あとりえ透明
「水彩色鉛筆」
快晴だった。
見渡す限りの秋晴れだった。
「いー天気だねー。スケッチ日和ー」
『あとりえ透明』の最寄り駅から電車で三十分強。山道は無理だろうと言うことで、ケーブルカーで高台に上れる小高い展望台を選んだのは松島さんだ。
土日が仕事の俺と京子が一緒に休みを取るのは難しかったが、なんとか俺が有給を回すことが出来た。和泉も一緒だ。
以前一度だけ会った大学生の高見原さん三上くん、金崎さんの姉妹がいる。金崎さんの妹さんは受験生だったが『最後の息抜き』という名目でご両親に許可をもらったらしい。
そしてもう一人、成瀬拓馬と俺はケーブルカーの端と端で視線を合わせないようにしていた。
向こうとしてはデジカメとそのデータに準ずる額を請求したいだろうが、こちらとしては高校時代の憧れの君の不倫相手と話す口はあいにく持ち合わせていない。
「大人げないわね、パパは」
「おとなげないー」
京子が和泉に話しかける。四歳児に大人げないと言われてしまった。
「ともちゃん、色鉛筆人数分あった?」
「水彩色鉛筆よね?セットにはなっていないけど、多分これだけあれば足りると思うわよ。スケッチブックと筆は人数分持ってきた」
絵美さんの髪は随分すっきりしてしまった。あの後、すぐに松島さんに美容院に連れていかれたらしい。きれいな栗色の髪は、ゆるくウェーブはしているが、うなじが見えるくらいに短くなっている。侑那絵美を見慣れた人間でもすれ違ったくらいでは本人と気づかないだろう。
十五分ほどケーブルカーに揺られて、展望台に着いた。そろそろ寒くなってきたからだろう。客は自分たちしかいない。
ケーブルカーの中で松島さんが全員に画材を配ってくれた。使い方も教えてくれるらしい。
「風が気持ちいいねー」
絵美さんは大きく伸びをする。
「来てよかった?」
「うんー、いろんなもの見えるー。あー、見えるじゃないねー。感じるー」
絵美さんは地面に腰を下ろした。彼女の持ってきた色鉛筆には持ち手のところに大きく色番が彫られていた。
「澤くん、描く?」
松島さんが様子を伺ってくる。
「俺は和泉を見てるよ。気にせず楽しんでて」
「そう」
娘の世話にかこつけて絵美さんの隣で彼女の横顔を見ていた。彼女は真剣な顔で色鉛筆を走らせる。
「絵美さんさ、なんであの成瀬って人呼んだの?」
「うーん、最後に顔を見たかったのかなー」
「好きだったの?」
「好きとか嫌い以前によく知らない人だからー。でもーこのままあたしが絵を描かなくなったら一生会うこともなくなってーもやもやーとしたものが残るだけでしょー。それはいやだなーってー」
「じゃあ、皆を呼んだのも……」
「お別れ会、って言うのも変だけどねー。単に自分が最後にいい景色を見たかったってのもあるしー」
「おねーちゃん、絵ーすごくじょうずー」
俺たちの話に和泉が割って入った。
「そうー?ありがとうー」
「でもあんなところに森ないよーお花もへんー」
「こ、こら、和泉!」
抑えようとする俺を制し、絵美さんは和泉の頭を撫でた。
「ないものを描いちゃいけないって決まりはないんだよ」
三時間ほどで絵美さんはスケッチブック一冊を使い切った。
その見事な出来に松島さんは感嘆の息を漏らし、絵美さんの両肩をつかむ。
「お店続けよう」
絵美さんは苦笑する。
「そんなの……無理だよ」
「私が絵美さんの目になるよ」
「無理だよ。そんなの。そんなこと誰にも出来ない」
「やってみなきゃ分かんないでしょ」
「分かるよ。もう知ってる」
「そんなこと……!」
「ねぇ」
短くなった髪をいじりながら絵美さんは松島さんの方を向いた。
そして、今日描いた絵をスケッチブックから破りとり真っ二つに裂く。細かくちぎって見る影もなくなったものを高台の上から放り投げた。
「もうお遊びはおしまい」
紙吹雪の舞う空。
松島さんは目を見開く。
「だって皆、あたしのことちっとも分かってくれない。役に立たないんだもん」
その時の絵美さんの目が見えていたのかは分からない。
「バイバイしよ。ともちゃん」
しかし、ひどく冷めた、色を失ったような目だった。