天球儀 ep.6 八月「乙女座の恋煩い」




(な〜んで夏休みまで毎日学校に行かなきゃならないのよ、メンドくせ。やっぱり十二宮なんて入らなきゃよかった。十二宮なんて入らなくても私の成績なら楷明大くらい余裕で…)
 心の中でぼやきながら矢井田桂子は炎天下の下を歩いていた。いつもは車通学なのだが、今日はエンジンが故障したとかで送ってもらうこともできない。これだから父が古い車が趣味なのは困るのだ。
(暑〜い)
「ちょっと、お嬢さん」
 学校の最寄り駅を下車したとき、後ろから声をかけられた。
(何?この気分最悪のときにナンパ?それともカツアゲ?)
 自覚はなかったがよほど機嫌の悪い顔をしていたのだろう、相手の男は肩をびくっと震わせた。背は低く童顔だが、自分よりは少し年上だろう。白いTシャツにジーンズというラフな格好だが、端正な顔立ちをした青年。どこかで見たような顔をしている。明るい笑顔を取り戻して汗を拭った。
「その制服、楷明の十二宮だよね?今日みんな集まってる?」
「え、ええ…そのはずですが」
「じゃあ、俺も行っていいかな?」
「失礼ですが、あなたは?」
 フランクな態度に憮然と返す。
「あ、ごめん。三年前十二宮でしたカズです」
 にっこりと笑い右手を差し出す。警戒しつつその手に触れる。
「や…矢井田桂子です。乙女座で…」
 桂子は久しぶりに人の手を握ったような気がした。
 顔が赤く染まる。
「あ、暑いですね」







「…というわけで、十二宮OBだそうです」
 十二宮室に着いた桂子にはエアコンの利いた部屋が天国に思えた。早めに着いてしまい、そこに集まったのは自分を入れても十二宮の半分ほど。
「初めまして。現十二宮牡羊座の中務まゆりです」
「今の会長って女の子なんだ。あ、レナもそうだったしな」
「レナ?ああ、小紫前委員が言ってた二年前の…」
「そっ、俺も実習で一ヶ月見てただけだけど、すげー会長だったぜ。たしか楷明大の医学部に行ったはず…」
「医学部?」
「カズさん?」
 高い声に奥の道具室にいた伊賀リョウスケが顔を出す。
「お前…リョウスケか?うわ〜変わらねーなー。ていうかリュウイチに似てきた?」
「伊賀さんと知り合いなんですか?」
 真人が不思議そうに聞いてきた。
「皆に言ってねーの?こいつの兄貴、俺と同期で三年前の十二宮だよ」
「ま、まあ…一応…」
「で、ご用件は何でしょうか?」
 珍しくしどろもどろになるリョウスケをフォローするようにまゆりは尋ねた。
「えっと…妹に会いに……」
「お……お兄ちゃん?」
 その二人の声は天の巡り合わせかのように同時に発せられた。
「お兄ちゃん!戻ってきてくれたんだ!」
 ナルは革鞄を放り出してその四肢に後ろから抱きつく。
「誤解すんなよ!俺はあの家には戻らねーからな!ただナルがどうしてるか…」
「ナルのこと心配してきてくれたんだぁ。うれし〜」
 その場にいた全員の好奇の目がそこに集められる。
「えっと…ちゃんと自己紹介しますと酒本カズって言います。三年前の十二宮獅子座でした。見てのとおり酒本ナルの兄です。今は父に勘当されてますが、一応血縁です…」
「勘当なんてされてないよぉ〜。ただ拓海のバカのせいでちょ〜っとパパとケンカして家出中なだけ〜ね、お兄ちゃん」
「こら、そんな言い方するなって。拓海くんはナルのことが大好きなんだぞ。ちょっと愛情表現が不器用なだけで」

「酒本……カズ…」
 桂子の唇が渇いていく音がしたような気がした。みるみるうちに顔は青ざめ土煙色になっていく。
「あのバカの…お兄さん……」
 受身も取らずにその場に倒れた。







