かむがたりうた 第廿弐章「サイカイ」




若草の芽が萌えるやうに、この日當りのよい芝生の上では、思想が後から後からと成長してくる。けれどもそれらの思想は、私にまで何の交渉があらうぞ。私はただ青空を眺めて居たい。あの蒼天の夢の中に溶けてしまふやうな、さういふ思想の幻想だけを育くみたいのだ。私自身の情緒の影で、なつかしい緑陰の夢をつくるやうな、それらの「情調ある思想」だけを語りたいのだ。空飛ぶ小鳥よ。



        萩原朔太郎「芝生の上で」



















「じゃぁ、本当にいいんだな」

「はい」

「何度も言うけど、行ける保障はないし戻ってこられる保障もないんだぜ」

「分かっています」

 人気のない公園で退院したばかりのナヲと安はお互いを確認し合っていた。

「それじゃ、行ってきます」

「ああ」

「『神界へ』」

 言うと安の姿はかき消えた。















 辿り着いた先で、安は雪原を思った。ただひたすら一面に真っ白な場所。

 一つだけ違うのはそこにそびえ立つ巨大な扉。何十メートルくらいあるのだろう。錆びた青銅の扉は堅く閉じられている

「『開け』」

「そんなことでは開きませんよ」

「誰…!」

 その見慣れない短い髪に安は思わず叫びそうになった。

「…伊邪…いや…深琴さん……」

 にっこりと微笑んだのは深緑のワンピースをまとった太榎深琴だった。長かった黒髪はバッサリと切られて自分のと同じ茶色をしている。

「その扉は祈りの門。願いを言った能力者のみが通れるのです。あなたの居場所はこちらに……」

 真っ白な空間を扉とは逆方向に歩き出した。















 時々すれ違う小さな生き物の姿には見覚えがあった。

「シロ…ちゃん…いや、あれは家にあった…」

「覚えてらっしゃいましたか」

 深琴が懐から取り出したのは小さな丸いマスコット。すぐそこで雑草を抜いている丸い物体とそっくりだった。

「それ……引越の時にハルが見つけた…」

「お母様が作ってくださったんです。恐らくあれを模して…架織も持っています。私達三人が兄弟だという唯一無二の証拠です」

「灯流が描いてたのにも似てる…」

「ご明察です。あれは時実の先祖が描いて、この村落の雑用をするように送り込んだのです。きっと灯流さんはその絵を見て真似されたのでしょうね」

 穏やかな深琴の顔を見て安は目を丸くした。

「どうかされましたか?」

「深琴さん…」

 安は目を閉じ、拳を振り上げた。

  バシイッ

 頬を拳で殴られ、深琴は倒れ込む。

「恨まないでくださいね。どうしても腹の虫が治まらないんです。よくあなたがいけしゃあしゃあと俺の前に顔を出せますね」

 深琴はゆっくりと立ち上がり頭を下げた。

「ええ。分かっています。言い訳はいたしません。私はあなたを騙しておりました。申し訳ありません」

「姉とはいえ、女性に手を上げるのは感心しませんね」

 後ろから声がした。

「トネ!」

「都音じゃないですよ。ここでは『太榎架織』です」

 安は考える間もなく架織の胸ぐらをつかんだ。

「フザけたこと言ってんじゃねぇ!お前の母親がどれだけ苦しんでるか分かってんのかよ!」

「やれやれ、せっかく兄弟三人が揃ったのに、さっそく諍いですか?」

 首を振り、架織は小声で『放してください』と呟いた。力をこめていたはずの安の左腕がポロリと放れる。

「…反則だよな、この技…」

 大きくため息をついた。

「でも…俺はあきらめない。自分の役目を知ったから」

「それって……誰に?」

 深琴が声をあげた。

「加奈叔母さんから全部聞いた。だから俺は進まなきゃならないんだよ。誰が何人死のうとな」

 架織も唖然とした様子だった。

「隙あり!」

 言うと安は素早く架織の頬に右ストレートを決めた。架織は数メートル先まで飛ばされ倒れ込んだ。

「痛っ……」

「俺が時実の家でデスクワークと言霊の扱いしか習ってなかったと思ったか?」

 それでも痛む拳を振りながら安は得意げに言った。

「でもお前のしたことはこんなことくらいじゃ、とてもじゃないと許せない」

「…何がほしいの?」

「ハル」

 深琴の問いに簡潔に答える。

「ハルを返せ」

「伊邪那美を…?」

「伊邪那美じゃない。ハルはハルだ。天川遥歌を返せ」

「仕方ありません…架織、案内して差し上げましょう。ただひとつだけ言っておきます」

 深琴の言葉を架織が継いだ。

「僕たちが知ってるのは天川遥歌の半分だけです。もう半分は一部の能力者しか知りません。それでよければ…」

「半分…?」

 安は眉をひそめた。















 また真っ白な空間を歩き始めた。

「深琴さんがあの扉の向こうに願いを言った能力者がいるって言ってたけどそれならまだ願いを言ってない能力者はここにいるってことだよな?」

「ええこの周辺に散り散りに。あまりに広いのでお互いに会うことは滅多にありませんが」

 見えてきたのは地面と同じ白い円柱の塔のような建物だった。窓はない。架織は入り口で鍵を開けるのに手間取っていた。

「もう『扉の中』に行ったんですが、先日まで鍵を開ける能力を持った人がこの近くにいましてね。願いはなんだったかなぁ…そうだ『親友が想い人と結ばれるように』でした。でも入られないようにあれこれしていたら、僕も入れなくなって…」

 言いながらも錠前をやっとのことで開けた。















 両開きの重い扉を開けると、架織は手で中に入るように促した。そこに広がったのは本棚のそびえ立つ部屋。壁沿いが螺旋階段になっていて、その壁面にさまざまな本が所狭しと天井に着くまで並んでいた。

