私の憂鬱。第三話




早速私に悪戯をしようとした新をたしなめて、頭痛が酷くなる前に終わらせてしまおうと考える。

 

「私に昨夜のような行為の一切をしないこと。

それさえ守ってくれたらここにいてくれてかまわないわ。以上」

「ちょっとまって。それって…キスとかハグも駄目ってこと?」

「もしもあなたがそれで欲情してその先に進むというのであれば、答えはイエスになるわね」

「わかった、じゃあ絶対にキスまでで止める!とめるから、それだけは許して」

「…もしも発情して行為に及ぼうとしたら私はあなたを捨てるわ。あなたを救う条件は付けた。それを破った上での事であるなら私はあなたがどうなろうと心を痛めることはない」

「なんか、深咲さんてけっこうドライなんだね」

「そうね。いいのよ?出て行っても。酷い女だと罵ってもね」

 

苦笑してそういう私に、新はいきなり抱きしめてきた。

顔はそれこそ女の子みたいに可愛らしいけど…やっぱり男ね。

随分とたくましい腕。背もそこそこ高いわ。

もしものときに抵抗できるのかしら。…無理そうね。

 

「絶対に出て行かない!守るよ。条件。でも、いつか絶対に抱くけどね」

「…そのいつかは来ないって言ったはずよ。あ、もしも爆発しそうになったら発散してくれてかまわないわ。この家に面倒事を持ち込まない限り、外であなたがなにをしようと自由よ。基本的に、仕事をやってくれるならいつどこでなにをしようとかまわない」

「…僕が外でなにをしてもあなたは平気なんだ」

「私達の関係はあくまでも雇う側と雇われる側なんだから当然よ。プライベートに口出しする気もないし、する権利もないわ」

 

む、と膨れた顔をして抱き込む腕に力を込められる。

近くで見ても端正な顔立ちはやっぱり綺麗なまま。

…本当に、黙っていれば人形みたいなのにね。

呪い人形にでもなりそうだけれど。

 

「わかった。外出するときには連絡するね。深咲さんもだよ。事前にちゃんと教えてくれないとだーめ」

「そうね、まあ…ご飯とか無駄になってしまうものね。わかったわ。そういうときは一報入れるようにしましょう」

「うん」

 

本当ならば、詳細をもっと決めるべきかとも思うけれど私には騙し取られて困るようなものは今の所ない。

お金は…まあ、すべてなくしたら大変かもしれないけれど、そこまで執着するものでもないし、

正直、ここ最近は仕事が忙しく身の回りの世話を自分でするのが疲れていたというのもあった。

かといってそんなことを少しでも漏らせば実家の母は帰れと言うだろうし、だからこそ形だけでも最低限きちんとしなくてはいけなくて。

本当に、苦痛でしかなかった。

彼が先程の条件を本当に呑んでくれるというのなら私にとって悪い所かむしろ助かるような話だわ。

うーん、女の子だったら二つ返事でオッケーできたのにね。

 

…それにしても、少しお腹が減ってきたわね。

壁にかかった時計をちらとみれば、もうそろそろ夕方6時。

うん、ごはん時よね。寝起きでお腹がすくってあまりないけど、それだけこの一時間で消費したということなのか。

私はちょっと苦笑してしまった。

 

「それじゃあ、そうね。今から一緒にスーパーでも行きましょうか。あなただってここら辺の地図を頭に入れておきたいでしょうし」

「ほんと?いっしょにおでかけ?」

「そうよ、おでかけよ。支度をしてくるからしばらくいい子で待っててちょうだい」

「深咲さんてば、僕の扱いがうまいんだから。いいよ、待っててあげる」

 