「あ、よかった。目ぇ覚ました」
「びっくりしましたよ、矢井田さんいきなり倒れるんですもん」
 十二宮室の隅にある応接用のソファに寝かされていた桂子は目が覚めるや否や、ガバリと上半身を起こした。
「少し寝てた方がいいわよ」
「さ、酒本さんは?」
「ナルならここに…」
 言って真横の少女を指差す。
「違う!カズさんの方!」
「なら帰ったわ。今日は駅前のネカフェに泊まるとか」
「ね、ネットカフェ?何でそんなところに?」
「だって家には戻りたくないって」
「そういうことを言ってるんじゃないわ!そんなところに泊まるなんてだらしのない…」
「だらしないって…そうかなぁ」
「さぁ、ナルはそうは思わないけど…」
 ナルとまゆりは首を傾げる。
「酒本さん、カズさんの携帯番号教えて!」
「へ、いいけど…」
 ナルは携帯から兄の番号を探し当て、画面を差し出した。桂子は自分の携帯で手早くそれを打つと、コール音を聞いた。
「あ、酒本カズさんですか?相談があるんです。よろしければ今日、家に泊まっていただけませんか?」
『ええっ?』ナルとまゆりは二人同時に声を上げた。







「……どう思う?」
 桂子が用事で出て行った部屋でまゆりが息をついた。
「どうもこうも……」
「……惚れたわね」
「え〜ヤダヤダ!お兄ちゃんがあんなのと付き合うんなら、家出てってバンドしてる方がまだマシだって〜!」
「矢井田さんの家って何してるの?」
「華道の家元の跡取り娘」
「あー。何か分かる」
「だからああ見えて超ハコ入り」
 金城辰弥が手を振った。







「酒本さん」
「カズでいいですよ。ナルとも紛らわしいでしょうし。でも泊めていただくなんて悪いです」
「気にしないでください。こちらがお願いしてるんですから。そうだ!お夕食私が作りますから何がいいですか?嫌いなものとかありますか?」
「ホウレン草とゴマが苦手です〜」
「げっ」
「ナル?」
「お兄ちゃんが泊まっていいんならナルもいいですよね〜。矢井田さん」
 ナルがニヤリと笑った。







「カズさんと一緒に酒本さんが?」
「うん。とことん邪魔したいみたい」
 真人とまゆりは連れ立って歩いていた。
「せっかくお兄さんが戻ってきたのに、矢井田さんに取られるのが嫌なんじゃない?」
「あー、気持ちは分からないでもないけど矢井田さんとしてはどうなんだろう。だって純粋に好きなだけなんでしょ?」
「そっかー。そしたらナルは単なる嫌な小姑かー」







