かむがたりうた Another第弐章「サボテン」




魚がこんどはそこら中の黄金の光をまるつきりくちやくちやにしておまけに自分は鉄いろに変に底びかりして、又上流の方へのぼりました。
『お魚はなぜあゝ行つたり来たりするの。』
 弟の蟹がまぶしさうに眼を動かしながらたづねました。
『何か悪いことをしてるんだよとつてるんだよ。』
『とつてるの。』
『うん。』
そのお魚がまた上流から戻つて来ました。今度はゆつくり落ちついて、ひれも尾も動かさずたゞ水にだけ流されながらお口を環のやうに円くしてやつて来ました。その影は黒くしづかに底の光の網の上をすべりました。
『お魚は……。』
その時です。俄に天井に白い泡がたつて、青びかりのまるでぎらぎらする鉄砲弾のやうなものが、いきなり飛込んで来ました。

        宮沢賢治「やまなし」









 その店は駅前通りから一本道を外れたところにあった。
 高校への通学路で、三年間毎日のように通ったが入ることは一度もなかった。単に入る必要がなかっただけなのだが。
 古ぼけた石が組まれた外壁。通りに面しているただ一つの窓は、店にしては小さく中の様子は伺えない。が、いつも季節ごとの花が飾ってあった。少し黒ずんだ木の扉には古い鍵の形をしたプレートがかけてあるだけ。
 マンションやスーパーに囲まれながらもそこだけ時が止まったような。普通の家ほどの大きさもない小さな店を私はずいぶん長い間雑貨屋かアンティークショップだと思い込んでいた。
 いつだったか、店員らしき人が入り口の前で掃除をしているのに出会ったことがある。温和で優しそうな若い男の人。通りすがりに、ここは何の店なのか尋ねると彼は笑って答えた。よくアンティークショップと間違われるのですけどね、と言いながら。その笑顔があまりに綺麗で、穏やかで、ずっと頭から離れなかった。
「鍵屋です。鍵をなくしたらいつでもいらしてください。どんな鍵でもお開けします」







「ひーま、ひーま、ひーまー」
 青年は調子っぱずれな歌を歌いながら、机に顔を沈ませた。
「自業自得。営業努力が足りないんだよ」
 店内には古い木でできた机と椅子が三脚、本棚が二つ。どれもアンティーク調の細かな彫刻がなされている。
 そして青年が二人。
「だって、嫌いなんですよ。そういうの」
 言って色素の薄い髪をかきまわした。
 比較的低い背と華奢な体。皺の寄った白いワイシャツにスラックスという出で立ち。日本人離れした白い肌と穏やかな表情。眼鏡の奥で細い目が困ったように笑った。
「じゃぁ、文句言うな」
 もう一人が吐き捨てた。
 Tシャツにジーンズ姿が似合うすらりと高い背。対照的な切れ長の瞳が本棚の本を物色している。長めの黒髪。長い指が厚い本を取り出すと、椅子にストン、と腰を落とした。
 それとほとんど同時に軋む音をたててゆっくり扉が開く。二人が顔をあげる。
「ほら、お望みのお客さんだ」
 恐る恐る、という様子で顔をのぞかせたのは彼らよりもう少し年下、といったくらいの少女だった。
「あの…開けてほしい鍵があるんですけど」
 机の上で手をばたつかせていた青年が立ち上がる。
「いらっしゃいませ」
 満面の笑顔に彼女は軽く頭を下げた。







「バイオリンケース?」
「やっぱり家の鍵とかじゃなきゃ無理なんですか?」
 首元までの髪をかきあげ、少女は尋ねる。
「いえ、できますよ。ただちょっと珍しいと思って」
 椅子に向い合せに座る彼女の顔と黒い皮張りのケースを交互に見比べる。
「よかった。大事なものなんですが、鍵をなくしちゃったみたいで…」
「大丈夫ですよ」
 ノンフレームの眼鏡を中指で軽く押さえ、青年は微笑んだ。優しい口調に胸をなで下ろす。
「申し遅れましたが、僕はここの店長の空って言います」
「ソラ?」
「ええ、そうです。でもってそこでさっきからフラフラしてる愛想悪いのがバイトの中瀬」
「愛想悪くて悪かったな」
 中瀬、と呼ばれた青年が初めて不機嫌そうに口を開いた。
「あ、私、高梨です。高梨美由紀(たかなしみゆき)」
 空は笑顔を崩さずに、バイオリンケースを片手で持ち上げる。
「それじゃ、高梨さん。ちょっと待っててくださいね」
「え、そんなに早くできるものなんですか?」
 尋ねる美由紀に、穏やかな笑顔を返す
「ええ、あっという間に」
 そして彼は店の奥の扉から別の部屋に入って行った。







