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かむがたりうた

第序ノ壱章 「エン」




雲雀は 天に翔る 高行くや
         速総別 雀取らさね
        「古事記」下巻・仁徳記


「素粒子理論の論文集?」
「はい、探してるんですけど、図書館にはなくて」
「持ってたかなぁ……河合先生の所は行った?」
「ええ、足立先生もないそうです」
「……そうかぁ、いっそ旗右君にでも聞いてみるか?」
「旗右先輩?」
「冗談だよ。持ってても貸してくれないよ、彼は。うん、探しておくから。時間かかるかも知れないけどいい?」
「あ、割と急ぐんですけど……ダメですか?」
「急ぐの?そもそも何で古典の研究に物理の資料がいるかなぁ」
「まぁ、いろいろありまして…とりあえず他も探してみます」
 頭をかく若い物理教諭に軽く頭を下げると、職員室を後にした。
 人通りの少ない放課後の廊下で軽くため息をつく。
「高校の先生って意外と頼りにならない……」
 髪が軽く揺れる。蝉の声がちらほら聞こえ始め日に日に太陽が暑くなる、そんな季節だった。


 缶のプルタブを力任せに開けた。
「古典の資料しか必要じゃない古典研究って一体どんなのよ。中学生の夏休みの宿題じゃあるまいし」
 苛立ちを抑えきれず悔し紛れにぼやく。
 放課後、生徒はめいめい部活動に励み、遠くから声が響いていたが、営業を終了した食堂の周りは静かなものだった。その裏手にある自販機コーナー横のベンチに浅く腰掛け炭酸ジュースを一気に飲み込む。
「あー、もー!腹立つっっ!」
 繰り返すが、飲んだのはジュースであって、断じてアルコールは入っていない……多分。
 それでも某幼馴染みに今日はまんまと補習を逃げられ、その上、レポートの資料を当てにしていた校内の物理教師全員がロクなものを持ってなかった。これが飲まずにいられるか、とばかりに缶を飲み干し、ゴミ箱に投げ入れる。
 その場を立ち去ろうとした、その時だった。
 裏手の校舎から歩いて来る背の高い影が目についた。
(……旗右先輩?)
 背中近くまで伸びた黒髪を無造作に束ね、他から頭一つ抜きでた細いシルエット。始終不機嫌そうに細められた切れ長の瞳。そして何よりも目を引くのがとっくに衣替えは終わったと言うのに長袖のYシャツに革手袋、というその出で立ちだった。
 直接顔を合わせたことはほとんどなかったが、彼の話はよく聞いた。とてつもなく頭がよく、特に理系は全国トップレベルだとか、すごく怖くて、すれ違っただけで睨まれたとか、無愛想で、校内でも口をきいたことがないとか、様々な噂が立っていた。
 あの長髪も革手袋も夏でも長袖なのも立派な校則違反だが、教師も彼を避けて通るため、無言でまかり通っているらしい。
 不意にさっき言われた言葉が思い出される。
(確かに旗右先輩て先生よりよっぽど物理とか詳しそうよね)
 思ったがすぐに打ち消した。
「貸して」などと言って愛想よく答えてくれる相手ではない。
 彼は無表情でこちらへ向かって来ると自販機の前で足を止めた。眉をひそめ、何やら押し黙っていたが、ポケットから小銭入れを取り出した。
 こちらも立ち上がり、彼の後ろを通って校舎に向かう。

  ちゃりちゃりちゃりーん

 聞き慣れた音に目を彼の方にチラッと向ける。すると釣り銭入れに戻って来た小銭を拾って来た。小銭が通らなかったのだろう、とだけ思っていた。
が、

  ちゃりちゃりちゃりーん

二度、繰り返された同じ音。

  ちゃりちゃりちゃりーん

  ちゃりちゃりちゃりーん

 何度も釣り銭入れに返って来る小銭に何だかおかしくなって彼の手元をよく見てみた。
「…………………あ…あの……余計なお世話かも知れませんが……」
 恐る恐る声をかけると、彼は心底迷惑そうに振り返った
「………五円玉って普通、自販機では使えませんよ…」
「…………………」
 彼は自分の掌中の小銭をジッと見つめ、かなり長い間を置いてから、軽く舌打ちした。
「…………………」
 そして、あたしは糸が切れたように笑い出した。失礼だとは心のどこかで思いながらも、大声をたてて笑っていた。彼は顔をしかめるていたが、その間中、そこに立っていた。それが彼の呆れ顔だと気付いたのは、ずっと後の事だったけど。
 どのくらい経っただろう。笑いがおさまったあたしは、ようやく言葉を口に出来た。
「他に小銭ないんですか?」
 彼は答えなかったが、答えはイエスだっただろう。
 小銭に限らず、あれ以外にお金を持ってる人はあんなにしつこく返って来る小銭を投入したりはしない。ポケットの中から十円玉を一枚取り出した。
「どうぞ」
 差し出された小銭を彼は無言で断る。
 ああ、なるほど、無愛想って言われるわけだ。

「旗右先輩、つかぬ事を伺いますけど、物理得意なんですよね?」
 唐突すぎる質問に彼はまた顔をしかめた。
 構わずあたしは続ける。
「あたし古典の研究が趣味で、今、素粒子理論の資料を探してるんですが、論文集か何か持ってませんか?貸してほしいんです」
 彼はしばらく何かを考えてから、小さく頷いた。
「……ナヲ…いや、知人が持っていたと思うが…」
 それが、あたしが聞いた彼の最初の声だった。
「本当ですか!」
 思わず身を乗り出すあたしに彼は目を細める。
「それじゃ、これレンタル料にしてもらえません?もちろん、ちゃんとお礼はします。あんまり沢山はないけど…今書いてる論文が賞に入ったら賞金も出ますし……ダメですか?」
 尋ねる私の手から十円玉を取ると、彼は自販機に放り込んだ。カップにブラックのアイスコーヒーが注がれる。
「あ、そうだ。あたし一年の天川遥歌って言います」
 脈絡なく名乗ったあたしに彼は目だけを向ける。
 彼の瞳は深い黒で、とても、綺麗だった。確か。

 あの時、彼が本当に八〇円しか持っていなく
 しかもそれが当面の生活費だったことや

 最初、自販機の前で立ち止まっていたのは
 コーヒーを買うべきかどうか本気で悩んでいたことや

 その日、いつもは家から持って来ていた冷茶を忘れて
 困っていたことや

 涼しい顔をしながらもやっぱり長袖に手袋とは
 それほどまでに暑苦しいものだということを知るのは

 それよりもう少し先の話。


 そして、彼がそうまでして厚着をしていた理由を
 知ってしまう事になるのは
 さらにもう少しだけ後の話である。


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