かむがたりうた
第玖章 「テキ」
桜の樹の下には屍体が埋まつてゐる!
これは信じていいことなんだよ。何故つて、桜の花があんなにも見事に咲くなんて信じられないことぢやないか。俺はあの美しさが信じられないので、この二三日不安だつた。しかしいま、やつとわかるときが来た。桜の樹の下には屍体が埋まつてゐる。これは信じていいことだ。
梶井基次郎「桜の樹の下には」
「琉真!」
神社の近くの公園で、一人立ち尽くす金髪の少年。
「琉真!だいじょうぶ?」
琉真の表情を見て、安と西夜は目を見開いた。何も映していない見開かれた青い瞳。
「琉真!琉真!」
ハッとしたかと思った途端、琉真は地面に膝まづいた。
「どないしたん!何があったん?」
「………った」
乾いた唇から声が漏れる。
「……会った……『三番目の言霊遣い』に……」
言うなり、その場にドサッと倒れ込んだ。
「西夜…『三番目の言霊遣い』って?」
琉真の年齢以上に軽い体を抱えて短い距離を歩くのは、そう大変なことではなかった。部屋に布団を敷き、そこに寝かせると安と西夜は部屋を出た。
そして尋ねたのは安だった。西夜は黙って、かぶりをふる。
「教えられないってこと?」
ただ一度頷いた。
「一番目が父さんで,俺が二番目だろ?」
「違う」
西夜はまた首を横に振った。
「万夫さんは亡くなったから数に入ってへん」
「それじゃ…さらにもう一人いるってこと?でも言霊遣いって家系なんだろ?俺には兄弟もいなかったし、親戚にもそれらしい人は…叔母さんや駿さんも違うよね?」
「それは…」
「今は言えない?」
「ごめん…」
西夜の俯いた表情を見ていると、とてもではないがそれ以上追求する気にはなれなかった。
「分かった。でも一つだけ疑問に思ってたことがある。俺の他にも言霊遣いがいるなら、なおさらだ」
「何?」
「俺自身でも、父さんやその他の言霊遣いでもなんだけど、もし矛盾することを言ったらどうなる?例えば『明日は一日中晴れる』と言った後で『雨が降る』と言ったりしたら?」
「どんなことでも先に言うた方が優先される」
思いもかけず即答だった。
「せやから、安や代々の言霊遣いには僕らの能力や運命ををなくすことが出来ないんや。初代の…太安万侶が言葉にしたことやから。でも…」
一呼吸おいて西夜が真摯な表情で言った。
「『その時』が来れば、安なら…」
「弓さん、お仕事には慣れました?」
「ええ、でも人見知りなんで迷惑をかけっぱなしです」
無認可保育所の玄関で砂城の問いに頬を赤らめて俯きながら比呂乃は答えた。
「大変ですね、頑張ってください」
はい、と笑顔で返す。
「それじゃ、今日もよろしくお願いします」
言うと抱いていた紅音をゆっくり渡す。
「はい、確かにお預かりしました」
砂城が、ばいばい、と紅音に手を振ると、向こうも慣れたものでブンブンと手を振った。
「ばいばい、さきー」
扉が閉められると、紅音は比呂乃に手を引かれて奥の部屋に入って行った。
「紅音ちゃんはお父さんもお母さんも名前で呼ぶのね?」
「さきもさかえも、おなまえでよんでって。おそとでは、さきとさかえが、ぱぱとままだってことも、ひみつ」
「若いお父さんとお母さんだから照れてるのかもね」
比呂乃はそう言うと、カラフルなおもちゃであふれた広い部屋に紅音を座らせた。
「ひろのせんせ、えほんよんで」
数時間前に昇ったばかりの朝日は砂城の目に痛かった。
「う?眠い。でも朝のバイトは割いいしなぁ。春休みの間に稼がなきゃ」
「あれ?砂城ちゃん?」
保育所から出ると聞き慣れた声がした。
「キャ?、安クン!グーゼン!西夜クンから聞いたわよ、琉クンが家出して大変だったんだって?」