「ほい」
 空が奥に入るのを待つように、どこからともなく中瀬がコーヒーを差し出した。
「あ、ありがとうございます」
 美由紀は頭を下げる。それには目も落とさず、中瀬は自分の分のコーヒーカップを口に運ぶ。彼は何も言わなかったが、どこか遠くを見つめ本棚に背中を預けるスラリとした姿がまるでファッション雑誌のグラビアのようで美由紀は思わず瞳を止めた。
「何?」
 その視線が気になったのだろう、眉をひそめ中瀬が振り返る。
「いえっ!何でもないです!」
 美由紀は慌てて目を伏せた。
 気まずい沈黙が流れ、重い時間が漂う。
 しかし、程なくして空が戻って来た。
「お待たせしてすみません」
 言うが、五分も経っていないだろう
「こ…こんなに早く開くものなんですか?」
 一時間は待たされる覚悟をしていた美由紀は思わず立ち上がる。
「ええ、まあ」
 変わらない笑顔で彼は両手で抱えたバイオリンケースを丁寧に机の上に置いた。美由紀がその蓋を持つと、先ほどまで固く閉じていたそれがいとも簡単に開く。もともと鍵などついていなかったかのように。
「これでいいですか?」
 何度も頷く美由紀に空は満足げに笑う。
「本当に…開くんですね」
「もちろん。僕は鍵屋ですから」
 目が穏やかに細められる。
「やり方は企業秘密ですけどね」
 そして悪戯っぽく人さし指を唇に当てる。美由紀の顔もほころぶ。嬉しそうにケースの中身を確認した。
「合鍵はここでは作ってないんで、ケースは買い替えてもらうしかないかも知れないけど」
「いえ、開いただけで十分です。これ祖父からもらったものだったんで…」
「イタリア製か…。Palotta Pietroの一八二〇年代もの」
 横から低い声で口を挟んだのは中瀬だった。美由紀は思わず振り返る。
「慌てるわけだ。四百万くらいのものだな。違うか?」
「…詳しいんですね」
「別に」
「中瀬ね、昔っから音楽好きで今はストリートのギター弾きやってるんですよ」
「空…ってめ、余計なこと言ってんじゃねーよ!」
 中瀬に胸ぐらをつかまれながらも笑顔で空は続ける。
「中央通りでいつもやってるんでよかったら…」
 空の頭に拳骨が落ちる。
「来るな」
 そのやりとりに美由紀は口を押さえて笑い出した。
「行きます」
「…おい」
「予備校の帰りにいつも中央通りは通るんで」





