私の憂鬱。
第二十三話
ぐらぐらと、心が惑う。
やっぱり、身体は正直に反応してしまう。
彼のキスはとても気持ちが良くて、私もそれをある程度受け入れてしまっていて、
だけど、でも。
心のどこかはやっぱり虚しいの。
その瞬間、私は我に返ったかのように目を開いた。
一度冷静になってしまえば、指先のつめたさが妙に気になっていた。
私はぐっと腕に力をこめる。
「ごめんなさいっ!やっぱり無理!!」
全力で拒絶しても、今となっては言い訳になってしまうってわかっている。
けれどもやっぱり。
ここで彼に寄りかかるなんて出来ない。
万が一戻ってきたら、新にどんな顔をしたらいいのかわからないもの。
「深咲……」
腕を突っ張って、彼から距離を取る。
今日はもう、日付が変わったから一週間と五日。
もう明後日には結果が出るわ。
今日を入れたってもうあと三日じゃないの。
そのくらい根性で乗り切らないでどうする!
ここで流されちゃったら、今までの自分を全部否定してしまうようで怖い。
可愛気がないとわかっていても、やっぱりそんな自分にはなれそうもなかった。
「ごめんね、一哉。あなたとはやっぱり……この先どうなるつもりもない。たとえ彼に振られたとしても私は一哉を好きになれないんだもの」
「どうしてそう決め付けるんだ?わからないじゃないか」
一哉の言葉に、私は逡巡したけれど、結局口にする事にした。
ひどく、彼を傷つけるとわかっていても。
「……恋していなかった」
「!」
「あのときだって、私は、あなたを好きだろうと思っていたけれどきっと違う。友情にも似た愛情だったから、心が痛まなかったの」
「深咲……!」
「あなたのことは当時も今も、大切だって思うわ。でもそれは未来を共にしたいとか、一緒に居て心が震えるとか、そういうことではないの」
「これから、気持ちが育っていけば、」
「一哉」
遮るように発した声に、一哉の瞳が揺れる。
ああ、あんな事を言っておいて、あなただって十分に純粋なひとだ。
「昔も、今も、無理なんだもの。これから先だって、きっとないのよ」
きっぱりと言い切って、彼の瞳を真っ直ぐに見据える。
しばらく固まっていたけれど、やがて彼の取り巻く空気がふ、と綻んだ。
「…………君は、本当に変わらない」
「!一哉?」
「最後、俺の浅はかな賭けにも君はのってこなかったし、今回もそうだね。いつもいつも、折れそうで折れない」
「私は……」
「いつもそんな深咲が綺麗だと思ってた。強くて、でも儚い存在だと。だからかな。腕の中に居てもひどく不安だと感じるのは」
「そんな、大層な人間じゃないわよ、私は」
ため息混じりに言うと、そうかな、と一哉は笑う。
彼もやっぱり、私をどこか遠くに置いていこうとする。
でも別に私は普通の女だ。
さっきだって流されてもまあいいかなー、とはやっぱり思ったんだし。
きっと賭けの期間が終了していたら、そして新が居なかったら、彼に抱かれていたんじゃないかな、と、正直思う。
でもそうなったら、一哉は私に幻滅するんじゃないだろうか。
矛盾しているようだけど、私はそう感じずにはいられなかった。
「私を好きだと言ってたひとは多分、理想と付き合ってたんじゃない?」
「……そうかもしれないね」
ふ、と苦笑する一哉に、私も苦笑を返そうと、した瞬間。
急に視界が歪んだ。
「!深咲!!?」
焦る一哉の声が遠くに聞こえて、私はそれがなぜなのかわからなかった。
段々と意識が遠のいていく感覚に『あ、倒れてるのかな』と思った瞬間、倒れた事はないから、これをきちんと頭が記憶してくれるといいな、と
作家魂を燃やしながらその馬鹿馬鹿しい思考を最後に私は意識を手放したのだった。
――――――――――――――――
眠気に負けて寝てしまった時とはまた違うんだな。
強制的に持っていかれるというのはこういう感覚を伴うものなのか。
ふむ、とひとり頷いていると、私は非常にまずいことを思い出した。
そう、それをされては非常にまずい。
「駄目!!」
大声をあげて弾かれたようにとび起きた私は、予想したものと違う光景に少し驚いて固まった。
あれ、ここは。……私の部屋、よね?
