かむがたりうた 第拾陸章「オチル」




かなしい心に夜が明けた、

  うれしい心に夜が明けた、

いいや、これはどうしたといふのだ?

  さてもかなしい夜の明けだ!

青い瞳は動かなかつた、

  世界はまだみな眠つてゐた、

さうして『その時』は過ぎつつあつた、

  あゝ、遐い遐いい話。

青い瞳は動かなかつた、

  ——いまは動いてゐるかもしれない……

青い瞳は動かなかつた、

  いたいたしくて美しかつた!

私はいまは此処にゐる、黄色い灯影に。

  あれからどうなつたのかしらない……

あゝ、『あの時』はあゝして過ぎつゝあつた!

  碧い、噴き出す蒸気のやうに。



        中原 中也「青い瞳・一夏の朝」



















 自分に起こったこと、能力のこと、想い、全て話し終えた時には日付が変わっていた。

 比呂乃はこんなに話したのは初めてではないだろうか、と息をつく。両親はじっと聞いていた。

「これが…私の知っている全てです」

「ああ、よく話してくれた」

 比呂乃の言葉に父親は頷いた。

「……私は信じないわよ!何よ、能力って?あなたもどうしてそんなデタラメな話に頷くの?二人して私を騙して!どういうつもり!」

 ヒステリックに叫んだ。

「声を抑えなさい。何時だと思っている」

「あなた達が荒唐無稽なこと言うからじゃない!」

「全て本当のことだからだ」

 父親は静かに言った。

「嘘!私子供産んだことなんて一度もないわよ!」

「だから、それが能力の……」

「第一、私の産んだ子ならもっと優秀なはず!こんな何もできないダメな子にはならなかったはずよ!」

 比呂乃はビクリと肩を震わせて、黙り込んだ。





  パン





 突然、父親が妻の頬を打つ。

「ああ、似てなくてよかったよ。今まで比呂乃に散々暴力を振るっていたのを私が知らなかったとでも思うのか?」

 母親の表情がみるみる強ばっていった。

「自分の記憶を犠牲にしてまでお前を救った娘だぞ。私は誇りに思っている。どうしても比呂乃を受け入れられないと言うのなら」

 顔をしかめ、一呼吸おいて言った。

「別れよう」

「ダメ!それはダメ!」

「比呂乃…」

「お父さんとお母さんが別れるなら、私がこの家出て行くから!やだよ、私のせいで…誰かが犠牲になるのは嫌だよ」

 比呂乃の目から大粒の涙があふれる。

「嘘だから!今まで言ったの全部嘘だから!だからやめて!」

「比呂乃!」

「ほら、見なさい!」

 母親は勝ち誇ったように言った。

「お前のために嘘をついているのも分からないのか!」

「本人がこう言ってるのよ。やれやれ、とんだ茶番につき合わされたわ。できの悪いだけじゃな虚言癖まであるなんて。あなたも娘のワガママにつき合わされて大変だったわね」

 夫の肩を叩くと、母親はそのまま寝室に向かった。















 小動物のように床にうずくまる比呂乃の背中に手を当てた。

「どうしてあんなことを言ったんだ?お前も知ってる通り、私は能力のことはよく知っている。もうちょっと話し合えば分かってもらえたかもしれないのに」

「だって……お父さん…お母さんのこと好きなんでしょ?二度も結婚するくらい、好きなんでしょ?そんな二人がまた私のせいで別れるなんてやだよ」

「だから、出て行くのか?」

 背中をさすりながら、比呂乃をなだめた。

「それこそ伊邪那岐の思うつぼじゃないのか?」

 比呂乃はゆっくりと顔を上げた。

「どうして…お父さん…そんなこと」

「父さんが太榎教授の助手をしていたのは知ってるって言ってたな?」

 比呂乃は涙を拭いながら頷く。

「十年近く前、教授と父さんとあと一人、池条という能力者の学生と三人で研究をしていたんだ。言霊と能力について」

「ナヲ…さん…が…」

「池条君のこと、やっぱり知っていたか」

 コクコクと小鳥のように何度も小さく頷く。父親は比呂乃の頭を優しく頭を撫でた。

「おぼえておいてくれ、比呂乃。何も父さんは母さんが好きだからってだけで再婚したんじゃない」

 比呂乃は目を丸くした。

「記憶がなくても、実の親なら比呂乃に優しくしてくれると思ったからなんだ。こんなことになるなんて思いもしなかった。ごめんな、ごめんな、比呂乃」

