かむがたりうた
第拾漆章 「ワカレ」
それからそれがどうなつたのか……
それは僕には分らなかつた
とにかく朝霧罩めた飛行場から
機影はもう永遠に消え去つてゐた。
あとには残酷な砂礫だの、雑草だの
頬を裂るやうな寒さが残つた。
??こんな残酷な空寞たる朝にも猶
人は人に笑顔を以て対さねばならないとは
なんとも情ないことに思はれるのだつたが
それなのに其処でもまた
笑ひを沢山湛へた者ほど
優越を感じてゐるのであつた。
陽は霧に光り、草葉の霜は解け、
遠くの民家に鶏は鳴いたが、
霧も光も霜も鶏も
みんな人々の心には沁まず、
人々は家に帰つて食卓についた。
中原 中也「青い瞳・二冬の朝」
「あなたには葬儀のときだけお会いしますね」
「……あ、父の葬儀でお会いした…弓…さん」
壮年の男は憔悴しきった様子で安に頭を下げた。
「あなたが比呂乃と仲良くしてくれてたなんて知りませんでした」
「いや…俺は何もできなくて……」
制服姿で安は頭を下げた。
「家出した時、私にメールをくれてたんですよ。とてもよくしてもらってるって」
「それじゃ、西夜のおかげですよ。ほら、そこの詰め襟の髪の短い中学生。お礼なら彼に言ってあげてください」
「あたしも記憶をなくしていて…そうでなければ助けられたかもしれないのに本当に申し訳ありませんでした」
安と揃いの制服姿の遥歌も頭を下げた。
「天川さん…あなたも…。でも…比呂乃の面倒をみてやってくださってありがとうございました」
「あの…今日は弓さんのお母さんは?」
「ショックで寝込んだままで、とてもじゃないと葬儀に出られる状態では…」
「…そうですか」
「でも…」
どこか遠い物を見る目で言った。
「最期の最期に思い出してくれてよかったです。比呂乃のこと…」
「よう、安。昨日はどうしたんだよ?」
「イズミとトネ」
朝練が終わったのだろう、二人と廊下で出くわした。
「昨日はお葬式」
「忌引きか?ハルさんも休んでたよな?」
「いや、友達のだから普通に欠席」
「お友達が亡くなられたんですか?」
架織の問いに安は悲しげに頷く。
「それはお気の毒でしたね」
「そ、そんなことよりもさぁ!都音ってすごいんだぜ!」
暗い空気を取り払うように智樹は話を変えた。
「先週の新人戦で一人で三〇点も入れたんだぜ!」
「そういえば課題テスト、ハルを抜いてトップだったよね?」
「ありがとうございます」
架織は髪をゆらして頭を下げた。
「しかもこの顔だろ。だからもー、女にモテるんだってば、これが!マネージャー希望の一年女子がザックザク」
「よかったね。今までマネージャーなんていなかったから」
言うと「それじゃ」と教室に向かった。
「やっぱりお友達が亡くなられて、気を落とされてるんでしょうか」
「かもな」
「お父さんも亡くされたばかりですし、不幸って続くんですね」
口の端だけで笑ったのに智樹は気づかなかった。
帽子で顔を隠した少年は、受付を通り過ぎ、平然とした足どりで病室を目指した。透き通る白い肌に横だけ伸ばした茶色の髪と奇妙なほど整った顔だち。病院の個室に入ると、それを待っていたかのように女性は目を開いた。
「なんだ、昏睡状態だって聞いてましたのに」
「……時々、何かあると目が覚めるの」
「それも『言霊』ですか?」
「さぁ、ただの予感かもね」
紫がかった口元だけで笑う。
「一つだけ聞きたかったんです。あなたは何故、太榎万夫と結婚したんですか?」
「あの人が望んだの。より濃い太榎の血を…言霊遣いの血を残すために。でも…私は愛していたわ」
穏やかに言う。
「従兄の太榎万夫をですか?」
「そうよ、いけない?従兄を愛しちゃいけない?物心ついたときからずっと好きだった。憧れていた。例えあの人が私のことを言霊遣いだとしか見ていなかったとしても、それでも側にいられるなら一向に構わなかった。でもそれも…あの人が自分の子供を殺したときまで」
笑うと女性はポケットを指差した。
「そんなもの持って、こんなこと聞きにきたんじゃないでしょ」
「ええ」
架織はポケットから取り出したサバイバルナイフを心臓に突き立てる。
「死んでもらいます」
「安?」
一緒に帰っていた遥歌が振り返った。安の目からこぼれ落ちる大粒の涙。
「え?あれ?……なんだろう」
道行く人が振り返る。
「ち、ちょっと!どうしたのよ?」
「わ…分かんない……なんか突然……」
「ちょっと顔かくして!あたしが泣かせたみたいじゃない!」
言うと手を引いて走った。
「安、どうしたの?」
「道端で急に泣き出して…」
神社の境内に入ると、ちょうど帰ってきたばかりの西夜が目を丸くした。
「とりあえず中へ…」
背中を押す西夜の袖口を遥歌はつかんで、耳打ちする。
(西夜くんはあたしが『あの本』読んだの聞いてるわよね?)
