あとりえ透明「綴り切り」




「目が見えにくく……ですか」
 私の言葉にその女性は首を傾げた。
「ここまでお一人で来られたと言うことは、全く見えないと言うことではないのですよね?」
「緑内障でね。六十もすぎれば色々ガタがくるよ。まだごく初期症状なのだが、さすがにナイフは危ないと娘に止められた」
 私が「あとりえ透明」に持ち込んだのは大量の色画用紙と数本のカッターナイフに替え刃だ。娘がインターネットで探してくれ、タクシーで来たが、見る限り若者向けの喫茶店を兼ねているらしい。こんなものを持ち込まれても困るだけだろう。
「そのまま放っておいてもいいのだが、もうすぐ三つになる孫がナイフを触ると危ないと娘が言って聞かないんだ。紙はまぁいいんだが、刃物はゴミに出すのも危ないし、タダでもいいので引き取ってはくれないか?」
 髪の短い女性は一時考えて、私に椅子を差し出した。
「どうぞお座りになって、少々お待ちください」
 一礼して、小走りに店の奥に行く。ドアを開けて、誰かを呼んでいるようだ。どうやら耳も遠くなって来てるらしい。声を張り上げているのは分かるが、何と言っているのかは聞き取れない。今度は耳鼻科にも行かねばならないのか。
 小さくため息をついた。
 すると女性はそれを待たされた不満のため息と思ったらしい。「失礼します」と言って慌てて深く頭を下げ店の奥に入って行くと、間もなくよく冷えたオレンジジュースを盆に乗せ、持って来た。
「わざわざご足労頂いたのに、お待たせして申し訳ありません。こちらサービスです。冷たいものが苦手でなければどうぞお召し上がりください」
 タクシーの中は冷房が効いていてあまり気にしなかったが、今日は随分と暑かった。もう七月だ。日射しも強い。
「いや……そんなつもりではなかったのだが……」
「いいえ、すぐに専門の者が参りますので」
 言って、また頭を下げると自分の目の届かない部屋に入って行く。間もなく何かを叩くような威勢のいい音と怒鳴り声が聞こえた。「いつまで昼寝してるのよ!」と聞こえた気がするが気に留めないことにするのが彼女の名誉のためだろう。
「すみませんー、いらっしゃいませー」
 数分すると店の奥から響いた声に私はギョッとする。茶色の長い髪をした女性が胸元と腰の部分だけを隠した水着のような姿で……若い人にはこれは水着ではないのだろうが……現れた。
「こら!絵美さん!上着着て!」
「えー、なんでー?」
 後から現れたさっき応対してくれた女性が慌てて上から青いワンピースをかぶせる。
「大変失礼致しました!彼女がいないとナイフの鑑定ができないもので……」
「いやいや、突然押し掛けてしまったのが悪かったのかな。一本電話を入れておけばよかったものの」
「いえ、そういう訳ではないのです。従業員が少し……えっと、休憩をしていたもので……。ほら、絵美さん、これ。パッケージもないし銘柄も書いてないからネットでは調べられなくて……」
 もう一人の女性は昼寝……ではない、休憩をしていたところを邪魔されたのが不満らしく、髪をまとめながら不承不承、と言った風にカウンターに立った。
 三本のナイフを一本ずつ手に取り、吟味する。
「えっとねーこの黒のは使いやすいけど国産の新しいのー。多分今でも画材屋さんで売ってるー。替え刃を入れて五百円かなー。あ、買い値ねー。赤いのは七、八千円くらいかなー。フランス製ー。十年か二十年前よく出回ったけどー今はあんまり見かけないなー。ただ赤ってのがポイント高いー。グレーと茶はよく見かけたけどー、赤はちゃんと見たの初めてー。緑の古いの、これは貴重ー。イタリアで戦時中に潰れたメーカー。でもー、画材より骨董品としての価値が高いからー、ここで買うより目利きのいい古物屋さんに行った方が高く売れると思うー。あーでもあたしが買ってコレクションするのもいいなー」
「あんた、絵やめる宣言したのにこれ以上自分の画材増やしてどうすんのよ!」
「あーそうだったー。残念ー」
 間延びした頼りない声だったが、しかし彼女の言ったことは全て当たっていた。緑のものは幼い頃、この趣味を教えてもらった祖父から譲り受けたものだ。気に入って同じものが欲しく探したこともあったが、大戦の折に倒産したと聞いた。
「紙は割といいものだねー。全部合わせて五千……いや、七千円かなー」
「黒と赤の二種類、あと紙はこの額でよろしいでしょうか。緑はどうされますか?」
「わざわざ骨董屋に行くのも手間だ。タダでいいから引き取って、君たちの方でどこへなりとも売ってくれないか?」
「では下取りと言うことで」
「この緑のは保存もいいし、五万くらいになると思うよー。いいのー?」
「では三万でどうかな。二万は君たちの取り分だ」
「えー」
「誠にありがとうございます」
 二人は全く対照的な態度を見せたが引き取ってすらもらえないと思っていたものが、そこそこの額になった。ここはスーツの女性に合わせよう。
「おじーちゃん、切り絵してたのー?」
「おじい……!こ、こら!失礼しました!」
「いや、もう孫がいるんだ。呼ばれるのが普通だ。切り絵は休日の趣味にね。小さい頃から、続けていたんだ」
「目はどのくらい悪いのー?」
「ごくたまに視界がまだらになる、といった程度かな。もう細かい絵は無理だ」
「お絵描きは好きー?」
「ああ、好きだ。大学卒業から去年引退するまで仕事一筋だったが、切り絵はたまの休日の唯一の趣味だった」
「じゃあ、やめちゃうのさみしいねー。ちょっと待ってねー」
 女性は軽い足取りで二階に上がって行く。
「お時間は大丈夫でしょうか?」
「退職後の暇な年寄りなものでね。時間は売るほどあるよ」
「売っていただきたいです。私は時間がいくらあっても足りないんです」
 営業用の笑顔だろうが、笑って言いながら女性はレジを打つ。受領書に手描きで金額を書いて、店の判を押した。
 トレイに幾枚かの現金を乗せ、受領書をこちらに向け、ボールペンを差し出す。
「金額をお確かめの上、サインをお願い致します」
「ああ」
 私はトレイから札を取り、指でパラパラと数え、フルネームを紙の右下の所定の欄に書く。
「おじーちゃんー。いいのがあったー来て来てー」
 二階からもう一人の女性が手招きする。
「階段は大丈夫ですか?」
「そこまで歳は取ってないさ」
「失礼致しました」
 しかし、偉そうなことは言ったが急な階段は膝にこたえる。髪の短い女性はそれを察していたらしく、もしもの時に備えて自分の後ろからゆっくりとついてくる。女性にこのような気を遣われるとはつくづく年は取りたくない。
「綴り切りって知ってるー?」
「いや、知らないな」
「多分、名前を知らないだけで、やったことあると思うよー。小学校とか幼稚園の時にー。えっと、折り紙をねー」
 言って彼女は白い折り紙を手早く四つ折りにする。
「折ってハサミで模様を切ってー」
 手品師のような手つきで紙をクルクルと回し切り込みを入れて行く。切ったそばからどんどん折り紙の欠片が床に落ちて行くが、気にしない。そして、丁寧に再び開けた。
「開くと雪の結晶ー。ってのやったことない?」
「ああ、懐かしいな。子供の頃やったことがある。当時は色紙など子供には高級品だったので新聞紙の端を切ってやったよ。それを綴り切りと言うのかい?知らなかった」
「うーん、これは基本的に重ね切り。綴り切りってのはちょっと違ってー重ね切りの応用版かなー。これを使うのー」
 言って取り出したのは薄いプラスチックでできた人を象った板だった。一瞬、流し雛で使う紙の人形を思い出してしまった。
「あくまでこれは初心者向けの型紙ー。切り絵と一緒でねー。最初はこれに沿って作るんだけどー慣れたら自分で型紙から作れるよー」
 そして白い大きな模造紙を、まるでテーブルクロスを敷くように机に大きく広げ、定規もなしにカッターで縦長に切っていく。そうしてできた長細い紙を屏風折に折って行った。
 できたのは、十センチ四方ほどの正方形が互い違いに重ね折られた白い紙。
 女性は手早くもう一つ屏風折の用紙を作り、型紙と一緒に私に渡した。
「でねーこれをこの型紙に重ねるでしょーそれでハサミで切っていくのー。大雑把でいいよー」
 眼鏡の女性が持ち手を私に向けて差し出したハサミを取り、紙の上に人形を乗せると、型紙に合わせて切っていく。紙が分厚く切りにくい。ワンピースの女性はスイスイと切って行っているというのに。
「これ、ナイフを使っては……」
「おじーちゃんは目は悪いんでしょ!カッター絶対禁止!それに……」
 切り終えたらしい女性は相方を手招きすると屏風折の片方を持たせ、横に移動した。
 見ると大勢の子供が手をつないだ姿になっていた。
「これなら孫ちゃんと一緒にできるよー」
 子供の様に無邪気な笑顔を見せる。
 




