あとりえ透明3「ノイズキャンセリングイヤホン」




 私はそんなよくできた子どもじゃない。
 定職にもつけず、ふらふらニートのような名目上のフリーターをやっている。
 これと言って突出した特技もない。
 お父さんに迷惑かけないように大きくなって、お母さんの役に立てることを必死で探した。
 できることと言ったら、少し耳がいいこと。けれどもこれはいつも悪い方に働く。
 お父さんもお母さんも私の耳のせいで、賑やかな場所に家族旅行にも行けない。
 
 
 ある日、お母さんが倒れた。
 病院によると、ただの不整脈で大したことはないらしい。
 けれども私は心配だった。このまま弱っていくお母さんを見ていることしかできないのか。
 私にできることはないのか。
 私にできることはただ聞くことだけ。
 人の音を、雑踏の音を、鼓動を。
 その日、私はノイズキャンセリングイヤホンをコンビニのゴミ箱に投げ捨てて、お母さんに言った。
「絵を描こう」
 お父さんに言ったらきっと心配する。
 体調の悪いお母さんを連れ回すなって言われる。
 私がつまらないことを気に病んでいるのも知られたくない。
 朋さんならきっと力を貸してくれる。
 そうだ、千春ちゃんなら色を数字で計算できるかもしれない。
 場所がないならあとりえ透明を使えばいい。
 お母さんはきょとんとして見えない目で私を見ていたが、すぐに笑って頷いた。
「それはすごく素敵だね、せつなちゃん」
 
 
 世界は騒がしくて
 気が狂ってしまいそうだったけど
 その笑顔だけで
 全てが報われる気がしたんだ。
 
 
 
「お母さん、大丈夫?」
「うんー、ごめんねー。だめだなー、せつなちゃんに迷惑かけてばっかりだなー」
 日曜の朝、タクシーに揺られてあとりえ透明に向かう。お父さんは編集者兼ライターなので土日も仕事のことがほとんどだ。だから内緒で……多分バレているけれど……目を瞑ってもらえている。
 絵を描き始めてから、休日のバイトも控えるようにしている。
「今日はどこまで描けるかなー」
 お母さんは体力を温存するように静かにうたた寝を始めた。
 
 
 私は何のためにいるんだろう。
 朋さんみたいに画材の知識もない。
 千春ちゃんみたいに色の計算もできない。
 お父さんみたいに絵の話で楽しませることも出来ない。
 
 
 
 あとりえ透明に着いたらドアは開いていた。暗証番号と指紋認証で開くので朋さんか千春ちゃんが先に来ているのだろう。
 お母さんの肩を支えながら二階に上がると千春ちゃんがキャンバスと絵の具を出していた。
「朋さん、あと5分位で着くって連絡ありました。色言ってもらえれば先に作り初めておきます」
 エプロン姿の千春ちゃんは笑って言う。
 私はいつも通り液晶を開いて読書を始めた。物理の専門書だ。特に好きでもないのだが読んでおきたかった。今後のために。
「えっとー」
 お母さんはキャンバスを一回り指でなぞると真ん中に立って背伸びをする。
「おはよー、暑いわね―」
 ドアが開いて朋さんが入ってきた。指定席に座ってスタンバイ完了だ。
「じゃあねー。もえぎをお願いー」
「萌葱ですね」
 千春ちゃんがカラーピッカーで色を見て慎重に量り皿に取る。朋さんがそれを丁寧に混ぜる。そしてお母さんにそれを渡し筆に取り……。
「萌黄色ー萌黄色ー」
 ふとそのイントネーションが気になり顔を上げて、私は思わず立ち上がった。
「待って!それ萌黄じゃない!萌葱色!」
 三人が目を丸くして私の方を見る。
 お父さんの雑誌のコラムで読んだことがある。
 色の世界では『もえぎ』は2つある。一般的に『萌葱色』と呼ばれる深い緑と、『色』を付けずに『萌黄』だけの明るい黄緑だ。漢字も違うし微妙に抑揚も違うし、専門家は『色』をつけるかどうかで判断するらしい。何より色が素人目に見ても別物なので間違える人はいないが、目の見えないお母さんと絵の知識のない千春ちゃんなら……。
「えっとー、千春ちゃんー、これ深緑かなー」
「は、はい……」
「ごめんなさい、私の説明不足だった。もえぎ……萌えるに黄色で探してみてくれるかなー。ごめんねー。もったいないからこれも後で使うねー」
 言って困ったような笑顔で皿を置く。
「すみません、出すぎた真似を」
 私は慌てて頭を下げる。
「そんなことないよー、せつなちゃんのおかげで助かったー。ていうか朋ちゃん何で気づかないのー」
「だって知らないわよ、そんなこと」
 朋さんは気まずそうに顔を背ける。
「せつなちゃん、ありがとうねー。せつなちゃんの耳は本当にすごいねー」
「……うん」
 
