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かむがたりうた

第廿肆章 「ネガイ」




母さんお窓をしめましよう、
もう郭公鳥は鳴きませぬ。
林の虹も消えました、
沼には靄がおりました。
母さんお窓をしめましよう、
風がひえひえいたします。
もうすぐ夜が来るのです。
もう郭公鳥も鳴きませぬ。
病気がおもるといけませぬ。
母さんお窓をしめましよう、
ランプに灯もいれましよう。
        新美南吉「沼の家」


「本を…」
 遥歌は独白のように呟いた。
「本を…古事記を貸してもらえませんか?三冊ともここにあるんですよね。あと何か書くもの…」
 深琴は一瞬ためらったが、頷いて部屋の奥へ向かった。三冊の本を前にして遥歌は床に座り込むと上巻から乱暴にめくり始めた。
「やっぱり、あたしが読んだところからほとんど書き足されてない。だったら…」
 上巻の最後のページを開き、ペンを握る。
「な、何を…!」
「あたしは言霊遣いじゃないけど、ほぼ全ての能力者の能力を受け入れたあたしなら何とかできるかもしれない」
 ペンで手早く何かを書き入れ出す。
「終わらせるの、全てを終わらせて…ゼロに戻すの!伊邪那美としてしなきゃならないことがあるとすれば、それしかない!」


 栄の右腕を雪の手の刃がえぐった。
「不憫だよなぁ、呪われた能力を持って生まれて。いい加減楽になろうとか思わねーの?」
「ククッ」
 栄はゆっくりと立ち上がった。
「何を笑って…」
「呪われた能力だと…?不幸な運命だと…?フザけるな…この能力は……」
 唇の端から出る血を拭う。
「私の誇りだ」
「何言ってやがる?」
「生きることもままならないこの能力を抱え、しかし千年以上もの間この能力者は自殺することなく生き続けていた。それを誇りと言わずして何と言う?」
 雪が目を見開く。罵倒するように声を荒げる。
「フザけるなってのはこっちのセリフだ!何が誇りだよ!そんなのただの言い訳だろ!そうまでして生き永らえたいのかよ!」
「生き永らえたいな。私は自分や周りが思うよりずっと生に貪欲な人間らしい」
 雪の攻撃をかわす手に迷いはなかった。
 気配があった。砂城も巴も西夜も死んだ。ここで自分が踏みとどまらなくてどうする?例えそれが世界を滅ぼすことになったとしても、自分は生き延びなければならない。


「旗右先輩なら生き残ってくれるはず」
 遥歌は本をめくりながら断定した。
「どうしてそんなこと言いきれるんです?」
「信じてるから」
 それは確信だった。
「あの人は強いって…誰よりも強いって信じてるから。あたしがダメになりそうな時、いつだって支えてくれた。何も言わずに頭を撫でてくれた。そんな先輩をあたしは信じてる」


「もし…もしもの話だぜ。俺がお前の兄だったらどうする?」
「え?」
 栄は目を見開いた。
「お前には言ってなかったけどな、俺の…旗右雪の母親は十九年前、産婦人科病院の火事で死んだ。父親の話じゃ赤ん坊も一緒に死んだと言うことだったけど、もしそのガキが捨てられていたとしたら…?ちょうど時期も年数も合うんだよ。もちろんただの偶然かもしれないけどな」
 雪はニヤリと笑う。
 考えなかったわけじゃない。
 それはあくまで可能性の話。
 でも…でも…………。
「もし…そうだとしたら」
 栄は口を開いた。
「……嬉しいな」
「え?」
「嬉しいに決まっているだろう。天涯孤独だと思っていた私に肉親がいたんだ。もう死んでしまったとしても父親も…兄までいたんだ。これを喜ばずしてどうする?」
「な…!」
 栄の一太刀は宙を縫った。
「何でだよ?何で打ちひしがれないんだよ?絶望しろよ?こんな世界、見切りつけてもいいはずだぜ!」
「絶望ならもうし尽くした。貴様が裏切り者だったと言うことも知っていた。だが、未練はあるんだ。私は今の世界が好きなんだ。人が必死であがいて笑って泣いて生きているこの世界が。それを壊したくない」
 栄は息をつく。
「守りたい」