「ここが僕の理想郷です」

 架織はどこか得意げに言った。

「世界中の本が集められた、僕だけのアーケイディアです」

「こちらへ」

 深琴が本棚の奥に隠れた扉に手を向けた。安が恐る恐るその扉を開く。

 そこにいたのは

「ハル!」

 本棚だらけの部屋の中心で椅子に座ってうつむいた遥歌の姿。返事はない。

「ハル!ハル!」

 安が肩を揺するとぐったりと椅子ごと倒れこんだ。

「ハル!」

 安は深琴と架織を睨むと二人は静かに首を振った。

「ここにいるのは僕が病院から盗んで来た『身体』です。心は……魂はどこにあるか本当に知らないんです。一部の能力者がかくまっているとしか思えません」

「じゃぁ、それを探せば、ハルは、ハルは生き返るんだな…!」

「ええ、言霊を使えば可能なはずです。ですが…」

「『お勧めできません』ってことだろ?分かってる。俺だってハルの意志を無視して生き返らせたりしない」

 言うと、ハルの『身体』を元に戻し、深琴と架織の方へ向き直った。

「ああ、そうだ、安さん。本はどこに?」

「え?ここに…」

 安は『古事記』を取り出した。

「それを渡してもらえませんか?あなたにはもう用はないものでしょう」

「今度は何を企んでる?」

「何も。ただ三冊揃えておくべきなんですよ、それは」

 架織の言葉に逆らう理由も見つからず、渋々本を渡すと建物を後にした。















「比呂乃!よかった!やっぱり運がいい!」

 比呂乃が家の扉を開けた、そこに立っていたのは巴だった。

「巴君……あなたまで『こちら側』に…私は生き返りも生まれ変わりもしないわよ」

「分かってる。相談があるんだ」

「相談?」

「一緒にナヲを……殺さないか?」















 ここに来てからどのくらい経っただろう。昼も夜も空腹や渇きさえもない世界で栄は誰に会うでもなく歩き続けていた。いつ狂うとも知れない何もない空間。

「よう」

 初めて聞こえた声に救いすら感じた。たとえそれが敵意を強く帯びたものだとしても。ゆっくりと振り返る、と同時に後ろに飛び退いた。

「チッ」

 そこに立っていたのは杜叶だった(こいつに私の能力は通じなかったはず……)栄はとっさに手袋を外し、懐からナイフを取り出す。杜叶の右手が刀の形に変わる。

  ジャキン

 刃の擦れる音。

「貴様……何故私を狙う?」

 後ろに飛んで、杜叶は目を細めた。

「……姿が違うから仕方ないのか……?」

 静かに立ち上がり、顔を上げる。そして栄が避ける間もなく、強く抱きしめた。

「まさか……」

「そう」

 ニヤリと笑った瞬間、杜叶の身体が刃と化し栄の全身から血が吹き出す。

「死なねー……いや、死ねねーだろ?もう死んでるんだからな」

「きさ……ま……」

「気づいたか?」

 栄はバタリと倒れ込む。

「貴様…まさか…?」

「そのまさかだよ。俺の望みは『姿と能力を十拳剣から譲り受けて、人界に戻ること』栄、お前を殺しにな」

 髪をかきあげた。

 その瞳だけは同じだった。

 誰よりも

「…………雪…」

 誰よりも会いたかったその少年に。















「巴君」

 比呂乃が口を開いた。

「そんなことしなくても、大丈夫よ」

 全てを見尽くしたように微笑む

「ナヲさんはこちらに来るから」

 凪いだ世界にそのささやきは響いた。

