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私の憂鬱。

第十八話




「ねえ、こんなことしてて本当にうまくいくの?」
 
携帯電話で呼び出されたホテルの一室にて、お互いにシャワーを浴び終えたふたりはバスローブ姿でソファに腰掛けつつ、向かい合っていた。
 
奈津美の問いかけに、新は苦笑する。
 
「さあ?わからないけど。奈津美さんは自信ないんだ?」
「そりゃあ…あったらこんな馬鹿な事しないでしょう」
 
奈津美もまた新に向かって苦笑するので、なんとなく変な空気が流れるのがわかる。
しかし気を取り直した新は、ここまでの事情を話し終えてひとつ小さく息を吐いた。
 
「とにかく、伊達さんにはバラしちゃったわけだしじーさんには話がいってるのかもしれない」
「会長に、別れろって言われないかしら?」
「そしたら俺が全部ひっかぶるって約束じゃん」
「でも、やっぱりそれは…」
 
眉を顰めて苦しそうにする奈津美の傍らへと腰掛ければ、新は彼女の頭を撫でた。
 
「奈津美さん、そんなにいいひとじゃ、あの家でやっていけないよ?」
「もうっ、やめてよ。その気になったらどうするの?」
 
唇を尖らせて奈津美が新の手を払いのければ、新はおかしそうに笑った。
 
「またまたあ。あの一回だってすっごい後悔してたくせによく言うよ。俺に脅されて今みたいな関係続けてるんだから罪悪感抱くことなんかないんだって」
「あれは…酔っ払って多少自棄になった私も悪いのよ」
 
新と奈津美が出会ったのは、奈津美が聡の婚約者として屋敷に訪れたのがきっかけだった。
引き取られて間もなかった新の様子を、最初、菅原家全員が警戒しているようだった。
無遠慮な目を向け、こちらの狙いを探るかのような会話。
毎日が狐と狸の化かし合い。そんな日々に辟易していたある日の事だ。
 
結婚後はここに住むようになる、と、奈津美を連れ立って聡が屋敷を訪れたのはいつであったか。
そのとき廊下でかわしていたふたりの会話を、新は反芻する。
 
 
―――――――――――――――――
 
 
 
「そんなに緊張されては困るな。君はこんな席でも動じぬようにと教育を施されてきたんじゃないのか?」
「それは…」
「とにかく、婚約者として、これから先妻としても、僕の隣で立派に務めを果たしてくれなければ困るな」
「わ、わかってます」
「頼むよ。…今更、婚約破棄なんてできないのだから」
 
――――――――――――――――――
 
 
 
「…あのとき、悲しそうに唇を噛んで俯いてたのを見て、俺、思わず棒立ちしちゃったんだよね」
「そうそう。それで目が合って!」
「そっからお互いの愚痴に付き合うようになって…ま、よくある話か」
「そうかもね。お互いに慰め合ったじゃないけれど」
 
自嘲しながら発せられるその言葉に、新は無言で頷く。
 
奈津美と新は、お互いにささくれだった心を癒す術を求めた。
だからこそ、抱き合ったあと残っていたのは後悔のみ。
しかし、それにつけこんだのは新だ。
 
協力してくれるのならば、この事は黙っていてやる、と、奈津美を脅し、なんとか祖父やその身辺の情報を引き出そうとした。
今のところ、結果は芳しくはなかったが。
 
「この毎日の会話の録音データだって…一体どのくらいたまったの?」
「もうけっこうな量になったよねー。そろそろ聡さんに聞かせてやるのも面白いと思うんだけど」
「だから!今度こそ婚約破棄されたらどうするのよ!ただでさえ今だって冷や冷やしてるんだからね!?」
 
憤慨する奈津美に、新はごめん、と笑った。
 
ふたりがこうして夜な夜なホテルの一室で会っているのは、こういう協定を結んだからだ。
奈津美は聡の気持ちを確認するため、新は祖父の真意をはかるため。
本当に身体を重ねたのは、酔ったあの夜一回きり。
その後の密会時には、それっぽい写真を撮ってみたり、情事のときを想起させるかのような会話を録音したりして、ふたりの仲を装う証拠を集め続けた。
 
応じた奈津美を、新はかわいらしいひとだと、改めて思う。
余程、聡の事が好きなのだろう。
そして、新は、知っている。
聡がとても不器用で、本当は奈津美に想いを寄せていることを。
 