「守りたいって言ってくれると思うの、あの人なら」
「栄が…ですか」
「あの人はそういう人だから。すごく不器用で人と上手く接することは出来ないけど、誰よりも人のことを考えてた。すごくすごく優しい人。バカみたいに。でもだからこそあんなに人が集まったんだと思う。あたしもそういうとこ大好きだったなぁ」
 ふふふ、と遥歌は笑った。
「だから、絶対に自分から死んだりはしないと思う」
「でも…」
 深琴は顎に指を当てた。
「確か雪の願いは…」


 雪の右手をなぎ払った隙に、雪は栄の懐に潜り込んだ。左手が栄の脇腹を貫く。
「ぐはぁっ」
 栄はその場に倒れ込んだ。
「こんなことを…しても…また生き返って…」
「言っただろ。俺の望みを」
「何?」
「お前を殺すことだよ。姿を変え、人界へ降りて、お前をもう生き返らさないように殺すこと」
「なん…で…そんな…」
「お前のために決まってるだろ。もうこれ以上、お前を辛い目に遭わさないために…そのためなら俺は何だってするさ」
「馬鹿…か…」
 その次の瞬間、栄は両手に力を込めた。


「あなたは何も思わないの?旗右先輩はあなたを助けるためにここまで来たのに!」
「栄が勝手にしたこと。私には関係…」
  パシィッ
 遥歌の手が深琴の頬を払う。
「あんた、何で分からないのよ!あんたのために命をかけてくれる人がいるのよ!それがどういうことかも分からないの!」
 深琴の目が見開かれる。
「私は…」
「そこまでにしてもらいましょうか」
 二人の間に割って入ったのは架織の手だった。
「そんなこと分からないでいいんですよ。僕たちは人として生きる必要なんてないんですから」
「あんた達は…!」


(伊邪那美様…いえ、仮にそうでないとしても、誰だったとしても、私は貴女を愛します)
「何で…何で立ち上がるんだよ…!」
 初めて雪がうろたえた表情を見せた。
(例え応えてくれなくても)
「もう、楽になろうとか思わねーのかよ…!もうやめろよ…!」
 血だらけで立ち上がる栄に雪は叫びを上げる。
(そう思うことが私の力になるのです)
「もう…やめてくれ…!」
 悲鳴のように雪は手を振り上げる。
「お前こそ、もうやめろ」
 栄は素手で刃と化した雪の手を受け止めた。
「ああ、もうやめよう」
 手から血が流れ出るが気にもしない。
「もう、やめよう。疲れただろう?雪」
「チク…ショ…」
 雪はガクンとその場に膝をついた。目から涙が一粒こぼれ落ちる。
「俺は…栄を…救ってやりたかった…だけ…な…の…」
「…雪…ひとつだけ聞きたい。お前は私達を欺いていたのか?」
「欺く?ああ…そう見えるのかもしれねーな。俺はただ死にたがってる奴や苦しんでる奴を放っておけなかったんだよ。それが伊邪那美側だろうと伊邪那岐側だろうと。目につく奴は全部助けてやりたくて…そのためには嘘もついたし、手も汚した…。それでも俺はどこまでも無力で…嫌気がさしたんだよ…だからお前に託したかった。お前に全部託して…俺は解放されたかった。ただ…助けたかっただけなのにな」
「雪…お前はどうするんだ?」
「俺は『扉の中』へ行く。もう願いは叶わねーしな」
 俯いた。
「今度こそ…本当に…」
 するとその姿はかき消えた。


「旗右先輩!」
「太榎…?」
 雪のいた場所を眺め立ち尽くしていた栄を現実に引き戻したのは安の声だった。
「よかった…無事で…」
「ああ、私はすぐに生まれ変わって…」
「その前に傷治しますから」
 安は言霊を使った。
「『旗右先輩の怪我、直れ』」
 みるみるうちに全身の傷口は塞がって行く。
「……つくづく便利な能力だな」
 栄は口の端だけで笑った。
「助かった」
「先輩…今、笑いませんでした?」
「?」
「うわぁ、いいもの見れたかも」
「…いつだったか天川にも同じことを言われたな」
 栄は懐かしげに呟いた。


