私の憂鬱。
第二十話
「……………」
今まで書いてきたものを見直す。
悪くはない、と思いつつ私は眉間に皺を寄せていた。
「…この家、こんなに広かったかしら」
うわ、寒い台詞。心の中でなんてね、とか付けとかないと、なんだかものすごく居た堪れない。
音にして外に発してしまった事にますますもって嫌になれば、私は盛大なため息を漏らした。
静まり返った家を改めて見る。
台所。茶の間。本の部屋。半分物置と化した部屋。書斎。私の私室。
ついでにトイレも風呂場も。
新はいない。どこにも。
「…………」
出て行く寸前まで信じた。帰ってくるというその言葉を。
けれど今の私はなに。
全然信じてない。帰ってくるはずがないと思っている。
むしろ帰ってきたら奇跡じゃない?くらいには考え始めてるし。
「…こんなことならやっぱ記憶あるうちに」
あまりにも下品な言葉を口にしようとしてしまい、私は自重して声を閉ざした。
心の中ではばっちり思っちゃってたけど。
あーやだやだ!
やることやったって未練はきっと残るわよ!
「一度も好きだって言えなかったもんねえ…」
ぽつ、と呟いた言葉にまたも羞恥心が沸いてきた。
乙女なんだか薄汚れた大人なんだか自分の思考回路がちょっと理解できない。
結局、歳をとっても変わらない部分はあるという事なのだろうか。
「んー………」
何度か苛立たし気に頭を掻いて、私はふう、と息を吐く。
これはもう、やるしかないわ。
なにより自分の心が納得いってないんだから。
茶の間の時計を見ると現在時刻は午前3時。
うーん、深夜もいいとこ。お豆腐やさんはもう起きる時間かしら。
マグカップを取り出して、コーヒーの粉をそこに入れる。
ポットのお湯を入れスプーンでかき混ぜれば良い匂いがたちこめてきた。
…やっぱり味は可もなく不可もなく、なんだけどね。
一口その場で飲んで、私は書斎への道を少し気合をいれて歩いた。
―――――――――――――――――――――――――――――
『え、書き直す!?』
「そうです」
『なんで!?』
「納得がいかなくなってしまったからです」
『そんな、でも!今書いている作品だって素晴らしい出来なのに』
「新しい原稿を読んでからご決断してくださいませんか。昨日からずっと書き続けてたんでけっこうな量になったんですよ」
『深咲、寝てないのか!?』
「ちょっと…あんた今編集部とかじゃないでしょうね」
急に砕けたその口調に私は眉間に皺を寄せた。
いかんせんこの男は仕事は出来るようだが、興奮すると昔に戻ってしまうからよくない。
『今は外だから大丈夫だよ。それよりも!ちゃんとした生活送ってるんだろうね?』
「送ってるわよ、子どもじゃないんだから」
言いつつ、私は棚から大量に置いてあるカップラーメンを取り出す。
さて今日はどれにしよう。
きのうラーメンだったから今日はうどんにしようかなあ。
『進藤君、辞めたんだろう?雑事はずっと彼に任せっきりだったから苦しいんじゃないのか』
「それはまあ…そうだけど」
『なにかあったら頼れって言ったじゃないか』
「んなこと言われても、無理よ、そんな義理ないし」
『君は僕の担当作家だ。理由なんてそれで十分だろう?』
だろう?って言われても…、なんとなく言葉に窮してしまい私は沈黙する。
するとそれになにを思ったのか、なおも冴島が言葉を続ける。
『わかってるよ、君が俺にそういう事を頼みにくいっていうのも俺がその原因を作ってるのも。それでも深咲がボロボロになる姿とか、俺は見たくないんだ。単なる自分の我儘でしかないけどさ』
「…大袈裟ね」
〆切前に体重が異様に増えたり減ったりとか、そんなの当たり前にあることだ。少なくとも自分には。それだって別に苦しんでいるとかじゃない。
ただ単にその他の事をするのが面倒臭くなるだけなのだ。
集中がそこにしかいかなくなってしまうので、まあ当然といえば当然。
日常生活をきちんと送るのも億劫になってくるのは、確かにちょっと困るかもしれないけれどね。
眠ったりだとか、ご飯を食べたりだとか。そういう行為が極端に面倒になる。
まあ、お風呂は気分転換にもなるからけっこう入るけどね。
『とにかく、今からそっちに向かわせてもらう』
「は!?ちょ、困るわよ!進藤が居る時と違って部屋散らかってるし!」
まあ、元々かなり綺麗に整頓してくれたからそこまでではないけど、毎日のようにしてくれていたそれを今はまったくしていないので
埃がどこかにたまってたりだとか、ごみがたまってたりだとか、そういうのはけっこうあるわけで、ひとが訪問する環境としてはちょっとふさわしくない。
『別にそんなの気にする間柄でもないだろう?とにかく原稿を今すぐ読ませていただきますよ、成島先生。それでは。』
「え、ちょっ」
何事かを発する前に切られた電話を、しばし呆然と見つめる。
おいおい。一哉ってこんなに強引だったか?
