ、これ俺のケータイの番号とIDね」
「どんな安心?」
 叫ぶ西夜を横目にケラケラ笑って部屋を出て行こうとした。
「そうそう、東子ちゃん」
 襖から出て数歩してから、引き返して来た。
「『すーさん』によろしく。あと喋った方が可愛いよ」
 それだけ言うと、玄関から去っていく音だけが残された。
「何言うてんのや?東子は喋らないんやなくて喋れへんのに」
 東子は俯いて自分の唇に触れた。




「そうだなぁ…何から話そうか」
 安に睨まれ、砂城は比呂乃を少し離れた席へ追いやると、やむなく口を開いた。
「砂城のお母さんって、茅原の会長の愛人だったのよ…」




 小学生の頃、妾だった母親が病気で死に、茅原の家に引き取られていた。豪邸の一室を貸してもらった、肩身の狭い居候生活にも慣れてくる。茅原には自分よりかなり年上の二人の息子がいた。
「それ」が起きたのは、小さい頃からよく見知っていた雪という少年が死んで、間もない頃だった。雪がいない喪失感から砂城は学校にも行かず、ほとんど何も食べず、部屋にこもったままでいた。そんな生活がどれくらい続いただろう。

  バタン


 静寂を打ち破る扉を開ける音。砂城はゆっくりと顔を上げた。
「……お兄さん」
 鍵のかからないこの部屋に入って来たのは二人の義兄だった。
「てめー、何があったか知らねーけど、いつまでもウジウジして目障りなんだよ!」
「マジウゼー、居座るだけなら出てけよ」
 痩せた砂城の小柄な体はベッドに投げつけられる。
「……き…」
「喋るな!」
 義兄は砂城の口を塞ぐと上にのしかかってくる。もう一人は首に手をかける。シャツのボタンが乱暴に取り払われ、胸が露になる。
「……や…!」
 恐怖のせいか、長い間誰とも話していなかったせいか、声がうまく出ない
(やめて……!)体を押さえつけられ、身動きが取れない。兄の方がジーンズのチャックを開けるのを見て、目を閉じた。
「おい、ヤりすぎんなよ。俺の分も取っとけ」
 ケラケラと二人の笑い声が聞こえる。
「……たす…て…ゆ…き……」




「砂城ちゃんの居場所が分からない」
 西夜からそう連絡を受けたのは雪が死んでから半年近く経った頃だった。入学手続きなど、自分のことで精いっぱいだった栄は、西夜から教えてもらった砂城の住所に走って行った。




「砂城の居場所?」
 自分には縁がないと思っていたような豪邸。
 家政婦から取り次いでもらい玄関に出て来たのは、この家の次男だという青年だった。
「今別荘にいるけど、行っても無駄だと思うけどな。何か、ユキ?ユキの子だ、ユキの子だ、ばっかり言ってて」
「『子』?」
「あれ?知らねーの?あいつ妊娠したんだよ。まぁ、中坊のクセに遊んでる風だったしな。それで堕ろせって言ってんのに『ユキの子だ』って聞かねーんだよ。頭おかしくなったみて…」


  ドカッ


 栄の手袋越しの拳が義兄の頬を容赦なく打つ。
 壁に叩き付けられ、倒れる青年。
「雪が茅原にそんなことするか!貴様がやったのか!茅原を!茅原はどこだ!返答次第では本気で殺す!」
 激昂する栄はかがんで胸ぐらを掴んだ。
「痛って?。殴らなくても教えるって。小田原の別荘。住所は…」