「何度も言ってるのになぁ。俺、聡さんにものすごーく怖い顔で睨まれて牽制されたんだよ?手を出したらわかってるな、って」
「そんなの、外聞を気にしてに決まってるわ。聡さんはそういう人だもの」
「……ほんっと素直じゃないんだから。でもさ、ここまで写真撮ったり録音したりしたのだって向こうの愛情を試すためみたいなもんじゃん」
「それは、でも…会長を脅す武器にするって新君が言ったんじゃないの」
「だって四日経っても無反応だよ?期待薄じゃない?」
 
肩を竦める新に、奈津美は頬杖をついて息を吐く。
 
「そうねー…どうしたものかしら」
「……奈津美さん、前屈みになると見えるよ。誘ってる?」
「…っな、馬鹿!」
 
バスローブの隙間から見える胸の谷間にちら、と視線をやれば、奈津美が真っ赤な顔で怒鳴る。
 
新は、彼女にひょっとしたら淡い恋心を抱いたのかもしれない。
だからこそ、一夜明けての彼女の反応がショックで、彼女を追い詰めようとしたのかもしれない。
 
そうして半ば自棄になって、深咲に拾われた。
今は、奈津美を見ても特に何かを思うわけではないし、むしろ彼女の言っていたように幻のような感情だったのではないかと
新も思う。
聡から奪おうなどという気概は、新にありはしなかったのだから。
 
「まあ、とにかく。伊達さんには次のカード切ってもいいかなぁと」
「…え、聞かせるの?その、録音の、会話」
「写真だけじゃやっぱインパクト弱いしね。大丈夫、色々探ったけど奈津美さんは菅原家にもかなり気に入られてるし婚約破棄にはならないって確信したから写真も見せたんだから」
 
少し不安そうにしつつも、新の言葉に奈津美は無言で頷く。
 
「無理矢理そういう関係になったんだって言うつもりだから」
「でも、新君…」
「解決したら全部ネタばらしすればいいじゃん?証明の手段だって考えてあるんだし、まあなんとかなるって」
「……そう、ね。それでなんとかなるならいいんだけど」
「ま、こればっかりは相手が信用してくれることを祈るばかりだね。こっからは慎重にいこう。伯父さん伯母さんに知られたらそれこそ婚約破棄とかなりそうだし」
「そうね、そうなると思う」
 
せつなそうに息を漏らす奈津美に、新はもう一度労いの意味をこめて、頭をぽんぽん、と軽く叩いた。
それには奈津美も素直に微笑む。
 
「社長や奥様は、やっぱり事情知らないみたいなのよね…ごめんね、役に立たなくて」
「いや、一家ぐるみでなんか企んでるわけじゃないってわかったのは、かなりありがたい。聡さんも無関係みたいだし…やっぱり祖父さんの独断専行なんだってわかってちょっと安心した」
「そう?」
「うん、攻略するボスがひとりってわかりやすくない?」
「そうね」
 
悪戯っぽく言った新に、奈津美もくす、と笑った。
 
「じゃあ、僕は帰るね」
「新君」
 
立ち上がりかけた新に、奈津美がふいに呼びかける。
それを疑問に思ったのか、中途半端な態勢のまま、新が首を傾げた。
その様子がおかしくて、奈津美はまた微笑む。
 
「『帰る』って言葉、つかうようになったわね。前は、戻るって言っていたのに…、お家がみつかったのね」
 
まるで弟でも見るかのような目に、新の心は温かくなる。
お互いに、慈しむような愛情を持ちながら接するうちに、いつしかそんな間柄になっていると気が付いた。
 
「僕ね、奈津美さんが好きだよ。深咲さんの次にね」
 
ぱち、と片目を瞑って悪戯っぽく笑う新に奈津美がもう!と言いながら笑って彼を見送った。
ひとり残された部屋でなにをするでもなくぼうっと壁をみつめれば、奈津美はぽつり、と呟く。
 
「聡さん…」
 
 
部屋を出た後、新はくん、と自身の身体の匂いを嗅ぐ。
奈津美のことが嫌いなわけではなく、他の女性の残り香をまとったり、よそで浴びたシャワーの痕跡が、その身体についたまま成島家へと帰ることが、新はどうしても嫌だったのだ。
 
それでも、念には念を、でいつもそういう情事があったと思わせるような、工作をここ一ヶ月程してきた。
あの一家を騙すのならば、なるべく隙がないほうがいいと感じたのだ。
色々な事に思考を巡らせながらも、駅への道を歩きながら、これから帰る場所へと新は思いを馳せる。
 
「深咲さん、起きてないといいんだけどな…」
 
奈津美から連絡を受けたことで、明朝よりも早く帰宅することになったのは嬉しい誤算であったが、この香りを身に纏ったまま、想いを寄せる女性と会うのは、どうしたって憚られた。
子どもっぽいといわれようと、新はそれが嫌だったのだ。
 