固まる私は持っていたカップうどんを無言で棚に戻せば書斎へと戻り、引き出しからお手軽に摂取できる健康食品のひとつを出して食べた。
〆切が迫るとけっこう食事はこうなる。食べない事も多い。
体重は本当に変動しやすい職業よね…ああ、新のごはんが恋しい。
がっちり胃袋つかまれちゃってるなあ、結局。
カタカタと小気味好いキーボードを叩く音。
この仕事を始める…というか本格的に小説を書くようになる前は当たり前だけれどブラインドタッチは愚か、一本打法でキーを叩いていた。
それが今じゃ包丁さばきよりも全然うまくなっている。
女としてはどんどん駄目になっていったけど、ここ数年で私は作家としての自分に誇りを抱けるようになった。
私は、何故新を好きになったんだろうか。
考えてもよくわからない。
ずっと眠っていた女を嫌というほど意識させられて、気が付いたらもう自覚していた。
彼は、私が好きなのだろうか。
もしそうだとして、彼は私のどこに惹かれたんだろうか。
女としての成島深咲と作家としての成島深咲と、どこを見て、彼は私を好きだと言うのだろう。
思考の迷宮にはまりそうになっていたそのときだ。
遠くでぼんやり音が鳴っている感覚はどこかにあったのに私は気が付かなかった。
それが玄関の呼び鈴だとも、ましてや成島家の呼び鈴だとも思わなくて、ただただパソコンとにらめっこをしつつ頬杖をついていた。
「成島先生」
呼びかけられて、私の心臓は驚くくらいおかしな動きをして跳ねる。
至近距離で聞こえたその声に、慌てて振り返れば、何故か書斎の扉を開いて冴島が立っていた。
「さ、冴島さん!?何してらっしゃるんですか!」
狼狽して半ば悲鳴のように声をあげれば、目の前の男は少しずり落ちた眼鏡をくい、と引き上げため息を吐いた。
…って。
ため息吐きたいのは私のほうなんじゃ。
「何度呼び鈴を鳴らしても玄関が開く気配がないので、ひょっとしていらっしゃらないのではないかと思ったのですが…念の為、と扉に手をかけたら鍵が開けっぱなしじゃありませんか。なのに先生のお姿はみえない。もしかして周りの音が聞こえないような状態なのではないか、と思い、失礼を承知の上で勝手ながらここまであがらせていただきました」
な、なんだ。
捲くし立てるようにぺらぺらと…ちょっと怒ってます?