「何でそんなこと…?」

「そうね、教えてあげる。架織さんに全部聞いたから…ナヲさんも知らないこと。ナヲさんのお母さんの旧姓は『綾瀬川』…綾瀬川楓」

「!」

 巴は目を見開く。

「聞かせて。巴君の昔の本当の名前は?」

「…あ…綾瀬川紅葉…」

 始まりを

 悪夢の始まりを示す鐘は鳴り響いた。















「栄クンたち大丈夫かなぁ」

 ようやく警察から解放された神社の境内で爪を噛んで、砂城が何度も行ったり来たりしていた。

「大丈夫やろ、絶対に伊邪那美様…あ、違うのか、でもみんな連れて帰ってくるよ」

 縁側で西夜が笑う。

 鳥居を人がくぐった気配がした。

「誰やろ、また警察の人やろか?」

 言って砂城を置いて走り出す。砂城はあえてそれを追おうとはしなかったが、次の瞬間聞こえた声に目を見開いた。

「東子!」

 袴姿の小柄な少女が待ち構えていたかのように立っていた。















「君は…」

 背後からかけられた声に琉真はビクリと肩をふるわせた。あづみの住んでいた屋敷の庭。振り返った先にいたのは月子だった。

「君は行かなくてもよかったのかい?」

「と…稲荷さん。びっくりしましたよ」

「こんなところにいるってことは筑波あづみちゃんを待ってるんだろ?そんな調子で大丈夫かい?」

「だ、大丈夫ですよ!」

 強がる琉真の頭をポンポンと叩く。

「怖いなら逃げてもいいんだよ。君ほど頭がよかったら、一生逃げおおせる方法くらい思いつくだろう?」

「…そんなことできないの分かってるでしょう?」

「まぁね。どちらにしろ、もう逃げられないみたいだ」

「え?」

「ご明察」

 月子は素早く右手に持っていた折り畳み型の薙刀を組み立てる。

 門の方を振り返る。

 そこに立っていたのは館風桔梗と筑波あづみだった。

 月子は桔梗の肩に向かって薙刀を振り下ろした。一歩後ずさりしたせいで門が半分開いた。

「琉真君!逃げろ!時実神社だ!神社に行け!西夜君が今は一番の力を持ってる!」

「で…でも」

「いいから!」

 月子の言葉に琉真は頷いた。

 あづみと桔梗の間をぬって走り出す。

「筑波、追ってくれ」

「かしこまりました」

 あづみは踵を返す。

「さて、これで二人っきりか」

「今の桔梗と二人っきりってのは、凄まじく怖いんだけどな」

 月子と桔梗は対峙した。















「行かなきゃ……」

「え?」

 比呂乃がゆっくりと立ち上がった。巴が目を見開く。

「どこに?」

「ちょっと、はるちゃんの望みを叶えに。巴くんはどうするの?」

「ナヲを待つ。何年でも何十年でも」

 比呂乃は巴の頭をゆっくりと撫でた。

「大丈夫よ。そんなに待たなくても」

「え?」

「それじゃ、行ってくるわね。帰ってきたら教えてあげる、全てを…」















(ハル……)

 安はただただ何もない空間を歩き続けていた。失くした遥歌の『中身』を探すために。

「ちくしょう…どれだけ広いんだよ、ここ…」

 汗を拭う安の目線の先に不意に人影が現れた。

「え…弓さん…?」

 自分の数メートル前に突然姿を見せた少女は、ゆっくりと微笑んだ。その姿は明らかに比呂乃のものだったが、笑顔は大人しく気弱な彼女のものではなかった。よく見慣れた、どこか皮肉げな笑い方。