 天気のいい日だった。通りに面したただ一つの窓の向こうでは葉桜が風に揺れ、出窓に置かれた花瓶には大きな藤が一房差してあった。







「こんばんは」
「…マジで来るか?」
 その翌日、夕暮れ時を少し過ぎた時刻のことだった。中央通りの鋪道に座り込んでギターのチューニングをしている青年。美由紀は自転車を止めた。
「来たんじゃないですよ、通ったんです」
 中瀬はあからさまに迷惑そうな顔をしながら、ちらりとその姿に目をやる。
「予備校ってことは高三?」
「いえ、浪人中です。音大の」
「それでバイオリンか」
 肩に斜にかけたバイオリンケースを指差した。
「中瀬さんはバイオリンは弾かれないんですか?」
「俺は知識だけ」
「はあ…」
 チューニングが終わったようで、ギターを軽く構えた。
「さて、と営業妨害やめてくれる?」
 暗に「どけ」という意味の言葉を呟いた。美由紀はほんの少し戸惑ってから中瀬のギターケースに五百円玉を置く。
「?」
「これで私はお客ってことで…ダメですか?」
 上目遣いに尋ねる美由紀に眉をひそめる。
「変なやつ」
「よく言われます」
 軽く息をつくと、中瀬は諦めたのかアコースティックギターを鳴らし始めた。
「リクエストは?」
「バッハのバイオリン協奏曲イ短調第一楽章」
「…消えろ」
「冗談ですよ。中瀬さんのお好きな曲で」
 ぶつぶつと文句を言いながら中瀬はギターコードを確認する。薄い唇が、すぅっと息を吸い込んだ。
 次の瞬間
 美由紀は目を見開いた。
 彼が歌い始めたのは数年前に流行ったバラード。
 低く不満を洩らすだけだった中瀬の声がその瞬間一変する。
 これまで聞いたこともないような澄んだ声。
 体を震わせる声量。
 空をも突き抜けるように。
 地に沈むように。
 深く波打つ声。
 あまりにも底知れない強さを簡単に歌い上げてしまう。
 人並み以上にはいろいろな歌を聞いて来たが、こんな声は初めてだった。数分間の曲が終わっても、現実に戻るまでずいぶんと時間がかかった。
「どうしてあなたみたいな人がストリートなんてやってるの」
 ポツリと尋ねた美由紀に中瀬は口の端だけで笑った。その声は今までの皮肉屋の声になっていた。
「この方が性に合ってるから」







 次の日から中瀬は中央通りから姿を消した。拠点を移したのだろうか。
 一週間ほど見当たらなかったので、美由紀は「鍵屋」まで足を運んでみた。店の少し手前で自転車を止めると、ちょうど店の扉が開いた。
 出て来たのは空と一人の中年の男性。高そうな黒い背広を着、書類鞄をたずさえた男に空が深々と頭を下げ見送っていた。踵を返し店に入ろうとした時に初めて美由紀の姿に気付く。
「あ、この間の…。こんにちは」
 明るく笑う空に美由紀はペコリ、と頭を下げた。







 店内に高い笑い声が響く。
「そっかぁ、いきなり中瀬が場所変えるって言ったから何があったのかと思ってたんですよ」
「私嫌われてるみたいです」
 舌を出す美由紀に椅子を勧めた。
「いやいや、中瀬はいっつもあんな感じですよ。もうすぐ戻ってくるんで、お茶でもいかがです?」
「でも…」
「どうせウチの店は年中閑古鳥が鳴いてるんです。せっかくですから僕の暇つぶしでもしてやってくれませんか?」
 返事も待たずにティーポットを奥から持ってくる。美由紀は笑って古びた椅子に腰を下ろした。
「新しいバイオリンケースは見つかりましたか?」
 紅茶葉をスプーンで入れながら空が話題をふる。
「いえ。探したんですけどいいのがないんで今は鍵つけないで使ってます。今度楽器屋さんで注文しようかと思ってて」
「そう、やっぱりああいうのにも善し悪しってあるんですかね。僕には全然分らないんですけど」
「善し悪しって言うか…好みですね」
 ほのかに青みがかったティーカップをテーブルの上に差し出した。中では透けるような赤色の紅茶の水面が微かに揺れる。カップに静かに口をつけた。
「バイオリンはおじいさんのものでしたっけ?音楽一家とか?」
「いえ、父は公務員で母は専業主婦です。祖父が趣味でやっていただけで」
「でもいいですね。そういう特技があるのって」
「中瀬さん見たらちょっと自信なくしそうですが…あんなすごい力持っててストリートで満足して…ちゃんとしたスタジオで歌えばどんなにいいか…」
「ええ、僕、中瀬のこともうらやましいんですよ」
 首を傾げて微笑み、眼鏡の位置を少し直した。
「鍵開けるのって…特技じゃないんですか?」
「う〜ん、何か嫌でしょう、そういう泥棒みたいな特技って」
 彼の言葉に美由紀は吹き出す。
「…確かに…。でも私はすごいと思いますよ。人には絶対に出来ないことじゃないですか」
「…そう言っていただけると、嬉しいですよ」
 空は静かに笑った。それに合わせたように店のカウベルが鳴る。扉を開けて入って来たのは中瀬だった。
「おかえりなさい。お客さんが来てますよ」
 彼は美由紀の姿を見て遠慮なく顔をしかめる。
「そういう態度取らないで」
「どうも」
 会釈する美由紀に中瀬は額を押さえる。
「何しに来た?」
「もう一度、あなたの歌を聞きたいと思って」
「断る」
「いいじゃないですか、別に」
 空が言葉を挟んだ。
「めんどい」
「すみませんねぇ、高梨さん。こういう奴で」
「いえいえ、分かってはいたことなんですけどね」
 美由紀は軽く笑った。







