あとりえ透明「カラーチャート」




 頑張れば報われるって、皆言っていた。
 私はそれが正しいと思ってたし、今も思っている。
 どうにもならないことなんてない。
 




「お呼び立てして申し訳ありません」
 本当はもう二度と会うつもりはなかった。
 でもこれが
「中条さん」
 これしか私にできることはない。
 




 私は絵美の夫だった中条さんをあとりえ透明に呼び出した。
「今日は絵美は来ていないのですか?」
「……はい」
「それでお話とは何でしょうか?絵美との経緯なら絵美に聞いてください。俺はもう関係ありませんから」
 中条さんは憮然とした態度で返した。
「経緯とかはどうでもいいんです」
 私もどこか突き放した表情でコーヒーを差し出した。
「絵美さんの力になるのはどうすればいいか教えてください」
 




「……事情は分かりました。絵美らしいと言えば絵美らしいですね」
 中条さんはカップをテーブルの上に置いた。
「私、絵美さんが何とか絵を続けられるように力になりたいんです。でも私にはどうすればいいか分からなくて……中条さんは私より絵美さんとの付き合いも長いですし、美術の先生ですし……」
「そうですね……」
 中条さんは店を見渡す。
「カラーチャートはありますか?」
「カラーチャート?」
「二階を拝見してもよろしいでしょうか?」
「はい」
 私の先導で二人で階段を上がる。
「ああ、これがカラーチャートですよ」
 彼はすぐに百科事典のような本を見つけ出した。私はそれを受け取り中を開く。分厚い本は一ページごとに違う色が塗られており、隅に番号が振られていた。
「本当はCGが普及する前、製本や工業品の印刷色を指示するためにこれを貼りつけていたんですが、絵美は全色覚えていると思います。この色を絵美に言ってもらい、松島さんがその通りの色を作られるようになれば……」
「これを全部……?」
「ここには一冊だけですが、このシリーズ一冊千二百色で全部で十二冊ありますよ」
「じゅうに……」
 私は絶句する。
「色再現は要領を覚えれば簡単なんですけどね。例えばこのページの緑」
 中条さんが棚からパレットとアクリル絵の具を取り出した。
「隅にCMYKの分量数字が書いてますよね。分量数字は分かりますか?」
「C50Y50ならシアンが50%とイエローが50%の緑、ってことですよね?」
「そうです。なので基本シアン、マゼンダ、イエロー、ブラックの四色、それとアクリル絵の具の場合は濃淡の白しか使いません。透明水彩の場合は白は使わず水で薄めます」
 言って、パレットに四色の色を置く。
「混ぜる時は平筆がいいです。水は筆が少し濡れる程度で。シアンとイエローを同量混ぜて、馴染んだら白を同じだけ混ぜる」
 私は見よう見まねでそれに倣う。
「後は練習ですよ」
 




 一週間ほど、絵の具と格闘する毎日だった。
 ようやく、ほとんどの色を混色できるようになり、絵美さんの住所を初めて訪ねる。
「ともちゃん?いらっしゃい」
 絵美さんの部屋は一人暮らしには広すぎる5LDKだった。散らかり放題なのは目が見えないからでなく性格故だろう。
 一番奥の部屋に目が見えているように障害物を避けてスイスイ歩く。
「ここがね、あたしの昔のアトリエだったんだ」
 通された部屋はガランとしてほとんど何もなかった。鉛筆と一冊のスケッチブック。十二色の絵の具と最低限の筆、筆洗があるだけ。
「私、勉強したんだ。カラーチャートのナンバー言ってもらえればそれに近い色出せると思う」
 パレットを取り出し、中条さんに言われた通りに五色の色を出す。色を混ぜ、綺麗に馴染ませてから白を置く。
 その仕草を、傍から見れば気持ち悪いくらいに目を近づけてみていた絵美さんがゆっくりと口を開く。
「ともちゃん……けんじさんに会ったの……?」
「え?」
 私は身を震わせる。
「色を混ぜる時は普通は白から取るよ……。白を後から馴染ませるやり方なんて、けんじさんしかやらないよ……」
 答えられなかった。怒るだろうか、泣くだろうか。
 しかし、絵美さんの反応は意外なものだった。
「……ありがとうございます」
 私に向かって深々と頭を下げる。全身を小刻みに震わせて。
「ありがとうございます。ありがとうございます」
「な……何……?」
 絵美さんは頭を下げたまま、何度も繰り返す。
「ありがとうございます。ありがとうございます。だから……もう怒らないで……」
 怒る?
 何を言っているのだ。
「お願いします……怒らないで……」
「もういいよ!絵美さん!」
 私は立ち上がり、絵美さんの肩を抱きしめる。
  ああ、そうか
「もうやめよう」
  絵美さんがほしかったのは
「休みたかったんだね」
  助手でも
「いっぱい描いて疲れちゃったんだね」
  目でも
「休もう」
  店でも
「一休みして、また描きたくなったら描けばいいし」
  まして
「描きたくならなかったらやめればいい」
  お金や名声なんかじゃない。
「誰も絵美さんに無理強いなんかしない」
  絵美さんがほしかった言葉は
「そういう場所がほしかったんだね」
  絵が上手いね
「ごめんね、分かってあげられなくて」
  でも
「もういいよ」
  もっと描いて
  でもなく
 絵美さんは膝から崩れ落ちる。
「ああ、そうか……あたし誰かに……」
  ただ
「もういいよって言ってほしかったんだ……」



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