あとりえ透明2「缶コーヒー」




 知らなかったわけじゃない。
 でも、知りたかったわけじゃない。
 私は世間から身を隠すように生きてきた。母親も知らない。親戚にもほとんど会わせてもらえない。なんとなく、私は生まれてきちゃいけない子だったんだな、って子供心に分かっていた。
 あの日のことは覚えている。お父さんがどこかに出かけていた。友達とお出かけするって言っていた。
 でも帰ってくるなり、私を抱きしめて必死な顔で言った。
 「逃げよう」って。
 「どこか、誰の目にもつかないところに逃げよう」って。
 数週間も経たないうちに、私は知らない国にいた。
 幸いなことに、私は耳が飛び抜けてよかった。知らない言葉もすぐに吸収できた。
 すぐに友達もたくさん出来た。
 お父さんはその国のカフェや画廊を日本に紹介する仕事で成功したらしく、何一つ不自由はなかった。
 私は、日本語を忘れないようにお父さんの記事をたくさん読んだ。
 そのうち、過去の本や記事も読むようになった。
 お父さんの記事によく出てくる女の人がいた。
 侑那絵美
 彼女が自分に瓜二つだと気づくのにそう時間はかからなかった。
 そして、それが何を意味するのかも。
 私は侑那絵美の経歴を必死で洗い出した。
 離婚歴があるのはそう苦労なく分かった。しかし、離婚相手はお父さんではなかった。そこから自分の年齢を逆算すると、でてきた答えは簡単だった。
 ああ、私は不義の子なんだ、と。
 侑那絵美がお父さんと不倫してできた子なんだ、と。
 だから私はお母さんに……侑那絵美に……捨てられ、父に預けられ、でも侑那絵美の子だと明かすわけには行かず、ひっそりと育てられたのだ、と。
 それで何かをどうにかしたかったわけではない。
 子供の私にそんなことできるわけがないのは知っていた。
 ただ、故郷に帰りたかっただけなのだ。
 逃げ隠れする自分が嫌で、義務教育が終わると同時にお父さんに日本に帰りたいと頼んだ。私がすべての事情を知っていることが分かると、お父さんも反対はしなかった。
 
 
 日本は少し雑音が多すぎた。
 空港から出てすぐ百貨店に向かい、小遣いを叩いて高性能のノイズキャンセリングイヤホンを買った。
 
 
『迷子のご案内を致します。すずむらみつきちゃんという3歳位の赤いスカートのお嬢さんをお預かりしております。保護者の方はお近くの従業員まで……』
 百貨店の喧騒の中、私はエレベーターで1階に降りた。
 すぐそこにいた店舗従業員の女性に声をかける。
「あの…さっきの館内放送で言ってた女の子のお母さん、多分12階から14階の間のエスカレーターから南東30メートルくらいの方にいます。ずっと『みつき、みつき』って叫びまわってるので多分放送も耳に入ってないかと…」
「え?」
 女性店員はきょとんと目を丸くする。
「12階から14階の中央エスカレーター南東です。時間経つと移動してしまうかもしれないのでお早めに」
 
 
「ちょっと、あんた!」
 電車で隣に座った年配の女性が声を上げた。
「あんた!電車でイヤホンやめなさい!音漏れしてるわよ!」
 耳に少し手を当て考えるが、すぐに頭を下げて席を立ち、車両を移動した。
 これ、何の音もしてないんだけどな。余計な騒ぎを起こすよりはいいか。
 
 
 役所を回って、いろんな学校のパンフレットを集めた。学費の安い公立の学校はあらかた入学資格を満たしていなかった。ネットでも情報を集めたが、やはり昼に学校に行って夕方からバイトでは親に負担をかけないのは難しいようだ。
「世知辛い世の中だ……」
 自分でもこんな言葉どこで覚えたのかわからない言葉が口を次ぐ。
 お父さんと連日口論をし、ようやく会計の夜間専門学校に行きながら、あとりえ透明でバイトをするということで落ち着いた。
 
 
 そして、何故、お父さんがあとりえ透明ならいい、と言ったのかが、今分かった。
 
 
 