「桔梗はいつでもそうだったよね」
「何が?」
 薙刀を両手で握り締めながら月子は呟いた。
「いつだって余裕ぶって笑ってた。でも…」
「でも?」
「でも影で必死に努力してたのを俺は知ってる。なのに今の桔梗は能力に頼って自分で動こうともしない」
 サッと薙刀の刃を桔梗に向けた。
「俺は認めない」
 それは決心。言葉にしないと揺らいでしまう決心。
「俺は絶対にお前を館風桔梗と認めない。お前はもう…」
 一瞬ためらった後きっぱりと口にした「俺の敵だ」
「分からないなぁ」
 薙刀を手で払いのけた。
「どうして俺を敵だって言うんだ?俺は何にも変わっちゃいないよ」
 月子の小刻みに震える手をつかむ。
 そして体を引き寄せると、何も言わずに口づけた。
 月子は一瞬何が起きたのか分からなかった。
  パシィッ
 が、すぐにその手を払いのける。
「最っ低……」
 それは桔梗に向けられた言葉ではなかった。
 一瞬でもその温もりを愛おしいと感じてしまった自分に向けて。女であることなんて、とっくに捨てたつもりなのに。
 やっぱりどうしようもなく好きなのだ。愛しくて仕方がないのだ。
 こんな男が。
 私は
 私って奴は…
「どこまでバカなのよ」
 大粒の涙がポタポタと零れ落ちる。
 封印していた女としての本能。
 あの日 桔梗が死んだ日に誓ったはずだ。
「館風桔梗は一人で十分だよ」
「気が合うね。俺もそう思うよ」
 涙を強く拭うと再び刃を桔梗に向けた。

 桔梗と惹かれ合うのは出会ってそう時間のかかることではなかった。
 両親と死に別れた自分と、両親に捨てられた桔梗。
 幼い頃から同じ施設で育ち、気づけばいつでも側にいた。幸せだった。中学を卒業して施設を出たら、どちらともなく一緒に住むことにした。アルバイトに明け暮れる毎日で貧しかったが、どうしようもなく幸せだった。
 桔梗の夢は小説家だった。そのために大学に行きたいと、大検を受ける勉強もしていた。それこそ寝る間も惜しんで。だが疲れた素振りは全く見せずにいつも飄々と笑っていた。
 その笑顔がたまらなく好きで、一生かかっても支えていこうと思っていた。桔梗が風呂場で手首を切ったその日までは。
 幸せが一瞬で瓦解された瞬間。
 能力のことも運命のことも聞かされていた。それゆえにこの時間が有限であることも。
 しかし、何故だろう。桔梗だけは大丈夫だと思っていたのは。
 湯船に張られた血に染まった湯もどこか現実味のないような気がして。私は桔梗の死を否定することを心に決めた。
 『月子』を殺し桔梗として生きることを。長かった髪を切り落とし、自分を捨てる代わりに桔梗を作り出した。でも……

「でもそれって現実から目をそらしているだけだろう?」
 心の中を見透かしたように桔梗は言った。月子の表情が凍りつく。
「うるさい!」
 月子の声が響いた。
「お前に…お前に何が分かるんだよ!置いていかれた人間の辛さが分かるのか!一人で生きていくことの辛さが分かるのかよ!どうして…」
 それは一番言いたかった言葉。
「…どうして…一緒に殺してくれなかったの…」
 そして決して口にしてはならなかった言葉。
「桔梗は分かってない。生かすことがどんなに残酷なのか」
 また涙が零れ落ちた。桔梗は初めて硬い表情を動かした。
「…月子を巻き込みたく…」
「エゴだ!」
 月子はかぶりを振った。
「能力者じゃないから関係ない?普通の人を巻き込んじゃいけない?そんなのただのエゴだ!巻き込めるものは巻き込めばいいんだ!すがれるものにはすがればいいんだ!何も知らないで、全て忘れて、幸せになれ?ふざけるのもいい加減にしろ!そんなのただの自己満足だ!」
「月子」
 桔梗の手が優しく月子の頬に触れる。
「それをもっと早く聞けたらよかったのにな」
「桔梗……」
 月子の涙を拭うと、そっと口づけた。
「月子のことなら何でも知ってるはずだったのに…ごめんな、分かってやれなくて」
 抱きしめて何度も何度も髪を撫でる。この感触を覚えていられるように、忘れさせないように。
「でも…お前はこの五年間、本当に幸せではなかっただろ?」
「何で分かるんだよ!」
「俺が戻って来たからだよ。俺の願いは『月子が幸せな人生を歩めること』でも、お前が俺のふりをしていると俺の願いは叶わなかった。だから戻って来たんだよ。月子が俺を切り捨てて、月子自身として歩き出せるように。でもお前、言って聞くようなヤツじゃないだろ?」
 月子は桔梗の胸にすがった。
「俺がいなくても幸せになってくれるか?」
 ゆっくりと頷いた。
「じゃあ俺は行かなきゃ。忘れてくれとは言わない。覚えていてくれとも言わない。そんな勝手、言う権利…俺にはない。ただひとつ、稲荷月子として幸せになって。それが俺の望みなんだ」
「桔梗…『私』は忘れない。たとえ誰と次に恋に堕ち、誰と結ばれたとしても…」
『……君だけは幸せに』
 二人の声が重なる。桔梗の姿は静かにかき消える。
 それを待って黒猫が音も立てずに現れた。
「ユエ…見てたのか…」
 月子の血まみれになった手を舐めた。
「そうだな…私にはお前がいるもんな…生きて…いかなきゃ…」
 黒猫はじっと月子の顔を見上げていた。
「稲荷月子として…」


