あとりえ透明3「アクリル」




「いや、だから三角関数はこうガーとしてグーと曲がった所をパーンと割るだけなんですよ」
「ごめん、全然分かんない」
「なんで?せつなさん割り算できるでしょ?割り算できれば後はサイン・コサイン・タンジェント覚えるだけじゃないですか」
「馬鹿にしてるでしょ!千春ちゃん、絶対私の事馬鹿にしてるでしょ!」
 
 
 あとりえ透明で俺は娘とバイト仲間のやりとりを眺めていた。
 家内と娘がここで絵を描いていたのを知らされたのはつい先日。しかし、随分前から大体の察しはついていた。
 それからは仕事の合間を縫ってここに来るようになった。
 中条の娘は絵の具を量りながら、せつなに数学を教えてくれている。
 二十歳を過ぎたところの娘が大学に行きたいと打ち明けたのも最近だった。
 俺はイギリスに戻ることを勧めた。日本の大学では3年の差は大きすぎるし、推薦制度も日本より整っている。笑の貯金も含めると金銭的には余裕がある。元々イギリス育ちなので英語には不自由しないはずだ。
 しかし、娘は日本を離れようとしなかった。
 笑がよほど心配らしい。
 元々ここ五年、ずっと笑の世話を焼いていたのだ。無理もない。
 そこで自分より年下の中条千春から数学の教授を受けている。
 
 
「うーん、こんなものかなー」
 ある日、笑が筆を止めた。
 大きなキャンバスに一面の森林が広がっていた。
「すごい……」
 俺は思わず息を漏らす。
 色鮮やかな緑は見えない目で描かれたものとは思えない。深く繊細な風景に引き込まれる。
「定着剤かけなきゃいけないから、それは朋ちゃんお願いできるかなー。で、売るのは拓馬さん頼めるー?」
「え?俺か?」
 思いがけない笑の言葉に俺はキョトンと目を丸くした。ネットで売ると聞いていたし、ここに来ること自体快く思われていないと思っていたのだが……。
「やっぱり元とはいえプロに頼みたいな―。あ、でも侑那絵美って名前は伏せてねー。ペンネーム作ってもいいけど個人的には成瀬笑がいいかなー。画風も全然違うし、知らない人は分からないよー。それから……」
 笑は嬉しげに並べ立てる。
「目が見えない人間が描いたってのは、絶対に言わないでねー」
 
 
「お母さん、目が見えないの内緒ってなんで?」
 帰りのタクシーでせつなが笑に尋ねた。
「うーん、なんとなくなんだけどねー。そういう付加価値じゃなくて単純に私の絵が好きだって人に大切に持って欲しいなーって」
「それならそれこそネットのほうがいいんじゃない?お父さんなら商談になるからどうしてもそういう話になっちゃうよ」
「それは分かってるけどー、それはそれとして少しでも高く売れたほうがいいからねー」
 意外な答えだった。昔から金には無頓着な性格だったのに。
「というわけで、拓馬さんよろしくねー」
 無邪気に助手席に座る俺に手を振った。
 
 
 笑の絵を売るのはなかなかに骨の折れる仕事だった。
 とりあえず身近な人から当たってみたが、聞いたこともない絵描きの絵を買いたがる奇特な人はまずいない。もう少し小さい絵なら手頃な値段をつけて付き合いついでに売りつける手もあったのだがそうもいかない。
 全く、どこまでも手のかかるやつだ。
 ふと思い立ち、昔の部下だったフリーライターの知人に声をかけてみた。三上、といって今は小説なども手がけるなかなか腕の立つ物書きだ。何よりあとりえ透明に少なからず縁がある。
 三上翔は案の定快諾してくれ、二週間も経たないうちに、侑那絵美の名も作者が全盲であることも、あとりえ透明の存在すらも隠しつつ、多少脚色も加えた面白い記事を美術誌の突発コラムに絵の写真付きでねじこんでくれた。
 三、四件問い合わせが来た。
 笑と相談して一番値段を高くつけてくれた画商に売ることにする。
 画商は作者と……笑と顔を合わせたがったが断るのがこれまた一苦労だった。対人恐怖症やら引きこもりやらをでっち上げて。
 そして、俺はマージンは取らずに笑に画商が支払った額を彼女の口座に振り込んだ。
 
 
「はいー、拓馬さんありがとうでしたー。正直こんな額で売れると思ってませんでしたー」
 笑が差し出した点字通帳に記された額は120万と税金や手数料もろもろの端数。はっきり言って侑那絵美の作品だといえばもう一桁額が跳ね上がっただろう。
 せつなと松島さんと千春ちゃんがそれを取り囲む。
「千春ちゃんー、120万を5人で分けるとー?」
「24万です。てかそのくらい暗算してくださいよ」
 千春ちゃんが呆れたように息をつく。
「じゃあ、24万ずつですねー。臨時ボーナスですー」
「え?」
 せつなが目を丸くした。
「朋ちゃんと、千春ちゃんと、せつなちゃんと、拓馬さんと私。5人で平等に折半ですー。本当は拓馬さんには4割位渡すべきなんだろうけどーそこは家族割でー」
 笑がフフッと笑う。
 そこにいた全員が目を丸くした。
「お疲れ様でしたー。本当にありがとうねー。これからもよろしくー。朋ちゃん、振り込み頼めるー?」
「いいの?」
 松島さんも戸惑っていたが、余裕に満ちた笑の顔を見て、頷き電子パネルから全員の口座に24万ずつ振り込む。
「高く売れって……ボーナスってこれだったんだ……」
「でも私、そんなにすごい仕事してません!」
 千春ちゃんが口座の振込通知を見て声を上げる。
「仕事にすごいもすごくないもないんだよー。千春ちゃんは頑張ってくれて、私には出来ないことをしてくれて、それがこのお金になった。働いた分はきちんとお金を払わなきゃいけないし、もらわなきゃいけない。ねー」
「でも、そしたらせめて画材代は差し引いてから割ってください」
「画材代は私の……絵描きの懐から出すのー。だから絵は高く売らなきゃならないんだよー。売ったお金が次の絵になるからねー」
 一息置いて、千春ちゃんは端末の振込了承ボタンを押す。
「助かります。本当に……」
「あ、そうだ。千春ちゃん」
 俺はふと気になっていたことを口に出した。
「中条は……お父さんは絵の売り買い止めたの?美術アドバイザーとかも今回洗ってみたんだけど、中条憲司ってリストになかったんだけど」
「あ、それは……」
 松島さんが口を挟みかけたが千春ちゃんが手で制する。そういえば松島さんは千春ちゃんの叔母だったか。
「あー、うーん……まぁもう時効ですね」
 千春ちゃんは苦笑する。
「父は……中条憲司は昨年の春に他界しました。今は私、母子家庭です」
「けんじ……さんが……?」
「はい、病気で。末期癌で安楽死だったので、あっという間でした」
 笑が愕然とした表情を見せる。
「気にしないでください。不摂生が祟ったんですよ」
 気まずい空気が流れる中、突然あとりえ透明のドアが開いた・
「笑さん!笑さん!」
 駆け込んできたのは澤和泉だった。息を切らせ、ぜえぜえと整えながら顔を上げた。
「笑さん、目を治す方法があるかもしれないって!視力を回復する技術が認められたって、お母さんが!」
 俺達は一斉に彼女を見た。



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