あとりえ透明
「コピック」
真新しいアパートの一室。家具も統一され、整頓されている。それは私が整頓好きなためではなく、単に引っ越してきたばかりだからだ。私はどちらかと言うとすぐに散らかしてしまう方で、よく母親に叱られた。しかしもう口うるさく叱る母親もいない。
念願の一人暮らしの始まりなのだ。
部屋の隅に畳んだ段ボールを立てかけて私は新品のベッドに沈み込んだ。スマートホンの電源を入れる。さすが東京。住宅街なのに電波がいい。
検索サイトを開き、一瞬ためらったが「買い取り 中古 画材」で検索をかける。しかし目当ての情報は出てこなかった。
少し考えて、ダメで元々と「買い取り 中古 コピック」としてみる。
すると、思った通りのホームページに行き当たった。きれいなサイトデザインで店の几帳面さが窺える。住所も電車で一駅のところだった。
どうせ大学の入学式まで一週間ほど暇を持て余すのだ。営業時間を確かめて起き上がった。捨てるつもりの物を詰め込んだ市指定のゴミ袋から大きな透明の箱を取り出し、表面に薄くついた埃を払う。中学の時お年玉を貯めて買ったコピック144色セットだ。
コピック……CGが普及する直前に流行った、俗に言うアルコールマーカーだ。
翌日はよく晴れた散策日和だった。コピックを紙袋に入れて、アパートから駅までの川沿いを歩く。桜はもう数日で咲くだろうか。大学も近いし便利も悪くない。やっぱり受験を頑張って正解だった。
東京の電車に乗るのは初めてだった。折角なのでSuicaを買う。これから4年間ここで過ごすのだ。無駄にはなるまい。10時を過ぎていたので、電車は思っていたより空いていた。よくTwitterで噂に聞いた人身事故ばかりと言うのも大げさな話なのだろうか。それとも私の運がいいのだろうか。
駅から住宅街を15分ほど歩いた。コピックが重くないと言えば嘘になるが、初めての道を物見遊山で歩いていたら、そう遠くは感じなかった。
ようやくたどり着いたのは古びたカフェのような佇まいの店。
ドアの前に女性が立っていた。ちょうどプレートを「CLOSED」から「OPEN」に入れ替えているところだったらしい。
ゆるくウェーブした腰ほどもある栗色のロングヘアーにゆったりとした白いチュニックとロングスカートを着こなしている。20代後半くらいだろうか。穏やかそうな物腰と透き通るほど白い肌に私は見惚れていた。
彼女がゆっくり振り返る。光のせいだろうか、一瞬左右の目の色が違うように見えた。
私は慌てて頭を下げた。
「えっと……おきゃくさま……ですか?」
どこかおぼつかない口調だった。私が肯定するより先に彼女は店の中に声をかけた。
「ともちゃーん、おきゃくさまだよー」
「バカバカバカ!そうじゃないでしょ!いらっしゃいませ!何度言ったら分かるの!?」
店の中から階段を走り下りる大きな音がして、白いワイシャツに黒いエプロン、ノンフレームの眼鏡を着けたショートカットの女性が現れた。
「いらっしゃいませ」
黒髪ショートカットの方が丁寧に頭を下げ、私を扉の向こうに引き入れた。
「ようこそ『あとりえ透明』へ」
『あとりえ透明』の中は木造りのお洒落な内装だった。インテリアも凝っている。特に高級な物を揃えているわけではないが、白木材を基調にし統一感が取れていてセンスがいい。
「初めてのお客様ですよね。カフェのご利用でよろしいでしょうか?」
「カフェ?」
ショートカットがにこやかな笑顔で尋ねてきて、私は目を丸くした。
「あ……あの……ネットで見て、画材の買い取りをしてもらえるって…」
「はい、ありがとうございます。買取の品を確認させていただけますか?」
私は恐る恐る紙袋を差し出す。ロングヘアーが後ろから落ち着きなく覗き込んでくるのが気になる。
「Too社のコピックスケッチ、基本144色ですね。封は開いておられますが中古でしょうか」
「えっと…何度か…」
「わー。コピックコピックー懐かしいー。久々に見たー。コピックはいいよねー。劣化しにくいもん。補充もできるしー。たまにボタ落ちするのと揃えるのがめんどくさいのが難点だけどー」
(その前に、値段が高いのは難点にしないの!?)