 結局その日は陽が低くなるまで空と他愛もない話を繰り返し、店を後にすることになった。店の前に止めていた自転車のかごに鞄を放り込んで初めてそれに気付いた。
「あれ…」
 美由紀は慌ててポケットを探る。
「どうしました?」
「鍵が…ない」
 空は、え、と声を洩らした。
「鍵はかけてました?」
「…かけてなかったかも…」
「悪質な悪戯ですね」
 屈んで自転車のリングにキーが挿されてないことを確認する。
「鍵だけ盗んで行くの。最近この辺で多いんですよ。本体が取られなくてよかった」
「…鍵屋の前で鍵を盗むバカもいれば、鍵屋の前で鍵をかけ忘れるバカもいる」
 いつからそこにいたのだろう、空のすぐ後ろで中瀬がその様子を眺めていた。
 頭を抱える美由紀の肩をポンポン、と空が軽く叩いた。
「すぐ開けますから」
 空は膝を落とす。口元に人さし指を当てて笑う。
「本当は企業秘密なんですよ」
「おい!こんなところで能力ご披露するつもりかよ?」
 中瀬がわずかに声を荒げた。きょとんとする美由紀には構わず彼は続ける。
「お前はいつもそうやってホイホイ人に教えるから…」
「大丈夫ですよ」
 言葉を遮り空は頭をかくと、キーリングに手を伸ばした。美由紀は目を見張った。
 それは一瞬の出来事だった。
 空の細い指が錠に触れた。
 ただそれだけだった。
 ただそれだけで
 ガチャ、という音を弾ませロックが外れる。
 空が鍵を持っていたか、または空自身が鍵であるように。
「…うそ…」
 信じられない、と言ったふうに立ち尽くす美由紀に空は振り返って何でもないようにいつもの笑顔を見せた。
「開きましたよ」
「何…今の?」
 手品でも見せられているような気分だった。
「なんて言うんですかねぇ。超能力…っていうほど大したものでもないですしねぇ」
 困ったように首をかしげる。
「十分変な超能力だろ?」
 中瀬が冷めた声で言う。
「超能力?」
 突拍子もない言葉に美由紀は眉をひそめた。
「だから、そんなにすごいものじゃないですよ。ただ鍵を開けられるだけです。宙に受けるわけでも、遠くのものを動かせるわけでもない」
 空が手をひらひらさせる。
「僕は『鍵』と名のつくものならどんなものでも触れるだけで開けられるんです。まぁ、生まれ持った特技みたいなもので」
 平然と話す空に耳を疑った。しかし、今見たものは確かにその言葉通りのものだ。
「変な奴でしょう?」
 困ったような声に美由紀は我に変える。
「そんなことないです。私は…やっぱりすごいと思います」
 お世辞でも何でもなかった。お互いに満足げに笑う。
「また来てもいいですか?」
「もちろん。いつでもいらしてください」
 そして空は鍵の外れた自転車を美由紀に差し出した。毎度ありがとうございます、と軽く頭を下げて。最後に一言付け加える。
「だから僕は鍵屋なんですよ」







「バカか」
 陽が暮れた頃、静まり返った店内で中瀬が煙草に火をつけぽつり、と呟いた。
「何がです?」
 水を替えて来たばかりの花瓶に大輪の牡丹を数本生けながら空が聞き返す。
「あんな口の軽そーなのに自分の能力バラしやがって。前もそれで大変なことに…」
「嫉妬ですか、中瀬?」
「殺すぞ」
 本気で殺意のこもった声を受け流し、空は静かに笑う。青磁の花瓶を出窓にそっと置く。鍵のない窓の向こうでは家路を急ぐ人々が夕闇の中を歩く。
「結構気に入ったんですよね、高梨さんのこと」
 冗談めかしく微笑んだ。
「だって可愛いじゃないですか」