 
 
成島家の門の前までやってきたところで、新はぴた、と身体を停止させれば、くるり、と後ろを振り返った。
そうして誰に向かってはわからなかったが、独り言にしては大きな声でこう発した。
 
「あんたらのボスって伊達さん?祖父さん?別口?まあ、どれでもかまわないけど…一言伝えといてくれる?この家の周りまでうろうろされたら僕はいい子じゃいられませんよって」
 
こつ、と動揺したかのように響いた靴音は、幾分離れたところからきこえてきた。
その僅かな反応でも新はかえってきたことに満足して微笑めば、そのまま成島家へと入って行った。
 
 
 
 
 
 
 
外で、なにか話し声が聞こえた気がした。
平日の真ん中だけど、誰かが飲んでかえってきた帰りなのかしら。
少し首を傾げながらも、あくびをして私は台所へと向かう。
 
現在時刻は日付変更後の0時30分過ぎ。
どうにも集中力が途切れなくて眠る事ができない。
こんな日はとにかく一心不乱にパソコンと向き合うに限る。
 
そう思って、私はコーヒーを淹れることにした。
…いや、インスタントにしよう。とすると入れる、かな。
心の中でひとり思った事なのにわざわざ漢字を修正してしまい、いよいよ職業病だろうかとひとり笑った。
どうやらテンションもちょっとおかしいらしい。
 
やかんを火にかけたところで、玄関扉ががたがた、と鳴る。
あれ?と思ったがそのまま扉が開く音がしたので、疑問は確信に変わった。新が帰ってきたのだ。
 
私は少し顔が綻ぶのがわかって、慌てて頬をぺち、と叩く。
なんとか無表情を作れば、ゆっくりとした足取りで玄関へと歩いた。
 
「…やっぱり、新だったのね。一瞬泥棒かと思っちゃったわ」
「深咲さん…起きてたの?」
「ええ、お帰りなさい。早かったのね」
「…うん、ちょっと、予定が狂って」
 
少しそわそわとする新の様子に私は一瞬眉根を寄せる。
いつまでも玄関から上がろうとしない新を訝りながらも
私はふと、新の身体から香るなにかに気が付けば
彼の様子にようやく合点がいった。
 
「さっさと上がんなさい、外はけっこう寒かったでしょう。まだお風呂あったかいから、せっかくだし入れば?二回目になっちゃうけど」
 
にや、と笑ってそう言い捨ててやれば、私は踵をかえして台所へと向かう。
……まあ、ねえ。予想はしてたことだから。
怒っても仕方ないし、悲しんでもやっぱり仕方ないし。
 
ああ、でもなんていうのかしら。ちょっと虚しいかも。
 
新の身体からたちこめるほのかなせっけんの香り。
こんな夜にシャワーを浴びて帰ってくるなんて、ある程度年齢がいけばどこで何をしていたかなんて予想がつくというものだ。
そういえば、いつか夜中に帰ってきたときも、けっこう寒い日だったというのにシャワーを浴びていた。
きっと毎回痕跡を消す為にそうしていたのだろう。
 
そう思ったら、彼のなにもかもが信じられなくてしらけてしまう。
まあ、手を出すなと言っているのは私なわけだし、性欲処理をしたくなるのも仕方ないなのかもしれないけど…せめて口説き落とそうとしてるときくらいは自重できないのだろうか。
 
そんな事を考えてマグカップとインスタントコーヒーを用意する。
今日は砂糖とミルクたくさん入れよう。
きっと疲れてるから変な事ばっか気になるんだ。うん。
新を好きだと自覚したところで、きっと叶わないんだって思ってたんだしいいじゃないの。
得意だったはずだ、こういう所に保険をかけるのは。
いちいち傷付いたり、動揺してはいけない。
 
「深咲さん、誤解だよ!」
 
私の言葉になにを思ったのか、台所でインスタントコーヒーの粉を入れる私に狼狽した新が、転がるように慌てて走り寄ってくる。
そんな新に、私は首を傾げた。
 
「誤解って、なにが?」
「なにって!僕が女の人を抱いてきたと思ってるでしょう!?」
「別に私相手に弁解しなくてもいいでしょう?私は新がそういうことをしたところで責める権利なんてないわ」
「深咲さん!」
「だって私達は恋人でもなんでもないんだから。でしょ?」
「……っ」
 
