拓ちゃん(仮)

6月になり少しずつ社会にも慣れてきた
新入社員の姿を見て
ふいに思い出されたことがあります。
あれは去年の今頃でした。
仕事仲間の友人が事務所まで車で送ってくれるというので
もう1人の友人と3人で乗っていたときのこと。
車が交差点で
横断歩道を渡る歩行者待ちで止まりました。
当たり前ですが
待っている私たちの車のことなど意に介さず
足早に渡る歩行者の人の中で
一人、立ち止まった青年がいました。
初々しい顔立ちで
真新しいスーツ姿に似つかわしくない
大きなスポーツリュックを肩に提げた彼は
私たちの車を見ると
「お先にどうぞ」という感じで
立ち止まりました。
「いや、そんなことされても
 他の歩行者がじゃんじゃか渡ってるから通れないし」
運転手の子が手で「どうぞ」と合図をすると
彼は深々と頭を下げ
ぱたぱたと小走りで横断歩道を渡っていきました。
大きなリュックの背を見送りながら
女三人は同じことを思いました。
「か、かわいいっ!!」
一瞬の間の後
車の中で大歓声が轟きました。
女三人の萌え心が一気に火を噴きました。
「今の見た!?」
「見た!?何あれ!かわいすぎ!」
「きっと新入社員だよ!
 お昼食べに出かけてるの!」
「そうだよね!
 1時から会議があるから遅刻できなくて急いでるの!」
「いや、新人だからお茶くみとかしなきゃで
 会議の大分前に戻ってなきゃならないんだよ!」
「慣れない仕事で大変なんだよ!
 毎朝お母さんに『タクちゃん(仮)頑張ってね』とか言われて
 見送られてるの!」
「タクちゃん(仮)!!!」
「そう、まさにタクちゃん(仮)!
 ヒロシでもマサユキでもなく、タクちゃん(仮)!」
その後、仕事先へ
「タクちゃん(仮)って絶対『拓』って漢字だよね!」
「そうそう!
 『卓』でも『宅』でもなく『拓』!」
「名前は『タク』かなぁ」
「え~!『タク』だけ?」
「私の中学の同級生に『拓』くんっていたよ」
「いや、違う!
 う~ん、『タクヤ』?」
「何か違うなぁ…『タクミ』とか?」
「それだっっ!タクミっっ!!」
「『ミ』は絶対『巳』で」
「『拓巳』くんかぁ、いい感じだなぁ…」
お昼を食べに行くと
「ところでさぁ、たっくんって…」
「たっくんじゃなくて拓ちゃん(仮)!」
「あ、ごめん。
 拓ちゃん(仮)って何の仕事してるんだろう」
「そうだねぇ…教育関係の出版社とか」
「あ、そこで営業させられてるの!」
「大学はK大学(神戸にあるお金持ちの名門私学)で」
「社会学部とか文学部とか」
「そうそう!なんの実益もなさそうな学部で」
「中学からのエスカレーターとかどう?」
「いい!で、歴史研究会とかなの」
「歴史研究会の会計!」
「最高!!!」
「大学時代のバイトは家庭教師のみ!」
「うんうん!」
事務所に戻っても
「拓ちゃん(仮)はさぁ公務員試験受けて落ちて
 仕方ないから出版界に行ったら
 厳しい上司と外回りばかりさせられて落ち込んでるの!」
「帰ったらお母さんが
 『拓ちゃん(仮)お仕事大変なんじゃない?』とか心配してる!」
「拓ちゃん(仮)はいい子だから
 『大丈夫だよ』とか言うんだけど
 全然大丈夫じゃないオーラが見るからに漂ってる!」
「お姉さんも心配してる」
「お姉さん!」
「うん、拓ちゃん(仮)には歳の離れたお姉さんが二人いるの!」
「お母さんは専業主婦で
 お父さんは家を空けがちな企業戦士で
 拓ちゃん(仮)は女系家族で育ったの!」
「お姉さんは長女はキャリアウーマンで
 次女は結婚して子供もいるんだけど
 嫁いだのが家の近所でしょっ中家に帰ってくる!」
「で、家の食べ物とか根こそぎさらっていく!」
「拓ちゃん(仮)が楽しみに取っておいたドーナツとかも
 全部お姉さんの子供の口に!」
「その子供も女の子!」
「うわ!かわいそう!かわいそう!!」
仕事が終わり友人たちと別れて
初めて気がつきました。
拓ちゃんじゃないかもしれないじゃん。

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