そう言って、不意打ちのように新は私にひとつキスを落とした。

唇にその感触を覚えるのは随分と久しぶりだ。

もう忘れかけていたけれど、案外昔の記憶って残っているものね。

過ぎ去ったはずの人間の顔がちらと頭をかすめる。

けれどももうぼんやりとしか浮かばないし、誰かひとりでもなく不特定多数の人間が次々と浮かんでは消えて、なんだか自分のこれまでが酷くうすっぺらく思えてならなかった。

…ひとりくらい忘れられない男、とか私にはいないのかしら。

 

私は知らない内に眉間に皺を寄せていたようだった。

近くで新の声が聴こえたかと思うと、額に人差し指があてられていた。

 

「深咲さんだめだよー、ほら、のばしてのばして。可愛い顔が台無しになっちゃう。そんなにやだった?」

「ん?ああ、まあそりゃあね」

 

今のキスが不快だったからこんな顔をしたと勘違いしたのだろう。

本当はそうではなかったけれど、言う必要はないと思った。

そもそも、されて嫌でもないっていうのがまたなんとも…。

個人的に貞操観念はそれ程低くもないと思っていたけれど、なんだかこの子の前だと無防備になってしまう。

どこかで安心してしまうのか、年下だという思いが強いからなのか。

男だというのは記憶になくとも事実としてあるんだから、最低限の警戒心をもたなければ、とわかっているのに。良くない傾向だ。

 

「ひゃ!」

 

そう思った束の間。

今度は新が指をさすっていたはずの眉間に唇を寄せた。

チュ、というリップ音がなんだか妙に恥ずかしくて、私は自分でも頬が赤くなるのを感じてしまう。

 

「新!いいかげんになさい!!」

「…唇にしても赤くならなかったのに。変な深咲さん。でも今の反応のが可愛くて僕は好きだなぁ」

「キス魔かあんたは」

 

べし、とおでこを叩いて私は新からはなれた。

なぜかしら。

唇以外のところにキスをされた経験があまりない気がするからか、なんだか妙に恥ずかしかった。

愛情表現みたいなものをこうもストレートにぶつけられるのも、あまりない経験かもしれなくて、意識するとそれが異様に恥ずかしいことのように思えてしまって。まったく、中学生でもあるまいし、こんな事でどうすんのよ。

 

「着替えてくるわ」

 

一言いいのこして私は踵を返す。

後ろから新が寂しいから早く戻ってきてね、なんて言うから、私はまた顔を赤くしそうになってしまった。

なんなのかなあ、調子が狂うわね、なんだか。

 

…参るわ。

 

 

 

「へぇー、けっこう色々あるんだね」

「そうね、割と不自由はないと思う。スーパーもコンビニも近いし。あっちには飲み屋街もあるのよ」

「ふぅん…」

 

ガサガサと袋を持ちながら、散歩がてら帰り道を遠回りして歩く。

きょろきょろと辺りを見回す新が今何を思っているかはわからないけれど、なにかに興味を抱く心があるのならば、それこそ今は変な気を起こすことはないのだろう。

きっと、いちばん怖いのは無だから。

 

『…私みたいな大人にはならないほうがいいわねきっと』

 

ふ、と息を吐いて暗くなる頭をこれ以上働かせないようにした。

今は、晩御飯のメニューにでも思いを馳せたほうが幸せだろう。

 

「にしても、好きなものって見事に居酒屋メニューばっかだね、深咲さん。」

 

心を読むかのように隣に立つ新が笑う。

少しびっくりしたけれどなんとか冷静を保って返事をした。

…にしても、狙ったんなら怖いなこの子。本当、侮れない。

 

「うるさいわね、美味しいじゃないの。牛筋煮込みも軟骨の唐揚げも豆腐サラダもれっきとしたご飯のおかずよ」

「好きなものなに、って訊いたらそんなんばっかなんだもんなぁ。でも、和食のが好きっていうのはよーくわかったよ」

 

くすくす笑う新がなんとも気に入らない。

悪かったわね、酒飲みで。でも毎日のように晩酌してるわけじゃないわよ。

週末とかにはちょっと、けっこう、呑んだりはするけれど。

 