 ほどほどの勉強を終え美由紀が夕食にと台所に降りると、いつも帰りの遅い父親がいつの間にか帰って来ていた。
「今日は早かったんだね」
 リビングでテレビを見ていた父親に言うと、ああ、とだけ頷いた。
「いつもが遅すぎるだけよ」
 母親がサラダボウルにレタスを並べながら苦笑する。美由紀は玄米茶を急須に入れ、ため息をついた。
「大変だねぇ、刑事さんも」
 言うが、昔からこの調子なのでこちらとしては帰りが遅い方が普通だった。
「そう言えば、美由紀、バイオリンケース買ったの?」
「ううん、まだ。鍵かけなくても不自由ないから、このままでもいいかなぁ、って思ってるんだけど…」
「ダメよ。あんた、ドジなんだからすぐなくしちゃうわよ。それなのに鍵だってなくしちゃって、鍵屋さんが開けられたからよかったものを」
「鍵屋?」
 父親が野球中継から目を離した。
「うん、駅前に小さな鍵屋さんがあるの。ケースもそこで開けてもらったのよ。すごいの、若い人なんだけどね、どんな鍵だってすぐに開けれるんだから」
 空の能力のことを言おうとしてやめた。言ったところでどうせ誰も信じないだろう。父親はふうん、とだけ言ってまた野球中継に吸い込まれていった。







 それから美由紀は時折、空の店に足を運ぶようになった。
 店はいつも客はおらず、大抵、空と中瀬の二人が部屋の掃除をしたり本を読んだりしていた。いつでも空は歓迎してくれた。そして二人と−中瀬はほとんど話には加わらなかったが−どうでもいいようなことを話すのが美由紀にとって何よりの楽しみになった。彼はたまに思い出を語るように鍵の話をした。その成り立ちや歴史。奥から変わった西洋の鍵を持って来て見せてくれることもあった。
 美由紀は一度だけ冗談で言ったことがあった。
「空さんみたいな力があれば、すごい泥棒になれるでしょうね」と。
 空は眼鏡の奥で柔らかい笑顔を浮かべ、頷いた。
「そうですね、しようと思えばできる。この仕事は良心っていう細い糸だけで支えられているものなんですよ。特に僕みたいな人間にはね」





 そして窓辺に紫陽花が飾られる季節になった。







 ある日、美由紀に馴染みの楽器屋から電話があった。頼んでいたバイオリンケースが入荷した、と。本当は今日は予備校の帰りに空のところに寄るつもりだったが、予定を変更し、二駅先の楽器屋に向かった。自動ドアをくぐり、最初に目にした人影に美由紀は目を丸くする。
「中瀬さん?」
 向こうも顔を上げ、ほんの少し目を丸くした。







 椅子にもたれながら薄い本をめくる。昼下がりにしては少々薄暗い部屋で一人、ページを読み進めていた。中瀬は少し前にギターピックを買いに行くと店を空けたばかり。小さな窓から射す光が心地よい。静かな時間だった。
 不意にその静寂を打ち破るように店の扉が開く。
「いらっしゃいませ」
 空は本を置いて立ち上がった。いつも通りの笑顔で。しかし、そこで動きが止まる。入って来たのは背広姿の中年の男数人。彼らの一人が胸ポケットから濃紺の手帳を取り出す。写真入の警察手帳を。
「まさかこんな近くにいたとはな。『鍵屋』…いや『窃盗請負屋』と言った方がいいか?」
 男の言葉に空は口の端だけでクスリ、と笑った。