しん、と静まり返った室内は、いつも通りの私の部屋だ。間違いない。
てっきり救急車でも呼ばれてしまったのかと思ったけれど、そうじゃなかったみたい。
良かった。もし大事になってたらと思うと怖かった。
安堵の息を吐いて私が胸を撫で下ろしていたちょうどそのとき。
がちゃ、と部屋の扉が開いて、そこに居たのはまあ当然だが一哉だった。
目を丸くしながら駆け寄って、ベッドに腰かけつつ、私の頬に両手で触れながら顔を覗き込んでくる。
「深咲!良かった、起きたんだ……」
「ご、ごめん。まさか私倒れるとは思ってもみなくて」
「あのな……」
「一哉、重ね重ね申し訳ないんだけど!この事編集部とかに言った!?」
「……言ってないけど。あと救急車とかも呼んでないよ。往診できる医者探して来てもらったから」
「そ、そうだったんだ、良かった~……」
「深咲、意識完全に手放す前、自分で言ってたじゃないか」
「え?」
呆れたような一哉の顔と声音に、私はわからなくて首を傾げる。
本当に覚えてないのか?と再度彼が呆れ顔で付け足すので、私は素直に頭をこくり、と縦に動かした。
「知られたら不味い、両親が、内密に、とかなんとか」
「そ、そんなことを!?」
「ああ。なんでご両親に知られるとまずいんだよ?」
叫び声を上げた事にも彼は呆れていたようで、まだ寝てろ、と言いながら再度私をベッドに横たわらせた。
そういえば彼がこの部屋に入ったのは初めてだな。
なんだか色々と居た堪れなくて、私は掛け布団を顔半分まで引き上げた。
「……うちの親、ひどく私の仕事反対しているからさ、過労で倒れたなんて格好の餌だもの。だったら戻って見合いしろって言うに決まってる」
「反対!?どうして?」
目を丸くする一哉に、私は両親とのあれこれをぽつぽつと話す。
しばらくはずっとうなずくだけだったけれど、彼にとっては私に反対する両親が信じれらないようだった。
「深咲みたいな素晴らしい作家を潰そうとしてしまうなんて!そのひとたちは深咲の本を読んだりしないの?」
「うん。……私くらいの作家いくらでもいるだろうって」
その言葉に、何か剣呑な雰囲気になりかけたが、私の両親だから、と思ったのだろう。
それは彼の心のうちにのみ吐き出されて、表に出ることはなかった。
しかしそのかわりなのか。
鬱憤を晴らすかのように、彼が私の額を軽く指で弾いた。
私は地味な痛さに変な呻き声をあげてしまう。
「過労と軽い栄養失調だって。深咲、ろくなもん食べてなかったろう?」
「そ、れはー……」
「進藤君が居なくなる前は自分でちゃんとやってたんだろ?駄目じゃないか、体調管理もプロの仕事のうちだよ」
「め、面目ない」
なにも言い返せないで小さくなる私に、彼はくす、と笑った。
「今、21時くらいだけど。お腹減ってる?」
「うーん……そんなに」
「けっこう食べてないだろ?駄目だよきちんと三食摂らないと」
まったく、と言って頭を撫でる彼の手つきは柔らかい。
私はまたも申し訳なさでいっぱいになりつつ謝罪の言葉を口にした。
「まあ、とにかく今日はゆっくりと休んで。下にお粥が作ってあるから、お腹が減ったら食べて」
「え?そ、そんなことまでしてくれたの!?」
「当たり前だろ。好きなひとに目の前で倒れられたんだぞ?なんでもしたいって思うじゃないか」
一哉の言葉に驚いて、私は狼狽する。
先程までの流れで、てっきり彼は諦めてくれると思ってたのに。
その様子に気が付いたのだろう。一哉がふ、と微笑んだ。
「深咲、ひとつ勘違いをしているね」
「え?」
言葉の意味がわからなくてきょとん、とする私を視界に留めれば、一哉がす、と目を細めた。
なんだか雰囲気が、変わってますけど。さっきの続き、なのかしら。
「確かに俺は、君の幻影みたいなものに最初は恋したかもしれないね。けれど、それはあくまでも最初のうちだけだよ」
「!」
「みっともない君も、俺は全部見たいって思ってる。可愛い君の一面を、見てみたい。もしも好きな相手にそれらすべてを曝け出してるんだとしたら、妬けるね」
「か、一哉?」
「……ごめんね、賭けとやらの結果が出るまでもうちょっと踏ん張らせて。きっと、そんなに時間はかからないんだろう?君の様子を見る限り」
彼の言葉にぎくり、と指先が僅か反応したけれど、答えないほうがいいように思えて、私は無言を貫いた。
しばらく私をじっとみつめていたけれど、やがて彼は困ったように微笑む。