「久しぶり『安』」

 安は我と我が目を疑った。

「……ハ…ハル…?」















「池条さん!」

「お前は…ミラの…」

 仕事帰りのナヲをマンションの部屋の前で待ち構えていたのは泉原智樹だった。手には四、五冊の分厚い本が積み上げられている。

「これ、どういうことなんですか?姉の部屋で日記帳ってこれしか見当たらなかったんですが、この太榎って…安と安のお父さんですよね?」

「ああ」

 簡潔な答え。

「姉の作り話とか小説とかじゃ…でもそれにしては話が合いすぎるんです」

「ああ、全部事実だ。古事記のことも太榎のことも…。とにかくその荷物じゃ辛いだろ?中に入れよ」

 扉を開け智樹を通す。

 一人暮らしにしてはかなり広いリビングのソファに智樹は腰かけ、ナヲはコーヒーメーカーに粉と水を入れた。

 しばらくの沈黙の後、智樹の方が先に口を開いた。

「この…『栄』ってのは旗右先輩なんですか?」

「そうだ」

「じゃあ、旗右先輩が行方不明なのって…」

「ミラと同じだ…いや、事情は少し違うがな」

 辺りにコーヒーの匂いが漂ってきた。ナヲはキッチンに向かう。沸きたてのコーヒーに氷を入れ、センスのいいグラスに注ぐ。

「砂糖とミルクは?」

「あ…砂糖だけ少しお願いします」

 テーブルの上に置かれた本の山を智樹は眉間にしわ寄せて見つめていた。脇にブルーのグラスが置かれてた。

「ありがとうございます」

 軽く頭を下げ、コーヒーに口をつける。喉が渇いていたのか、智樹は一気に飲み干した。

「それで…何から話そうか」

「……姉さんのことを教えてもらえますか?」

「そうだな…突拍子もないやつだったよ…初めて会ったときも…」

 その言葉を待たずに、智樹は視界がボヤけるのに気づいた。頭が、いや脳内がグラつく。

「いけ…じょ…さん」

「ヤバい薬だって話だったが、即効性だってのはマジみたいだな」

 空になった粉薬の袋をつまみ、ニヤリと笑う。智樹はソファに倒れ込んだ。















「ハルだよね…」

「よかった。分かってくれた。そう。これがあたしの『望み』。旗右先輩が死んだ今、あたしの体には触れないから、ひろちゃん…弓さんにお願いしたの」

 比呂乃の姿をした『遥歌』は安の肩に手を回した。

「最後に安に会って言いたかったんだ」

 満面の笑顔に一筋の涙が伝う。

「あたし…『天川遥歌』は…」

 遥歌は背伸びをして安に軽く口づけた。

「太榎安が大好きでした」

 安は目を丸くする。

「きっと…ずっと…気づいたら好きになってた」

 呆然とする安に向かって、えへへ、と笑う。

「やっと言えた」

 満足げに首を傾げると比呂乃の、遥歌の、その姿が薄れていった。

「…ハル…?」

「じゃあね、バイバイ」

 言うと同時にその姿は完全に掻き消えた。

「ハル!」

 安の目から大粒の涙が零れ落ちる。

「…そんな…そんなことのために…」

 涙を拭おうともせずに安は呟いた。

「そんなこと……」

 雫は地面に落ちては消える。

「とっくに知ってたのに…」















(西夜…)



