かむがたりうた 閑話休題ノ章「ナギ」




空の雲さへ

  日の暮れにや



風に吹かれて

  はぐれがち



風はなさけに

  吹くぢやなし



雨もなさけに

  降るぢやなし



どうせなさけの

  風ぢやとて



涙まさせる

  ことばかり



        野口雨情「さむらひ」



















「海に行きたい」

 朝食時、西夜の口からポツリとこぼれ落ちたような言葉が始まりだった。

「海?」

 安は思わず聞き返す。

「あ、いや気にせんといて、独り言」

「今の海なんて…ちょっと早い潮干狩り?」

「いいじゃないですか、皆さんで行ってくれば」

 口を挟んだのは鏡子だった。

「人の少ないところなら東子さんも行けますし。『ひねもすのたりのたりかな』って言いますしね」

 東子も頷く。

「いや…だから単なる独り言で……」

「僕、日本の海、行きたいです」

 とどめの琉真の笑顔に、西夜は折れるしかなかった。















「ピクニック?海に?」

 保育所に行く途中で、砂城は携帯を左手に、紅音を右手にしながら、声を高くした。

「どうせ土日でしょ?紅音も一緒に行っていい?人数多い方が楽しいし。あ、栄クンも呼ぶわね」

『あの…それで栄さんもなんだけど他にも誘いたい人がいるって安が…』















 次の日曜日。

 善は急げと言わんばかりのスピードで決行された『春の海のたりツアー』に一番不機嫌だったのは車の運転手だった。決して高級車な訳ではないが、洗練された、かつユニークなデザインの海外ブランドの車に巴と比呂乃を乗せて着いたのは大田区の海浜公園。