(え…ええ)
(安は無意識に泣いてるみたいだけど)
一呼吸おいて遥歌は口を開いた。
架織は笑いながら、とっくに事切れている女性を滅多刺しにしていた。
「これで…これで僕が……」
返り血をものともせずに。狂っているかのように…いや、狂っているのかもしれない。
「あは……あはははは……!」
白い部屋に赤い血が飛び散る。
「これで僕が……やっと僕が……」
何度も何度も刺し傷を増やしそこから新しい血が流れ出す。
「僕が…『言霊遣い』だ……!」
(安のお母さんが殺されたわ。『三番目の言霊遣い』に)
それと同時に安の携帯が鳴った。
遥歌は部屋でじっと頭を抱えていた。が、ふと思いついたように台所の母親のところに向かった。
「お母さん、今日もう夕飯作った?」
「ううん、これからよ」
「じゃあ、お母さんのオムライス食べたい。ミートソースかかってるヤツ。それからお父さんとお姉ちゃん帰ってくるの待ってみんなで食べたい」
「へ?いいけど珍しいわね。みんなで食べるの一番めんどくさがってるのあんたなのに」
「今日は違うの!」
「はいはい。一体どうしたのよ?」
卵の数を確認する母親に向かって、涙をこらえた。
(ごめんなさい)
チュニックの裾を握りしめる。
(今日が最後だから)
翌日の昼下がり。
「今日は久しぶりに冷えますね」
鏡子は境内の椅子に座る東子にカーディガンをかけた。東子は頷いて、鏡子の手を握った。
「今日が…最後の日…だから」
「え?」
それ以上は東子は何も言わなかった。
休み時間、携帯が震える。
「水吹、メール?」
「いや、家から通話やわ。ばあちゃんメール使えんから。ちょっとごめん。ばあちゃん、どないしたん?……へ?…最後の日……?何それ?ごめんやけど僕には意味分からへんわ。でも東子が意味のないこと言うわけないから気はつけとく」
電話を切り、顔をしかめた。
「最後の…日……?」
「すみません、部長。今日部活、休んでもいいですか。ちょっと用事があって」
放課後、部室にひょっこり顔を出した架織は、着替えていた泉原に言った。
「おお、彼女とデートか?」
「えへへ」
「マジ、マジ?」
「彼女じゃないんですけどね」
架織は意味ありげに笑った。
「それで、あたしは何時にどこにいればいいの?」
部室棟の影で架織に話しかけたのは遥歌。
「そうですね…連絡しますので携帯の番号教えてもらえます?」
眉をひそめつつも言われるままに、生徒手帳の白紙欄に走り書きするとそれをちぎって渡した。
「ありがとうございます。何だか拍子抜けですね。こうもあっさりそちらが協力的になってくれると」
メモを丁寧に折り、胸ポケットにしまいながら架織は笑う。
「あたしは、あなたより頭がいいみたいね。それとも付き合いが長いからかしら。何となくだけど分かるの。安が選ぶ『結末』が…」
遥歌も鮮やかに笑った。
「だから大丈夫」
「そうですか。じゃあ、始めましょうか」
言って、架織は指を一回鳴らした。
安は学校を休み、部屋にこもってじっと考えていた。何故、今さら母が殺されなければならなかったのか。不思議と悲しみは沸かなかった。幼い頃から半分死んだようなものだと諦めていたからか。
襖を軽く叩く音がする。
「はい?」
「鏡子です。天川さんがお見えになってるんですが…」
「ハルが?」
襖を開けると困ったような笑顔で制服姿の遥歌が立っていた。
「ちょっと散歩しない?話があるんだけど…」
「じゃぁ、原稿取りに行ってきますー」
夕暮れも夜闇に呑み込まれようとする時間。
月子は小さなビルを出た。
「うわ、すっごい風」
「まずは情報源を断てか…」
後ろから聞こえた声に月子は思わず振り返った。
「桔梗!」
思わず身構える。
「月子を巻き込みたくないんだよ。悪いけど少し大人しくしていてもらえるかな」
手のひらからつむじ風を起こす。
