Artist Web Siteたけてん

あとりえ透明

「アクリルガッシュ」




 彼女は、絵が美しい、という名前の通りの人だった。
 


「えー、あんた言い寄られてる人いるって言ったじゃん」
「それがさー、風邪ひいてる時に『お見舞いに行っていい?』ってマジ引くー」
「うわー、それはないわー」
 それは十二月のひどく寒い日。土曜のランチタイムのカフェ。デザートのケーキとハーブティーを囲みながら女性三人が周りを気にせず高い声を上げていた。
「朋はいいよねー社内恋愛でラブラブで」
「そうでもないよ、大変。あんまり職場で一緒にいたら視線が痛いし、職場が一緒なんだからってデートは減るし」
「そうなの?」
「そうだよー」
 困った顔を作り、しかしまんざらでもない気分で私は小首をかしげる。話を遮って携帯のアラームが鳴った。
「あ、私そろそろ行かなきゃ」
「えー、もう?」
「今日夕方から高校の同窓会なんだ。一回家に帰って着替えないとだし」
「そっかー、楽しんで来てねー」
「またメールするよ」
 私はバッグとコートを取り、千円札二枚と百円玉をテーブルに置くとその場から立ち上がった。
 


「絵美さん、来てくれたんですね。ありがとう」
「絵美さん、この前の美術展行きましたよ。すごいですね」
「絵美さん、画集にサインしてくれって母親に頼まれて……」
 


 絵美さんは高校時代から特別だった。後輩だけでない、同級生も先輩も先生さえも彼女を尊敬と親愛の念を込めて「絵美さん」と呼ぶ。
 彼女は高校入学時にはすでに画壇で有名で、雑誌の取材が学校に来ることも珍しくなかった。私は同じ美術部で、この几帳面な性格を買われて会計をやっていたので、彼女のことはよく見ていた。
 どんな画材も自在に操る端麗かつ奔放な少女。
 それが誰がつけたかも知れない彼女のキャッチフレーズだった。
 絶えず地に足のつかないふわふわした笑顔で、しかし絵のことになると一切の妥協を許さず、私の知る三年間だけでも一体この少女のどこにそんな広い世界が入るのだろうと思うほど、様々な絵を描き出した。
 嫉妬、だったのかもしれない。
 彼女が何の考えもなく生み出す絵は私の微かな自信をことごとく踏みにじった。何の悪意もなく。絵の道に進もうと軽く考えていた私は三年後、彼女の下でボロボロにされたアイデンティティーを捨てて商社の事務・経理として就職した。
 忘れることがなかった、と言えば少し言い過ぎだ。むしろ忘れようと努め、仕事に打ち込んだ。
 幸いにも事務と経理は私の性に合っていたらしい。さほど大きなトラブルもなくもう十年以上になる。高卒と舐められたこともあったが、同い年のキャリア組より四年多く仕事をしてきたことは自慢できる。
 そして、四年前から付き合っている彼氏もいる。彼は一向に結婚の話は持ってこないが、私も二十八歳。そろそろ頃合いだ。
 


 今日は卒業以来初めての同窓会。こじんまりとしたバーを貸し切ってのパーティーで集まりはあまりよくなく、三、四十人ほどだ。無理もない。師走のこの時季で、世代的にも二十代末は仕事だ子育てだと皆忙しい。そんな中で「絵美さん」が来ていたのが逆に意外でならない。
 会いたい人でもいたのだろうか。
 ひょっとしたらそれは男性だろうか。
 無意味な憶測をしつつ、私はグラスを手に取り、元生徒会長の澤くんの指揮でシャンパンを掲げた。
 