 大きくかぶりを振る。

「私がもっとしっかりしてればよかったのに…」

「そんなことない。比呂乃にはいい所がいっぱいある。ただあいつがそれを見ようとしてないだけだ」

 涙目で比呂乃はクスリ、と笑った。

「同じこと、太榎教授の息子さんにも言われました」

「そうか」

 父親も少し笑顔を見せた。

「今日はもう休みなさい」

 比呂乃はゆっくりと頷いた。















「比呂乃!いないのか?」

「どうしたの?土曜日なのに、こんな朝早くから」

「お前、比呂乃を知らないか?部屋を見たらこんな書き置きがあったんだ」

 その一筆戔には、比呂乃の字で『ごめんなさい』とだけ書かれていた。

「知らないわよ。嘘ついたかと思うと、今度は家出?とことん迷惑な子ね」

「お前は…!」

 思わず振り上げた拳を収めた。ここで手を挙げたなら妻と同じだ。連鎖は断ち切らなければいけないことを分かっていた。















「精密検査?」

 小児科からの電話に砂城は訝しがりつつ、承諾した。紅音は相変わらず咳き込んでいる。

「大丈夫?紅音」

 紅音は咳で答える暇すら与えない。一度大きな咳をすると途端に部屋の辺りに鮮血が飛び散った。

「紅音!あかね!」

 口の中からも鮮血がしたたり落ちる。

「さ…き……」

 か細い声が砂城を我に返らせる。

「き…救急車…一一九…」

 右手で携帯を持ちながら、左手で必死に紅音を抱きしめた。

「大丈夫だからね、大丈夫だからね、紅音!」

 それは紅音にではなく自分に向けられた言葉。















 砂城はイライラと病院の待合室で座っていた。

「旗右さん、七番室へどうぞ」

 やっと名前を呼ばれ、指定された診察室に走っていった。

「どうなんですか?紅音は!」

「その前に伺いたいのですが健康保険には入っていらっしゃらないんですよね」

「え?ええ…」

 医師は顔をしかめた。

「それなら大変ですよ…いや、なおさら大変、というべきか…」

「どういうことです?早く教えてください!」

 医師はカルテを手に取る。

「旗右紅音ちゃんは…小児がん…白血病です」















『すぐに手術をすればほぼ確実に治ります。しかし、そのためには費用が…保険に入っておられたら医療費補助が出るのですが…』

 そんな大金あるわけがない。全ては自分の軽薄な考えから来たものだ。砂城は苦々しく病院の白い壁を叩き付けた。

「ごめん…ごめんね…紅音……」















 考えられる方法はただひとつしかない。

(いつ来ても悪趣味ね)

 洋館を模して造ったであろう広大な屋敷。茅原の本家だった。

「バカなことを言うな!お前が勝手に作った子にそんな金が出せるか!」

 最奥の部屋に響き渡る怒号。

「無理は分かってます!でも紅音の命がかかってるんです!お願いします!」

 砂城は父親に土下座して、頭を床に押しつけ頼んでいた。

「知らん!お前がここに来てから息子二人がおかしな病気になるし、それだけでも手がいっぱいなのに!第一、お前はもう結婚して籍も苗字も違うはずだ!頼むならその夫だろう!何者かも顔も知らんが確か、旗右…」

「旗右栄で〜す。ど〜もっお初にお目にかかりますっ!」

 半開きだった部屋に入ってきたのは栄…ではなく「池じ…」言いかけた砂城の口を手で塞ぐ。

「ご挨拶にも伺わないで申し訳ありませんでした。旗右栄です」

 言って明らかに旗右栄ではない茶髪の青年は名刺を両手で差し出した。

「ほう、宮内庁に勤めているのか」

 名刺は肩書きやデザインはそのままに名前の欄だけ「旗右栄」と書き換えられていた。

(池条さん、あんな名刺どうしたのよ?)

(パソコンがあれば五分で作れる。どっかの盗聴女から連絡もらってな)

「今日は仕事は?」

「紅音のことを聞いて砂城がこちらに伺っているのじゃないかと思いまして、慌てて外出してしまいました。おかげで今日は残業です」

 軽く笑って頭をかいた。

「こんな堅い勤め先なら、ローンも組めるんじゃないのか?」

 ナヲの軽薄ぶっているが肝心なところでは礼儀正しい態度に、そして何よりその職業に、砂城の父親は好感を持ったようだった。いや、これがナヲの『大人社会』での処世術なのだろう。