『小田原?小田原でございます。お降りお乗り換えの…』
 快速を使ったが一時間少々の電車での道程がいやに長く思えた。
(雪にあれだけ砂城達のことを託されたのに…)自責の念ばかりが襲って来る。教えられた住所にようやく辿り着いた。そこはこじんまりとした一軒家だったが、庭が広く林のように緑の生い茂った場所だった。砂城はその庭で揺り椅子に揺られていた。
「あぁ、栄クン」
 今まで見たことのない穏やかな表情で栄を見る。膨らんだ下腹を大切そうにさすった。
「雪の子なんだ。雪も喜んでくれてる」
「茅原!」
「砂城ちゃんって呼んでくれなきゃやだなぁ」
 ふふふ、と笑う。
「しっかりしろ!茅原!」
 両肩を揺らすが、砂城はキョトンとして首を傾げる。
「どうしたの?栄クンは喜んでくれないの?」
「思い出せ!雪は死んだ!…私が殺した!その子は雪の子じゃない!」
「だって…雪は…」
 みるみるうちに砂城の顔色が灰色になる。
「雪は死んだ!」
 目に涙をいっぱいに溜めて砂城は頭を抱える。
「い…いやぁあああぁあぁぁあああ!」
 耳を裂くような声が辺りに広がり、砂城は気を失った。




「二十二週、過ぎてるから堕ろすのは無理だって」
 病室に入った西夜が言って来た。
「そう……」
 ベッドに横たえられた砂城が目をゆっくりと開いた。
「目が覚めたのか、茅原」
「砂城ちゃん、だって…」
 砂城は力のない声で笑顔を作った。
「ごめんな、結構長いこといなくなるのって珍しゅうなかったから…ウチがもっと早う気づいとったら…」
「いや、私が雪に託されたのに…」
 眠っていた砂城の両手を皮手袋越しに強く握った。
「……すまない。本当にすまない」
 砂城が首を振った。
「砂城…それでも生きたい……栄クン、頼みがあるの。この子には名前が必要だわ。茅原じゃない…茅原とは無関係な名前が……だから栄クンが十八になったら…名前を…貸してくれる?」




「それで…旗右先輩と入籍を?」
 安は尋ねる。
 長い話を終え、砂城はコーヒーを飲み干した。
「そ!だから、砂城の今の戸籍上の名前は『旗右砂城』で紅音は『旗右紅音』ただ学校は辞めるのも名前が変わるのも体裁が悪いって、茅原の家がお金積んで『茅原砂城』で通してくれてるけど。とはいえ栄クンとは一緒に暮らしてもいないし経済的に援助は受けてないわよ。情けないじゃない、そんなの」
 傷を負った話を終えたのに気楽にひらひらと手を振る。
 それに合わせたように砂城の携帯が鳴った。
「電話?」
 安は尋ねた。
「ううん、LINEよ」
 キラキラしたデコジュエリーで飾られたスマホを見る。
「あ、西夜クンからだ」
「西夜?」
 長い文らしく、読むのにしばらく時間がかかっていた。
「館風さんが?行くわよ、安クン!」
 安の腕をつかむ。
「弓さん、用事ができて。せっかく会えたのにごめんなさい!」
「気にしないでください。お会いできただけでも嬉しかったです」
 離れた席で本を読んでいた比呂乃は顔を上げ微笑んで手を振った。




「この人口密度、かなり居心地が悪いのだが…」
 割と広いとはいえ、人が集まり、しかも栄の手元を覗き込むように密集している。その中心に据えられている栄は頭を抱えた。
 そこに揃ったのは栄、安、砂城、西夜、琉真の五人。
「でも栄クン、調べてくれたんでしょ?」
 ほら、と一枚の紙を砂城に差し出した。
「館風桔梗も稲荷月子も死亡届は出ていない」
「出てないんじゃなくて、あえて出さなかったんじゃないですか。月子さんの死を認めたくなくて…」
「ああ、恐らくな。その証拠に館風桔梗は大学に入学したりバイトしたりと痕跡が残っているのに、稲荷月子は十七歳以降まるで行動した記録がない」
「学校は?」
「館風桔梗も稲荷月子も高校には行っていない。館風桔梗は大検を受けて進学したみたいだが。これが大学の卒業証明のコピーだ。ちょうど一年前のものになる」
 栄から砂城に渡された写真には小さな写真がついていた。
「これが館風…桔梗さん?」
「確かに、今日会うたんはこの人や」
 西夜は写真を見て頷いた。