「だって洋食のメニューって重いのよ。油っこいからビールには合うけど…チーズが入ってるとすぐお腹がふくれちゃう」

「やっぱりお酒中心に考えてる。今日も呑むの?」

「今日はいいわ。二日酔いなのに迎い酒、なんて馬鹿な真似さすがにしないわよ」

「そう。じゃあ今日は胃に優しいものにしてあげるね」

 

にっこりと微笑む新がなんだかせつなくて、胸がきゅっと縮む気がどこかでした。

枯れた自分がどこぞの乙女のようにときめくなんて情けない。

なんだろう、優しさに飢えてるのかなあ…。

 

「でも、これからはあまりハメを外して呑まない方がいいんじゃないかなあ」

「え?なんでよ」

 

私の疑問に、新が先程の邪気のない笑顔とは、まったく違った種類の顔を向ける。

微笑んではいるけれど、それはどこか妖艶で、男のくせになんだか無駄に色気を感じてしまう。綺麗な顔ってこういう時嫌だ。

 

「さすがに、合意の上なら断れないからね。昨日だって誘ったのは深咲さん、あなたなんだからね?」

 

ふ、と息を吹きかけて耳元で囁く新に、情けない事に私は顔を赤くした。

すっかり気を良くした新が可愛いなどと笑って言うものだから、またまた私は真っ赤に染め上がる。ああもう、本当に調子が狂うわね。

 

「私から誘ったって…最悪。ありえないわ…!」

「またあんな風に迫られたらかわすのなんて無理だよ。その場合は僕しちゃったとしてもぜーったい出て行かないから。合意の時は例外ってことで、いい?」

 

にっこりと笑っている新。

気のせいかしら、うしろに真っ黒な尻尾のようなものが見えるのは。

ああ、天使のような顔をして悪魔のようにしたたか。

この子を好きに操縦するのはとてもじゃないけれど無理そうね。

まったく、とんだ拾い物をしちゃったものね。

 

「そうね、理不尽だものね。新の言うとおりでいいわ」

「良かった。さすがにそうじゃないと僕も辛い」

 

満面の笑みで微笑む新に、私は苦笑で返事をした。

家の前まで着いて、なんだかどっと疲れを感じる。

たいして歩いてないのに、運動不足かしらね。それとも精神的なものかしら。

…きっと両方ね。

 

「記憶を失くすまで呑むなんて初めての経験だったからさすがにもうないと思うけど。…でもこんなオバサンに迫られてその気になるなんて酔狂な子ね新も。鍵を開けるから、荷物もってて」

 

はい、と言って玄関先で新に荷物をあずけて、私は鍵を鞄から取り出す。

スーパーの袋を両手にもっている新は後ろでなにも言わない。

彼の性格的に今のツッコミはなにかしら言うだろうと思ったけれど、なにも言わないってことは自分でもそうかも、とか思ってんのかしらね。

まあ5歳の差って大きいしねぇ…。

自分で言うのもなんだけれど、そう誉められた身体でもないしなぁ。

佐倉が言うそこそこ、って言うのは一体どのラインなのかしら。

大体あいつだって私の裸をみたことあるわけでもないし。

…まあいいか。逆に魅力的なほうが新だって満々になるだろうし、不潔なのはさすがに嫌だけど、だらしない格好をみれば、変な気を起こす事もないでしょう。

 

ひとり結論付けて扉を開く。

新がそのまま私の横から玄関に足を踏み入れれば荷物を一端置いた。

私はそれに続いて扉と鍵を閉める。

 

振り向いた時、私は驚きで息を呑んだ。

だって目の前に新の顔があったから。

顔の横に両手をついて、扉と新が檻のように私を閉じ込める。

なぜだろう。ものすごく嫌な予感。

 

「…っん!」

 

どうやらそれは的中だったようで、気が付けば彼の唇がまた自分のそれに重なっていた。

随分と性急に、新の口が私の口を塞いでいく。

触れるようなかわいらしいものじゃない。

こんな深いキス、もう最後にしたのはいつだったろう。

 

さすがにまずいと思って、私は新の胸を押して抗議の意を示した。

けれどそれが気に入らないのか、新は私の両手をつかんで扉に押し付けてしまう。

ちょっと、いいかげんにしてよ。なんでこうなるのよ!