「そうなんですよ。なのに砂城は俺に相談もせずに突っ走ってしまって…すぐに帰りますので、申し訳ありませんでした」

 砂城の肩をぐいっと押す。

「ち、ちょっと…」

「金のことなら問題はとっくに解決してるんだよ。テメー一人で抱え込みすぎ」

 耳打ちするナヲに押されるまま屋敷を出た砂城は、門の前にいる本物の栄に気づいた。

「栄…クン……」

「それじゃ俺マジで仕事抜け出しちゃったから、急いで庁舎に戻るわ。栄、これで貸し一つな」

「ああ」

 言うとナヲはタクシーを捕まえた。

「お金…解決してるって…どうやって……」

 栄は黙って銀行の通帳を差し出した。

「貯金?そんなんじゃ……」

 言って記帳されている最後のページを見て、砂城は目を丸くした。桁を見間違えたのかと思い何度も数え直す。

「何…この額?」

「貴様はいつも考えなしだからな。私が節約したり無理な量の仕事を入れてたのは、単に守銭奴だからだと思っていたか?それから…」

 栄は鞄から書類を取り出した。

「紅音が産まれてから、健康保険、貴様と紅音の分は払っておいていた。これで補助も受けられる。それで入院費用とかも充分足りるはずだ」

 言うと印鑑も差し出した。

「でも…栄クン…関係ないのに……」

「あー」

 栄はそれでなくても整えてない髪をグシャグシャとかき、照れくさそうに俯いた。

「一応………父親…だからな……そのくらいさせろ。金を出したり、人に頭を下げるくらいで解決する問題なら簡単なことだ。世の中にはもっとどうにもならないことが、いくらでもある」

「…ありがとう……」

 砂城は通帳と印鑑を受け取ると、栄の手を握った。

「本当に……ありがとう…」

 涙を必死にこらえて、二人は病院へ行く駅の方に向かった。皮手袋越しだが、砂城は初めて栄の手を握って同じ速度で歩いた。















「で、家出て来たわけか」

「ごめんね、巴君。休んでるところ起こしちゃって」

「いやいや、俺は全然!いつでも大歓迎!」

 公園の隅で暗く落ち込む比呂乃に巴は大きく手を振った。

「なんだ、今日は早いな比呂乃」

「ナヲさん」

 比呂乃の表情が少し明るくなる。それを少し微妙な表情で巴は見た。

「土曜だから保育所行ってるのかと思った」

「いえ…家出してきたんです」

「家出?」

「お母さんと喧嘩したんです」

 比呂乃は少ししょぼんとする。そんな比呂乃の頭をナヲはくしゃくしゃと撫でた。

「昼間はともかく、夜は野宿すると危ないだろ。ウチ来るか?」

「え、いいんですか?」

「ああ」

「比呂乃…」

 巴は反論したげだが、いい言葉が見つからないようだった。















 午前中まで巴達と歓談し、昼過ぎになった。

「ここの十二階」

 駅近くの高層マンションを指差した。

「…すごいところに住んでるんですね」

「エリートだから」

 笑ってオートロックのボタンをおしかけたナヲを比呂乃は後ろから強く抱きしめた。

「ナヲさん…」

「比呂乃?」

「私…」

 比呂乃の目から涙が流れ出した。

「ナヲさんのこと好きです」

 叶わないことは分かっている、行き場のない、やり場のない、想いの丈をぶつけるように。

「ずっと…ずっと前から…好きでした」

「…で?」

「え?」

 少しの間をおいて返ってきた答え。

「俺とつき合って何したいの?」

 ヘラヘラ笑ってナヲは振り返る。

「それは…」

「だからお子様は嫌いなんだよ。それとも何?誘ってんの?」

「ナヲ…さん…」

 真っ赤になって俯く比呂乃の顎をクイッと持ち上げると、唇を重ねた。

「そう思ってくれてもいいです」

 涙はただ流れ続けた。















 西の窓からこぼれ落ちる夕陽に比呂乃は目を覚ました。一糸まとわぬ姿でベッドの下に投げ捨てられた服を拾う。

 横でナヲは裸のまま眠っていた。

 服を着るとナヲの唇に軽く口づけた。

「…それでも…私は貴方のことが好きでした…。ありがとう…ございます。あなたも早く『こっち』に来てくださいね、ナヲさん」

 言って扉を開ける。

「さようなら」















 扉を閉める音と同時にナヲは目を開け身を起こした。携帯を取り出すと、アドレス帳から慣れたアドレスを拾い出した。なじみのストリートチルドレンだ。

「おお、お前か?あのさ…巴に伝えてほしいことがあるんだけど…。いや、ちょっと、巴とはまともに話せる状態じゃなくてな。それ以前にあいつ携帯持ってないだろ?そうそう。それでさ伝言なんだけど…」