『空さんみたいな力があればすごい泥棒になれるでしょうね』







「驚きました。中瀬さんもあの店使ってたんですね」
「ってか、この辺ででかい楽器屋ってあそこしかないだろ」
 梱包された新品のバイオリンケースを大事そうに抱えながら美由紀は中瀬について歩く。
「でも、すごい偶然ですよ。あ、明日お店にこのケース見せに行きますね」
「…つくづくヒマ人」
 中瀬は十字路の駅とは反対方向に曲がった。
「どこ行くんですか?」
「他にも用があるんだよ」
「あ…そうですか」
 美由紀はそれじゃ、とぺこりと頭を下げた。
 それに背を向けた中瀬は、しかし、足を止め視線だけ振り返る。
「お前、空のことどう思う?」
「え?」
「あいつはあの通り楽観主義だからお前を大歓迎してるけど、お前はそうじゃないだろ。何が目的であんな妙な奴の店に来てるんだよ?」
 美由紀は一瞬何を言われたのか分らなかった。数秒、考えてから顔を上げた。
「…すごい人とか楽しいとは思ってたけど、目的とか妙だとか考えたことなかった」
「は?」
「だって楽しいでしょ?空さんと話してると。中瀬さんは違うんですか?」
「こいつもバカか」
 中瀬は大きくため息をつく。
「よく言われます。でも中瀬さんだって、空さんと一緒にいるじゃないですか」
「…俺はあいつを待つために…」
「え?」
「いや、何でもない」
 強引に話を打ち切ると再び歩き始めた。
「あ!」
 美由紀はふと思い出し、中瀬の背に声を投げかける。
「目的、ありました!」
 中瀬は足は止めずに、視線だけわずかに向ける。
「中瀬さんの歌、また聞かせてもらわなきゃ!」
 満足げに笑う美由紀。
 中瀬はしかめっ面で小さく唇を動かした。しかしその声は雑踏にかき消され美由紀の耳には届かなかった。
 




「ばれちゃいましたか、まぁ今回は長かった方ですかね」
 空はいつもの端正な笑顔を崩さずに言う。
「余裕だな」
「捕まるのを覚悟でなきゃ、こんな仕事できませんから」
「そうやって捕まってはまた逃げて隠れて鍵屋をするのか?」
「さぁ、どうなんでしょうか」
 小首を傾げて、おどけた素振りを見せる。
「でも僕には鍵を開けることしかできませんから。画家が絵を描かなければ生きて行けないように…音楽家が歌わなければ生きていられないように、鍵を開けてしまうんですよ」
「言い訳か?」
「分かってはもらえないんでしょうね、きっと」
 両手を差し出す。
「捕まるのも慣れたものか」
 笑うと、自分から店を出た。店の前に止まっていた車の後部座席に乗り込む。
「高梨さん」





『そうですね。しようと思えばできる』





 横の部下であろう男がかけた声。空は微かに肩を震わせた。
「一つ聞いていいですか?」
「何だ?」
「今回はどうして僕がここにいるって分かったんですか」
「…『一般市民』からの情報だ。腕のいい鍵屋がいる、とな」
 空はシートに背を預けた。
「…そういや、お父さんが公務員だとか言ってたっけ」
 また中瀬に怒られるなぁ、と心の中でため息をつく。
「何か言ったか?」
「いえ、何も」





『良心っていう細い糸だけで支えられているものなんですよ』





「何故お前はそう笑っている?また逃げられる確信からか」
「さあ」
 笑って呟く。誰にも聞こえない声で。
「僕は開けてしまうんですよ。それが手錠でも牢獄でも」
 両手にはめられた手錠の錠が既に外れているのに空以外の誰も気づいてはいなかった。





『特に僕みたいな人間にはね』







 翌朝、美由紀は開店時間を見計らって鍵屋に向かった。新しい皮張りのケースを肩にかけて。店の前に差し掛かって、入り口の前に中瀬が立っているのが目に入った。
「おはようございます」
 近くまで寄って初めて彼が手にしていたものに気付く。『closed』と書かれたプラスチックのプレート。
「お休み…ですか」
「無期限の臨時休業。空のやつ消えやがった」
「消えた?」
 呟く中瀬の無表情を覗き込む。
「よくあることだ。旅行じゃねーの?どうせ、すぐ戻ってくる」
 プレートをドアにかける。
「すぐ戻ってくる」
 中瀬は強く繰り返した。
「じゃぁ、それまでお休みなんですね」
 残念そうに美由紀は指をくわえる。その時、不意に出窓の奥の景色が目に入った。
「あれ、サボテン?」
 昨日まで紫陽花が咲いていた窓辺にポツンと置かれたのは青々とした鉢植えの大きなサボテン。
「ああ、俺が替えた。あれならしばらく戻らなくても枯れないだろ」
 陶器の鉢の中で丸い球体は必死に何かを主張しているようで。
「でも、すぐに戻ってくるんですよね?」
 閉ざされた扉に手をやると、ふと郵便受に小さなメモが挟まってるのに気がついた。開いてみると、そこには近所の音楽スタジオの名前と部屋番号。
「何だ?」
 一瞬の間をおいて、美由紀は中瀬の腕を掴んだ。