「あちー、何なんだよ今日は!松島さん、ちょっと涼ませてー!あ、お客さんいる。すんません」
「あー、さわくんー」
 二階に上がって来たのは彼女たちと同じくらいの年代であろう青年だった。口ぶりからして常連客だろうか。暑いと言うのにスーツをきちんと着て、スラッとした体格の爽やかな男だ。
「今日お仕事?」
「結婚式場の下見。お前みたいなモテない女のマッチングするのだけが仕事じゃねーの」
「うるさい!黙れ!」
 黒い髪の女性が態度を変えて怒鳴り出す。
「あれ、あなた……」
 青年は自分の方を指差して目を丸くした。
「神谷製薬の会長さんですよね?確か去年社長を引退されて会長に就かれて……。新聞でお顔拝見したことあります」
「ああ」
 確かに私はそれなりに大きな製薬会社の会長だが、そう頻繁に新聞に出る訳ではない。かなり時事に詳しいのだろうか。
「神谷製薬!?」
 短い髪の方がすごい勢いで立ち上がる。
「息子さんとか!独身で優しくてイケメンな息子さんとかいらっしゃいませんか!?」
 人が変わったように私に向かって来た。
「残念だが、息子はもう結婚して子供もいるよ。さっき言った娘と言うのは息子の嫁のことだ。それに息子は私に似てあまり容姿も性格もいい方ではない」
「え……あ、でも……会ってみれば意外と気が合ったり……」
「しねーから、すいません。用事は終わったのか?じゃあお見送りしろ」
 




「ありがとーございましたー」
 眼鏡の方は青年に取り押さえられてしまい、髪の長い女性の方が軒先でにっこりと笑う。
 熱い日光に照らされて私は初めて気が付いた。
「違ってたら済まないが、一つ尋ねていいかね?」
「はいーなんですかー?」
 憶測で人の体質に口を出すのは職業上いけないことだが、引退した身。しかも会社とは全く関係ない場なのでいいだろう。
「君は……もしかして片目が見えないのかね?」
「あははー、バレちゃったー?朋ちゃんにも内緒だけどねー。えーっと右目が全盲で左目が弱視ですー。お医者さまは—そのうち左も見えなくなるってー」
 女性は事もなげに笑って言った。そして
「明日も暑くなりそうですねー」
 と、もうほとんど見えなくなっているはずの太陽を見上げ呟いた。



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