たまりかねたのかなんなのか、新が私を引き寄せてその腕に抱きしめる。
途端に私の鼻にまとわりつくその匂いに吐き気を覚えれば、私は新をおもいきり突き飛ばした。
 
眉間に皺を寄せたまま、新を睨みつける。
 
「それでも、無節操すぎるのは嫌いよ」
「………急いでシャワー浴びてくるから、起きててよ!」
 
新はばたばたと風呂場へと駆けて行く。
匂いを消そうと思ったのだろう。
私はそれに呆れのようなものを覚えて、ため息を吐いた。
 
そして、つい先程までの自分に嫌悪する。
無節操って。
散々、あの子の抱擁もキスも容認したくせに、今更なにを言うのか。
そういう相手がいながらも新の行動を黙認してきたのは、私だ。
 
「…でもあの子、不特定多数ならまだいいけど、ひょっとして決まった相手がいるのかしら」
 
もしそうだとするならば、さすがにここには置いておけない。
私だって、それなりに常識はあるつもりだ。
それこそ向こうが新を本気で好きなのだとしたら、今の私と新のこの環境は耐え難い屈辱であるだろう。
 
お湯が沸いた音がして、私はキッチンの火を止めれば、カップに熱湯を注いだ。
たちこめる安いコーヒーの香りは、私を落ち着かせる。
一口飲めば、甘すぎて眉間に皺が寄った。
自分でやっておいて、なんか間抜けね。
 
渋々といった風情でそれを飲んでいれば、騒々しい音がして、新が茶の間へと駆け込んできた。
 
「……あんたね、身体くらいちゃんと拭いたらどうなの」
 
一応服は着替えているものの、Tシャツもスウェットパンツも湿ってる。
ろくに拭かずに着たからだろう。
呆れ返った私は、無言でちゃぶだいへとマグカップを置けば、新を無言で手招いた。
恐る恐る、といった顔をしつつも私の傍らへと来た新の肩をつかみ、その場に座らせれば、私は新の手からタオルを奪って頭を拭いてやる。
 
こうしていると、途端に新が人間の男との子ではなく、拾った可愛い猫のような気になってくる。
そう思ってしまえば、外でなにをしていてもなんだか許せてしまう。
麻痺してくると言ってもまあ、いいだろう。
 
けれどさすがに確認しておこうと考えれば、私は淡々と声を発する。
 
「新、ひとつ聞くわ。付き合っている女性がいるの?」
「!そんなの、いないよ!!信じろってほうが無理あるかもしれないけど、僕はそういうことをしてここに帰ってきたんじゃない!ここに住んでから、一度も女のひととセックスしたことないから!!!」
 
私の質問に新がものすごい剣幕で捲くし立ててくるので、私は目を見開いた。
本当でも嘘でも、言い訳をする価値があるくらいには私は大切であるらしい。
 
「…そう、まあ、だったらいいわ。さすがに特定の相手がいるのにここに住まわせるわけにはいかないもの」
「………深咲さん、そんなこと考えてたの?」
「あら、前にも言わなかったかしら?私はあなたのこと信じてないのよ。もしも騙されて傷付けられてもかまわないから、置いているけれどね」
「深咲さん……」
 
傷付いたような弱弱しい声にどこか胸がちくりと痛むけれど、私は無表情を貫き通した。
距離を、間違えては絶対に駄目だから。
 
あらかた拭き終わったと思えば、私はぽん、と新の肩を叩いた。
 
「さ、もういいわ。ドライヤーでしっかり乾かしてから寝るのよ。明日は用事があるから、朝はちょっと寝坊することにしたわ。だから朝ごはんは用意しなくていいから」
「…用事って?」
「駅前まで出るのよ、仕事の打ち合わせで」
「………あいつと会うの?」
 
…『あいつ』ときたか。
新にとって、冴島はすっかりあいつ呼ばわりする対象になったらしい。
 
「冴島さんと喫茶店で14時に待ち合わせなのよ。でもまだ集中力も途切れないし、仕事していたいから。だったらせっかくだし明日は10時くらいまで寝ちゃおうと思って」
「…冴島を、選ぶつもりなの?」
 
鋭い双眸が私を見据え、左手首を強く掴まれた。
ぎり、という音がして私は僅か顔を歪ませる。
 
痛い。
 
「そん、なつもり、ないわよ」
「………そう、わかった、もういい」
 
そう低く言い放つと、新は手首を解放して立ち上がる。
そのまま何も発する事はなく、部屋へと閉じこもってしまった。
 
「明日のごはん…作ってくれるかしら」
 
ぽつりと漏れた言葉は、間抜けとしか言いようがない独り言だった。


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