「会いたかったの」
「へ?」
 私は高校時代の同窓生で今も付き合いのある人はいない。会費の元は取ろうとカウンターの隅で一人でドリンクを頼み続けていた。シャンパン二杯、ワイン一杯、カクテルは……どのくらい飲んだだろう。とにかく酒に強い私も酔ってきたらしい。絵美さんの幻聴を聞いた。と、思った。
「あたしね、ともちゃんに会いたかったの!」
 しつこい幻聴だ。絵美さんが私にそんなこと言うわけがない。高校時代もほとんど話したことはなかった。話すことと言えば、絵美さんが部費を使い込んで何度か説教をしたことだけ。疎ましがられる覚えはあっても「会いたかった」などと言われる覚えはない。
 いや、ただ一度だけあったか。二人だけで話したことが。しかし誰にでも分け隔てなく接していた彼女だ。そんなこと話したことのうちにならないだろう。
「ともちゃんに相談があるの。ともちゃん経営のお仕事してるんでしょ」
「経営じゃなくて経理。全然違う」
「どっちでもいいよ、でね、相談があるの。あたし絵を描くの……」
「あ、絵美さんいたいたー。あっちで元顧問が呼んでるよー。この前の日展の作品について聞きたいことがあるって」
 美術部の部長だった同窓生が絵美さんの肩を叩いた。
「え、えっと……あーあの、これ、あたしの名刺!メールして!電話でもいいから!」
 咄嗟に鞄から出された名刺は手漉き和紙で作られ、名前と携帯の番号とメールアドレスだけが書かれたシンプルなものだった。恐らくこれはプライベート用のもので、仕事用のものは別にあるのだろう。
 どうでもいいことだが、ハンドバッグの中が二十代後半の女性とは思えないほどグチャグチャだったのには目を瞑るとしよう。
 私は小さくため息をつき、仕事で使う名刺入れの中にそれを仕舞った。多分、向こうも酔っていたのだろう。連絡をするつもりはない。どうせ二度と使うことはないと思っていた。
「朋だよね?久しぶり」
 別の方向から来た懐かしい声に私は笑顔で振り返った。
 


 高校一年の、そう入学して間もない頃だった。
 「絵美さん」と初めて出会ったのは。
 当時の私は油絵にかかりっきりで、年中空想画を描いていた。その時はまだ「絵美さん」の名前は学校中に知れ渡るほどではなく、部員も数えるほどしかいなかった。
 筆を置いて一息ついたとき、美術準備室から何かが雪崩落ちる音が響いた。私は慌てて準備室を覗き込む。そこには大量の絵の具チューブを地面にまき散らした絵美さんがいた。
「何やってるんですか?」
「いやー、棚の上で大量の絵の具が眠ってる気がしたから取ろうとしたのー。そしたら椅子から落ちちゃってー」
 私は安堵のため息をつくと、黙って絵の具を拾い集め、箱に詰め始める。
「すごいよねー、これ百色以上あるよー。アクリルガッシュ。顧問の先生が隠し持ってたんだねー」
「それを取ろうとするのもどうかと思いますが」
「ごもっともですー。でも画材は使ってあげないとかわいそうでしょー」
「私は油絵専門なので」
「油絵使えるならガッシュも使えるよー。おんなじだもん。画材はねー、塗る、描く、貼る、立体の四種類しかないんだよー。えっとー松山……じゃない松川……さん?」
「松島朋です」
「ですます口調やめよーよー。同い年なんだしー。で、ともちゃんに質問ですー。ここに絵の具が山ほどありますー。水張り済みのパネルもいっぱいありますー。さてどうしますかー」
「油絵に戻る」
「ともちゃんのばかばかばかー!」
「分かったわよ。ガッシュに付き合えばいいんでしょ?」
 絵の具をボックスにしまい終わった私は大きく肩を落とした。
「アクリル絵の具はね、油絵と違って乾くと色が変わるの。それが面白いの」
 小さなパネルを二つ並べて机に向かう。美術の授業以外で久々に使う水彩だ。
「乾いた時の色が気に入らなかったら?」
「何度でも塗り重ねればいいんだよー。油絵と一緒」
 絵美さんは踊るように筆を操っていく。
「絵美さんは……」
 言いかけて、私は口をふさいだ。
「ん?何?」
「いえ、何でもない」
「言ってよー、気になるー」
 私は数十秒迷って口を開いた。
「絵美さんはいつまで絵を続けるの?」
 我ながら馬鹿な質問だったと思う。でも入部して、すでに何度も絵美さんの才能を見せつけられた私はどうしても聞きたかった。絵美さんは無邪気に笑って長い髪を揺らす。
「たぶん、一生かな」
 


「逃げた」
 翌週、月曜日。最近ずいぶん幻聴をよく聞く。しかも今日は酔っていないのに。
 経理部のオフィスで部長に呼び出されたと思ったら第一声がそれだった。
「えっと……猫か何かですか?」
 部長が両手で机を叩く。
「馬鹿か!井上君だよ!金曜日に会社の金を持ち出して、それっきり連絡も取れん!家ももぬけの空だ!実家に電話してもつながらん!」
「へ?」
 井上とは私の彼氏の名前だ。ウチの会社は特に社内恋愛禁止と言うわけではないので、私と井上が付き合っていたことは割と知られていた。
「心当たりはないのか!?」
「ありませんよ!金曜日からメールも来てませんが、そんなことよくあったので!」
「松島!井上を探して来い!探し出すまで会社に戻って来るな!」
「それって不当解雇ですか!?訴えますよ!」
「やれるものならやってみろ!会社相手に勝てるとも分からない訴訟を起こすのにどれだけの費用がかかるか分かるか?」
「じゃあ、井上さんが持ち逃げしたお金っていくらなんですか!?」
「六千万だ!君が肩代わりでもするのか!?」
「ろく……」
 私は言葉を失うしかなかった。
 


