あとりえ透明「スクリーントーン」




 待ち合わせの時刻の五分前に着いた。駅前の改札広場で周りを見渡す。目当ての人は……と言っても姉に携帯写真を見せてもらっただけなのだが……見当たらない。ゴールデンウィーク半ばでさほど都会でもない駅も混雑している。両手に持った大きな紙袋が重い。ため息をつくのに合わせて携帯が鳴った。
「もしもし?」
『高見原です。愛理さんですか?今電車降りたんで改札前で待っててください。グリーンのワンピにポニテです』
「はい」
 三分も経たないうちに、ポニーテールで小花柄の緑のワンピースを着た女性が現れた。私の姿を見ると明るく手を振る。
「はじめまして、高見原です。金崎さん…えっとお姉さんと紛らわしいので愛理さんでいいですか?」
「はい。えっと……高見原一花さん……ですよね?お姉ちゃんと同級生の」
「そうです。いつも金崎さんにお世話になっています」
 高見原さんはこの春大学に入学した姉と友達になった人らしい。今日はある頼み事を姉伝いでお願いした。本当は姉も含めて三人で出かけるつもりだったのだが、姉がバイトで来られなくなり、初対面の人と二人で出かけることになってしまった。
「荷物重そうですね。半分持ちますよ」
「いいですよ。このくらい。これでも持って来るのは最小限にしたのですが」
「でしょうね。じゃあ、案内しますよ」
 高見原さんは住宅街の方に歩いて行く。私はそれに慌てて着いて行った。
「あとりえ透明……でしたっけ……?」
「私も1ヶ月くらい前に知ったばかりなんですけどね」
 