遠慮なく抱きついてくる。
「どうしたの?こんなとこで」
「いや,今日で春休み終わりでしょ。で、旗右先輩に言われて、一日バイト」
琉真の居場所を教えてくれた礼なのだが,経緯は砂城に話すと長くなりそうなので黙っておいた。
「あ?、じゃぁ栄クンのとこ行くんだ。いいなぁ、一緒に行きたいけど砂城もこれからバイトなのよ?」
「バイトなんだ。その帰りでもいいから、よかったら西夜のとこ寄ってみてくれないかな?琉真が昨日倒れてね、ずっと眠ったままなんだ」
「リョーカイ!お見舞ね!」
砂城はピシと敬礼の姿勢を取った。
「それじゃ」
「うん、栄クンがあんまり苛めるようなら連絡してね!」
ゆっくりと開かれた碧眼は和室の天井と一人の少女を映していた。額をなでていた東子は、心底ホッとした表情で手を放した。
「東子…さん…?僕…どうして………あ!」
思わず半身を起こす。
「あづみ!」
東子は首を横に振り、琉真の両肩を軽く掴んで再び床につかせた。
「そうか…僕……」
目から一筋の涙がこぼれ落ちた。
「あづみが…伊邪那岐(いざなぎ)様に…」
栄のアパートに着くと、インターホンを押す前に扉が開いた。いや内側から開かれたと言うべきか。先客が帰るところだった。
「じゃぁ、また来る」
出てきたのはパリッとしたスーツ姿の青年。二十代後半くらいだろうか。右手にはビジネスバッグを提げている。背はそれほど高くはないが、それを補って余りある育ちの良さそうな端正な顔立ちに凛とした表情。
下半分にだけ黒いフレームのある眼鏡を中指で持ち上げると、彼は安の姿に気づいた。
「太榎…安…?」
低い声で尋ねられ、安はおどおどと頷いた。
「は、はい…」
「マジで!うわっ、教授に似てねー!」
上品な顔立ちにまるで似合わない口調で、嬉しそうに安の背中をバンバンと手加減なしに数回叩いた。
「教授って…父さんのこと……」
「ナヲ、何を騒いで…ああ、来たか太榎」
栄が部屋から顔を出した。
「仕事はいいのか、ナヲ?」
「ヤベ!じゃぁ、どうせまた会うだろうから、またな!太榎安!オレ、池条(いけじょう)ナヲ!ついでに言うと能力者だから!」
全然ついでじゃない重要事項を残して、ナヲ、と名乗った青年は足早に走り去って行った。
「聞いての通りだ。奴は性格に問題はあるが、昔からいろいろ世話になっていてな。とりあえず入れ」
栄は相変わらず顔色一つ変えず、安を招き入れた。
「安!」
ザッと仕事の説明を受けて、さぁ始めようという時だった。インターホンを押したかと思うと、扉を蹴破るような勢いで遥歌が入ってきた。
「ハル!」
「天川?」
険しい表情で息を切らせる彼女に、安と栄は同時に立ち上がった。
「神社行ったら、ここだって言われたから…」
「どうしたの?明日始業式だからどうせ会うし、携帯でも…」
「待ってられなくて……!」
胸元で大切そうに抱えていた本を机の上に置くなり、遥歌は栄の左手の革手袋を剥ぐように奪い取る。
「な…!」
栄が思わず左手を隠す。しかし、厳しい目のまま遥歌は栄に向かって左手を差し出した。
「握手してください」
「ハ…ハル!それは…」
「手に触ってください」
安の静止も聞かずに繰り返す。栄は少しの沈黙の後、首を横に振った。
「できませんよね?」
ああ、と今度は縦に振る。片方だけの手袋を返すと、一緒に本を差し出した。
「あなたなら分かるんじゃないですか?この本のこと。ねぇ、火之迦具土神」
ギクリと肩を震わせる。
「太榎、貴様この本を天川に渡したのか?」
「は、はい。訳してもらおうと思って…」
はーっと大きなため息をつき、少しの間頭を押さえていたが、仕方ない、と部屋の隅に放り出していたスプリングコートを手に取った。