 

「ちょ…あら…!」

 

口を開いたのが間違いだった。

なんとか唇を固く閉ざして侵入を防いでいたのに、その隙にあっさりと舌を絡められてしまった。

舌を吸う音や、唾液が混ざるそれが異様にいやらしく感じて静かなこの家にはあるはずもなかった光景が酷く非現実的なものに思えた。

 

そうこうするうちに、調子にのった新の手が背中をすっと撫でていく。

ああ、もう。

 

いいかげんにしろ、という意味をこめて、今だ!私の口内をまさぐる新の舌を私は思い切り嚙んでやる。

すると痛みに顔を歪めた新が、やっと私から距離をとった。

 

「…たく。いきなり契約違反する気だったんじゃないでしょうね?」

 

ぎろり、と睨み付けると新は口元をおさえて左手だけをあげれば、ちょっと待って、というポーズをした。

どうやら痛くて喋れないらしい。自業自得だ。

 

「ごめんなさい、抵抗があまり感じられなくて調子に乗りました」

「今度から、私が少しでも嫌がる仕草をしたら終わりなさい、いいわね」

「…はい」

「さっさと食材冷蔵庫にしまうわよ。まったくスイッチがよくわかんない子ね」

 

靴を脱ぎ、買い物袋を持って私は台所へと進む。

新があとから私の鞄を持って追ってきた。

 

「深咲さんが悪いんだよ、あんなこと言うから。僕言ったじゃないか、色っぽかったし可愛かったって。全然信じてくれなかったの?傷付いたよ僕!」

 

冷蔵庫の前で袋を置けば、すぐ後ろに口を尖らせた新が立っていた。

というか、そこだったの。スイッチ。

私は額に手をやり、特大のため息をこぼした。

なんなのかな、私が悪いのかしら?

 

「それは気付かなかったわ。…ええと、つまり。あなたは少なからず私に魅力を感じてくれたということね?」

「だからー。少なからずどころじゃないってば!本当なら毎日抱きたいって思ってるくらい深咲さんは魅力的なの!」

「それは喜んでいいのか微妙な所ね。とりあえず、そうね。今後、そういうことは口にしないわ。ごめんなさい、それとありがとう新」

「本当に信じてくれてる?嬉しいと思ってくれる?」

「え?ええ、まあ。女としてそう悪い気はしないけれど。新って年上の女性が好みなの?」

「ん?別にそうじゃないけど。深咲さんだからだよ」

「あらあら、随分とすごい殺し文句だこと。じゃあ、冷蔵庫の整理よろしくね。私、着替えてくるわ」

「信じてないでしょ。…いいよ、これからゆっくりわからせてやるから」

「…はいはい」

 

手を振って私は自室へと戻った。

…なんというか、思った以上に手が早いわね。

面倒な事になったわ本当に。

これから先どうしたものかしら?

 

「深咲さーん、調味料はどこにしまったらいいのー?」

「はいはーい、今行くわちょっと待っててー」

 

呼び声に、私は慌てて台所へ走った。

 

 

そうして。

 

新が作ってくれた晩御飯は思いのほか美味しくて、

よりいっそう私が頭を抱え込んでしまったのは新には秘密。

もしも彼との同居がうまくいきすぎてしまったら

それはそれで問題なのよね。

ああ本当に、私は男に生まれたら良かったんだわ。

眠る直前に吐き出したため息は、私の部屋の空気をひどくにごらせた。



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