「小姑で結構」
 広い日本庭園を障子の向こうに見て、居間で机をはさんで桂子とカズ、そしてカズの横にはナルが陣取っていた。
「お兄ちゃんは純粋で繊細なの!悪い虫がつかないように見張るのも妹の役目。ていうか、何なの矢井田さん、その格好?」
 制服から着替えたと思ったら、緑の絣を着て現れた桂子をナルは指差した。
「和服萌えとかしないから」
「何?私、学校から帰って来たらいつも和服よ。おかしい?」
「寝るときは?」
「浴衣」
「変!普通ジャージとか、もっと楽な格好するでしょ?」
「何?そのだらしない生活習慣?だから品のないままなんだ」
「あはははは!」
 ナルと桂子のやり取りにカズが大声で笑い出した。
「何よ?お兄ちゃん」
「そうですよ、カズさん」
「いや、何ていうか…安心した」
 ナルの頭をくしゃっと撫でた。
「こいつ、こんな性格だろ?友達なんてできないと思ってたのに、十二宮の皆とも仲良くしてもらって、矢井田さんみたいな友達がいて」
「と…友達じゃないもん!」
「そうですよ…誤解です!」
 ナルと桂子は同時に顔を真っ赤にした。
「そんなことないじゃん。これからもナルのことよろしくな、矢井田さん」
「け…桂子でいいです」
「そう?じゃあ桂子ちゃん」
 その笑顔に桂子の体温が五度ほど跳ね上がったような気がした。
「何かお礼をしないとね、明後日の夕方て空いてる?」
「は…はい」
 すると何やら派手なチラシを手渡した。
「ナルと一緒だったら並ばなくても裏口から特等席に入れるから」
「ライヴ?」
「嫌いだった?こういうの」
「いえ、初めてですが、ぜひ行かせてもらいます!」
「お兄ちゃんこれのために戻ってきたんだ?」
「ああ、今度メジャーデビューも決まったんだぜ」
「え〜?すご〜い!」
「これも拓海君のおかげかな」
「…拓海は…テキトー言っただけだよ。これはお兄ちゃんの努力の賜物」
 言いながらも内心複雑だった。拓海は家を手に入れようとむやみにおだてただけだと思っていた。それが本当は本当にカズの才能に目をつけていたのだとしたら……。自分は拓海に謝罪しなければならない。
「じゃあ、お夕飯の準備してきますね。ごゆっくり」
 言って和服姿の桂子は嬉々と部屋を出て行った。







「お兄ちゃん、これが本当にいい友達のすることだと思う?」
 居間で桂子とカズは懐石風の料理を並べた横でナルの前には山盛りのほうれん草の煮浸しが置かれていた。当然のようにゴマもたんとかかっている。
「う〜ん…」
「冗談よ」
 言って煮浸しを三等分するとナルの前にもカズたちと同じ料理が並べられた。







「お風呂お先でした〜」
 桂子から借りた黄緑の浴衣の帯を少し直しながら、ナルは満足そうに桂子の部屋に入ってきた。
 先に入っていたカズはTシャツにジャージで桂子の本棚にあった難しげな小説を読んでいた。すっかりくつろぎモードだ。
「じゃあ、私も入ってくるわね」
 出て行くと、二人残された兄弟には少し気まずい空気が流れた。
「お兄ちゃんはさ…」
「ん?」
 笑顔で本を閉じて、ナルの顔を見る。
「家に戻ってくるつもりでここに戻ってきたんじゃないわよね?」
「……うん」
 眉間にしわを寄せて、頭を下げる。
「ごめん!ナルに迷惑や心配かけて!でも、俺音楽が好きなんだ!だからどうしても…」
「わ〜かったわよ。ナルは別にやりたいこともないし、あの家継いであげる。でも一つだけ約束して」
 カズの鼻頭に指差した。
「音楽をやめないこと」
 カズは穏やかに笑った。
「…ああ、約束する」
 月の奇麗な夜だった。
「ありがとう、ナル」







 翌々日、十二宮の仕事を終わらせると、桂子とナルは急いで部屋を出た。
「駅の南口に四時だからね!」
「分かってるわよ、そっちこそ遅れないでよ!」
 二つの走る音がする。
「あの二人が…」
「待ち合わせ?」
 残された十人は一斉に顔を見合わせた。







「遅い!三分も遅刻!」
「ナルの時計ではちょうどだよ〜」
「時計狂ってるでしょ、私のは電波時計だから間違いない」
「ナルのも電波だよ〜」
「あんたは頭が電波だから時計もそれにつられて狂うのよ」
 喧嘩しつつもふんわりとしたピンクのワンピースを着たナルは桂子のスタイルに目を奪われた。黒髪はひとまとめのポニーテール。キャミソールに長いスカーフを首に巻き、ボトムはフィットタイプのジーンズ。よほど自分のスタイルに自信がないとできないスタイルだ。現に道行く男の大半が目を奪われている。
「コンサートならともかく、ライヴなんて初めてだからできるだけラフな格好きたんだけど、こんなのでよかった?」
「…いいんじゃない、どーでも〜」
 ナルには構わず桂子は踵を返す。
「とりあえず行くわよ。約束どおり車回しておいたから」
「ありがと〜。ナルの家だとまさか『お兄ちゃんのライヴに行くから車出して』とは言えなくってね〜」
 二人は駅前の駐車場に向かった。