しかしそうか。遠くで鳴ってる音はこの家の呼び鈴であったか……まさか全然気が付かないとは。
新がいないんだしそこらへんはきちんとしなくちゃねえ。
「失礼しました。…ちょっと考え事をしてまして」
「ほう?てっきり執筆中で集中していらっしゃると思っていたんですが…そうではないと」
「え、いえ、あの、」
「成島先生。納得のいくものを読ませていただけるんですよね?」
穏やかな表情で微笑んでいるのにもかかわらず、どこか背筋が凍るこの冷え冷えとした空気はなんなのでしょう。
はっきりと言いましょう、編集者・冴島一哉は怖い男です。
「…先生はやめてください」
「成島さん。どうなんですか?」
「ええ、もちろん。前の原稿とほぼ変わらない程の量まで進みました。私はちょっと休憩がてらコーヒーを飲みますんで、よければ画面上で確認してください。どうぞ?」
立ち上がって、書斎の椅子を冴島へすすめれば、目を丸くしつつも好奇心旺盛なきらきらとした瞳でこちらへやってくる。
彼は、本当に純粋に小説が好きなのだ。
私としては、そういう人間が面白いと思ってくれるものをやはり書きたい。
彼が、この改稿後の物語を読んで何を思うのかはわからないが、作家としての私は間違いなくこちらのがいい仕事をしていると信じてるから。
「…拝見します」
ぎし、と軋んだ椅子の音を合図に、どちらからともなく緊張感がこの空間に流れ込んだ。
冴島は、もうすでに画面に釘付けになっている。
今なら地震が起きても気が付かなさそうだ。
『…ひとのこと非難できないくせに』
集中力があるときに話しかけても返事すらしなかったのはこの男だって同じだ。
おっと、過去の思い出なんておいといて私は休憩、休憩。
今回はちゃんとコーヒー淹れようかな。
どんな結果を言い放たれてもまあ、覚悟はしておこう。
もしも前のが良いと言われたら仕方がない。
私はプロだ。編集者の意向には沿わねばなるまい。
台所にてコーヒー豆を取り出し、電動ミルで挽く。
コーヒーメーカーは随分と使っていない。
いつも淹れてくれていたのは新だから。
…今なにしてんのかなあ。
ああ。
ことあるごとに思い出してしまう自分が憎い。
ぽたぽたと一粒ひとつぶ落ちていく雫をみつめながら、傍らにいつもあった笑顔を思いだしてちょっと変な気分になる。
湿っぽいのは嫌だ。
悲劇のヒロインを気取るのももっと嫌だ。
例えば会いに行きたいのならば探せばいい。
お金と時間がある程度あるのなら然程難しくはないはずだから。
でもきっと…このまま会えなくても私はそんなことしないだろう。
それは、私自身の弱さでもあり、けじめでもあった。
ここでもう終わるならそれでもいい。そんなことを思った。
人間には、縁というものがあるから。
私には仕事があって、これからがある。
大切な感情を彼から教えてもらったんだし置き土産としてはじゅうぶん。
また帰って来ることがあったらそのときは素直になろう。
受身だと思うし、卑怯だとも思う。なんとでも罵ってくれ。
大人になったら捨てられないモンってえのは多いもんさ。
誰に言い訳しているのかもわからずに苦笑しながら、出来上がったコーヒーにミルクを入れて飲み込んだ。
「…まあまあかな」
美味しくも不味くもなくは、ない。
まあまあ、まずまずの味。
でも…美味しい、とは言い切れない味。
「…どうやって淹れてたのよ、むかつくわね」
ぽつり、と呟いた言葉が彼に届いたとしたら、古典的だけどきっとくしゃみをしているんだろう。
…にしても、安い歌の歌詞でもあるまいし。
会えなくてもあなたを想ってます、てか?
……けっ。
「成島さん」
「!あ、読み終わりました?」
コーヒーの入ったマグカップをこと、と置いて、私は茶の間の出入り口に立つ冴島へと顔を向ける。
冴島は、焦点の合っていない目でふらふらとこちらへやってくれば、力が入らないかのようにすとん、と腰を落とした。
おいおい。大丈夫か?