 乱れた髪を手ぐしで整えた。

「『比呂乃がいなくなった。どこに行ったか探してほしい』ってさ」















「……く…」

 微かな東子の声に、西夜は聞き返した。

「弓さんが…おちて…いく」

 それで充分だった。

 西夜、琉真、そして安が立ち上がる。

「僕は砂城ちゃんと栄さんに連絡するから、安は弓さんに…」

 頷いて手早く「弓さん」と記されたアドレスに連絡した。思いのほかあっさりとつながった。

「弓さん!今どこにいるんですか?」

『ごめんなさい…西夜さん達にも伝えておいてください。そっちで過ごしたほんの短い時間は本当に楽しかったって…。ありがとうございました…』

 それだけ言うと、電話は切られ、それ以上はかけても電源を切られたままだった。

「弓さん何て?」

「『ごめんなさい』とか『ありがとう』とかで…具体的なことは何も……」

「砂城ちゃんも栄さんと探してくれるって」

 しかし当てもなく探しても見つかるはずはない。

「東子、場所とかは分からへん?」

 東子は首を横に振った。

 数分後、頭を抱える西夜に向かってスマホの腹が立つほど明るいメロディが流れた。

「メールや。栄さんがナヲさんに聞いてみたら、なんや向こうでいろいろあったみたいや。でもやっぱり居場所は分からんらしい。巴が探してるみたいやけど」

(どこか…どこか…行きそうな場所…)