「侑那絵美……」
「彼女があとりえ透明の店長よ」
「あれー、うーん、えっとー、せつなちゃん……かなー?」
 侑那絵美はニコニコしながら首を傾げた。
「ごめんねー。うんーと、なんて言ったらいいのかなー。久しぶりー。うんーちょっと違うなー」
 何故朋さんは私をここに連れてきたのだろう。正直、会いたくなかった。
「朋ちゃんー。なんで連れてきちゃうかなー。ていうかなんでせつなちゃんと知り合いなの?」
「あとりえ透明でバイトしてるのよ」
「そっかー、元気なんだねー。よかったー」
 どうしてこの人は笑っているのだろう。
 笑っていられるのだろう。
 分からない。
 何を考えているのかわからない。
 侑那絵美も朋さんも。
「夜分遅くに失礼しました。私、かえり……」
 言いかけた私の頬を侑那絵美はそっと撫でた。
 何度も撫でて、幸せそうに微笑む。
「おっきくなったねー。成瀬さん……お父さんは元気にしてる?」
 何を言ってるんだ?
 何をしてるんだ?
 私はその手を払いのけた。
「帰ります!もう来ないので、金輪際私とお父さんには関わらないでください」
 ペコリと頭を下げて、私は走って玄関を開けた。
 エレベーターはこのフロアに止まったままだった。ボタンを押すとすぐにドアが開く。閉めるボタンを押す前に朋さんがドアを手で押し止める。
「待って!」
「止めてください」
 何度も閉まるボタンを押したが、朋さんが力づくで入ってきた。
「…………私、お母さんに会いたいなんて一言も言ってないですよ。むしろ侑那絵美は嫌いです。お父さんに私の事全部押し付けて逃げた女ですよ」
「その誤解を解きたかったの。笑さんは悪くないって」
「どこが悪くないんですか!?最低じゃないんですか!?私、あんな女にだけはなりたくなくて!それで平凡な人生をって……!」
「うん、でも笑さんはあなたの思ってるような人じゃないわよ」
「……何か事情があったんだなとは思います。でもやっぱり非常識です」
 エレベーターが一階で止まる。
 私は朋さんを押しのけて走り出た。朋さんの止める声が聞こえた気がしたが、振り切って走る。
 知りたくなかった
 母親の事なんて
 あの人の声も
 笑顔も
 手が人の体温を持っているってことも
 私は道端でしゃがみこむ。
 涙が溢れて止まらない。
「なによ……ちゃんと生きてるんじゃない……」
 アスファルトに落ちては吸い込まれていく雫を見ながら、私は嗚咽を漏らした。
 ちゃんと生きてた。
 息をして、温かくて、笑っていた。
 よかったなんて思わない。
 思ってやらない。
 背後からふわふわした髪が顔に触れた。
「ごめんね、せつなちゃんー。ダメなお母さんだねー。悪いお母さんだねー。でもねー」
 温かい腕が私を包み込む。
「会いたかったよ。せつな」
 心の奥底では
 こんな風に抱きしめられることを夢見ていたなんて
 思いたくなかった
「会いたく……なかった……嫌いだ……お母さん嫌いだ……」
「うん、知ってるよ。お母さんはダメな人だからね。勝手だね。でもね」
 私の頭をゆっくりと撫でる。
「ずっと謝りたかったんだ」
「私は……謝られたくなんてなかった……」
 お母さんが生きていることを確かめてしまったら
 
 詰れないじゃない
 
「あーあ、目が見えないのがこんなに悔しいの初めてだなー」
「目が…見えない?」
「うん、だからねー、せつなちゃんがどんな顔してるか分からないんだー」
 侑那絵美は……お母さんは私の髪を何度も手で梳く。
「髪質は私そっくりだねー。まとまらなくって大変でしょー」
「うんっ、朝とかねっ、全然まとまらなくってっ、ストパー当ててもっ、すぐに戻っちゃってっ、小さい頃はボサボサ頭ってからかわれてっ」
「顔はどうなのかなー、似てるー?」
「瓜二つですよ」
 頬に冷たい水滴が当たって、私は顔を上げた。
 朋さんが缶コーヒーを3つ持って立っていた。
「ブラックと微糖とカフェオレ、どれがいい?」
『カフェオレ』
 私とお母さんの声が重なる。
「甘党なところも似ちゃったかー」
 お母さんは笑って肩を撫でた。



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