 車を止めるとナヲは大きく伸びをした。

「俺ら、一番乗りか?」

 巴は楽しげに比呂乃の手を引き走っていく。

「ナヲさん、ちゃんと来てくれたんですね」

 後ろから声をかけたのは琉真。横に安と遥歌、砂城に紅音も並ぶ。

「ああ、休日の暇つぶしくらいにはなるだろ?」

 砂城が軽く頭を小突いた。

「彼女とかいないワケ?」

「栄は?さすがにスクーターでここまで来るのはキツいだろ」

「西夜達と車だって」

 安が答える。

「車?でもあいつ原付免許しか……………まさか」

「まさかの続きを聞きたいなぁ」

 白いこれといった特徴のない乗用車で乗り付けてきたのは

「稲荷!」

 嫌悪感を隠そうともせずに、ナヲは声を上げる。

「『館風桔梗』だって。ヤだなぁ、このためにレンタカーまで借りて人ごみを歩けない東子ちゃんと栄君と、あと西夜君の弁当連れてきたのに」

 月子はおどけて肩をすくめる。

「僕より弁当重視ですか?」

 車の後部座席から西夜と東子が、助手席から窮屈そうに栄が姿を見せた。

「モチ!」

 集まり具合を見て遥歌が気まずい様子で安に耳打ちした。

「あたしよかったの?来ちゃって」

「だって、ハル、皆のこと分かってるんでしょ?なら、一緒に楽しんだ方がいいんじゃない?」

「ま、それもそうか」















「砂浜って俺初めてだ!」

 人気のない砂浜で、巴が靴と靴下を脱いで騒ぐ。

「東子もおいで!」

 西夜が東子の手をひく。琉真も後に続いた。安と栄は大きな弁当の重箱やレジャーシートを車のトランクから運び出した。

「冷たっ」

「あ、ハル!先にズルい!」

「いいじゃない、ね、遥歌ちゃん」

 砂城がスカートの裾を持ち上げて笑った。

「ねー」

「春の海もなかなかいいものね。西夜クン、何で思いついたの?」

「いや、思いついたというか…フッと頭に浮かんで……」

「ふ〜ん」

「違う…こんな海じゃない……」

 水を手ですくいながら、西夜は呟いた。

 人工の白い砂を踏みしめながら安もそれに加わった。





  バッシャーン





 水を思いっきりかけられる。

「あ、紅音ちゃん」

「えへへ〜おにいちゃんのまけ〜」

「こら、紅音!ごめんね、安クン」

「いや…」

 袖口で顔を拭きながら安は笑顔で答えた。















「元気だなぁ、若者は」

 柵に腰掛け、ナヲは伸びをした。

「何でこんなことに私がつき合わされるんだ」

 栄はため息をつく。短い沈黙を破るように、二人の頬によく冷えた缶が当てられた『うわっ』栄とナヲの声が重なる。

「ふふふっ、差し入れっ」

 月子が冷たい缶ジュースを差し出した。

「あ…ああ、えっと一三〇…」

「差し入れだって」

 財布を取り出そうとする栄に月子は手を振る。

「貴様におごってもらうと後々が怖い」

 革手袋で器用に小銭を押しつけた。

「なんだ、酒じゃねぇのかよ」

 ナヲはそんなやり取りは見ずに舌打ちする。

「帰り運転できなくなるだろ?」

 ナヲの横に座る。

「いい天気だ」

 月子は天を仰ぐと目を細め笑った。

「平和だねぇ。できることなら、あの子達にはずっと平和でいさせてあげたいんだけどね。あの子達には」















「みんな〜、そろそろお昼にしよ〜」

 西夜の声が辺りに響く。

「待ってました!」

 砂城が素早く返す。

「お弁当って西夜君の?」

「うん、朝から作ってた」

 遥歌の目もキラキラ輝く。タオルで足を拭いて靴下と靴を履くと走り出す。

「弓さんも早くしないとなくなっちゃいますよ」

「あ…私はせっかくですが結構です」

「え?」

 困ったような笑顔で答える比呂乃に安は首を傾げた。巴がそんな安の肩を叩く。

「代わりに比呂乃の分も俺が食べてやるから」















 青い大きなレジャーシートを広げ、重箱と人数分の紙皿と割り箸を取り出す。遥歌は走り寄ったが、途中落ちていた石につまづく。倒れかけた遥歌の腕を支えたのは栄の革手袋だった。

「あ…ありがとうございます」

「気をつけろ」

「な、何!遥歌ちゃん、砂城の栄クンに手出さないでよ!」

「出してません!」

「ていうか、今触れなかった?」

「まさかぁ…ねぇ、先輩」

 遥歌はニヤリと笑って栄のシャツを引っ張った。















「……凪みたいですね」

 琉真はポツリと呟いた。

「せやな、凪いだ海みたいや…」

「静かなのに、すぐにまた荒れ出す海ってトコ?」

 クスリと頷いた。

「僕たち、いつまでこうしていられるんでしょうね」

 安が琉真の金髪に頭から海水をドバッとかけた。

「いつまでもこうやってるんだよ」

 笑って言う。

「せやで、いつまでも…ずっとこうしてよ」

 西夜も安に倣って水をかける。

 凪いだ海もいつかは荒れるとは知らずに。















「西夜ー、今日撮った写真なんだけどさー」

 スマホを持って安が西夜の部屋に入ってきた。ハッと我に返りいつもと変わりない笑顔を返す西夜。

「あれ?勉強中だった?」

「いや、かまへんよ。何?」

「今日の写真皆に送ろうと思ってさ、西夜が撮った分も俺に送ってもらえる?」

「うん」

 西夜の顔が少し強ばっているのに気がついた。

「何かあった?」

「ん?なんもあらへんで」

「そう…」

「安はさ……」

「何?」

 安は振り返る。

「いや、なんでもない」

 西夜は言葉を飲み込んだ。





(安は母親に捨てられた時のこと覚えてる?)





 言わない。

 言ったら同族になってしまう。

 自分の首周りにそっと手を当てた。











 僕は幸せな顔をして笑ってるんだ。

 あんた達とは違うって。

 僕は……僕は幸せなんだって。











『可哀相にね、捨てられて』











 違う!僕は可哀相なんかじゃない!

 成績優秀で、スポーツも得意で、元気で明るくて、いつもみんなの中心で…誰からも頼られる……

 それが僕だ!















「西夜?」

「ちょっと…久々に遠出したから、疲れてるのかもしれへんわ。早よ寝ることにする。おやすみ」

 いつも通りの明るい笑顔を見せる。

「あ…うん…大丈夫?おやすみ」

 スマホを確認して、部屋を出て行った。















「弓さん」

 西夜の部屋のふすまの向こうに比呂乃が心配そうに立っていた。西夜に感づかれないようにと、唇の前に指を立てる。

(大丈夫ですか、西夜さん?)

(……多分)

 心配そうに部屋の前から退いた。















「西夜さん」

 部屋の明かりがついているのに気づいた鏡子は、西夜の部屋のふすまを軽くノックした。返事はない。物音もしない。電気をつけたまま眠っているのかと、ふすまを静かに開けた。真っ赤に腫らせた瞳をこすりながら机に向かっていた西夜が振り返った。

「…西夜さん」

「な、なんもない。ちょい眠れへんかっただけで」

 明るく振る舞う西夜を、鏡子は強く抱きしめた。

「西夜さん、いつも安さんや琉真さんに言ってるじゃないですか」

「え?」

「無理しないでいいんですよ。この家では」

 鏡子の言葉に応えるように、西夜の大きな目が涙に染まった。

「淋しい……淋しいよ……」

「ご両親から離れて、随分経ちますものね」

 鏡子は抱きしめながら、ポンポンと背中をたたいた。

「本当によく頑張ってます、西夜さんは。淋しい思いも辛い思いもしてきたのに今、頑張ってます」

「…ばあちゃん…ウチいつまで、いい子でいたらええんかな」

 西夜は涙を拭おうともせず、顔を上げた。

「いつまででも。今からやめても構いませんよ」

「…ばあ…ちゃん…」

「思いっきり泣いていいんですよ。大丈夫、誰にも言いませんから」

「ごめんな、これ終わったらもう泣かへんから。せめて………今だけ…」

 西夜の喉からすすり泣くような声が随分長い間流れて、いつの間にか寝息に変わっていた。















 凪いだ海のような日が終わりを迎えようとしていた。



コメント

タイトルとURLをコピーしました