「始まる…のか…?俺は手を引かないからな」
「どの道、引いてもらうことになる」
「え…」
次の言葉を紡ぐより早く桔梗の拳が月子の腹を直撃した。月子は一瞬で倒れ込む。
痛みに霞む意識を必死でこらえる月子。
「普通の人間が立ち入っちゃいけないんだよ、月子。見ておいて」
「ききょ…」
言うと巻き起こる風の中で姿は立ち消えた。月子は、痛みに遠のく意識を必死で支え胸ポケットから携帯を取り出す。ボタンを押すと数回のコールの後、面倒くさげな声が聞こえた。
『何だよ?』
「池…条…奴らが…動き出した」
月子の意識はそこまでだった。
「稲荷!どうした稲荷!」
駅に向かう人気のない道で電話口から目を離し、ハッと顔を上げるとそこに見えたのは一人の青年。
「杜叶…とか言ったな。名前からして十拳剣(とつかのつるぎ)の能力者か」
「強運の坊やは一緒じゃないんだな、つまんねー」
「つまんねーとは言ってくれるな」
スーツ姿のナヲは、手早くサバイバルナイフを取り出した。
杜叶の右腕が剣に変わる。
「便利な能力だ…な…」
言い終わるかどうかと言う時に、剣がナヲの首筋を狙う。
太刀を両手で持ったナイフでかろうじて受け止めた。
「なかなか…やるじゃねーか…」
冷や汗がナヲの頬をたどる。
(やべー、勝てねー)
思った瞬間右太ももに激痛が走った。
「武器になるのは全身。手だけじゃなくてな」
見ると杜叶の左脚が槍のようになっていた。ナヲが膝をつく。
「もうやめにしねー?バッサリと一瞬で殺してやるからさー」
「死んで…たまるかよ。あの時、ミラと約束したんだ。最後の一人になっても生き延びるって…。伊邪那岐の思いどおりにはさせねーって」
「ナヲ!」
ナヲと杜叶の間に小さな体で立ちふさがった。
「巴…だっけ?」
「これ以上消させてたまるかよ。比呂乃を追いつめたのもナヲだけど、俺をチビの時から育ててくれたのもナヲなんだよ!」
ナヲの手からナイフを取り上げると、まっすぐ杜叶に向かって行く。刃を軽々と避けると、その懐に入り込んで腹に切っ先を向ける。その瞬間
パリン
巴の刃が折れる。
「え?」
巴は一瞬何が起きたか分からなかった。
「だから俺は全身武器にできるんだって。胴体だってな」
ニヤニヤと笑って自分の肩にも届かない背の巴に問いかけた。
「逃げるなら追わないぜ」
「え?」
「俺の目的は池条ナヲを動けなくすることだけだからな」
言うとバイバイ、と言わんばかりに手を振る。巴はためらいつつも、ナヲを肩で抱えてヨロヨロと立ち去った。
「さて、すーさんはうまくやってるかな?」
部活で遅くなった西夜は帰宅し、愕然とした。
扉を開けた途端目についたのは鮮血。その中心にいるのは鏡子。
「ばあちゃん!」
「…い……や…さ…ん」
心臓をひと突きされた痕。
駆け寄る西夜に鏡子は息も絶え絶えに東子の部屋の方を指差した。
「と…うこ…さんを……」
それが鏡子の最期の言葉になった。
「ばあちゃん!ばあちゃん!何でや!何で婆ちゃんが……」
(東子さんを)
鏡子の口から流れ出していた血をハンカチで拭くと、そっとその場に寝かせた。
「東子!」
東子の部屋にいたのは自分を除いて四人。東子と須佐之男と筑波あづみ、そして部屋の隅に倒れ込んでる琉真。
「琉真!」
琉真を抱き起こしたが、どこにも外傷はない様子だった。
「眠っているだけですわ。わたくしの能力はご存知でしょう?もっとも…無事に起きられるかの保証はいたしかねますが…」
西夜は奥歯を噛み締める。
(せめて東子だけでも)部屋の隅にいた東子を庇う姿勢で前に立つ。
すると、須佐之男は大剣をスッと収めた。
「え?」
その瞬間、西夜に背中から熱いものが走った。それが痛みだと分かるまでに数秒かかる。そして西夜は振り返った。東子が手に握りしめた包丁を西夜に突き立てたまま、眉一つ動かさずに返り血を浴びているのが目に入ったのは。