 境内のベンチで東子はじっと街を見下ろしていた
「役者が揃ったようだな…」
「須佐之男…」
 音もなく石段を上って来た青年に微笑む東子。
「お前に何もかも託してしまってすまない。しかし俺は…」
「いわないで。あなたの望み必ずかなえるから」
 一旋の風が通り抜けた。
「そのためには誰を失おうとかまわない」




「キミが巴君?」
 公園の水道でTシャツを洗っていた巴に声をかけて来た青年。
「誰、あんた?」
「キミとは初対面だったね。俺は館風桔梗」
「能力者、だろ?」
 割り込んできた声はスーツ姿のナヲだった。
「あれ、池条ナヲ?」
「『さん』つけろよ、若造が」
「あぁ、ヤダヤダ、若者の態度に文句つけるおじさんは。もうすぐ加齢臭とかしてくんよ」
「うわ、久々にマジ切れそう。っていうか、テメー生きてた…いや『違う』な」
 ナヲは怒りの表情をフッと曇らせる。
「あっはっはっ、さすが長生きしてる人は見る目があるねぇ。お礼にいいこと教えてあげようか?」
「どうせロクなことじゃないだろ」
 手を叩いて笑う桔梗にナヲは顔をしかめる。
「どうだか、『ミラ』についてなんだけどね」
 ナヲの顔色が変わる。
「君は幸運を人に分け与えることのできる能力者を知ってるかい?そして、ミラがその能力者に接触して自分の身内に幸運を分け与えていたとしたら?無意識のうちに言霊遣いや能力者と近づけてるほど『運がいい』人がいるとしたら?」
「運がいいって…ナヲ、俺のこと?」
「……いや」
 ここに巴がいるのが口惜しかった。
「あとは自分で調べてよ。それじゃ、俺はこれで。ホコリっぽいとこ嫌いなんでね」
「何がホコリっぽいだよ!何?ナヲ、あのムカつく奴!」
 地団駄を踏み、あっかんべーをする巴の横でナヲは何かを考え込んでた。
「言霊遣いに…近づけてる?」




「いやー、みんなお揃いで!俺のために悪いねー!」
「『ため』というか『せい』だがな」
 高らかに縁側から入って来た桔梗に栄は眉をひそめる。
「ていうか、なんで僕らがここにおるって分かっ…あ!」
「『取りに来た』とは言ったけど『もうない』とは言ってないよ。新しいのは『アキバで二四八〇円☆』しかも前より高性能」
 西夜の顔から血の気が失せる。
「ど…どこに……!」
「落ち着け、西夜。後で私が探してやるから」
「そうよ、それどころじゃないでしょ」
「うわー、驚いたな。君があの時の砂城ちゃん?キレーになって!キスしていい?」
「嫌」
「いい反応だねー、さすが男相手の商売してるだけあるねー」
「あなたはどこまで僕たちのこと知り尽くしてるんですか?」
「君が…琉真君か。筑波あづみとの馴れ初めでも語ってあげようか?」
 琉真は顔をしかめ、茶をすすった。
「遠慮します」
「さて、自己紹介も済んだところで」
「自己紹介やったんか、あれ?」
「皆さん、俺が本当に館風桔梗かお疑いのようですが…」
 ツッコミをいれる西夜には取り合わず、桔梗はペコリと頭を下げた。
「砂城達が一番疑ってるのは…」
「俺が『生き返らされた者』なんじゃないかってことでしょ?違うよ…てどう証明すればいいかなぁ。免許証でも見る?」
「『生き返らされた者』でも『館風桔梗』でもないんだろ?」
 後ろから低い声がした。
「ナヲ!」
「池条さん!」
「ご無沙汰しております、水吹さま」
 行儀よく一礼する。
「水吹『さま』?」
「あ、やめてぇな。ウチ、今家出中やから普通に喋って」
「分かりました」
 いつもの態度からのあまりの豹変ぶりに安は砂城に耳打ちで尋ねる。
「西夜クンの実家は皇族の一端で、しかも長男だから、宮内庁勤めの池条さんからは目上になるのよ」
「へぇ」
 そんな人と同居してたのかと安は今さら息をもらす。それを察して砂城はビシッと指差した。
「言っとくけど、万夫さんが家督放棄さえしなきゃ、太榎家ってのはそれより上の立場だったのよ。何て言ったって言霊遣いなんだから」
「え…?」
「さてと、それはさておき『館風桔梗じゃない』ってどういうこと?」
「そーだなぁ…安、ちょっと来い」
 ナヲが桔梗より一歩前に出て、安に手招きする。訝しがりながらも、安は立ち上がる。ナヲ以外の全員が疑問で眉をひそめる。安がナヲの前まで来ると、ナヲはおもむろに右手首を掴んで、桔梗の左胸に触れさせた。