 ライヴハウスに着いたのは開場の三十分前。それでもかなりの長蛇の列ができていた。
(本当に人気あるんだ…)
 正直、疑ってなくもなかった桂子は行列に驚いていた。ナルはどこか誇らしげに、待つ人々を見ながら裏口へ向かった。
「あ、ナルちゃん、久しぶり」
 裏口でタバコを吸っていた青年はナルの顔を見ると、ニッと笑った。
「こっち、ドラムの洋二クン。で、こっちがナルの…」
「ケーコちゃんだよね?カズから、ものっすごい美少女がくるって聞いてる。ていうか聞いてたとおり!」
「恐縮です」
 洗練された姿勢で頭を下げる。
「えっと…」
「あの…美人なんだけどちょっと時代錯誤というか箱入り娘なんで気にしないでやって」
 ナルがフォローを入れた。
「じゃ〜中入れてもらうね〜」
「ああ、カズも楽屋で待ってるから」
 手を振りナルは裏口を開けた。







「がっくや〜がくや〜。あ、発見!」
 二人で並んで歩くには窮屈な狭い廊下には数々のサインや落書きが書き散らしてあった。桂子はオドオドとナルの後に続く。
「お兄ちゃ〜ん、来たよ〜」
「お、ナル早かったな。桂子ちゃんもようこそ」
 椅子でギターのチューニングをしながら、カズは顔を上げた。奥にもう一人いた青年が立ち上がる。
「ナルちゃん、来てくれてありがとね。そっちが噂の美女?えっと…」
「矢井田桂子と申します」
 言って頭を深く下げた。
「ご丁寧に。俺はベースの仁志」
 アイスコーヒーを差し出した。
「はい、ナルちゃんはシロップ三つだったよね」
「ありがと〜仁志にーちゃん」
「随分、仲がいいのね」
 桂子の問いに答えたのはカズだった。
「俺ら、小学からの同級で、ナルは俺らがバンド組む前からいっつも遊びに来てたからな」
「そ、みんなの妹って感じ」
「へぇ、いいですね、そういうの」
 アイスコーヒーのカップに口をつけ、一瞬の間を置いて目を丸くする。
「…って、同級生って事は皆さん楷明?」
「そ、楷明附属卒で高校卒業と同時に家を追い出されてるヤツらばっかり。それからはボロアパートでバイトしながら三年間やってきたから品のない奴らばっかりで悪いね。桂子ちゃんみたいなお嬢さんはこんな所居心地悪いでしょ」
 カズが笑う。
「す…すごいバンドですね」
「そうかな」
「でもカズが十二宮入った時はマジで大学行くつもりかと思ったもんな」
 仁志、と呼ばれた青年が笑う。
「ずっと言ってただろ、親の体面上仕方なくで、こっそりぬけだしてやるって。あ、もうそろそろ開場かな。おいで、一番いい場所を取ってるから」







 出てきたのは舞台だったガランとして照明も暗い中でカズは身軽に観客席に飛び降りる。ナルもそれに続いた。ためらってる桂子にカズが手を貸し、三人は観客席に立った。前に張られたロープをくぐって一番前の、しかも真ん中に立つ。
「こちらでいかがですか、お姫様?」
「は、はいっ、ありがとうございます」
「ありがと〜お兄ちゃん」
 開場前に人目につくと困るのだろう。カズは「じゃっ」とだけ言って楽屋のほうに戻って行った。
「で、椅子は今から用意するの?」
「椅子……?」
 しばしの沈黙の後でナルが声を上げて笑った。
「クラシックのコンサートじゃないんだもん、立ち見よ。全員立ち見!」
 バンバンと桂子の肩を叩く。
「そ、そういうものなの…?」
「そういうものなの!」
 話してると、突然人がなだれ込んできた。