心の中で全力で叫んでいる間もショートカットはマーカーを試し書きして精査している。
「少々使っていらっしゃいますが、ほとんど新品ですね」
「は、はい」
「当店、買取は現金とチケットをお選びいただけますが、どちらにいたしましょう」
「チケット?」
「当店の利用チケットです。もちろん現金よりかなりお得になっております」
「え?利用って……買取を……?」
「当店は画材カフェとなっておりますので。よろしければご案内いたします」
黒髪ショートは中指で眼鏡をクイッと上げた。
二人に案内されたのは二階だった。10人以上座れそうな大きなテーブルと天井まで届きそうな棚に所狭しと様々な画材が並んでいる。
「うわぁ、これ全部画材ですか?あ、チケットってのは下取りってことですね。ここの画材を買えるって……」
「いえ、もちろんお気に召したものがございましたらお売りすることもできますが、主にここで使っていただくための画材です。チケットとはここの利用券です」
「えっとねーともちゃんの説明はいつもむつかしいのー要はねーみんなに画材をもらってー集まった画材をーここでー好きなだけ使い放題だよーってこと。でねーお茶とかお菓子も食べれるのー。たのしいよーあたしが考えたのー」
とりあえず『ともちゃん』というのは黒髪ショートの名前らしい。何を言っているのかはよく分からないが、それだけは把握できた。
踊るような仕草で嬉しそうに語る栗色ロングを見つめていると、『ともちゃん』の方が微笑みかけて来た。
「では、試しに1時間ご利用になってみますか?お客様は初めてですのでドリンクサービス致します」
笑顔だが返事を待たずにラミネートされたドリンクメニューを差し出して来た。有無を言わせないその様子に私は頷くしかなかった。
「えっと……カフェラテのホットを……」
「わぁ、カフェラテ頼んでくれたー。お仕事だー」
「絵美さん!エプロンと三角巾!あと手洗い消毒忘れないでよ!」
栗色ロングが一階に小走りで降りて行く。こちらの名前は『えみさん』らしい。
危なっかしげなその足取りを見送ると『ともちゃん』は苦笑した。
「騒々しくて申し訳ありません。少々お待ちください。1時間はこちらの画材をご自由にご利用いただけます。紙やキャンバスもご用意しておりますのでお申し付けください」
「え?どれでも使っていいんですか?」
「はい、よろしければメンバーカードをお作りいたしますのでお名前をこちらにご記入いただけますでしょうか」
言って胸ポケットから名刺サイズの厚紙とボールペンを取り出す。隅に『あとりえ透明』とだけ書かれていて後は真っ白だ。
「……えっと……高見原一花(たかみはら いちか)です」
「素敵なお名前ですね」
『ともちゃん』は涼やかに笑う。この整った笑い方が彼女の営業スマイルなのだとようやく気付いた。我ながら遅すぎだ。
私は気を紛らわせるために部屋を物色し始めた。
「水彩絵の具でも色んなメーカーのがあるんですね」
「はい、人によって好みもありますし」
「好み?配色とかですか?」
「ええ、例えば青や緑系の充実した銘柄は風景画を描く方が好まれますし、茶系の多い会社は人物画によく利用されます。ただそれだけでなく、水の溶きやすさ、スケッチに行かれる方は持ち運びのしやすさで選ばれる方もいらっしゃいますね。高見原さんは絵はよく描かれるのですか?」
「中学の時にマンガの真似事をしていたくらいです。コピックもその時買って…。でも高校に入ってからはバンドにハマって全然触ってなかったんです。この春から大学の文学部に入るんですが、一人暮らしを始めたらコピックセットだけでも結構場所を取っちゃって……」
「それで、買取先をお探しになられたと」
「まぁ、そんなところです。スッパリ絵を辞めたかったって言うのもなきにしもあらずですが……」
『ともちゃん』の表情がどこか陰りを見せたような気がして、私は歩みを止める。彼女はすぐに笑顔を作り直した。
「絵は辞めようと思って、ある日突然辞められるものではありませんよ。そんな方のためにこの『あとりえ透明』はあるんです。無性に描きたくなった時に好きな画材で好きな絵を好きな時間だけ描けるように」
「それって……」
「今は便利な世の中でして……」
彼女はエプロンのポケットからスマートホンを取り出す。少し操作して、一つのアプリを取り出した。
「コピックの公式アプリです。コピックって色数が多いのが長所の反面、自分がどの色を持っているか、どの色が減りやすいか、どれを混色すればいいか分からなくなることってございませんか?それを全部管理できるんです。補色も分かります」
彼女の液晶画面には色相別になったマーカーツールと混色色数を現すピッカーが表示されていた。