 井上のアパートは引き払われていた。携帯も解約されている。実家は都内とは聞いていたが私は行ったことはない。詳しい場所は知らない。会社は本籍地くらい押さえていただろうが、それでも見つからなかったということは私がどう動いても今さら無駄だろう。
 宛てもなく街中をフラフラと歩いた。驚いたのは自分でも呆れるくらい私は彼氏のことを知らないということだ。こういう時、行きそうな場所も、頼るだろう友人もまるで知らない。
 三日間、放浪者のようにあちこちを探し歩いて、私は辞表を出す決意をした。
 


 私はこの十年、何をしてきたのだろう。
 


 上司は黙って辞表を受け取った。それが当然と言わんばかりに。
 高校卒業以来、忙しく資格を取ったこともない。十年事務をやっていた経験だけを大きく評価してくれる会社などそうはない。失業手当の申請をしてきた年の瀬のハローワークの出口で親元に帰ろうかとため息をついた。
 その時だった。
「ともちゃん?」
 私は顔を上げた。
「ともちゃんだよねー。前とは髪型も服も違うからわからなかったよー。なんで電話くれなかったのー?ねーねーなんでー?」
 真っ白のポンチョを着て、栗色の髪を後ろでまとめたその無邪気な笑顔は
「絵美さん……?」
「会えたー。ここってお仕事探してる人探せるところだよねー。ともちゃんが電話くれないからねーお仕事してくれる人探しにきたんだけどー、よかったー。えっとねー、今お話いいかなー?」
「ちょっと今急いでるので」
「ともちゃん!お仕事探してるの!?」
「違います。これは失業手当を……」
「お仕事辞めたのー。じゃあねじゃあねー」
 絵美さんはフフフと笑った。
「あたしとお店やらないー?」
 絵美さんが誇らしげに言ったが何を言っているのだろう。一流アーティストとして世間に名を馳せている侑那絵美が。手を広げて副業でも始めたいのだろうか。どっちにしろ御免蒙る。私は安定した職がほしいのだ。
「安定した職……」
「どしたのー?ねーねーともちゃんー」
「ごめん。ちょっと用事できたから」
 私は速足で駅前に向かった。
 


 そうだ、何故思いつかなかったのだろう。安定した職なんて他にないではないか。私はまだ若いのだ。やれることならいくらでもある。
「ございません」
 二駅先の繁華街にある事務所でスーツ姿のお姉さまにキッパリと断られた。
「で、でも私まだ二十八で……もうすぐ二十九になるけど、でもまだ二十代で……贅沢は言いません!そこそこの安定した収入と人柄の良さと清潔感さえあれば……!」
「落ち着いてください、お客様」
 声を上げる私にお姉さまは咳払いをする。
 そう、ここはいわゆる結婚相談所だ。
「最近は婚活が流行で女性もあまり売り手市場ではなくなってるんです。なので、まず会員登録をしてマッチングをさせていただきます。こちらがプランになります」
 お姉さまは薄いファイルを取り出す。
「二十代後半で無職の方でしたら、お勧めはこちらの定額プランになります。月五万二千円で……」
「ごまん!?」
 私は目を丸くした。
 とんでもない、これから無収入になる私にそんな額……。いや、少ないが貯金はないわけではない。先行投資と思えば。そうだ、年収二千万男の専業主婦になれると思えば……。
「ちなみに年収一千万を越える方をご希望でしたら、この十万円パックになります」
 うん、無理です。すみません。
 


「結局、お金かぁ、お金……。水商でもするかなぁ」
「だめだよー、ともちゃん。親が聞いたら泣くよー。そもそもキャバで二十八ってもうおばさんだしー」
 公園のベンチで黄昏る私に絵美さんが苦笑する。今度は偶然ではない。私が電話で呼びつけたのだ。さっきの言葉が気になって。
「お待たせー。お話聞いてくれるー?でもねー寒いからあったかいところ行こうかー。ちょっと早いけど夕飯にしようかー。この先に美味しいラーメン屋さんがあってねー」
「ラーメン太るから嫌」
「じゃあ、イタリアン行こー」
 こいつは「太る」の言葉が聞こえなかったのか?
「スタバ……いや、お金ないからマックで……」
「うん、分かったー」
 