「太榎、天川、来い」
「え?え……どこに」
「天川を伊邪那美様に会わせる」
ええ!と二人揃って声をあげた。
「…というわけで、お初にお目にかかります、伊邪那美…様」
「呼び捨てでも構わないですよ」
栄、安の間に挟まれ固くなっている遥歌に、クスクス笑いながら伊邪那美は答えた。
「じ、じゃぁ、お言葉に甘えて伊邪那美…さん」
「はい、天川遥歌様。全ての説明は要りませんね、あの『預言書』を読まれたのでしたら」
「預言書?」
安が返す。
「あれは古事記の原本だ」
「古事記って原本は残っていないんじゃ…!」
「そうなの?」
「うん、今残ってるのは写しよ」
遥歌はどうせすぐ忘れるだろうとそれ以上の説明はしなかった。
「いいえ、原本は太安万侶が作った預言書です。極秘に太榎家に代々受け継がれてきました」
「そういう国宝級…いや、それ以上に貴重なものを簡単に天川に貸してしまったんだ、貴様は。それもこれもナヲが何の説明もなくあの本を送りつけるから」
「あの封書って今朝のナヲさんが?」
さっきから安は尋ねてばかりの気がする。
「ああ、どういうつもりかは知らないがな」
遥歌がパンと手を叩いた。
「話を元に戻しますが、あれを『預言書』だと仰りましたね、伊邪那美さん?私は正直そんな非現実的なこと信じたくはありませんが、この目であの本を読んでしまった限り受け入れざるを得ません。でも、それじゃどうして『世界の預言書』ではなく『安の預言書』なんですか?」
「あれを書いたのが万夫様だからです。あの本は言霊遣いが記したことを実際に起こす力があります。そして代が替わる度に白紙に戻り、新しい言霊遣いがまた記します」
「なら、万夫さんが亡くなった時点で白紙に戻るはずじゃ…」
「どこまでお読みになりました?」
「昨日、主人公の「少年」が安だと気づいてから、徹夜で白紙の前のページまで…要は書かれている部分は全部です」
「そこまで!」
伊邪那美は心底驚いたのだろう。安は彼女が声を高くするのを初めて見た。
「はい、なので安にも旗右先輩にも隠していることがあります。こういうのなんて言うんでしょう…タイムパラドックス?未来を変えちゃいけないんですよね?セオリーとして」
遥歌がいつになく凪いだ表情で笑う。
「そこまで読んで平常心を保つことが出来るほど聡明な方なら分かりませんか?古事記は全部で『三巻』あるのですよ」
「三巻……あ!」
何かを思いついたか、声を上げる。
「先輩、分かりますか?」
「さあな、こういうことは天川の得意分野だろう」
些か不機嫌な様子で栄は答える。
「分かりました。では最後にもう一つだけ」
「何でしょう」
伊邪那美は元の穏やかな表情に戻っていた。
「『伊邪那岐』とは何なのですか?」
「東子さん、まだ肌寒いですから風邪をひきますよ」
神社の境内でベンチに座って街を見おろしていた東子に、鏡子は上着をふわりとかける。東子が頷くと、老婆はその場からゆっくり立ち去った。その足音が聞こえなくなるのを待って,東子の唇が何度か動いた。
「須佐之男(すさのお)、来ていいよ」
高い澄んだ声に応じて、茂みから姿を現したのは体格の良い長身の青年。見た目は二十代後半くらいだろうか。白いシャツに黒のジーンズ姿。整えられた黒髪にどこか虚ろな瞳。東子の前に立つと跪いて右手の甲に軽く口づけた。
「天照はいないのか?」
「西夜は琉真を看てる。もう一人いるね、誰?」
「あぁ、気づいたか。俺が連れてきた。杜叶(とかの)」
石段を上ってもう一人青年が現れた。肩の辺りで不揃いに切られた焦茶の髪に鋭い目つき。やせ形で背はそれほど高くない。濃紺の薄手のジャケットを着くずし膝と裾に破れ目のあるジーンズ。