 茶碗が食卓からこぼれ落ちる。ガッシャーンと音をたてて陶器は割れた。

「もう、どうしたのよ、灯流!」

 母親が慌てて破片を拾い集めた。

「オカン、ウチ今から出かけてくる」

「え?ちょっと!ご飯は?」

「それどこやあらへん!」

 慌てて上着を部屋から取ってくると駆け出した。

「灯流!どこに!」

「東京!西夜のとこや!」















「きゃあ!」

 砂城は後ろから襟首をつかまれ神社の石段を転げ落ちた。

「砂城ちゃん!」

 そして現れたのは…

「須佐之…男」

 東子の横に背の高い男性が並び立つ。

「東子!なんで……なんで『そっち側』に行ったんや?」

「あなたがそれを尋ねますか?」

 十数年間も少年の前では固く閉ざされていた唇が流暢に言葉を紡ぎだした。

「だって…ウチは忘れへん!東子に初めて…いや、二度目に会った時のことを!」















 それは十四年前のこと。

 東子の二歳の誕生日祝いの日だっただろうか。京都の広大な水吹の本家で宴席の上座にまだ幼い東子が晴れ着姿で座っていた。宴も酣となった頃だろうか。主役の東子の姿がないのに気づいたのは。大人たちは一斉に別室に、庭に、散り散りに探し始めた。

「東子様!」

 最初に見つけたのは親戚の男だった。そこは大きな正門の前。目を見開いたのはその光景だった。ボロボロになった産着姿で毛布に包まれて門の麓にいる赤ん坊の首を、力いっぱい両手で押さえつけていたのだから。

「お、おやめください!東子さま!」

 子供の力とは思えないその手を力いっぱいはがしたその拍子に、道にトラックが通ってきた。そこで親戚の男は重症を、東子は命を落とした。

 だが、残されたその新生児を見て水吹の者は皆、目を見張った。泣き叫ぶその子を護るように周りを囲む野良犬。

「これは…天照大神のお力…」

「普通の家の者が育てあぐね、我が家に置いていったのだろう。しかしこれほど大きな力が手に入るとは……」

 一同はざわめき、しかしその新生児を育てることにした。

 東子を亡くした悲しみ以上に手に入れた力の大きさに喜びながら。西夜にその時つけられた首の痣は一生残ることになったが…。











 西夜が水吹の家で神の子として大切に育てられて三年。

 三歳の誕生日の宴席だった。宴を始めようとしたその時、輪の中心にふわりと精霊のように舞い降りた少女。誰もが目を見張ったのはその姿。成長するでもない、新しく生まれ変わるでもない、服装まで二歳の誕生日そのままの姿で皆の前に降り立ったのだから。ただ一つ、変わったことがあるとすれば口が利けなくなっていたことだけ。

「と…東子様!」

「お許しを!東子様!」

 大人たちが後ずさる中、東子は凛とした目で西夜を見つめる。そして一筋の涙を流した。それが二人の未来を暗示しての『預言』だと西夜と東子だけが知っていた。そうして西夜と東子は出会った。……いや『再会』した。







 しばらくの後、いったん死亡届が出され普通の生活が送れない東子は東京の親戚に預けられ、西夜は京都に残された。しかし西夜は忘れなかった。あの日、あの夜に少女が流した一筋の涙の美しさを。