「旗右先輩、あなたはどうするんです?」
 ゆっくりと尋ねた。
「私は…」
「生まれ変わるんですか?」
「…その前にどこかの馬鹿に力を貸さねばな」
 栄は向き直った。
「現況が知りたい。貴様ならできるだろう。誰が生きていて誰が願いを言っていないか、把握しているだろう?」
「俺は…」
 安は首を横に振る。
 不意に後ろから声がした。
「伊邪那美様…いえ、天川さんとは会えましたか?」
 安と栄は振り返った。
「トネ…一度、弓さんの姿で現れたがすぐに消えた」
 正直に答えるのは口惜しい気がしたが自分も彼女を探している以上文句は言っていられない。
「やはりそうですか。彼女なら『塔』に戻っていますよ」
 架織は平然と顎をかく。
「なっ!それを早く言えよ!」
「でも彼女はいまやほとんど能力者の能力を持ってしまっていますからね。神界で雲隠れするくらい簡単でしょう。それよりも気になってたんですが、それ」
 架織が指差したのは安の胸元で光るチョーカーだった。
「誰からもらったんです?」
「?池条さんから…」
 その言葉に眉をひそめ、架織はそのチョーカーに触れる。
 その時だった。
 二人を中心に凄まじい爆発が起きたのは。


「自分の命を選ぶか世界を選ぶか、か」
 ナヲは自宅の部屋で静かに息をついた。
「他のバカどもは違うみたいだが、俺は本気でこんな世界滅びればいいと思ってんだよ。だから死ねない。生き残ってやる。それにはお前が邪魔なんだ。太榎安…いや、言霊遣いが」
 目の前のソファには泉原が横たえられていた。
「だから殺す。太榎の人間は全て」
 静かな目だった。
「俺が殺してやる」


「俺…生きてる…?」
 安は自分の両手両足を確認して目を丸くした。爆発があったところまでは覚えているが、次に意識が戻った時は無傷で地面に倒れていた。
「何であの爆発で怪我ひとつしてないんだ?」
「僕が言霊でそうしかけたからですよ」
 ふらつく頭を上げる安の横で、架織がおなじく傷ひとつなく立っていた。
「言霊で?」
「あなたも僕も『死ぬべき時』が来ない限り決して死なないように」
「死ぬべき時って…」
「それよりもいいんですか?旗右先輩」
 安はそこで初めて自分の傍らに倒れる青年に気づいた。
「旗右先輩!」
 返事がない。ぐったりとして息もしていないのが分かった。
「……心臓が動いていません」
「そんな…!そうだ『生き返…』」
「なっ、やめ…」
 架織の静止は聞かなかった。
「『れ』」
 次の瞬間だった。安の体を凄まじい傷みが襲う。
「なっ……」
「安さん!」
「だい…じょ…ぶ…だ……これで先輩が……生き返るなら…」
 現に目の前の栄は傷口も癒え、顔色も徐々に良くなり、小さく吐息も聞こえる。安の傷みも徐々に和らいで来た。
「旗右先輩」
 ゆっくりとその黒い瞳が開かれる。
「よかった…」
 しかし、栄はそれ以上ピクリとも動かなかった。
「旗右先輩?」
 目の前で手を振ってみるが反応はない。
「これが言霊遣いにとっての『生き返る』ということですよ」
 架織が冷たく言い放ち、チョーカーの破片を拾った。
「安さん以外の言霊遣いが触れると爆発するように作られていたみたいですね。つくづく容赦のない人です、池条さん」
「そんなことより旗右先輩が!」
「『意識戻れ』とか言ってもムダですよ。貴方は旗右先輩の姿形は知っているけれど、何を考えどう行動するつもりだったのか具体的には知らない。知らないものを復元はできません」
 安の目から涙が溢れ出した。
「俺が…殺したのか…俺が…旗右先輩を……だって笑ったんだ!あの時、確かに笑ったんだ!ほんの少しだったけど…!自分は生まれ変わるんだって!生まれ変わる前に俺に力を貸してくれるって…!」
「このままじゃ生まれ変わっても意識のない赤ん坊が産まれるだけですよ…せめて…『扉の中へ』」
 架織が言うとその姿はかき消えた。
「トネ!お前何を…」
「僕も聞いた話ですが『中』は能力者にとって楽園と言われています。旗右先輩の能力があっては僕たちではまともにどこかへ運ぶこともできない。ここに置いておくよりはよっぽどいいでしょう」
 架織は淡々と話し、踵を返した。
「一旦戻りましょうか。天川さんが待っているかもしれません」
 安は不承不承それに従うしかなかった。