「杜叶ッス、よろしく」
伸びた前髪を鬱陶しそうに掻き揚げながら、頭も下げず挨拶をした。
東子は冷ややかな目でその顔を見ると、ふいと須佐之男の方へ面を向けた。
「あらら、お姫様はテメーとしか話したくないんだとさ、すーさん」
肩をすくめて笑う杜叶に須佐之男は視線を流す。
「その呼び方はやめろ」
「いいじゃん。仰々しいんだよ、須佐之男命様なんて」
「呼べ」
「はいはーい、須佐之男命サマサマ」
「都音架織と筑波あづみはどうした?」
「なぁんかここに来るのはマズいってドタキャン」
「どいつもこいつも勝手な…」
頭を抱える須佐之男に、東子はまた金魚のように小さく口をパクパクさせた後、声を出した。
「構わないよ。伊邪那岐様への忠誠が変わりないならば」
「伊邪那岐?」
安の問いに答えたのは栄だった。
「古事記上での伊邪那美様の夫だ。伊邪那岐・伊邪那美の夫婦神がこの世界を作ったとされている」
遥歌は二人のやり取りは聞き流し続けた。
「伊邪那美じゃなく伊邪那岐が生きているんなら、話は…非現実的ですが…分かるんです。伊邪那美は火之迦具土神…旗右先輩の能力で死に、伊邪那岐が生き残った。伊邪那岐は…」
「敵です」
伊邪那美はきっぱりと言い切った。
「敵?」
安が聞き返す。
「栄たち能力者を亡き者にしようとする敵です」
「で、でも、琉真があづみさんは琉真の父親に殺されたって…琉真の父親も敵なんですか?」
「それは…」
「いずれ分かるわ。今は知らないでいいことよ,安」
言葉に窮した伊邪那美を代弁したのは遥歌だった。
「わ、分かった。ハルがそういうなら」
安は疑問を呑み込んだ。
「あたしが聞きたかったのはこれで全部です。ありがとうございました」
遥歌は深く頭を下げる。
「いえ、こちらこそご足労頂きましてありがとうございます。お会い出来てよかったです」
「また…来てもいいですか?」
「来ない方がいいでしょう。『預言』に従うのなら」
遠慮がちに尋ねる遥歌に伊邪那美は否定の言葉を乗せた。
「…ああ、そうですね。じゃあ、お元気で」
言うと、安と栄を一瞥して言った。
「あたしは途中までしか知らないわ。この『古事記』がどう終わるかは分からない。だから…死なないでね。安も旗右先輩も」
少し潤んだ瞳で言いながら、本を安に渡した。
「この本の半分が白紙なのは、万夫おじさんが安に続きを書いてほしいからよ」
「でも俺…そんなこと…」
「今は無理でも安が持っておいて。そして、ゆっくりでいいから…現代文の下手な字と下手な文章でいいから続きを書いて。これは万夫おじさんの子としての義務よ」
「父さんの…」
安は黙って和綴じの本を抱きしめた。
「では、伊邪那美様、私達はこれで」
「はい、ごきげんよう」
栄の言葉に伊邪那美は笑顔で返し、三人は家を後にした。
「東子」
眠る琉真の横で西夜は開けられた襖に振り返った。
「さすがに、ずっと外にいると冷えるでしょ」
西夜は東子をギュッと抱きしめた。
「ほら、手なんかこんなに冷たくなって」
東子は黙って、穏やかに微笑んだ。
遥歌は生徒会で翌日の始業式の打ち合わせがあるということで、学校に向かった。安と栄はアパートに向かう。
「随分と予定が押したな」
「あの…お願いがあるんですが…」
腕時計を見ながら、言う栄におずおずと安は尋ねた。
「池条ナヲさんにまた会いたいんですが…無理ですか?」
「奴の仕事が終わるまでに入力作業が終われば会える」
「が…頑張ります!」
アパートに入ってから安は時計が昼前を指しているのに気がついた。
「そういえば昼食まだでしたね、何かコンビニで買ってきましょうか?」