 高見原さんに連れられて、住宅街を歩く。目立った観光地でもオフィス街でもないこの住宅地界隈に来ることは滅多にない。高見原さんは大学入学以前は関西に住んでいたと聞いているが、この一ヶ月で随分とこの辺りには慣れたらしい。足取りが早い。
 他愛もない雑談を……主に姉の愚痴を……話していると、高見原さんは住宅街に紛れたお洒落な一戸建てを指差した。
「あそこです。あとりえ透明」
「これ、買い取ってもらえるんですよね」
「ええ、でもそれだけじゃないですよ」
 そう言って慣れた風にドアを開ける。カウベルが五月晴れの空に響いた。
「あー、一花ちゃんだー」
「こんにちは、絵美さん、朋さん」
「いらっしゃいませ」
 二人の女性が出迎える。一人はパンツスーツに黒いエプロン。もう一人はゆったりとしたチュニックを着ている。
「今日はお連れ様がご一緒なんですね。お友達ですか?」
 スラッとしたスーツの方が高見原さんに尋ねる。
「春から大学で同じサークルになった友人の妹さんです。買い取ってほしい画材があると言うので連れてきました」
「ありがとうございます」
「こちら、侑那絵美さんと松島朋さん」
「初めまして、金崎愛理です」
「あいりちゃんかー。高校生?」
 絵美さんがぽわぽわして笑顔を浮かべて私の顔を覗き込む。
「いえ、中三になったところです」
「若いなーいいなーお絵描きする?お絵描きしよー」
「……えっと」
「無視してください」
 冷たく言い放つ朋さんに高見原さんがチケットを二枚差し出した。
「二階で描いてていいですか?」
「二時間ですか?」
「いいえ、多分愛理ちゃんも使いたいというと思うので、その分です」
「かしこまりました」
 チケットを受け取って裏にハンコを押すと、朋さんは私の方に向き直った。高見原さんは慣れた様子で二階に上がっていく。
「本日は買取と言うことでしたが、当店のシステムはご存知ですか?」
「高見原さんに聞いてます。えっと部費で買ったものなので現金でお願いします」
「部費?美術部ですか?」
 朋さんが笑顔で小首をかしげる。
「漫研です。これを……」
 持ち続けていた重い紙袋を二つ、カウンターに置く。
「中を拝見してよろしいでしょうか?」
「はい」
 朋さんが紙袋を横にして中身を丁寧に取り出して行く。
「スクリーントーンに、ペン先、ペン軸、雲形定規……漫画原稿用紙、パイロットインク……これ全部でしょうか?」
「いえ……部で用具を全て処分することになって、実際はこれの五倍以上あります。買い取ってもらえるなら今度先生の車で持ってきます」
「ICなら多少値段交渉可能なのですが、Deleterの漫画用具は買取依頼が多いので、あまり高くはなりませんが、よろしいでしょうか?」
「なら値段が分かってから安ければ部員と相談します」
「承知致しました。ではお見積もりをいたしますので、少々お待ちください」
「なんで、こんなにいっぱいの画材売っちゃうのー?廃部とかー?」
 絵美さんが割り込んで来た。
「部室が移動になったんです。コンピュータールームに」
「コンピュータールームー?漫研がー?」
「クリスタ……漫画制作ソフトを導入して、アナログ漫画はやめるっていうことで、情報処理部と部屋を半分にして使うそうです。アナログは材料費とかもバカにならないから」
「あいりちゃんはそれでいいのー?」
「私は元々デジタル派で、むしろ今までコソコソとコンピュータールーム使って先輩に肩身の狭い思いしてたのが堂々と使えるようになって嬉しいです」
「うわー今時の子だーでもソフトは便利だもんねーパースも取りやすいし今は手振れ補正も万能選手だしーでもー」
絵美さんが紙袋を覗き込む。
「クロッキー帳や定規まであるよー。全部手放しちゃっていいのー?もったいないよー。例えば部員の皆はもらいたいものとかなかったのー?」
「アイデアメモは携帯に書くので」
「若者だーあいりちゃんは漫画家志望さん?」
「えっ……まぁなれたらいいなぁって」
「じゃあねーあいりちゃんー」
絵美さんは私の手をぐいっと引っ張った。
「私と勝負しよ!」
 二階には大きな机があった。隅で高見原さんが水彩画を描いていた。私の姿を見つけると笑って手を振る。
 絵美さんは私に一番階段に近い椅子を勧めて自分は一番奥の席に座った。
「ともちゃんー、ケント紙ー!なかったら上質紙でもいいよー」
 後からついて来た朋さんが机の下から二枚のケント紙を出して一枚ずつ、私と絵美さんの前に置く。
「全く、大人げない。はいはい。画材はペンで?」
「つけペン。あいりちゃんが持って来たの使って。ペン先は好きなのでいい」
 言われるのが先か、朋さんはいつの間にか持って上がっていた私の紙袋を探り、ペン軸とインクを一つずつ私たちの前に置く。二人の横にペン先を5種類2つずつ並べると、素早く下がった。
「ともちゃん、あとあいりちゃんに定規。さっき持ってきてたスチールの」
「はい」
 絵美さんは朋さんに付き従う執事のように無駄のない動きで紙袋から私の持ってきたスチール製の定規を取り出し、私の左手横に置く。
「じゃあ、あいりちゃん勝負ね。審判はいちかちゃん」
「え?」
「どっちが上手に直線引けるか。あいりちゃんは定規使っていいから」
「定規って……絵美さんはフリーハンド!?」
「うん、じゃあはじめ!」
 私は戸惑いつつもペン軸にペン先をセットしインク瓶を開く。
 実はペンを使うのは久しぶりだ。いつもペンタブレットを使っていたから。定規を裏返して使うとインクが滲まないのは知っている。裏返して紙に置き、慎重にペン先を紙につける。息を止め、右手をゆっくりと左から右へ動かす。
「あっ」
 定規の端をはみ出してしまい、線がガタッと下に落ちてしまった。
「ね、難しいでしょー」
 絵美さんはとっくに描き終えていたらしい。
 顔を上げ、私は我と我が目を疑った。
 ケント紙に描かれていたのは定規で描かれたような、いや定規で描いたよりもよほどきれいだ。目で見る限り、それは確かに直線なのだが、緩やかに強弱がついていて見た目はただの直線よりずっと美しい。
「こういう線はパソコンでは描けないでしょー。だから便利なのー」
「これの審判って私貧乏くじじゃないですか?」
 高見原さんがため息をつく。
「こんなの……」
 ズルい、という言葉を私は飲みこんだ。それを言ってしまったら私は負けだ。いいや、とっくに負けているのは火を見るよりも明らかなのだが。
 『うまいね』と褒められた。
 『すごいね』って言ってくれた。
 ひょっとすると社交辞令だったのかもしれないが。
「あいりちゃんはねー絵を描くのが好きー?」
「好きですよ!だってそれしか褒められることがなかった!漫画描いたら褒めてもらえた!」
「だれにー?家族?ともだち?」
「それは……」
「好きな人ですよね。先輩、ですか?情報処理部の」
 割り入ってきた朋さんに私は顔を上げた。
「どうして……?」
「だって金崎さん最初に仰ったじゃありませんか。『先輩に肩身の狭い思いをしてた』って。でも金崎さん三年生なんですよね。『先輩』なんてもういないはずでしょう?先輩は卒業されたんですか?」
 私はがっくりとうなだれた。
「……そうです……一つ上の先輩で……一年生の頃から好きでした」
 ああ、もう言っちゃえ。
「先輩……ゲームプログラム系の専門学校に行ったんです。それで……そこには漫画の専門コースもあって……私も追いかけたくて……漫研のデジタル化は一年以上前から私が言ってましたよ!でも実現したら先輩は卒業しちゃって……」
「うーん、わかんないなー」
 絵美さんが首をひねった。
「あいりちゃんはー漫画家になりたいの?漫画が上手くなりたいの?それとも先輩と同じ学校に行きたいの?」
「分かんないですよ!もう何が何だか分かんない!あなたみたいな才能の塊でホイホイすごいことできちゃう人には絶対分かんない!」
「ホイホイかー。うんー、そうだねー」
 絵美さんは否定しなかった。どこまでズルいんだろう。この人は。
「じゃあ、おねーさんからあいりちゃんに宿題出そー。千枚描くこと」
「え?」
「今日から中学卒業までに千枚描くの。一日三枚。簡単でしょ」
「せん……」
「デジタルでもアナログでもいいよ。とにかく千枚。そしたら絶対上手くなる。あといっぱい遊ぶこと。いろんなものを見て、いろんな経験をする。そしたら絶対漫画家に近づくし、漫画も上手くなるし、専門学校に入るかどうかも自分で決められる。まだ一年あるんだよー。あいりちゃんは私の半分しか生きてないんだよー。ちょっとくじけるのが早すぎるかなー」
 私の頭に絵美さんの手が置かれる。
「頑張って、頑張って、挫折はそれからでも遅くない」
「もし描けなくなったら、いつでもここにいらしてください。画材が変われば新しい題材が見つかるかもしれませんから」
 朋さんが笑顔で言う。
「ともちゃん、あいりちゃんの画材は全部買取OK?」
「見積もりはできています。金崎さん、こちらでいかがでしょうか?」
 差し出された紙に書かれた額は思っていたより少し高かった。これなら部員も納得してくれるだろう。私は頷く。
「では、こちらにサインをお願いいたします」
 ボールペンを差し出され、私は署名欄に名前を書く。朋さんは階下に降りたと思ったら、すぐに封筒を持って戻ってきた。
「ご確認ください」
 中には見積書通りの額面のお金が入っていた。
「じゃあ、この画材は全部店のものだねーじゃあねー勝負もお説教も終わりー遊ぼー」
 絵美さんは紙袋を探ってありったけのスクリーントーンとカッターを出す。
「モアレって知ってる?」
 聞いたこともない。私は首を横に振る。
「トーンを重ね張りするでしょ。その角度が狂うと不思議な模様ができるのー。それがモアレ。印刷が汚くなるから漫画では絶対やっちゃいけないことだし、デジタルだとそもそもモアレができないようになってるんだけど、絵としてはこれはこれで面白いのー」
 言いながら絵美さんは一種類のトーンから二つの正方形を切り抜いた。
 机の下からコピー用紙を取り出すと、二つの正方形を少しずらして重ね貼りした。
「これがモアレだよー」
 差し出された紙のトーンはモザイク画でも見てるかのような不思議な模様を描き出していた。私は思わず吹き出す。
「こんなのできるんだ」
「これだけトーンがあるんだからさー、いろいろ試して遊ぼうよー。ほらいちかちゃんも来て—」
 絵美さんは無邪気に笑って両手を振った。高見原さんはやれやれ、と言った風に水彩の筆を置く。
「水彩画の上にトーン貼っても面白い絵が出来るんだよー」
 