「あ!」

「安!何か思いついたんか?」

「『落ちる』って言ったよね?」

 西夜が立つより早く、安はスマホのボタンを押した。

「ハル!」

『ど、どうしたのよ、いきなり?』

「ハル、ハルって神奈川にいたって言ってたよね!その時の住所覚えてる?」

『えっと…ちょっと待ってね。確かこっちにアルバムが…』

「早くして!弓さんの命がかかってるんだよ!」

『ちょっと待ってよ!……』

 遥歌の言う住所を手早く粗い字でメモしていく。

「分かった!ありがと!」

 それだけ言うと電話を切った。















 幸い、比呂乃の前の住所はさほど遠いところではなかったが、それほどでない乗車時間に妙に苛立たされた。

「間違い…ないんですよね?比呂乃さんの前の住所で…」

「多分…」

 空いた電車内で安たち三人は電車の扉にもたれながら言った。黒いコートを着た東子はその横の席に座っていた。

「俺と弓さんって似てるんだ。俺ならきっとあそこに行く」

 いつになくきっぱりと安は言った。

「ハルが記憶を失したあの場所へ」















 立入禁止のロープを越えて、巴は崖っぷちに立った少女を見つけた。

「比呂乃!」

 巴の声に比呂乃はゆっくり振り返った。

「どうしてここが…ああ…能力ね……」

 自我を失ったようにぼんやりと言う。

「なんかもう…疲れちゃったんだ…いろんなことに…逃げたいの…もう誰にも必要とはされてないし……」

「オレがいる!」

 巴は声をあげた。

「オレは…見ての通りガキだし、まともな暮らしもできないけど…オレが守っちゃいけないか!オレじゃナヲの代わりにならないか!」

 比呂乃はゆっくり首を横に振った。

「ごめんなさい。ごめんなさい…ごめんなさい……」

 言って比呂乃は巴の小さな肩を抱きしめる。















 駅で栄と砂城と合流した。

 栄があらかじめ調べておいてくれたらしく、その住所近くで立入禁止の荒れ地はすぐに見つかった。地元の人が言うには、相当高い崖らしく頻繁に事故が起こっているらしい。

 駅から走ってすぐの場所だった。安たちは全力で走り出し、琉真が東子を支えて歩いてきた。















「ごめんなさい…ありがとう……」

 巴の肩を、トン、と崖とは逆の方向に押すと自分は背中から崖に落ちていった。

 比呂乃の最期の表情は ひどく ひどく穏やかな笑顔だった。

 まさにその瞬間、安たちがその場に着いた。

「弓……さん…」

 安が崖下に落ちた比呂乃を見ようとした瞬間

「見るな!見るんじゃない!」

 栄が安の目を覆った。西夜が軽い身のこなしで脇にある坂を滑り降りる。

 琉真は西夜から預かっていたスマホを取り出して、一一九番を押す。

「なにが…何が『運がいい』だよ。好きな人一人守れないで…『運がいい』って何様だよ?」

 巴が地面にうずくまり、拳が血まみれになるほど叩きつけた。どうにか、どうにかできることは……言霊。

『弓さん…生き返……』

「やめて!安クン!」

 今度は砂城が口を押さえた。

「自殺するほど辛かった弓さんを生き返らせても、また自殺するだけよ!」

 砂城の言ってるのは正論だ。でも、もう一度やり直せば…。

「もう一度やり直せばって思ったでしょ。無理よ。同じことを繰り返すだけ。分かった?」

 砂城の手から解放され辺りを見渡すと、巴以外は平然と立っているだけだ。まるで「仕方ない」とでも言ってるように。

「お前ら!何で平気なんだよ?平気な顔してられるんだよ?人が目の前で一人死んだんだぞ!そんなことも分かんねーのかよ!頭どうかしちゃったのかよ!」

「分からないんじゃなくて慣れすぎて麻痺してるんだよ。元々、死ぬために産まれてきたような連中だからね」

 いつからいたのだろう、後ろから月子が顔を出した。

「死ぬために産まれてきた…?逆だろ?」

「それがどっこい逆じゃないんだよね。こいつらに限っては」

 月子の言い草に、しかし反論できる者はいなかった。















 すぐにレスキュー隊と救急車が駆けつけたが、比呂乃は頭を強く打って即死だった。グシャグシャになった四肢を、栄はまた見るなと言ってきたが今度はその手を払いのけた。体中があり得ない方向に曲がり、ドス黒い血で元が人だということすら分からない。

(これが…弓さん?)

 安は吐きそうなのを必死に抑えた。代わりにボロボロと涙が出てくる。

「弓さん」

 血のついた手を両手で握りしめた。

「俺はあなたが…弓比呂乃さんが好きでした」

 それだけいうと救急車の後ろのドアは無情に閉じられた。















「比呂乃!」

 比呂乃の母親が突然立ち上がった。ソファに向かい合って座っていた父親は目を丸くする。

「どうした?」

「比呂乃が…死んだ…」

「な…!」

「どうして…どうして私…忘れてたの?」

 母親の目から涙が止めどなく流れ続ける。

「術が解けたのか?」

「あの子に…あんな酷いこと…どうして言えたの?あんな優しい子だったのに…」

 顔を覆う母親を夫は強く抱きしめた。















「思い出した!」

「は?どうしたの、ハル?」

 食卓でエビフライを食べかけていた遥歌の手が止まった。

「お母さん、あたし、小さい頃『ひろちゃん』って同い年の友達いたわよね!それで立入禁止の荒れ地に入って崖から落ちて」

「え…ええ……でもあなたそのことすっかり忘れて…」

「思い出したの!あたし達のこと荒れ地に呼んで、あたしを突き落とした人のこと!」

「突き落とした?」

「あれは事故なんかじゃない。あれは全部…」

 そこで口をつぐんだ。

(全部、万夫おじさんだった)















「比呂乃に何した?」

 コンビニからの帰り道、ナヲは後ろから声をかけられた。

「よぅ、巴」

「比呂乃が…死んだ」

「へぇ」

「トボけんな!てめーが…比呂乃に何かしたんだろ?」

 巴はナヲを殴り倒した。

「返せよ!比呂乃を返せよ!」

 倒れたナヲに向かって馬乗りになって何度も殴りつける。

「なんで…なんで…能力者だってだけで死ななきゃならないんだよ」

 巴はまるで自分を殴りつけているような錯覚を起こしていた。

 痛いのは自分の拳。

 痛いのは自分の頬。

「好きだったんだ…大好きだったのに…比呂乃…!」

 それは全て自分に向けられた言葉。

「ひろ…のぉ」















「伊邪那美様、先日の少年がまたおいでですが…」

「お通ししてください」

 少しの間を置き扉が開けられた。

「こんばんは、お元気でしたか?」

 透き通る白い肌に横だけ伸ばした茶色の髪と奇妙なほど整った顔だち。

「伊邪那美…いえ、深琴(みこと)姉さん」

 少年が笑うと、伊邪那美も目を細めて微笑んだ。伊邪那美は少年の頬にゆっくりと触れた。その手に少年は自分の手を重ねる。

「あなたはいつも素直なのね」

 その少年は愛おしげにその手の甲に口づけた。

「相手が貴女だからですよ、姉さん」

 そこにいたのは

「架織」

 伊邪那美はその肩を抱きしめた。

 それは 都音架織、その人だった。



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