天球儀 其の零
ep.5 七月「獅子座の秘密」
「あの、すんません」
早朝の中務道場の前で立っていたまゆりに赤い髪の少年が尋ねた。
「はい?」
「ちょっと伺いたいんですが、小野香歩子はいますか?」
まゆりはその制服から自分と同じ高校だということは分かったが少年に見覚えはなかった。
「小野さんは今日お休みですよ。テスト前で勉強会だとかで」
「そうですか。あいつ…いや、小野さん携帯家に忘れて行って…夕方ここに来ますよね?渡しておいてもらえますか?」
「分かりました」
まゆりが頷くと少年は赤い携帯電話を手渡した。
「ありがとうございます」
赤い髪の少年は軽く頭を下げると足早に立ち去った。まゆりは腕時計を見、中の様子を窺った。
「ミナトさんーそろそろ学校行かなきゃ。今日も生徒会ですよね?」
道場にまゆりの声が響く。
「はい。今、雑巾がけ終わりましたので」
言ってTシャツにジャージ姿で鞄を持ってミナトが現れた。
市川と高坂の一件以来、十二宮はそれなりに落ち着きを取り戻した。毎日全員が来ることはないが、思い出したようにそれぞれが顔を見せる。
文化祭も半月延期されたが無事開催された。
その後片付けと余韻に浸りつつ、もうすぐ夏休みを迎える。
「ミナトさん」
門をくぐったところで香歩子と一緒に妹尾亮良と辻夏希が立っていた。
「あ、妹尾さん、夏希。どうしたんですか?」
亮良が頭を下げる。
「夏希がミナトさんの様子が心配だっ……痛っ!つねるな!夏希!」
「うるさい だまれ あきら」
「あ、ミナトくん」
「レナさん、おはようございます」
通りすがった玲奈にミナトは小さく手を振る。
「あ、あの人入学式で…確か生徒会長ですよね」
亮良は玲奈の背中を見つつ呟いた。
「あいつ」
「どうした?夏希?」
「いや なんでも ない」
「ミナトくん」
十二宮室で玲奈がミナトに声をかけた。書類を運びながらミナトは顔を上げる。
「今朝、校門のところで話してた一年生知り合い?」
「え?ああ、知り合い…って言うんスかね。妹尾君って男の子の方はそれほど親しくないんスけど」
少し困った顔で苦笑する。
「じゃあ、女の子は?」
「夏希は…えっと言っちゃってもいいんですかね?」
ミナトは顎に手を当てて考えるような仕草をした。
「何よ?」
「一応、妹です」
「夏希」
「なんだ?」
帰り道で妹尾亮良と辻夏希が連れ立って歩いている。亮良の言葉に夏希は顔を上げた。
「ミナトさんとちゃんと話さなくてよかったのか?またずっと家に帰られてないんだろう?」
「いい くそおやじが きめることだ このまえ だって」
夏希は俯いて少し黙る。
「この前?」
「いっかげつ くらいまえ くそおやじに たのみに きた じゅうにきゅうの きまりを かえたいとか いって うちに かえってきた」
「ミナトさんが?」
「でも そのしょるいを よういしたら また でていった」
「なんだろうね、それ」
亮良は大きく伸びをした。
「妹?あの子って辻夏希よ!理事長の娘よ!」
玲奈は思わず立ち上がる。
「会長、声大きいです。ていうか夏希が理事長の娘って知ってたんですね」
「ただ、今はミナト家出中……というか勘当中でして。今というかここ数年なんですが…。なので理事長の跡継ぎは実質夏希で決定です。あいつは絵の才能もあるから有名人だし、その点ミナトは何にもないですし」
「あの…今のお話本当ですか…?」
始業前で玲奈とミナトしかいないと思っていた十二宮室の前に、いつからだろう小紫沙羅が立っていた。
「あー、聞かれちゃったですか?」
「え…えっと…ごめんなさい…!あの…誰にも言わないので…!」
「はい、秘密でお願いします。あ、小紫さん昨日の書類ですね。預かります」
ミナトが前に出て沙羅から書類を受け取る。沙羅は足早に立ち去った。
「あーあ、ばれちゃいましたね。ま、いっか。隠すつもりもなかったし」
白いTシャツの袖をいじりながら伸びをする。
「なんでそんな重要なこと…」
「ミナトにとってはどうでもいいことなんですよ。家とか、学校とか。人間の価値はそんなところじゃない」
「そう…なんだ…」
玲奈は釈然としない気持ち抑えつつ頷いた。
「沙羅、今日はいつにも増して静かだな。何かあったのか?」
「う…ううん、なんでもないよ。せーちゃん」
バシッ
放課後の誰もいない渡り廊下で斉太郎の掌が沙羅の頬を打つ。
「俺に隠し事してんじゃねーよ。お前のこと一番分かるの俺なんだぜ」
「う…うん、そうだね。ごめんなさい」
「分かったなら言えよ」
「うん…ごめんなさい…あのね、ミナトさんのことなんだけどね…」
「おい、ミナトが理事長の子供だって本当かよ!?」
斉太郎が飛び込んできた時、偶然十二宮のほぼ全員が集まっていた。
「え?」
「なにそれー」
全員が振り返る。ミナトが困ったような微笑を浮かべ息をついた。
「どういうことだよ?ミナト?」
「あぁうん、困ったですね。えっと、まぁ聞いた通りです。完全に勘当状態ですが血筋的には理事長の子です」