『ちゃんとしたスタジオで歌えばどんなにいいか』





「来て!」
「な、なんだよ?」スタジオに向かって走り出す。
「空さんですよ!空さんが歌ってって!中瀬さんに歌ってって!」







 スタジオに着いて、二階に向かう。中には人の気配はないのに簡単にドアが開いた。
(やっぱり鍵開いてる)
 やれやれ、と言った風に中瀬は何度か咳払いをした。
「聞かせてやるよ昨日言ってただろ?歌聞かせてやるからそれ弾け」
 言って美由紀のバイオリンケースを指差した。
「バイオリン伴奏で歌えるの?」
「バカにすんじゃねーよ」
 しぶしぶと美由紀はバイオリンケースを開ける。そもそもこんな演奏をすることになるとは思わなかった。軽く音を合わせる。
「曲は?」
「何でもいい。バイオリン協奏曲以外なら」
 笑って、中瀬が以前に聞かせてくれたバラードの前奏を弾きはじめる。
 そして彼は口を開いた。
 美由紀は一瞬弓を動かす手が止まりそうになった。
 その声は前に聞いたものよりもずっとずっと深いものだった。
 何かを悲しむような
    慈しむような
 その声に目を見張った。
 バイオリンの音すらも完全にかき消してしまうその声は
 一面に響き渡り空気を止めた。
 中瀬の表情は
 まるで泣いているように
 何かを嘲笑しているように
 音響のせいだろうか。
(待つって、どういうこと?)
 あの時、喉まででかかった言葉が何故か不意に思い出される。
 繰り返されるフレーズ。
 この世のあらゆる感情を込めて。
 ああ、この人も歌うことしか出来ないのか
 私が弾くことしか出来ないように。
 空さんが鍵を開けることしか出来ないと言っていたように。
 長かった。
 一曲がとても長く感じられた。
 弓を下ろした瞬間、ぺたんと座り込んだ。笑う美由紀と、しかし中瀬は無表情に押し黙ったままだった。それは、まるで、窓辺に置き去られたサボテンのよう、だった。
 




 それからも美由紀は時々鍵屋をのぞいてみたが『closed』のプレートが外されることはなかった。あれから中瀬の姿もなく、店の前を通る度に息を洩らしてみる。
「どこ行ったのかなぁ、ここの連中は」
 話しかけても窓辺のサボテンは答えない。







 時は流れ、次第にその店のことも記憶の奥へと片付けられる。
 夏が過ぎ、秋が通り、冬を越え、また春が来る。季節をいくつか通り抜け、水を一度も与えられたことのないサボテンは
  誰にも見止められることのない
  小さな
  小さな赤い花をつけた。







 店内には二人の青年がいた。一人は窓辺に椿を飾る。もう一人は腕時計を見て、立て掛けてあったギターケースを肩にかけた。
「んじゃ、俺、帰る」
「はい、お疲れ様です」
 眼鏡の奥で穏やかに笑い、彼を見送る。ギターケースをかけた方の腕で扉を開けると、そこには中学生くらいの少女が立っていた。
「何か用?」
 黒髪の青年がぶっきらぼうに尋ねる。
「あの…ここで鍵を開けてもらえるって…」
 ビクビクと尋ねる少女は両手で鍵付きのオルゴールを抱えていた。
「おい、お客さん」
 すると眼鏡の青年が奥から出てくる。そして軽く頭を下げた。
「いらっしゃいませ。僕は店長の空と申します」
「ソラ?」
 少女は訝しげに繰り返す。
「はい。で、そこにいるのがバイトの中瀬です」
 静かに笑う。







  それはこの話より少し後、
  美由紀の住む街より少し北の
  少し寒い街での別の話。



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