「とう…こ……まさか…お前が」
「さようなら、せいやおにいちゃん」
その声は届いたのだろうか。西夜はドサリと倒れ込んだ。
「西夜クン!」
砂城が部屋の襖を開けた。
「筑波あづみと…須佐之男…あんた達がこれを…」
「お前と争う気はない。二人の治療でもしてやれ」
須佐之男は吐き捨てると同時に襖とは反対の障子を開けて外に出た。あづみと一緒に東子もそれに続く。
「トコちゃん……?」
袴を返り血で真っ赤にした東子は何も答えない。
「ウソでしょ!ねぇ!トコちゃん」
「あなたも気をつけた方がいいですよ」
去り際にあづみが言い残す。
「紅音ちゃんでしたっけ。入院中の可愛いお嬢ちゃん。大変ですわね、守るものが多いのは」
「伊邪那美様!」
巴から連絡を受けた栄はすぐさま伊邪那美の屋敷に向かった。扉を開けて真っ先に目に入ったのは血の赤。
「小夜子!何があった?小夜子!」
しかし既に事切れておりぐったりと血の海に横たわっているだけだった「クッ」舌打ちし、二階へと駆け上がる。
「伊邪那美様!」
ノックもせずに部屋に入るとそこにいたのは伊邪那美と一人の少年。透き通る白い肌に横だけ伸ばした茶色の髪と奇妙なほど整った顔だち。
「都音…架織…か?」
栄は革手袋を外した。
「無駄ですよ『貴方に僕は殺せない』」
(言霊か……!)
「伊邪那美様をどうするつもりだ?」
「連れ去るとでも言うんですか?十四年も姉さんをこんなところに閉じ込めておいて。僕は姉さんをずっとずっと待っていたんです」
架織は憎しみのこもった目で栄を見つめた。
「羽をもがれて篭に閉じ込められていた美しい鳥を逃がすだけです」
架織に背中を押され、伊邪那美はそれに従う。まるで子供のような見たこともない笑顔で架織の手を握る。
「待……」
栄が言う前に目の前に杜叶が現れる。不意をつかれた栄を肩から胸にかけてバッサリと斬りつける。血が部屋中に飛び散る。
「…ク……」
立ち上がろうと思っても体が動かない。
「…い…ざ…なみ…さ…」
しかし伊邪那美は顔色一つ変えず倒れ込む栄を冷たく一瞥しただけだった。
(守れな…か…った。一番大切な人なのに……守るって誓ったのに……守れなかった……)
それ以上の記憶はなかった。
「だから話って何?」
「う?ん、もうちょっと待って」
学校の近くの公園で安と遥歌はこんな問答を一時間近くしていた。
「話があるって言うから来たのに…帰るよ」
「ちょっと待って、ジュースもう一本買ってあげるから」
「いらないよ、もう三本目だろ!」
「そこをなん…と……か…」
遥歌の上半身がゆっくりと安に倒れ込んでくる。
「ハル?」
胸元を掴まれた安は足下に血が滴り落ちているのに気がついた。
「ハル?」
安は必死に抱きとめた。見ると胸元が真っ赤に染まっている。
「ハル…!……ハル!」
そんな遥歌越しに見えたのは、血の付いたサーベルナイフを右手に持った。
「トネ……都音…架織…」
透き通る白い肌に横だけ伸ばした茶色の髪と奇妙なほど整った顔だち。
「こんばんは」
返り血を浴びた白い服で、本当に偶然出くわしたかのように頭を下げる。
「お前…どういう……」
立ち上がろうとした安の袖を遥歌が力なく掴んで押さえた。
「あたしは…大丈夫…自分で選んだことだから……」
架織は踵を返す。遥歌は苦しげに、しかしはっきりと言う。
遺言を遺すように。
「『古事記』に書かれていたのはここまで……あとは安が書いていかなきゃならない。だから…」
もうまともに動かない体で安の身を抱きしめた。
「ハル?」
「だから負けないでね……『あたし』なんかに……」
手がパタンと地面に落ちる。
「ハル!ハル!」
それは自分の無力さを嘆くような叫び。
「ハル!ハル!」
思い残すことなんて、まるで、何一つないような
「………………ハル!」
穏やかな死に顔だった。
あたし、幸せだったよ、安と会えて