
最初の語り部が私だったから、最後の語り部も私にならないとダメだろう。
私が一番あとりえ透明を外から見ていたのだ。
5年前から婚約者という名目をいいことに三上翔のライターの助手をすることになり、取材でここ数ヶ月海外を点々としていた。そろそろ帰ってもいいかという頃に翔くんからメールで笑さんの絵を売るのを手伝っていると聞いたところだ。
絵を描いていたことすら知らなかった。
そもそも目が見えないのにどうやって?
売るってどういうこと?
私は翔くんに根掘り葉掘り聞き、慌てて日本に帰国したのだ。
大体の事情は翔くんと上司の成瀬拓馬さんから聞いていた。
笑さんの目を治す手術があることも。
それを笑さんが断っていることも。
「笑さん、目を治してください。臨床実験でも今ならそれほど危険ではありません」
私は真っ先に笑さんに向かって声を張り上げる。
「え~、うーん。困ったなー」
「なんでためらうんですか?眼が見えるようになりたいと思わないんですか?」
「なりたいよー。でもね、私……」
笑さんは一呼吸置いて微笑んだ。
「侑那絵美に戻りたくないんだ」
その言葉に全員の視線が一斉に集まる。
どうしてそんな簡単な事に気づかなかったのか。
侑那絵美は笑さんにとって忌むべき存在で、なかったことにしたい過去なのだ。
「なら、成瀬笑でいいじゃないですか!私は笑さんに絵を描いてほしい!」
「もう嫌なんだよー。人に見せる絵を描くのも、人のために絵を描くのもー」
「じゃあ、どうしてあんな大きな絵を描いて売ったんですか!?」
「絵を描くお金が欲しかっただけだよ」
どこか冷め切った、凍りつくような目。
「あんた、本気でそう思ってるの?」
一歩前に出たのは朋さんだった。
「そのためにみんなが協力したと思ってるの?」
「うん」
その返事が来るが早いか、朋さんが笑さんの頬をひっぱたいた。
「みんなあなたの絵が見たいだけなの!あなたの絵が好きなだけなの!あなたが好きなだけなの!それがなんで分からないの!?そんな簡単なことをなんで分かってくれないの!?」
感情をむき出しにして声を上げる。
それはみんなが思ってたこと。
「あんたは愛されてる自覚を持ちなさい!」
「私……愛されてなんかいないよ……」
笑さんは大粒の涙をぽたぽたと流す。
「愛されたことなんて一度もないよ……絵が描けない私なんて誰も必要としない……知ってるから……だから、絵を描こうとした……あとりえ透明を開いた……」
ガタリと膝から崩れ落ちる。
「私は……自分の価値をなくしたくなかった……ただ愛してほしかったんだ……」
「愛してるよ。みんな愛してる。侑那絵美の絵も好きだったし、絵を描けない笑さんも好きです。そうじゃなきゃ、こんなに笑さんの周りに人が集まるわけがない。でもできることなら……」
私は一歩前に出た。
「もう一度、笑さんが本気で描いた絵が見てみたい」
それが紛うことのない本音。
「いいんですか?成功率そんなに高くないですよ」
「はいー、どうせ見えなくなった目ですからー」
診察室で澤京子さんに笑さんは臨床手術の説明を受ける。
「そうじゃなくて、最悪命の危険も……」
「わかってます」
笑って頷く笑さんの手は何故か切り傷だらけになっていた。
「入院準備って私が手伝ってもいいんですか?」
せつなちゃんと朋さんと一緒に笑さんのマンションに入る。
「いいのよ。こういうのは女手が多いほうがいいから。着替えとかあるでしょ」
笑さんの部屋は思いの外散らかっていた。てっきりせつなちゃんか成瀬さんがマメに片付けると思っていたのだが。
床に何かを削ったような屑が散乱している。
「えっとクローゼット開けてもいいのかな」
朋さんがためらいつつも開けると大きなクロッキー帳が大量に雪崩落ちてきた。
そこにあったのはクロッキー帳にいっぱいに描かれた子供のような拙い絵。
人の……女の人の顔だろう。眼鏡をかけた、髪の短い……横にひらがなで書かれた乱れた字が読み取れた。
「とも……ちゃん……?」
次のページをめくると、短いくせっ毛の少女。
「せつなちゃん」
次は無愛想な少し怒ったような表情の男の人。
「たくまさん」
そこには親しい人から、一度店を訪れただけの人まで、無数の顔がそこにはあった。
みんな、みんな笑っていた。
「見てよ、千春ちゃんなんて髪型から表情から全然違う」
「千春ちゃんは顔見たことないからでしょ。目が悪くなってから来たから」
「あ、そっか。でもせつなちゃんは割と似てるんだよね」
「親の愛よ」
朋さんは愛おしげにその一つ一つを見つめながら笑った。
やっぱり笑さんは描かずにいられなかったのだ。
それは息をするように
水を飲むように
自然なこと
「そういえば木屑が落ちてるのなんですか?」
「あ、確かに。えっと…机の辺りかな…」
せつなちゃんが机の引き出しを開ける。途端に息をつまらせた。
「これ……」
そこにはきれいな字で『あとりえ透明』と書かれている小さな看板。小花や人形が散りばめられた可愛い木彫りのプレート。
「もしかして指怪我してたのって……」
「これを……見えない目で彫ったの……」
「笑さんは……バカですよね……どこまで……」
どこまで人を愛せば気が済むのだろう。
彼女は優しい人で
みんな優しい人で
それは疑いようも
紛いようもないこと。
入院道具を揃えて、病室に持っていく。
それから笑さんは三日間、音楽を聞いたり、見舞いに来る人と談笑してひどく穏やかに過ごしていた。
そして三日後、ストレッチャーに乗せられて手術室に入っていった。
「お父さん……」
その姿を見送りながらせつなちゃんは呟いた。
「今から……絵を描く勉強できるかな……私……お母さんみたいになりたいな……美大じゃなくてもいいんだ……専門学校でも独学でもなんでも……」
成瀬さんはせつなちゃんの頭をなでて微笑む。
「絵描きの知り合いならいくらでもいる。紹介ならできるさ」
「うん、ありがとう……」
「朋さん、便乗していいですか」
今度は千春ちゃんが口を開いた。
「何?」
「経理を……教えてほしいんです。多くは言いません。数学が少しでも役に立てばいいんです。やっぱり私、高校出たら就職します。数学の勉強ならどこでもできるから……」
歩いて行けばいいのだ。
どこへでも
自分の思う通りの場所へ。
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