「マジで!?すげー!」
譲が立ち上がる。
「すごくないですよ。だから苗字も言わなかったんです。もう家とは関係ないですから。中学は公立の学校行ってたんですけど腫れもの扱いが嫌で櫂明に来たんです。なので制服も着たくなくてジャージです」
「でもさーじゃあ本名はー…えっと辻だっけー理事長?」
「はい。辻湊です。でもできたらミナトがいいなーと」
「まぁ事情は人それぞれスもんね。私はミナトクンはミナトクンのままでいいスよ」
「うん、でもさぁ、さすがだよな。市川と高坂の時のあの手際の良さ納得だぜ」
「だよね~かっこいい~ミナトクン~会長みたいだったもん~」
「もうさ、ミナトが会長でよくねー?」
「そういうのっていいんですの?牡羊座でないと…」
「だからさ、名目上は姫が会長で実質会長仕事はミナトでいいじゃん!会合とかの原稿もミナトが作ってさ!」
「そうだよな。姫も会長の仕事めんどくさがってるしいいだろ?」
「あ…あの…」
「ミナト君がいいならいいわよ。はいはい、どーせ私はお飾りですよー」
沙羅が何か言いかけたが玲奈が先に返事をする。
「ミナトはどうだよ?」
「うーん、そうですね。亘さんさえいいのなら」
ミナトはチラリと玲奈の方を見た。
「せいせいするわ。会長なんてうんざりだったもん」
「じゃあ、そういうことでー。ミナトクンよろしくねー」
「はい、分かりました。よろしくです。では最初のお願いなんですが、皆さん明日から白制服を着てもらえませんか?楷明狩りも収まったようですし」
ミナトが軽く頭を下げて言い出す。
「うん、いいよー。もう姫に刃向う必要もないんならー」
「どうせ、皆十二宮来てるしな」
「あの…あ…あの…」
「じゃあ、もうストもなしってことで、ちゃんと毎日ここ来ようぜ。子供じみたことやめて」
「あの…!!」
沙羅の声にようやく会話が途切れ、視線が注がれた。沈黙の中心に立ち竦み目に涙を浮かべながら、沙羅は声を振り絞る。
「ごめん…なさい…亘…会長…ごめ…」
「なーんで沙羅が謝るんだよ。これでめでたしめでたしじゃん。第一、姫だってこれでよかったって思ってるだろ」
斉太郎が沙羅の肩を抱き寄せる。
「で…でも…もうちょっと…話をした方が……」
「話って何をだよ?」
「それは…」
それっきり俯いて黙り込んでしまった。
「沙羅は何も気にしなくていいんだよ」
「う…うん…ごめんなさい…」
「まーた謝る」
「ごめんなさい…」
斉太郎に制され、沙羅は椅子に着いた。それきり何も言わなかった。
「会長」
「今は貴方が会長でしょ」
翌朝、登校するとミナトが十二宮室で待っていた。
「肩書は貴方が会長ですよ。それより終業式の挨拶原稿作っておきましたので」
「ああ、ありがと」
プリントされた5枚ほどの紙を受け取る。
「ちょっと長くない?」
「今学期は楷明狩りとか揉めましたからね。十二宮の内部分裂もありましたし。なのでそのくらいでちょうどいいですよ」
「そう…分かったわ」
言って用紙をファイルにしまい鞄に収めた。
一学期終業式、生徒会席には白制服を着た十二宮のうち、累、一、芽芽を除く九人が揃っていた。
ミナトが進行をする。玲奈はミナトの書いた原稿を右手に持って壇上に上がる。
マイクの前で、紙を広げ声を出そうとして、言葉に詰まる。
そこに書かれた綺麗な原稿。ミナトが用意してくれたのだ。間違いがあるはずがない。でも…。
(これは…私の言葉じゃない)
声が声にならない。
原稿に滴が零れ落ちた。
講堂が騒めく。
はち切れたように玲奈の目から大粒の滴があふれ出していた。
私はどうしたかったのだろう。
十二宮の会長になりたかったわけじゃない。
人の前に立ちたいわけじゃない。
お飾りだって構わない。
でも
そうか
私は
負けたのが悔しいんだ。
人に負けたことがなかった。
勉強だって運動だって容姿だって。
自分が一番で
初めて自分の思い通りにならないことに行き当たった。
悔しい
悔しい
悔しい
何が悔しいって
今
ミナトの用意したこの原稿よりいい言葉が
思い浮かばない
完敗だ
世の中に自分が好きな人はどれくらいいるのだろうか?
私はいつもそんなことを考えている。
そして、結局考えても分からないが必ずいるだろうという結論に達する。
要するに私は私が大好きだ。
大好きだった。
それは なんと 愚かなことだったのだろう。
玲奈は涙を袖で拭って頭を下げた。
「失礼しました。では改めまして、生徒会からの挨拶をさせていただきたいと思います。まず、皆様ご存知かとは思いますがインターネット掲示板に生徒会メンバーの個人情報が書き込まれ……」
身の丈を知れ。
私が人にさんざん言ってきた言葉じゃないか。
身の丈を知り、それに見合った行動を取れる人間になれ。
これが今の私にできることだ。
「お疲れ様でした、会長」
壇上から降りるとミナトが頭を下げた。
「ありがとね、ミナトくん」
ミナトは一瞬、目を丸くしたが穏やかに微笑む。
「こちらこそ、ありがとうございます」
夏が 始まる 音がした。