「いや、家に何かある」
「何かって……」
備え付けの小型冷蔵庫を開けたが水しか入っていなかった。台所下の棚を開けると、そこには寸分の狂いもなく種類別に整然と並べられたカロリーメイトの山。
「………先輩ってA型ですか?」
「?何故分かった?」
安の努力の甲斐か、五時には入力作業は終わった。
「今から行けば間に合うな」
「どこなんですか、池条さんの職場って?」
「東京駅前」
「へぇ、出版社とかですか?」
「宮内庁だ」
「宮内庁?」
栄が帰宅ラッシュの電車には乗れない…車両炎上を起こしかねない…というので栄はスクーターで、安は電車で向かうことになった。あまり行かないので迷うかとも思ったが、意外とスムーズに東京駅の丸の内中央口で栄と落ち合うことができた。
「ここで待っていたら、通るはずだ」
一〇分程、お互い無言で立ち尽くしていた。
「栄?」
沈黙を破る低い声。
朝会った青年が駆け寄ってきた。
「太榎安も!どうしたんだよ?」
変わらずピシッとした背広姿で笑いながら言う。
「太榎がナヲに会いたいと」
「なになに?オレにキョーミあんの?」
安の鼻が触れそうなほど近くに顔を寄せる。
「ざーんねんだけど、オレ女にしかキョーミねぇから。あ、暗くて生真面目なのはパスね。どっかのお姫様みたいに」
「ナヲ!」
「あー怒んないでよ。育ての親に向かってさ」
両手をひらひらと振る。その軽薄な態度や口調が、高級スーツ姿にひどく不似合いで滑稽に見える。
「育ての親?」
「そ、まぁ簡単に自己紹介すると、池条ナヲ、二八歳独身。道端に捨てられてた赤ん坊の栄を、拾って育てたのが俺の元カノで、そいつから預かったんだよ、ガキの頃。今は宮内庁勤務の…まぁ自分で言うのもなんだけどエリートっていうか、将来を嘱望されてるっていうか、才能あふれるっていうか、モテるっていうか。それから…」
眼鏡を外し胸ポケットにしまうと、ペコリと頭を下げて笑った。
「湊大学文学部太榎ゼミの卒業生でございます」
「今日はお早いんですね」
保育所の玄関で比呂乃は砂城に向かって紅音の背を押した。
「ええ、早番だったので」
「毎日大変ですね」
「お互い様ですよ」
「いえ、私は今日までですので」
「そうなんですか?」
「ええ、学校が始まるので。土日や祝日は来ますけど…」
すると奥から「弓さん、もう上がっていいわよ」と声がした。
「弓さん、もう帰るんですか。じゃぁよろしければ一緒に帰りません?友達の家に寄るんです」
「あ…すみません。私も友達の所に寄りたくて」
心底すまなそうに頭を下げる。
「また誘ってください」
「父さんの…生徒?」
「ああ、教授には世話になった。まぁオレが優秀だったからなんだけど」
「能力者だったからだろう」
「それを言うなよ、栄」
「あの、父さんってどんな人でした?」
安の上げた声にナヲは眉をひそめた。
「お前の方が詳しいだろ?父親なんだから」
「いえ…えっと…その…学校ではどんな人だったのかと…」
「すっげー厳しかった。レポートも書き直しさせられなかったことがないくらい」
『厳しい人でした。自分にも他人にも』
鏡子の言葉が反芻される。
「そうなんですか…」
「でも」
ナヲが懐かしむように顔を上げた。
「嫌なヤツだと思ったことは一度もなかったなぁ」
安は少し意外だった。これほど…失礼だが身勝手な人にそこまで慕われていたのか。
「さて、栄も太榎安も夕飯まだだろ?おごってやるよ、何がいい?和食?中華?フレンチ?」
「おごりなら何でもいい」
「えっと…」
「よし、イタリアンな!太榎安!」
答える前に答えを出された。どこまで傍若無人なんだ、この人は?