「高見原さんがコピックを買われた時には考えられなかったことですよね。でもこういうものもあるんです」
「おまたせしましたー」
私たちの会話を遮って、明るい声が階段を上ってくる。小花柄のエプロンに三角巾をした『えみさん』だった。
「『あとりえ透明』特製カフェラテですー」
真っ白なカフェボールになみなみと注がれたカフェラテ。横の小皿に小さなクッキーが2枚添えられている。
「ありがとうございます。いただきます」
「おっとー、ちょっと待ったー。これからが本番ですー」
「え?」
『えみさん』はエプロンから銀色の串のようなものを取り出した。
「高見原一花さん、だそうよ」
『ともちゃん』が伝えると『えみさん』は「うーん」と首をひねった。
「いちかちゃん……一つの花?」
「はい」
「じゃあ、お花だねー」
ミルクを注ぎ足すと器用に銀のスティックで細かい絵を描きだした。
「薔薇……?」
薄茶色のカフェラテに見事な花が描かれていく。
「ラテアートって言うんです」
「ネットで見たことありますが、本物は初めて見ました」
数分もまたない間にカップの中に見事な薔薇が咲いた。
「なんか……飲むのがもったいないですね」
「飲んでくださいよー。美味しいですよー」
恐る恐る口をつけると、細密な薔薇はたちまち崩れてしまった。勿体ないと言った顔をする私に『えみさん』は笑いかける。
「そんな顔しないでー。いくらでも描きますよー」
彼女はニコニコと私が飲む様子を見ていたが、思い出したように立ち上がり、階下に降りていく。何だろうと思っていたら、私が持ってきたコピックを箱ごと持ってきた。
「これ、定価だと五万以上したでしょー」
「はい」
「5万7456円ね」
初めて値段のことに触れた。『ともちゃん』がスマホを触って、おそらくショップサイトを見ていたのだろう、口をはさむ。
「中学生ってそんなにお小遣いあるの?」
大きな箱をテーブルの上に置き、目をクリクリさせる。
「お年玉を貯めて……」
「えらいねーパパに買ってもらったとかじゃないんだー」
ずいぶん、歯に衣着せぬ人だ。しかし、天地神明に誓ってそういうものではない。
「なのに、手放しちゃうんだー。面白い画材なのに」
「大学では軽音サークルに入ろうと思ってて。バイトもしたいし。手元に画材があるとつい描いちゃって余計な時間取られそうで……」
そこまで言って、口をふさいだ。画材を扱う人に『絵を描くのは余計な時間』というのは禁句だろう。
しかし『えみちゃん』は変わらぬ笑顔でコピックの蓋を開けた。
「そうだねー。絵を描くのは仕事でもない限り余計な時間だー。時間とお金の泥棒だー。一花ちゃんは早くそれに気が付いてえらいねー」
意外な言葉に目を丸くした。
「それに気づくのに私は30年もかかっちゃったー。バカだねー。でもねー」
『えみちゃん』は小首を傾げてフフフと笑う。
「趣味にすればいいんじゃないかなー。趣味だったらどんなものでも大なり小なりお金と時間がかかるものでしょー。スキーでもゲームでも音楽でも同じだよー」
「趣味……ですか」
「ともちゃんー、コピック使っていいー?あとエア缶とコンプレッサーもー」
「コンプレッサーはいいわよ。コピックは高見原さんに聞いて」
『ともちゃん』はそれだけ言うと、部屋の棚を物色し始めた。
「一花ちゃんはコピックをどんな風に使ってた?」
「え……?マンガの真似とか……」
「だよねー。厚塗りしやすいでしょー」
「はい、美術系の雑誌や講座サイト見て真似してたんですが、どんどん塗り重ねちゃって…」
「じゃあ、こういう使い方は知ってる?あ、コピック使っていいかなー?」
返事を待たずに私の向かいの席に腰かけ、蓋を開けた箱から茶色のマーカーを一本取り出す。どこからともなくスケッチブックを取り出す。紙類が机の下に収納されていたのに私は初めて気づいた。
『えみさん』は私を見つめると細いスケッチマーカーの方でサラサラと何かを描きだした。
「何です?」
「動かないで!」
眉間に皺を寄せ、声を上げる。さっきまでのおっとりとした彼女とは明らかに顔つきが違う。私は慌てて体を固くした。
「申し訳ありません。すぐに終わりますので、楽にしてください」
『ともちゃん』が笑顔でフォローしたかと思えば、手に小さな機械とスプレー缶のようなものを持って現れた。不思議なものを見る私の視線に気づいたのだろう。『ともちゃん』は笑い、スプレー缶を床に置く。
「エアブラシはご存じないですか?」
エアブラシ、というのは聞いたことはあったがどのようなものかは知らない。あの機械で動かすのだろうか。一心不乱に描く『えみさん』の後ろでスプレー缶を機械に取り付ける。