 真っ暗な密室で突然舞台にまばゆいばかりの明かりが輝いた。
 挨拶もなくドラムが鳴り響いた。
 それに応えるように地鳴りのような歓声が辺りを包む。
 仁志のベースと同時に、中央に据えられたマイク越しにカズのギターと歌声が響く。
 桂子は一瞬で心を奪われた。
「カズ……さん」
「す……数段上手くなってる。ギターも歌も」
 ナルも目を見開く。
 見惚れる二人にカズはウィンクを返した。
 あっという間に一曲が終わり、鳴り止まない拍手の中、カズがマイクを手に取った。
「みんな今日は来てくれてありがとう」
 ワァッという歓声が返事になる。
「今日がインディーズ最後のライブになるんだけど…」
「金の力でメジャーデビューだもんな」
 柄の悪い低い声が聞こえたのは桂子の真後ろからだった。振り返ると女性が大半のその観客に混ざって男が数人陣取っていた。カズは突然のその野次に二の句が告げない様子だ。ただ立ち尽くしてる。
「みんな知ってるかー?カズって酒本組の長男なんだぜー。どうせパパに頼んで金と権力でデビューだろ?組長の跡取りっつーたらプロダクションも断れねーだろうしな。おっかねーおっかねー」
 周囲がざわつく。
 疑念の目が一同にカズに注がれた。
 ナルが男たちに殴りかかろうとした瞬間、ハイヒールのサンダルが男の足を踏みつけた。
「痛っ!何しやがる、このアマ!」
「矢井田さん?」
「うぜーんだよ、この下等生物どもが。消えやがれ」
 凄みに満ちた顔に男たちは一瞬ひるんだ。その隙を桂子は見逃さない。素早くかかと落としを決め、もう一人の男にはわき腹にひざを殴りあてた。
「てめーら何様だ?え?なんなら警察沙汰にでもしてみせっか?もっとも酒本組を相手にする覚悟がねーとな。どうした?さっきの威勢は。ほら、ほら言ってみろよ」
 桂子は一人の髪の毛をむしりきらんばかりに引っ張り顔を上げさせた。
「す…すみま…」
「バカか、てめー。謝るんなら、それなりの態度ってもんがあるだろ?」
 男三人は震えながらも正座をし、頭を床につけ土下座した。
「申し訳ありませんでした」
「じゃぁ、この会場から出て行って入り口のところでライヴが終わるまで正座、観客が帰る時に一人一人に土下座で謝りやがれ。言っとくけどウチの使用人一人つけるからサボったらどうなるか分かるな。愚民どもにはそのくらいがちょうどいい」
 言われるまま男達はとぼとぼ出口に向かった。
「け、桂子ちゃん…?」
「え?いや、その…つ、続けてください、カズさん」
「みんなー、俺の大恩人に拍手を」
 カズの言葉にワーッと辺りが沸く。我に返った桂子はいっそその場から逃げ出したかった。
「俺は確かに酒本組の長男だけど音楽をやりたくて勘当同然で家を出てきた。金なんてこっちがほしいくらいだ。みんなにはそれを分かって俺たちの曲を聞いてほしい」
 またしても会場中から歓声が上がった。







