あとりえ透明3
「キャンバス」
私があとりえ透明でアルバイトを始めて1ヶ月が経った。1ヶ月間は研修ということで、とにかく色を検索して絵の具を量るだけのカンタンなオシゴトだ。
お客さんは殆ど来なかった。笑さんや朋さんの知り合いらしき人が数人訪ねてきてコーヒーを飲んで談笑するだけだ。それでも私にはちゃんと週払いで額面通りのお給料が振り込まれる。経営は大丈夫なのだろうか。
これなら私でなくてもいい気がしたが、笑さんはやたら褒めてくれた。
言われたことは一つだけ。
ここで笑さんが絵を描いていることを他の誰にも言わないこと。
ちょうど一ヶ月になったある日、笑さんが言った。
「そろそろ始めようかー」
その意味が私には分からなかったが朋さんは頷いて尋ねる。
「何画にする?」
「うーん、アクリルかなー。指で触って割と分かるし、千春ちゃんも量が一番しっくり来てるー。価値もそこそこいくしねー」
「じゃあ、キャンバスね?大きさは?なかったらすぐに取り寄せるから」
「P80……いやP100くらいかなー」
「結構大きいわね。いきなり大丈夫?」
「一ヶ月も練習したんだから大丈夫だよー」
「じゃあ、通販ね。昼過ぎには届くようにするから」
「ありがとー」
何が何だか分からないでいると店のドアが開いた。
「ごめん、遅れた。寝坊した」
せつなさんだ。今日は来ていないと思ったら……。
「大丈夫だよー」
「起こしてくれてよかったのに」
「昨日バイトで疲れてたでしょー。休んでてー」
「そうはいかないわよ。お母さんが……」
この人は何のためにいるんだろう。朋さんのように絵を手伝うでもなく、いつも部屋の端で電子本を読んでいる。
「それで、何の話してたの?」
「うんーえっとねー」
笑さんは首をひねって顎に手を当てる。
「売るための絵を描こうと思ってー」
「売るための……絵?」
私は思わずオウム返しに聞いてしまった。
「だからー、今までのは練習ー。趣味の落書きみたいなものー。でね、これからお仕事を始めますー。働かざるもの食うべからずですー」
朋さんがスケッチブックを開いて鉛筆と一緒に笑さんに渡す。
「ありがとー。じゃあキャンバスが来るまでにラフ描いてみるかー。どんなのがいいかなー」
「やっぱり風景?か、抽象か」
「風景なら描きやすいかなー。抽象は売れない気がするー」
「何でも売れると思うけど」
「でも、売りやすさがなー。ネットで売るんでしょー」
笑さんは腕を組んで考えこみ、ゆっくり手を動かす。少し描いては紙を破いて机に載せていく。
一時間ほど経っただろうか。扉を叩く音が聞こえた。
笑さんがチラリとせつなさんの方を見ると、せつなさんは首を横に振った。ずっと黙っていた口を開く。
「違うわ。多分宅配便。トラックの音がしたから」
それと同時に扉が開く。
「お届け物でーす。サインお願いしますー」
朋さんが慌てて駆け下りる。
「キャンバスですね。二階にお願いできますか?」
若い宅配便のお兄さんが人の背丈よりも大きなキャンバスを慎重に持って上がる。
「ありがとうございますー。千春ちゃんー、アクリルで勝色と鉄紺の準備しておいてー」
「は、はい!」
お兄さんが頭を下げて出ていき、朋さんが梱包を解くのと同時に、私は慌てて天秤と分銅とピンセットに絵の具、それにタブレットを取り出した。
「カチイロ……3536:3007:0008:7020……テツコン……8042:7013:0000:7049」
「うん、合ってるよ―。お願いねー」
天秤にピンセットで分銅を置き、チューブから少しずつ皿に色を取る。もうこの作業をどのくらいしてきただろう。
「あ、鉄紺は多めにお願いー」
「分かりました」
この場合の多めというのは2倍や3倍ではない。20倍くらいに作らなくてはいけない。『下塗り』という前面にべっとりと塗るのに使うはずだ。しかもペンキを塗るような刷毛で。そのくらいはもう分かる。
私は4色の皿を2つずつ並べた。
「右が勝色、左が鉄紺です。足りなかったらすぐに追加で作ります」
「ありがとう」
朋さんが丁寧に平筆で四色の絵の具を混ぜ出す。撫でるように何回も何回も練り、ゆっくりと笑さんの手に乗せた。
「これ鉄紺だねー」
スッと笑さんの目からいつもの輝きが消える。
予め立てかけられた大きな大きなキャンバスを撫でるようにすると、絵の具を手のひらに大胆につけた。そして、キャンバスを撫でるように素手で色を載せていく。
まんべんなく。
大雑把に。
しかし優しく。
(ああ……この人は……)
絵を
世界を
まだ愛しているんだ。
ところどころキャンバスの地色は残っているが、ほぼ全面に鉄紺色が広がった。朋さんから差し出された濡れタオルで手を拭き、勝色の皿を手に取る。