「東子……」

「私があなたに言えることはただひとつ。須佐之男の術を解いて差し上げてください」

「術?」

「あなたが神であった頃、彼にかけた術……いえ、呪いを」

「ウチが…呪い…?」

「まだ思い出さないのですか?永遠に神界に帰れない呪いを」

「そんなの…知らない…」





  ガッ





 初めて須佐之男が動いた。右足で西夜の鳩尾を蹴り上げる。

「記憶に留める程度ことですらなかったというのか?私の能力を取り上げ神界から追放したことが…お前には記憶にさえないのか?そのせいで何千年もの間この姿でさ迷い歩いたというのに…」

「ウチは…何も…」

「それが、古事記の『須佐之男追放』の真実ですか?」

 石段を上ってきたのは琉真だった。

「また余計な邪魔が…」

 須佐之男が手を一振りすると大剣が現れた。

「邪魔者は…」

「だめ!須佐之男!」

 琉真に切りかかった須佐之男の剣は止めに入った東子の肩から腹を切り裂いた。

「な!」

 倒れる東子以外全員が声を上げる。

 琉真がその上半身を抱き上げる。

「どうして…どうして…?」

「月…読…?…」

「須佐之男は嫌いだもんね。人を殺すの…。私は大丈夫だよ」

 言って琉真の方を見た。琉真も静かに頷く。

「う…うん、大丈夫です…大丈夫ですよ。東子さん」

「先に行って待ってるね。須佐之男……天照…いや……西夜お兄ちゃん」

「月…読……何故?」

「てめぇ…須佐之男……」

 言って須佐之男に向かい手を挙げた。

「この手だけは使いたくなかったんやけど…」

「う…」

 須佐之男の動きが止まった。

「動けない…?」

「ウチの能力が動物限定やと思とった?植物にでも人間にでも効くんやで」

 踵を返し、琉真の腕に抱かれた東子に駆け寄る。

「東子!」

「こんな形じゃなくて…」

 東子は笑って言った。

「もっと普通にいっぱい話したかったな…月読は須佐之男を愛してたけど、水吹東子は…」

「……う…う…」

 パタンと手が地面に落ちる。

「東子!東子!」

 西夜の声がこだまする。

 しばし叫びをあげた後、静かに西夜は立ち上がった。

「須佐之男…一つ聞きたい事がある……『呪い』とはどうやったら解けるんや?」

「お前が私を殺し、お前も死にお前が死後生き返らないようにする。それだけだ」

「なんや…」

 動けない須佐之男の右手から太刀を奪い取る。そして両手で心臓を確実に貫いた。

「う…あ……」

 須佐之男の最後の顔は安らかな、たった一つの千年来の願いが叶った表情だった。両目から涙がこぼれ落ちる。

「悪かったな…須佐之男。次はウチの番や」

 琉真が止めるよりも先に、ナイフで首をかっ切る。さもそれが当然であるかのように。

「最初からウチが死ねばよかったんやな…そうすれば東子も須佐之男も…」

 絶え絶えになった息で西夜は頭一つ分背の高い須佐之男の体を抱きしめる。

「須佐之男と一緒に死んで…死んで…もう生き返らないって言えばよかったんやな…ごめんな…ごめん…ウチも東子のところに行くよ」

「待って!西夜さん!」

 西夜は琉真の言葉を聞く前に事切れていた。















 目を閉じたとき、不意に頭をよぎったのは

「海…どこの海だ?みんなで行ったような…あんな凪いだ海じゃなかった。もっと寒くて…冷たくて……」

 でなければあんなに笑えない。

「どこだ…僕が捨てられたのは……?」















それは遠い遠い昔の話。

でもほんの先日の話。

フィルムカットしたような断片的な記憶。

辿ることなど許されないほどに細かく切り取られた記憶。











『……こんな子…気持ち悪い』

寒い日だった。

絶壁の淵から投げ捨てられた海。



コメント

タイトルとURLをコピーしました