 なんでこんな気持になるんだろう。
 お母さんは笑っているのに。
 お母さんに悪気なんてないのに。
 誰も悪くなんてないのに。
 ただ褒めてくれているだけなのに。
 
「どう……いたしまし……」
「せつなちゃん?」
「耳なんて……耳なんて褒めてほしくない……」
「え?」
「私にも……何か取り柄がほしかった……生まれついて持ってる耳なんかじゃなくて……お母さんみたいに絵が上手いとか……お父さんみたいに文章が書けるとか……」
 そうか 私は 妬ましかったんだ。
 お父さんもお母さんも千春ちゃんも朋さんも
「どうして私にはそんな才能がないの?みんなすごい才能があるのに……」
 羨ましくて
 妬ましくて
 
 どうすればいいんだろう
 
「せつなちゃんは高校の時の私だね」
 私の頭に手を乗せたのは朋さんだった。
「笑さんが……絵美さんがすごすぎて、皆すごすぎて、自分はこれと言って何も出来なくて、自分が嫌いになっちゃう。でも自分が嫌いな自分も嫌いで」
 分かってる。
 分かってるけど。
「そんな時はね、自分にできることだけをすればいいんだ。すごいことしようとか考えなくていいの。結果なんて後からいくらでもついてくる」
 朋さんの表情がどこか悲しげで、でも愛おしげで。
「せつなちゃんはねーいるだけでいいんだよー。何をして欲しいとかはお母さんもお父さんも何も望んでないよー」
 お母さんが私の頬を撫でる。
「でもそうだなーできたらー幸せになってほしいかなー。どんな形でもいいから幸せになってほしいなー」
「私幸せだよ!お父さんもお母さんも優しいし!あとりえ透明も楽しいし!」
「うんーでもせつなちゃんは人並みの幸せじゃダメなんだー」
「え?」
「世界で一番幸せにならなきゃー」
 お母さんはこの時何を思っていたのだろう。
 千春ちゃんが萌黄の絵の具を量りながら口を尖らせて言う。
「せつなさんはいいですよ。こうやって四六時中お母さんと一緒にお仕事できて」
 その言葉の意味が分かるのは少し先の事になる。
 
「お母さん……最後の……多分これで最後にします……迷惑をかけていいですか?」
「なに?」
「四年間……私に時間とお金を下さい……」
「何年でも何十年でもいいよー。でもそれだったら拓馬さんにちゃんと話さなきゃねー」
 お母さんは事も無げに笑って言った。
「千春ちゃん……私、文系でね……理科系はまだなんとかなるんだけど、数学がものすごく苦手なんだ……教えてもらえないかな……?」
「え?は、はい」
「大学受けようと思うんだ……音響学か音響工学の学科がある……」
 
 
 私はその日のうちにノイズキャンセリングイヤホンを注文した。
 あとりえ透明の時だけ外せばいい。
 白か黒じゃない
 グレーでもない
 お母さんが透明の道を歩くなら
 私はお母さんの分まで色のついた道を歩こう。
 色んな色がついたカラフルな道を。
 
 
 ねぇ、私の人生はどこにある?
 どこでもいい。
 今までさんざ歩いてきたんだ。
 遠回りには慣れている。
 
 さぁ、私の人生を始めよう。
 

 

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