「比呂乃、もう生き返らないの?なんでだよ?今度こそ俺たち普通に出会って普通に…俺の能力があれば可能なはずだ!」
「そうだね。巴君なら可能かもしれない…でも私は」
 比呂乃はかぶりを振った。
「疲れちゃったんだ」
 そして空を仰いで呟く。
「もう行かなきゃ」
「行くって…」
「もう私の『願い』は叶えられたから、ここにいる理由も資格もない」
 巴の目を見た。
「巴君はどうする?」
「どうするって…」
 ギュッと両手に力を込める。
「俺は比呂乃と一緒にいたい。でも約束したんだ…戻るって。戻って来るってナヲと…」
「ナヲさんがそんなに大事?ナヲさんはあなたのことなんて、これぽっちも大切に思ってないわよ」
「…知ってる」
「その証拠にあなた信頼されてないじゃない。ナヲさんの能力さえも知らないでしょう?私も知らなかったの。こっちに来て初めて聞いたわ。教えなかった理由なんてばかばかしいこと。でもそんなばかばかしいことを教えてもくれなかった。そういう人なのよ、ナヲさんは」


 ナヲは静かに座っていた。そっと手をかざすと手のひらが暖かく光る。一人で苦笑して頭を振ると、その光はかき消えた。
「……ミラ」
 ソファに横たえた少年を静かに見つめていた。智樹は黙って眠っている。ミラと同じ色の髪をそっと撫でた。
「こいつなら分かるのか?お前が何を思って死んで行ったか」


「比呂乃…お前について行ったら分かるの?」
 比呂乃は笑って頷いた。
「どうして巴君がナヲさんに拾われたか理由は分かる?」
「理由なんて…運が…」
「違うの。あなたたち兄弟のお母さんも能力者だった」


 津山双葉と綾瀬川楓が出会ったのは実はもう三十年以上前の話。その後、綾瀬川楓はある男と恋に堕ち、若くして結婚し、子を産んだ。しかし孤独を好む綾瀬川にとって、結婚生活も赤ん坊も疎ましい存在でしかなかった。子を虐待し、それを知られたナヲは施設に保護され、離婚する。
 数年後、息子の様子が気になった綾瀬川は母親ということを隠し、ナヲの前に姿を現す。聡い子に育ったことを嬉しく思った彼女は息子にその能力を分け与える。
 そしてまた時を経て、綾瀬川は別の男の子を孕む。今度こそは同じ轍を踏むまいと思い一人で子を育てることにしたが、やはり子供とは自由を愛する女の足枷にしかならないものだった。虐待を繰り返し、逃げ出した二人目の息子。
 自分自身に絶望した綾瀬川は自ら命を絶ち、一つの願いを叶える。それは…。

「それは、兄弟が再会すること」
「な…何だよ、それ?」
「そうじゃなかったら運のいいあなたがナヲさんに拾われるわけないもの。拾われるとしたら…そうね、もっと裕福で優しくて温かい家庭の子になれたはずよ。路上生活させて、その能力を万引きなんかに使わせて、自分はぬくぬくと屋根の下で眠るような人に拾われるなんて、どう考えてもおかしいわ」
「そんな…」
「全ては巡り巡って仕組まれたこと。運命なんてないわ。分かったでしょう。だから…」
 ゆっくりと立ち上がり、巴に微笑みかけた。
「一緒に行きましょう、私たちの理想郷へ」
 手を差し伸べるその瞳を見て、巴は思った。
  ああ まるで 女神のようではないか と。
「俺の『願い』は」
 そしてその手を取った。
「ずっと比呂乃と一緒にいることだ」
 さようなら ナヲ