「……深咲」
「?なに」
「お前、今好きな男いるんだろう?」
「!!」
冴島の言葉に私は先程よりも数倍心臓を跳ね上がらせた。
ああ、いつか止まっちゃうんじゃないの、本当に。
「なあ、うまくいってるのか。相手はやっぱり…結婚できない彼氏なんだろ?」
「………それは、ちょっとわからないかしら」
「…失恋しそうなのか?」
冴島の言葉に、私は肩を竦めてコーヒーを一口飲んだ。
「わからないわ。失恋もさせてもらえないかも」
「おいおい。そりゃたちが悪いからやめてくれよ。はっきり玉砕はしてくんなきゃなぐさめられないじゃないか。失恋の痛手につけこむのは卑怯だけど一番効果的なんだからさ」
「あんた…図太くなったわね本当。飲む?」
「ああ、いや…自分で入れるよ」
ちら、とカウンターに置いてあるコーヒーメーカーを視界に留めて、一哉がそう申し出たので、私はそう?とそれを受け入れた。
彼は顔を少し綻ばせながら、棚からマグカップを取り出しコーヒーを注ぐ。
「あ、ミルクはそっちよ」
手で指し示した先に無事発見できたらしく、ああ、と声をあげて、彼はちゃぶだいに戻ってきた。
向かいに座ると思いきや、なぜだか私の隣。…近くないか、距離が。
「深咲…まだ俺のことテリトリーに入れてくれるんだ?」
「え」
「勝手にやるって言ったとき、ちょっと断られるかなと思ったから」
「…別に、たいしたことじゃないでしょう。佐倉相手だって断らないわよ?」
「そりゃあそうだろうけどさ。少なくとも友人くらいにはなってるんだなって」
はにかむように笑うその顔が少し危ないな、と思った。
正直、現時点で彼とどうこうなる気はないのに、砕けた態度を取りすぎてるかもしれない。
なんだか自分が悪魔の所業をしているようにも感じられて慌ててしまう。
「あの、深い意味はないのよ!?申し訳ないけど私は」
「わかってるって。俺が勝手に浮かれてるだけ。ただ、好きでいるのは自由だろう?気持ちは誰にも縛れやしないんだし」
「……そ、うだけど」
清々しい表情でそんなこと言われても困るなあ。
ああ、こういうときどうしたらいいんだかほんっとわかんない。
モテ街道をひたはしってきた女性達って、やっぱりありとあらゆる処世術を身に着けてるもんなのかしら。
なんだかあやかりたくなったわ。
私には無縁だろうから学ぶ心すら端の端にだってありゃしなかったのに。
「……小説のことですけど」
冴島の言葉に、どきりとした。
少し忘れかけていた自分の馬鹿さ加減に呆れてしまう。
緊張に、私はごくり、と喉を鳴らした。
「…はい」
「良いですね。前よりもこちらのが断然面白いと思います。力がある」
「!冴島さん…それじゃあ、」
「ええ。こちらで進めてくださってかまいません。むしろお願いします」
「ありがとうございます、頑張ります!」
満面の笑みで意気込んだ私に、しかし冴島が待ったをかける。
先程はこちらのが良い、と言ってくれたのに、何故だろう。
「深咲、少しつっこみすぎてるかもしれない」
苦笑する彼の言葉の意味を、私は一瞬わからずに固まっていた。
「いつもの冷静さがちょっと足りない。自分がとっぷり浸かって書くのももちろん悪くないけどさ。いつでも客観性って大事だろう?深咲はクールな分そういうの得意だと思ってたから。今回はそれがちょっと欠けてるところがある気がしたんだ。まだ中盤さしかかる前くらいだからわからないけど」
「……………」
それって、つまり。
彼の言葉をやっと正確に理解すれば、私は羞恥で顔を真っ赤に染め上げた。
「…プロ失格ね。言われるまで気が付かないなんて。自己陶酔して溺れるなんてアマチュアの極みだわ!馬鹿だった」
「いや、まあ、いつもより境界線が曖昧な感じがしてそれも良いけどね。目指すのは新境地なわけだから」
「そうかもしれないけど、それだっていつもより近いって意識してないと駄目だと思うわ。ありがとう、一哉。…こっからはきちんと見極めて書く」
「うん。頑張れ」
ふ、と微笑んで、一哉が私の頭を一撫でする。
それに馬鹿な私は少し心を高鳴らせた。
「…では、お邪魔になるので私はそろそろお暇しますね」
「今日は私の我儘を聞いてくださって、本当にありがとうございました」
立ち上がった彼に向かって、私も立った状態でぺこ、と頭を下げる。
私の頭上にむかって、空気が漏れるのがわかった。
彼が笑った気配がして、私は顔をあげる。
「いえ。こちらだって仕事ですから。なんにでもGOサインは出せませんよ。きちんと納得したからです」
「冴島さん…」
「それでは、失礼します。コーヒー、ごちそうさまでした」
微笑んで、冴島は颯爽と家をあとにした。
今はふたりきりだったけれど、特になにもされなかった事に、彼の真摯な思いが伝わってくるような気がして少し胸が痛い。
先程の胸の高鳴りの意味を、私は知っているから。
彼の仕草に他の男を連想する私は、本当に最低の人間だ。
新は、よく私の頭を撫でた。
それを施されるのが好きじゃなかったけれど、新の手は、どうしてか心地良かったから不思議だ。
本当は最初から、囚われていたのかもしれない。
そんなことまで考え出した私は、いよいよ末期のようだ。