  むにっ


「うわあぁああぁああぁあぁ!」
 驚きと恥ずかしさとその他いろいろな感情が混ざった声で安は思わず部屋の反対側の壁まで後ずさる。
「あはははは!やっぱり安選んで正解だった!さすがドーテー!リアクションサイコー!」
 腹を抱えながら、ナヲは指差して笑う。
「困ったもんだね、池条ナヲには」
 桔梗は…いや、桔梗であるはずの女性は、至って冷静にポリポリと頭をかいた。
「どういうことや?」
 安を起こしながら西夜の疑念を抱いた視線は『彼女』に向けられた。
「砂城ちゃんの怒った顔も可愛いんだけど、白状するかな」
 言って肩をすくませた。
「俺の本当の名前は稲荷月子。館風桔梗の恋人だった女だ」
「じゃぁ、本物の館風さんは…」
「キミ達が聞いた通り、俺を庇って桔梗は死んだ。それからは月子が死んだことにして、俺が男装して桔梗として生きてきたってワケ。元々容姿は割と似てたし、お互い親しい知り合いも親戚もいなかったしね」
「何でそんなこと…」
「それこそ恋人の死を認めたくなかったんだろう」
 答えたのは栄だった。
「ご明察。さすが、雪クンの代わりに生きてるだけあるね」
 栄は眉をひそめる。
「殺すぞ」
「ってか、本当に死ぬわよ。冗談半分でこんなことしてたら」
「やめないよ」
 きっぱりと言い放った。
「死ぬかもなんて覚悟の上だよ。君たち能力者を相手にしてたらね。それでも…」
 凛とした瞳。
 安は初めてこの人が女に見えた。
「俺は桔梗が生きた証なんだ」




「うわぁああああああ!」
 個室病棟に叫び声が響き渡る。
「茅原さん!」
 看護士が暴れる青年を押さえながら声を荒げた。砂城の義兄。医師が駆けつける。
「またか!体に異常はないのにどうしてこんなに苦しむんだ?しかも兄弟揃って!」
「もう三年もこの状態ですよ!新種の病気でないんですか?」
「苦し……助けてくれ!いっそ殺してくれぇ!」
「茅原さん!しっかりして!今、麻酔を打ちますから!」
『わぁあぁあああああ!』
 隣の病室から同じような叫びが聞こえた。
「あぁ!お兄さんの方も!私行ってきます!」




「先生」
 別の看護士が医師に向かって、おずおずと声をかけた。
「別の病院だから分からなかったんですが、茅原さんご兄弟の腹違いの妹さん…砂城さんと仰るらしいんですが…の亡くなられたお母様が同じような症状があったと…」
 医師は頭を抱えた。
「一体何がどうなってるんだ?呪われてでもいるのか?」
 看護士に渡された書類をパラパラとめくる。
「茅原の家は」


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