 ナヲはまた静かに手をかざした。日が落ち、暗くなった部屋に灯りが浮かぶ。その灯りを見つめながらナヲは大きなため息をついた。
「能力…か」


「ナヲの能力?」
 以前、安は栄に尋ねたことがあった。
「そう、西夜も知らないって」
 栄はしばらく考えてから口を開いた。
「知ってはいるが、私以外は誰も知らないだろうな…。ナヲの許可なしにはあまり言いたくない…」
「そんな恐ろしい…」
「いや、聞いたらきっと……」
 またしばらく考えて口を開いた。
「笑う」
「笑う?」
 結局その時は聞けずじまいだった。


「……千三百年前ならば重宝されたんだろうがな」
 ナヲは自嘲気味に口をゆがめた。絶対に誰にも知られたくなかった。馬鹿みたいな能力。距離も時間も問わず、自分の周囲を明るく灯す能力。それだけ。それだけの能力。電気のスイッチを入れればどんな明かりも灯る今の時代では何の役にも立たない能力。
 だからこそ、うらやましかった。能力故に苦しんでいる連中が羨ましくて、自分の能力をひた隠しにした。
「……ミラ」


「残るはナヲさんだけ?」
 架織の言葉に安は聞き返した。
「ええ、池条ナヲさん以外全員が人界で死亡しています」
(卵が先か、鶏が先か…)
「やっぱり俺が何とかしなきゃいけないんだよな」
 グッと口を結んだ。
「こんなの正しいわけがない」


(卵が先か、鶏が先か…)
 灯流は加奈から送られた携帯のメールを何度も読み返しながら、一筋の涙を流した。
「結局ウチには何も出来へんかったんか」
 変わって行く世界がどんなものになるかは分からない。
 でも
「頼みましたで、安さん」
 今よりいいものだと信じたい。


(あれ…俺……)
 頭がぼやける。
 視界ははっきりしてきて、ソファに寝かされていることはすぐに分かった。
(池条…さん…)
 辺りを見渡した。ナヲの姿はすぐに見つかった。
 自分に背を向けて棚から何やら探し物をしている。自分が起きたことには気づいていないようだった。
(そうだ、俺…)
 スクッと音もなく立ち上がりナヲの背後に立つ。そして、ナヲに気づかれることなく家から隠し持ってきた折りたたみ式の果物ナイフを両手で握る。
「!」
 ナヲは突然の背後からの痛みに振り返り、倒れ込んだ。
「てめ…」
「池……じょ…さん……」
 背中にナイフを突き立てられた状態で、首をあげる。
「俺には姉さんの記憶はないけど、姉さんが死んだせいで両親がどれだけ苦しんだかは知ってる…」
 傍らで智樹は膝をついた。
「姉さんの…敵ですよ…たとえそれが…姉さん自ら望んだことであっても…う…」
 智樹はナイフを引き抜いた。
『うわぁあぁぁぁぁぁあああああ』
 痛みに叫ぶ声と苦しみに悶える声が同時にこだまする。ナヲはその場に倒れ落ちる。智樹も自分の衝動的な行動に座り込む。返り血で染まった服と手を震わせながら。
「こんな……こんな…終わり方もあるんだな……」
 ナヲは倒れたまま話し続けた。
「最後にさ…聞いてくれるか…なんでこんなことになったか…」
 返事は待たずに続ける。
「俺はさ…羨ましかったんだ…栄や比呂乃みたいに不幸を振りかざして行きている人間が…羨ましくてたまらなかったんだ。俺だって昔はそりゃお可哀想な境遇だったんだぜ…小さい施設でちゃんとした飯もなくて…ロクな能力もなくて…綾瀬川…あいつに会うまでは…。あいつに会って…『人を不幸に追い込んでも自分が幸せになる能力』をかけられて…確かに幸せだったさ…。いい養育者見つけて…いい大学行って…いい就職して…いい生活して……でも何か足りねぇんだよ……。いつもいつも……何か足りなくて…何か……」
 ナヲの視界が暗くなる。
「…こんな…世界なんか…」
 それが最後の言葉だった。

  な、ミラ
  俺の言った通りだっただろ?


 真っ白な世界で目の前に見えたのは一人の少女。
「ミラ!」
 もうとっくに歳を追い越したナヲは、しかし子どものように少女に抱きつく。
「会いたかった!会いたかった!会いたかったんだ!」
「もう…疲れたでしょ?休みなさい。この世界で」
 ナヲは静かに頷き、目を閉じた。


それが

最後の

神の

末路だった


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