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あとりえ透明

「パステル」




 診察室で私と同じ年の頃の黒髪の女性は体を固くしていた。
「お待たせしました。外科の担当をさせていただきました。ご家族の方ですか?」
「いえ、私は仕事仲間で……って福原部長!?」
 スツールに座った女性に見覚えがあった。私が部長をしていた高校時代美術部の会計で活躍してくれた少女だ。
 運ばれて来たのが高校美術部の有名人だと言うのは分かっていた。私とは違う科だが、この病院のかかりつけでカルテがあったし、それがなくとも一目で分かった。しかし、付き添い人の名前までよく見ていなかったので気づかなかった。
「あ……!松島さん!同窓会以来!絵美さんの付き添いってあなた!?」
「今一緒にお店してるんです。えっと…彼女の家族には連絡しようとしたのですが電話も通じなくて、別れたご主人に尋ねても分からないということで……」
「まぁ、生死に関わることではないので、話を聞いてもらえます?」
「はい」
 私は椅子に腰かけて、カルテをめくった。
「診察結果は脳震盪です。頭を打っているので検査のために数日入院してほしいのですが、私の見立てではまず問題ないと思います」
「よろしくお願いします。診察代や入院費はこちらで建て替えますので。で……あの、いきなり転んだのって貧血か何かですか?」
「いえ、視力の退行がずいぶん進んでいますので、もう彼女は左目もぼんやりとしか物が見えていないと思います」
「視力の……退行……?」
「え?」
 私は思わずカルテを見返した。
「知らなかったの?」
「はぁ」
 松島さんはクルクルと目を丸くする。違う科の、しかも過去の診察結果を家族以外の人に話すのは本当はいけない。私は周りに聞こえないように声を潜めた。
「絵美さん、視神経を怪我してて右目が人工眼球……簡単に言うと義眼なの。神経の傷だから左目も徐々に見えなくなってて……」
「それいつから?」
「怪我したのはもう三年くらい前になるかしら。ウチの神経外科に運ばれて来て、私は当時ここのインターンで一応顔見知りだったから立ち会ったんだけど、リハビリも入れると一年くらい入院して……目を使うのを最低限にすれば……要は絵を描かなければ多少は左目の視力が落ちる速度は遅らせられたんだけど、絵美さんは入院中も絵を描き続けてて……今は日常生活送るのも厳しいはずよ。入院は目の検査も兼ねてだから」
 


「ちょっと待って!」
「侑那絵美は今どこですか!?」
 松島さんは検査病棟の廊下を全速力で走り神経外科の受付に駆け込んだ。追いかけたが、間に合わなかった。
「え?えっと……」
「教えなくて結構です。こちら、ご家族じゃありませんので」
 若い看護士が対応に困るのを私はなんとか制する。
「家族じゃありませんが、身内です!侑那絵美の居場所を……!」
「ともちゃんー?」
 しまった。
 響き渡る声に反応したのだろう。杖をついて別の看護士に付き添われた絵美さんが通りかかった。
「絵美さん!」
「あのねー。ともちゃんに頼みがあるんだー。お店もあるからお見舞いとか無理でしょー。だからー着替えとかと一緒に持って来てほしいものがあるんだー」
「それどころじゃ!」
 声を荒げる松島さんにも絵美さんは動じなかった。
「しばらくの着替えや洗面道具は店の奥に置いてあるからだいじょーぶー。でねーパステルを持って来てほしいんだー。ハードの粉パステル、分かるかなー?」
「わ、分かるけど……」
「お願いー」
 絵美さんは無邪気に微笑む。
「……っ!後で話聞くからね!」
「ありがとー」
 


「『あとりえ透明』?」
 私は勤務終了を待ってもらって松島さんについて来た。絵美さんと松島さんがやっていると言うのは今風のお洒落なカフェだった。
 松島さんが不機嫌そうに鍵を開ける。
「この場所選んだの、絵美さん?」
「ううん、私。目が見えなくなるって知ってたら、もっと階段とか考えたわよ」
「……そうよね」
 私が申し訳なさそうにしていると、松島さんは店の奥に向かった。
「えっと、福原さん、ハードパステル分かるかな?あの直方体の。右の棚の真ん中辺りに百四十四色のが木箱入りで入ってるの。取って来てもらえるかな?私、服とかまとめるから」
「うん」
 松島さんは看護師から預かった入院の手引きを読みながら店の奥に入って行った。
 二階には壁一面作り付けの棚に所狭しと画材が並んでいた。
 ここに絵美さんはいたんだ。
 私は言われた通りの棚から大きなトランク程もあるを木箱を取り出した。
「松島さん、これかな」
 両手で抱えて階段を下りる。店の奥から数着のパジャマと下着、洗面道具を抱えた松島さんが出て来た。
「うん、それ。一応色が入ってるか確認するね」
 木箱をそっと床に置くと慎重に両手で蓋を開ける。そこには少し使い込んだ気配のある色とりどりの四角いパステルが並んでいた。
 松島さんは一つ手に取って目を見開いた。
「これ……」
 底には色番号が深く彫ってあった。
「P54……M128……」
 百五十色近くある全部のパステルに一つ一つ。
「これ……色全部覚えてるの……?」
 目が見えなくても色が分かるように。
 目が見えなくても絵が描けるように。
 誰に頼るでもなく、一人でこれを彫り続けたのだろう。
 いつか、自分の目が全く見えなくなる、その日のために。
 たった一人で。
 それはどれほどに孤独なことだろう。
「……ねぇ、松島さん。絵美さんはまだ絵が描きたいのかな……。どうしてそんなに描きたいんだろう。お金もある。名声もある。絵を描かなくても死ぬ訳じゃない。絵美さんにとって絵ってなんなんだろうね……。」
「多分だけどね……絵美さんは絵を愛してるんじゃないよ。画材に愛されてしまったんだよ。きっと一生でも描き続ける」
 それは なんて
 なんて 悲しいことなんだろう。
 


「じゃあ、面会時間終わってるから、私がこれ届けておくね」
 病院の非常外来口で私は松島さんから荷物を預かった。
「またお店行くよ。今度はお客で」
「じゃあ、メアド交換しない?」
 松島さんは言ってスマホを取り出した。
「えっと……福原……京子さんだったわよね?」
「あ、今もう私『福原』じゃないから」
「え?あ、結婚してるの?」
 松島さんが目を丸くする。
「うん。えっと……同窓会の時は内緒にしようって言ってたんだけど、澤……澤京子、っていうの」
「澤!?澤薫くん!?生徒会長だった!?結婚相談員してる!?」
「え?知ってるの?」
「知ってるっていうかお世話になってる!今月限りで担当やめになるらしいけど!あとりえ透明にも来たことある!」
「本当!?」
 私も心底驚いた。結婚したことはあまり言いふらしたくなかったので黙っていたのだが、まさか夫と今も交遊があったとは。
「じゃあ、絵美さんが退院したらお店行っていい?三人で」
「三人?」
「あれ?薫さんから聞いてない?」
「何を?」
「娘がいるの4歳になる。和泉っていう……ってどうしたの?松島さん」
 松島さんはオーバーリアクションで頭を抱え込んでいた。
「負けた……。澤くん絶対独り身だと思ったのに……しがない安月給で独り身のサラリーマンだと思ってたのに……いざとなれば最悪の場合のキープにと思ってたのに……ちくしょう……美人で元同級生の女医かよ……ちくしょう……恨んでやる……今度会ったら絶対殴ってやる……いや、そもそも会いたくないし……」
 病院の片隅でいつまでもブツブツと呟く声と暗い空気が辺りをいつまでも漂っていた。


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