「まゆりもケンカすごいけど…矢井田さんも強かったんだ」
 ライヴの帰り道、桂子の車の後部座席で並びながら、ナルは横目で未だに顔を赤らめた桂子を見た。
「ご…護身術を小さい時…」
「へぇ〜」
「な、何よ!悪い?そうよ!子供の頃からありとあらゆる習い事させられてきたわよ!合気道だって、今時、武術の一つや二つ出来なきゃ華道の家元も務まらないって、お父様が…!…お父様が…」
 桂子は言葉に詰まって肩をすぼめた。
「…笑いたきゃ笑いなさいよ。そうよ。散々お嬢様ぶってるクセにケンカっ早いわよ。キレると口も悪くなるわよ」
 言い終わるかどうかといううちにナルが声を上げて笑い出した。
「ちょっと!本当に笑う事ないでしょう!」
「違うよ〜。なんか似てるなって思って…」
「誰とよ?」
「まゆり。まゆりとそっくり」
「あ、あんな庶民と一緒にしないでよ!」
「まゆりならきっと〜『あんな世間知らずのお嬢様と一緒にしないでよ』って言うよ〜」
 ナルは笑って指差した。
「ああ、そっか〜。だからナル、矢井田さんのコトこんなにムカつくんだ〜。大好きなまゆりとそっくりな人に悪口言われるからヤなんだ〜」
 車の中にナルの高い笑い声が響いていた。
「大っ嫌い」
 笑いながらナルは言った。







「た、拓海!」
 ナルは携帯の向こうの須磨拓海に頭を下げた。
「ごめんなさい!」
『へ?何?いきなり』
「お兄ちゃんのこと!」
『カズさん?俺何かしたっけ?』
「とにかく謝らせて!ごめんなさい!」
 一方的に電話を切った。







「もしもし、カズさんですか?」
 紫陽花柄の浴衣姿で広い和室で座布団の上に正座した美しい女性は、子供の様にはしゃいだ声で携帯に話しかけた。
「矢井田です。矢井田桂子です。少しだけお話してもよろしいですか?」
『どうしたの?桂子ちゃん』
「今日は本当にすみませんでした」
『え?ああ、あのこと?こっちがお礼言わなきゃなのに。そうだ、お礼がてらランチでも奢るよ。桂子ちゃんの行き着けるような店は無理だけど』
「本当ですか?」
 ボッと頬が紅潮する。
『そうだなぁ、今週の土曜はどう?あ、十二宮忙しいか』
「いえ、大丈夫です!夏休みはそんなに忙しくないですし!あ、あの…カズさんってこれからどこで暮らされるんですか?」
『デビュー決まったからレコード会社の寮…横浜に当分は住むよ。いつでも遊びに来て』
「いいんですか?」
『もちろん。当分バタバタするから予め連絡はちょうだいね』
「はい!ありがとうございます!」
 そして人には見せられないようなにやけた顔で電話を切った。







「おはようございます!」
 十二宮室の扉が開いた。
「…おはよう」
「…ご機嫌ですね、矢井田さん」
「そりゃぁ、昨日あれだけ騒げ…」
  ドカッ
 言いかけたナルの顔面を手の甲で叩く。
「昨日何かあったの?」
「そういや、待ち合わせしてたよな」
「ああ、それはねナルの…」
  ゲシッ
「ひど…やい…だ…さ…」
 二度目の拳にナルの小柄な体は仰向けに倒れた。
「……お兄ちゃんに言いつけてやる」
「そんなことしたらどうなるか分かってるでしょうねぇ?」
 凄む桂子にナルは口をつぐんだ。キレた彼女の怖さは自分が目の当たりにしている。
 一体何があったのか、ナルと桂子以外の全員が顔を見合わせる。
 取石椿はふと顎に指を当て、桂子の顔をじっと見つめた。







(明日かぁ、どこに行こうかしら?いや、こういうのはお任せした方が…)
 部屋のノートパソコンで横浜の観光マップを眺めながら、桂子は鼻歌を鳴らす。暗くなった頃に携帯の着信音が部屋に響いた。
(カズさん?)
 液晶画面に表示された文字を見、首をかしげる。
「はい、矢井田です」
『あ、桂子ちゃん?ごめん、明日急に打ち合わせが入って…来週の土曜でもいいかな?』
「え?」
『本当にごめん、どうしても抜けられないんだ』
「分かりました」
 声だけは平静を必死で装い、頷いた。
「お仕事なら仕方ないですよね。頑張って下さい」
『ごめんね、それじゃ来週の土曜…』
 それだけ言うと慌ただしげに電話は切られた。桂子は大きくため息をつき携帯を閉じ、パソコンの電源を切る。
「仕方ないじゃない。一週間の我慢よ…」