 先輩に初めて会ったのは中学の入学式の翌日だった。
 中学になったら漫研に入ろうとずっと決めていた。そして部室を訪ねた時、当時の部長がパソコンでの漫画制作を勧めてくれ、コンピュータールームに連れられた。
 情報処理部は男子三人だけの部で、女子は部外者でも歓迎された。
 その時二年生になったばかりの先輩が笑いかけてくれた。
 初めて私の拙い漫画を見て褒めてくれた。
 それだけで十分だった。 
 




「もしもし、中条先生ですか?」
 その日の夜、私は自室で部の顧問に電話をかけていた。
「画材、売っていいと思います。ゴールデンウィーク明けにお金持っていきますので。ただ、スチール定規とクロッキー帳は私がもらっていいですか?あと……」
 一呼吸おいて私は口を開いた。
「専門学校に進学の件、もうちょっと考えます。保留でお願いします」
 電話を切って私は深呼吸をした。
「一年で千枚……か」
 あの絵美さんもそうしたのだろうか。そうすればあんな人になれるのだろうか。
 私は『あとりえ透明』から持って帰った一冊のクロッキー帳を取り出し、最初のページにゆっくりと縦に線を引く。いびつで歪んで震えた、とてもでないと直線とはいえない線。
 スクリーントーンを切り貼りして出来たモアレのような靄がかった未来はいつか晴れるのだろうか。



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