「あの…」
「イタリアン嫌い?トマトダメとか?」
「いえ、そうじゃなくて…『太榎安』ってフルネームで呼ぶの、できればやめてほしいなぁ,と」
「でも『太榎』だと教授とかぶるんだよなぁ…安でいいか?」
「はい」
「よし、じゃぁとっておきの店教えてやる、安!ピッツァとパスタどっちにしよーニョッキもいいな。ワインはどんなのにする?」
『未成年!』安と栄の声が初めてシンクロした。
「あの、俺…父さんと親しい人に会ったら聞きたいことがあったんです」
人波に逆らい道を歩きながら、安はナヲに尋ねた。
「昔、父さんが俺のこと『化け物』って言ってたんです」
へぇ、とナヲは笑った。
「さすが教授。言い得て妙だ」
「でも、他の人が言うんなら分かるんです。言霊遣いなんて化け物みたいな能力だって。なのに、父さんも言霊遣いだったんでしょう?同じ力なのに…」
「同じ力じゃないからだよ」
ナヲはサラリと言った。
「安、お前は他の言霊遣いより濃くその血を受け継いでいる。そうだな、教授に言わせてみれば『原初の言霊遣い』になりうる存在だからだろうな」
それ以上は何を聞いてもはぐらかされた。
(より濃く?原初の…?)
安の中で疑問符は増える一方だった。
「琉クンの様子は?」
紅音を連れた砂城がインターホンを押すと、すぐに出てきたのはエプロン姿の西夜だった。
「大丈夫みたい。今東子が看てる」
「こんばんは、おにいちゃん」
「こんばんは、紅音ちゃん」
「琉クンは部屋?」
頷くと、砂城は琉真の部屋に向かった。西夜はエプロンを脱ぎ、盆に琉真の夕食を乗せて後に続く。
「起きて大丈夫なの、琉真?」
西夜が盆を枕元に置くと、布団の上で半身を起こしていた金髪の少年は微笑んだ。
「はい。ご心配をおかけしました。砂城さんも紅音ちゃんもこんばんは」
「こんばんは」
紅音が大きく頭を下げる。
「元気そうでよかった」
「ええ、ちょうど安さんもいないのでお話します。僕の知った全てを」
紅音以外の全員が息をのんだ。
「まず、どういう理由かは知りませんが、三番目の言霊遣いが生きていました。名前は都音架織。フルネームが分かっているので…もちろんそれが本名だったらですが…どこにいるかは、これから僕が調べます」
「……とね…かおる」
記憶に刻もうと西夜は繰り返す。
「そして…筑波あづみの能力は皆さんご存知ですね?」
西夜、東子、砂城が真摯な表情で頷く。
「彼女が戻ってきました」
「それって…伊邪那岐の……」
「はい。厄介な能力ですので、少しでも異変を感じたらすぐに周りに知らせてください。恐ろしい…」
布団を小さな手でギュッと握りしめると、琉真は決意を固めたように凛とした蒼い目で全員を見渡した。
「敵です」
「ただいまー」
「今日は夕飯は?」
『都音』と書かれた表札を掲げた比較的新しいマンションの玄関を開き、少年が笑顔で帰宅してきた。
「あ、部長達とファミレス行ったから」
「いらないときは連絡してって言ってるでしょ!何のためのスマホなの?」
「まあいいじゃないか。部活動なんだから」
「あ、お父さん。帰ってたんだ。おかえりなさい」ソファで新聞を広げていた中年の男が笑って言う。同じくらいの年頃のしかし、外に出れば人目を引くほど端正な顔立ちの女性は食卓に三枚並んでいた小皿を一枚下げながら不満げに言った。
「もー、図々しいところは、あなたに似たのね!」
「見た目はお前に似たから文句はないだろ?」言われた通りに、少年は女性によく似ていた。いいや、髪と目の色は父親似だろうか。
透き通る白い肌に横だけ伸ばした茶色の髪と奇妙なほど整った顔だち。
少年は笑って上着を脱ぎ、ハンガーに掛けた。
「なあ、架織」