「画材カフェ?」
「うん、中古の画材を買い取って、それを自由に使えるカフェを作りたいの?」
 やっぱり生活に余裕のある画家の道楽か。仕事の話だと思った私がバカだった。
「面白いんと思うんだけどねー」
「で、なんで私に声がかかるの?」
「ともちゃん、しっかりしてたからー。あたしは経営?とか分かんないしー」
「だから私は経理で……」
「流行らなくってもいいんだー。ちょっとだけど貯金ならあるからそれ頭金にしてー」
「頭金ってどのくらい?そのくらいの計画は立ててるんでしょ?」
「えっとねー」
 絵美さんはハンドバッグをゴソゴソ探り、様々な銀行の通帳を取り出す。
「えっとー、これで全部だと思うー。あ、でもやっぱ見られるの恥ずかしい!」
 私が手に取ろうとした通帳を取り上げる。
「あんた、小学生がテストの点隠すんじゃないんだから!経営的に額面見ないと計画立てられないの!頭金が分からないと物件も借りられないでしょ!」
 スマホの電卓を取り出す。本当はきちんとした大きな電卓の方が使いやすいのだが、さすがに持ち歩いてはいない。
「半分は残しておきたいんだー。老後の蓄え?に」
「じゃあ、半額を出資金にして……初期投資はその六割くらいか……」
 私は機械的に数字を打ち込んできて七冊目の通帳を入力し終えた後で言葉を失った。
「二億!?」
 混雑したファーストフード店の視線が一斉に注がれる。しまった。
 しかし、何度見てみても合計が二億円を超えている。画家ってそんなに儲かるのか?そして、その半額の六割は偶然にも……。
「六千万……」
 私の人生を狂わせた六千万を彼女はポンとお遊びに出せるのだ。まるでお小遣いでお菓子を買うようなノリで。憎らしさを通り越して呆れてしまう。
「あ、あのーあたしそういうの分からないけど、やっぱり足りないかなー。積立定期崩せばもうちょと出せるけど……」
 もういい
 もうやめろ
「あんた、法人税のこととか分かってる?あと登記とか食品衛生法とか、買取もするんだったら古物商認可もいるし」
「分かんないから会いたかったんだよー」
 絵美さんはいつもと変わらない笑顔で目を細めた。
「ともちゃんに」
 私を必要としてくれる人が まだ いる。
「なんで……お店始めようと思ったの?」
「あのねー絵の仕事をねー、やめようと思ったのー」
「え?」
「でもそしたら画材がもったいないんだー。ちゃんと使ってあげないとかわいそうだなーって」
「やめるって……」
 絵美さんは淡々と笑顔のままだった。
「うーん、言われちゃったんだー」
 一呼吸おいてナゲットをソースにつけて一口で飲み込む。
「絵を描いてる私は嫌いだ、ってー」
「誰に……?」
 絵美さんは笑って話さなかった。
「月十万……」
 私は声を絞り出す。
「んー?」
「手取り月十万で雇われてあげる。私が結婚したらやめる。それでいい?」
「ともちゃん結婚するのー?」
「してやるから!絶対に!いつか分からないけど近いうちに!」
「うん、がんばれー」
 


 翌日からは目が回るような忙しさだった。
 不動産屋とインテリアショップと役所と税務署を走り回る。私は知らなかったが、カフェの頭金は一千万が基本らしく資金的に困ることはなかった。食品衛生責任者の講習も受けた。古物商許可申請も出した。ホームページを作るのにwebデザインの講座にも通った。三ヶ月で肩書や資格が十個くらい増えた気がする。
「名前?」
「名前は決めてるのー。『あとりえ透明』」
「じゃあ、被ってないか調べて大丈夫だったら登記と商標登録しておくわね」
「ともちゃんは本当にそういうの向いてるよねー。天職ー?」
「私の天職は年収三千万男子の専業主婦!」
「あれーなんか増えてないー?」
 


「素敵なお店だねー。広いし大きな立てつけの棚もあるー。宅配便で家から画材送ったから明日には届くと思うよー」
 改装された店を見回して笑う。
「じゃあ、よろしくねー。ともちゃん店長さんー」
 新聞社に折り込みチラシの依頼をしてきて疲れて帰ってきた横で、絵美さんは踊るように走り回る。
「あーもーやだ、疲れた。開店したらちゃんと働いてよ、絵美さん」
「はーい」
 嘘だ。絶対こいつ働く気ない。
 絵美さんには言ってないが、結婚相談所にも登録をした。念願の十万円パックだ。このカフェが軌道に乗るとは思えないが、当面の生活費くらいは失業手当でしばらくなんとかなる。
 そして、もうすぐ、桜の季節になる。
 


 彼女は相も変わらず、絵が美しい、という名前の通りの人だ。


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