「それじゃ、俺はそろそろ退散するよ。ベッドで眠る深咲を目の前にこれ以上紳士的でいられる自信がないからね」
「……あなたね」
「お大事に。明日も様子を見に来るから、無茶をしたら駄目だよ」
「え、かず」
最後の言葉に驚いて私は思わず起き上がり彼の名前を呼ぼうとしたけれど、一哉はさっさと退出してしまった。
「……編集者は、これからが本番なんじゃないの?」
作家は原稿が上がればそれで仕事が終わるけれど、編集者はむしろそこからが仕事のはずだ。
きっとこれから彼は忙しい日々を過ごすに違いないのに。
どうやって時間を作るつもりなんだろう。
……今度は彼が倒れちゃったりして。ああ、洒落にならないわね。
ため息を吐いた私は、なんだか急にお腹が減った気がした。
先程の一哉の言葉が本当ならば、台所にお粥があるはずよね。もらおうかなあ。
さっきすいてない、とか言ったくせに私という奴は。
渇いた笑いをひとり漏らしながらも、私はそっとベッドを降りる。
うん、足はそんなにふらつかない。
なんか緊張してたのが一気に糸が切れちゃって気を失ってしまったんだろうなあ。
ぼんやりとそんなことを考えつつ、私はぺたぺたと茶の間へ歩を進める。
さすがに真冬は足元から冷える。靴下履いて来れば良かったわね。
新が発掘したスリッパは、どこに保管してあったんだっけ。
結局すべて面倒臭いと一蹴すれば、部屋に戻って靴下を履くこともなく、スリッパを探すこともなく、私は台所へと到着した。
ひとつの子鍋が目に付いて私はこれだろうか、とそうっと蓋を開けてみる。
「おお、卵粥ね」
なんか、葱とか人参っぽいのも入ってる。美味しそうだな。
火にかけようかと思ったけど、これまた面倒だと思ってしまった私は、どんぶりにお粥をよそうとレンジに放り込んだ。
ブーン、と唸るような音がして、私は温めている間なにをするでもなく、庫内を光らせる電子レンジをながめていた。
それにしても。
少し前までは、適当とはいえひとりでなにもかもやっていたのだ。
それが今やどうか。
料理はしない、掃除は後回し、必要最低限の事すらできない。
原稿にかかりきりになっていたからという言い訳だって出来るけれど、ここまでひどかったのはいまだかつてなかった。
確かに辛い時だってなくはなかったけれど、一応はお腹に入れていたし、倒れでもしたら連れ戻される、という強迫観念だってあった。
それは、自分がある程度大切だったということだと思う。
元々、あまり私は私を大切にしない人間だったけど、この生活から抜け出す事だけはどうしても嫌だった。
それは常に念頭にあったはずなのに。
そこまで考えたところで、機械が温め終わった事を告げたので、私は一度考えるのをやめてレンジからラップしたどんぶりを取り出した。
温かいというよりむしろ熱いくらいのそれを急ぎ足で茶の間へと運んで、コップに水を注いでスプーンを手にちゃぶだいへと腰かけた。
久しぶりのご飯の匂い。家で作ったなにかの匂いに、ちょっと気分が高揚する。
ずっとインスタントだったというのもやっぱり身体には良くなかったのだろう。
自分の身体がそこまで丈夫ではないということに改めて気付かされる。
スプーンですくって、一口含んだ。
「………………うん、普通に美味しい」
くす、と苦笑いしながら出た言葉は、なんだか失礼千万で。
私は申し訳ないと思いつつも本人も居ないので素直な感想を口にしてしまった。
なにもかもが、どうでもよくなった、ってわけじゃない。
いや、それよりもひょっとしたらたちが悪いのかもしれない。
『……新がいないと、出来なくなっちゃった』
洗濯も、部屋の掃除も、料理も、後片付けも。
食べる事も眠る事も。
彼が居たから身体が勝手にそれを欲していて。
彼が居たからそれを当たり前のように享受していて。
ああ、なんだか本当、私は馬鹿な女だなあ。
まともに生活できないなんて、立場ある社会人のあるべき姿ではない。
とにかく、思い出さなければいけない。
彼が居なくとも生活していた頃の自分を。
わかっているわ、わかっているんだけれど。
新。
あなたがいないと、なんだかあれもこれも色褪せてしまって。
ふ、となにかが萎んでしまったみたいで。
彼はもう、とっくに私の人生の一部なのだったと今更ながらに気付かされてしまった。
それを喜んでいいのか、悲しむべきなのか。
それはまだ、わからなかった。
もう一口食べたお粥は、やっぱり特別な味はしなくて。
けれども確かに、美味しいと感じる事ができた。