「おはようございます」
 十二宮室に遅れて入っていた桂子に、まゆりは目を丸くした。
「あれ?今日は休むって…」
「用事がなくなったので仕事を片付けてしまおうと思って」
「そう、ずいぶん急ね」
「……はい」
 顔を上げて笑顔を作る。
「先方に急用ができたみたいで…」
 笑った桂子の目から一粒の涙がこぼれ落ちた。
 一同は驚いて声をなくす。
「や…矢井田さん?」
 まゆりが思わず立ち上がった。
「あ…あれ…ご、ごめんなさい。ちょっと私…失礼します」
「矢井田さん」
「待ってください、会長」
 部屋を駆け出した桂子を追いかけようとしたまゆり。それを手で制したのは取石椿だった。
「私が行きます」







 夏の日差しが照りつける非常階段で桂子はうずくまっていた。
「矢井田さん」
「…取石さん?」
「何があったか聞いてもいいですか?」
 一瞬ためらい、桂子は口を開いた。
「…私…我が儘なんです」
「そうね…、当ててみましょうか。矢井田さんに何があったか」
「え?」
 椿はいつになく得意げに、しかしおっとり刀は崩さずに頬に指を当てた。
「楽しみにしてた約束が…デートが…ちょっと延期になって…ちょっと会えなくなった」
 桂子は目を丸くした。
「どうして…」
「そりゃぁ私にもいろいろありましたもの。あのバカな男と何年もつき合っていたんですから」
 フフフと笑いウインクをした。桂子はスカート…膝頭をギュッと握りしめる。
「永遠に会えなくなった訳じゃないんです。それに向こうはお仕事で仕方ないのに…会いたくて仕方なくて…でも会いたいなんて…そんなこと言えなくて…」
 椿は優しく目を細めると、自分より背の高い桂子の肩を抱き寄せた。
「そうですね、それは我が儘ですよね」
「…そう…なんです…」
 子供のように泣きじゃくる桂子の肩を叩く。
「でも女がそのくらいの我が儘、言えなくてどうするんですか?」
 桂子は目を見開く。
「だって…!そんな子供じみたこと、言ったって迷惑かけるだけじゃない!」
 声を荒げる桂子に、しかし椿はゆっくりと微笑むだけだった。
「迷惑だからって何なんですか?そのくらいの迷惑受け止められない男なんてこっちから願い下げですよ」
 穏やかに、しかし強かに笑う椿に桂子は継ぐ言葉が見つからなかった。
「いい恋…してるのね、取石さん」
「ええ」
 椿はこれ以上ない笑顔で振り返る。
「最高の恋。今、最高に幸せなの」
 ロングスカートを翻し、非常階段を軽い足取りで数段駆け上がった。
「皆さんにも、多分もうすぐお知らせできます。だから…」
 桂子は涙を拭うとそれに続いた。
「矢井田さんにも幸せになってほしいんです」







『桂子ちゃん?メール見たよ。時間のある時に電話ほしいってどうしたの?』
 和室で正座したまま、桂子は一瞬の間を置いて切り出した。
「カズさんの…声が聞きたかったんです。一〇分…いいえ、五分でもいいんです。時間のある時にお話しできませんか?」
  これが私の最大の勇気
「カズさんと、もっとお話ししてたいんです」
『もちろん』
 桂子のまっすぐな言葉に落ち着いた声が返って来た。
『バイトの合間とかになるけど、それでよければ』
「本当ですか?いつでも…もう、いつでも構いませんので!」
『面白い子だね、桂子ちゃん』
 笑い声が返ってくる。
『でも好きだな、そういう子』



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