今度は筆でゆっくりと点を描いていった。
「杜若」
独り言のように笑さんが言う。
「千春ちゃん、次は杜若色をお願い」
「は、はい!」
見惚れていた私はハッと我に返り、カラーピッカーと絵の具を取り出す。
「かきつばた……カキツバタ……」
分量を調べてマゼンタの絵の具を量り始めた時だった。
「お母さん、今日はここまで」
私は驚いて振り返った。せつなさんが後ろで手を挙げている。
「えー、まずいかなー」
「まずいわ。帰るわよ」
せつなさんはテキパキと帰り支度を始める。荷物をまとめ、ストールを笑さんに渡す。
「あー、もうちょっと描きたかったー。千春ちゃんごめんねー、今日はここまでー」
「え!?何で?せめて今作った絵の具使ってくださいよ!勿体無い!」
「すみません、千春ちゃん。こちらの都合で」
「せつなちゃん、キャンバスと机運ぶの手伝って」
朋さんの言葉にせつなさんは立ち上がった。
「えっとー、千春ちゃんー戸締まりお願いできるかなー。窓の鍵、あとカーテンも閉めておいてねー。あとしつこいけど、私がここで絵を描いてるのは内緒だよー」
「はぁ……」
私は訳がわからず、カードキーを受け取る。
朋さんとせつなさんはあっという間に絵と画材を店の奥にしまい、笑さんの手を取り階段を足早に降りる。裏口を出る音がしたが、私は呆然と立ち尽くしていた。
ハッと我に返り、部屋を見回すと絵を描いていた痕跡は綺麗になくなっている。
バタン、とドアを開ける音に私は肩を震わせた。
「笑!」
低い男の人の声。ゆっくりと階段を降りると、そこにいたのは……。
「せつなさんの……お父さん?」
歳はそこそこのオジサンだが俳優さんのように整った顔立ち。高そうなスーツに、スラリと高い背。随分と前に見たことがあった。
「えっと……中条の……」
「千春です。中条千春」
「あ、ああ。そうだった。で、笑はここに来てませんか?」
「え……?」
「笑がここで絵を描いたりしていませんか?」
『私がここで絵を描いてるのは内緒だよ』
ふと、笑さんの言葉が脳裏をよぎり、私は首を横に振る。
「笑さんは……いません」
嘘は言っていない。言っていないのだが……。
「…………」
せつなさんのお父さんは私の顔をまじまじと見てフーっとため息をつく。
あ、これはバレちゃったようだ。
「まぁいい。もしも今度笑とせつなに会うようなことがあれば言っておいてくれ」
頭を掻いて、踵を返した。
「無茶はするな、と」
せつなさんの耳はこのためだったのか。
何故かお父さんに反対されていて、
お父さんの足音を聞き逃さないように。
そのためだけに……?
「ただいまー」
私は家に帰り着いた。初夏に近づいてる季節だ。まだ日が高い。返事はない。まだお母さんは帰っていないようだ。
バイトを始めると言った時、お母さんは正直『助かった』という顔をした。
家にいてほしくないわけではない、わかっている。
ただ家は正直豊かではない。
私立の学校がお金がかかるのはわかっているが、自分は公立の編入試験に受かるほど賢くない。数学以外の教科は全くできないのだから。
母も働いているが、家計の助けになるなら嬉しい事だったのだろう。
私は黙って仏壇の前に座り、手を合わせた。
父の遺影に向かって。
中条憲司は去年病気で他界したのを、まだ私はあとりえ透明の人たちに言えないでいる。
翌日もバイトだった。学校が終わると、制服のままあとりえ透明に向かう。
着くともう三人は待っていた。
笑さんの指示で再び昨日と絵を描く作業が始まる。
指示通り絵の具を量り、朋さんが混ぜ、笑さんが描く。せつなさんは端で本を読んでいるだけ。
二時間くらい経っただろうか。
「お母さん、今日はここまで!」
突然、せつなさんが声を上げた。
「え?またお父さんが来るんですか?」
しかし笑さんは手を止めない。ひたすらキャンバスに向かい続ける。
「お母さん、ストップ!」
絵から目を離さない笑さんの肩を朋さんが叩くと、スイッチが切れたように笑さんは膝から崩れ落ちた。
それを分かっていたように、せつなさんは駆け寄り体を受け止める。
「笑さん……」
目を閉じたままぐったりと動かない笑さんを見てせつなさんは苦笑した。
「お母さん、体力がどんどん落ちてるの。お父さんのこともあるけど、私がいるのはそのため」
朋さんは慌ててタクシーを呼んでいる。
「私は、ノイズキャンセリング外せば、人の脈拍も鼓動も聞こえるから」
腕の中の女性を赤ん坊を見るような目で見て、せつなさんはポツリと呟く。
「……私はお母さんにとって耳しか価値がないんだから」