「絵美さん、何色?」
「とりあえずYG13」
さっきまでの口調とは打って変わりぶっきらぼうな言い方にも『ともちゃん』は動じない。てきぱきとコピックを一本取ると器具に取り付ける。『えみさん』がマーカーを机に置くのと同時に缶を両手で差し出した。
「ちょっと音がするので驚かないでくださいね」
『ともちゃん』が言うと『えみさん』は真剣な表情で、左手でスケッチブックを立て、右手でスプレー缶に取り付けられたハンドルをゆっくり引いた。まるで銃の引き金を引くように。
するとスプレーの先に当たる部分だろう、例えるならば銃口だ。そこから薄緑の細い霧が吹き出す。瞬き一つせずにスケッチブックを立て、右手でスプレーを傾けたり小さく動かしたりする。
数分もしないうちに、『えみさん』はハンドルを下ろし『ともちゃん』に手渡した。
「次は?」
「E44。それからB34。RV11で最後にC-3」
『ともちゃん』は黙ってコピックを4色選び出した。そして今まで取り付けていた黄緑のマーカーとグレーベージュのマーカーを取り替える。そこでようやく私は『えみさん』が言っているのが色の番号なのだと気がついた。
『えみさん』はそこからは全く喋らなかった。『ともちゃん』に渡されたグレーベージュのマーカーを取り付けたスプレーをまた霧吹きのように吹き付け机に置くと、手早く『ともちゃん』が薄桃色のマーカーに取り替える。
それがもう一度行われ、『えみさん』がゆっくりとスプレー缶を床に置くと、深く息をついた。何度か大きな深呼吸を繰り返して、スケッチブックを見つめると、うんうんと頷きにぱーとした笑顔になった。
「でーきーたー」
すかさず『ともちゃん』が2リットルのペットボトル入りの水を差し出す。スケッチブックを伏せるとまるでスポーツ選手のようにペットボトルに口を当て飲み始める。半分くらい飲んで息をついた。そして口を拭いつつスケッチブックを私に差し出した。
「えへへーこれね一花ちゃんなのー我ながら自信作ー」
見るとそこには私が……いや、私はこんなに美人じゃない。私に似た雰囲気の美しい少女が一輪の薔薇を持って座っていた。穏やかな表情に淡い色付きでまるで……
「水彩画みたい……」
「コピックエアブラシって言うんです。普通はエアブラシってアクリル絵の具やカラーインクで淡い色合いを出すものなんですが、このコピックエアブラシはコピックを取り付けるだけでできるんです。一番の利点は後片付けが手軽なこと、あと色を変えるのも楽に出来ますね。もっと簡易なものもありますし」
『ともちゃん』が笑顔で解説しながらコピックを片付ける。
「水がなくてもできるしねーこんな使い方もあるんだよってことーどう?気に入ってくれたー?」
「はい、とっても。これ持って帰って家に飾っても……」
「あーそれはダメー」
『えみさん』は言うとスケッチブックを私から取り上げ、紙をはぎ取った。そして絵をまっ二つにちぎる。
「え……?」
「これ趣味だもんー。作品は残さないのー」
笑顔で分厚いワトソン紙を細かく細かくちぎって行く。紙吹雪のような大きさにして天井にかざすと投げ上げた。
「あ、また散らかす!ゴミ箱に捨ててって言ってるでしょ」
「ともちゃんうるさいーだってさー」
ハラハラと紙の欠片が舞い落ちるのを私は呆然と見つめるしかなかった。
「花みたいじゃない」
それは まるで
桜の舞い落ちる中に立つ 絵画の女性のようだった。
呆れてその様子を眺める『ともちゃん』と笑い声を上げる『えみさん』
「あ、あの!」
「はい?」
「買取、チケットで!全部チケットでお願いします!あともう1時間延長で!私も描きます!教えてください!」
早口になる私に『ともちゃん』は笑顔を向けた。
「ありがとうございます」
二時間後、私と『ともちゃん』は店の出口に立っていた。『えみさん』は絵を描き終えた後、店の奥にこもったきり姿を見せない。
「このメンバーズカードはお客様のお好きな絵を描いてください。そのために真っ白のカードなんです」
言って『ともちゃん』はカードと束になったチケットを差し出すと深々と頭を下げた。
「またのお越しを心よりお待ちしております」
帰りの電車で、私はカードにシャープペンで薔薇の絵を描いてすぐに消した。そして『ともちゃん』推薦のコピックアプリをインストールする。
家の近くの書店で数年ぶりに美術雑誌を手に取る。これからいろんな画材を使うのだ。少しくらい勉強し直してもバチは当たるまい。パラパラとめくっていると、あるページで手が止まった。
『人気若手アーティスト・侑那絵美、突然の引退宣言』
そこに写っている笑顔は間違いなく『えみさん』の姿だった。