かむがたりうた 第拾壱章「カコ」




そびゆる山は英傑の

跡を弔ふ墓標、

音なき河は千載に

香る名をこそ流すらむ。

此処は何処と我問へば、

汝が故郷と月答ふ。



勇める駒の嘶くと

思へば夢はふと覚めぬ。

白羽の甲銀の楯

皆消えはてぬ、さはあれど

ここに消えざる身ぞ一人

理想の路に佇みぬ。



        石川啄木「雲は天才である」



















「旗右雪?知らねーな。変な名前」

 スーツ姿のナヲは公園のベンチに座るとタバコをくわえながら、コンビニのおにぎりを数個差し出した。

「でも私の名前を知っていたんだ」

「能力者かもな?」

「能力者?」

「なら何でオレのとこには来ねーんだよ」

 話に割って入ったのは頭にバンダナを巻いた幼い少年。

「だから知らねーってば、巴」

「栄なんかより、オレの能力の方が絶対役に立つのに」

 ブツブツと言う巴を横目にナヲは言った。

「いいか、栄。そいつがまた来たら絶対俺に言うんだぞ」

「あ…ああ」















「旗右」という表札を掲げた一軒家の扉を開けた。

「先生、ただいまー」

「こらっ、靴はそろえて脱げと何度言ったら分かるんだ!小学生でもそのくらいできるぞ!」

 中年の男性が脱ぎ散らかされた靴を直しながら叱った。

「そんなことより聞いてよ、先生。今日やっと栄に会えたんだ!」

「栄?」

 雪は大げさに両手を広げる。

「ほらっ、話しただろ?火神の能力者!」

「ああ、触れたら焼け死ぬっていう…」

「そ!それがすっげー生意気そうなガキでさ…」

「人のことをそんな風に言うものじゃないぞ」

 頭をくしゃくしゃとなでながら、笑顔で注意する。

「はいは〜い。砂城や西夜にも知らせなきゃなぁ」

「雪くん、ご飯すぐに食べる?」

 台所から男と同じ年頃の女性がエプロン姿で顔を出した

「食べる、食べる!も〜腹減ってさ」

「まったく、もうちょっと大人しくできんのか、雪!」

「いいじゃない、男の子はこのくらい元気じゃないと」

 女性がニコニコと返す。

「お前がそうやって甘やかすから…」











それは悲しい哀しい物語。

栄が十四歳の春の出来事だった。















「雪ー!火之迦具土神が見つかったってホント?」

 黒いワンピースの制服を着た砂城が雪に遠慮なく飛びかかってきた。

「可愛い子?あ、安心して!可愛くても砂城は雪ひとすじだから!」

「はいはい、ありがと」

「ストリートで暮らしてるのは知っとったけど、よう見つけはったなぁ」

 後ろから黒いランドセルを背負った西夜が声をかける。

「大変だったぜ、何しろ産婦人科で火事があったってことしか手掛かりねーし、いつかも分かんねーんだもん。図書館に何回通い詰めたか」

 雪は自慢げに胸を張る。深緑のブレザーにベージュのズボン。弘英高校のものだった。

「砂城、分かってると思うけど抱きつくなよ」















「さっかえ〜」

 昨日の河原からほど近い路地で見つけた栄に、雪は後ろから抱きついた。

「な…なな……離れろ!死ぬぞ!」

 突然の出来事に、栄は必死で振りほどこうとする。

「死なねーよ『俺は』」

「貴様は……?」

「俺の能力は『自分へと向けられた能力を一切無効にする』能力。だから触っても燃えない」青ざめる栄に雪は、両手で栄の頬をグリグリとかき回す「ほら、これが人間の体温。あったかいだろ?」

 笑いながら頬をさする雪に、栄の顔は変わらずこわばっていた。

「なぁ、栄」

 雪はゆっくりと言った。

「俺らの仲間にならねーか?」

「俺『ら』?」

 その時初めて雪の後ろに立つ二つの人影に気がついた。

「茅原砂城よ」

「ウチは水吹西夜。よろしゅう」

 二人は揃って軽く頭を下げる。

「仲間って…」

「できねーよな、栄」

 振り返るとそこには巴が立っていた。

「ミラやナヲへの恩、忘れたわけじゃないだろ?捨てられてた産まれたてのお前を拾って、十四年も育ててもらったのにな」

「路上生活させることが『育てる』か?俺なら栄を、雨露しのげなかったり寒さや暑さにまいったりさせないことができる」

「私は…」

 ためらいながら頬に残った温もりを思い返していた。

「……巴」

 風にかき消されそうな掠れた声。

「ナヲにすまないと伝えてくれ」

「栄!裏切るのかよ!」

 巴の声を無視し、栄は踵を返した。

「てめーが普通の暮らしできると思ってんのかよ!」















  ガチャリ





「先生ただいまー」

「砂城で〜す、おじゃましま〜す」

「ご無沙汰してます」

 人が四人入るには狭すぎる玄関でそれぞれが頭を下げた。

「やぁ、よく来たね、茅原さん、水吹くん、……と、えっと?」

 雪が栄の両肩を押した。

「こいつが昨日言ってた栄!」

「ああ、君が栄君か。いいかい、人の家に入るときは『こんにちは、お邪魔します』だ」

「は…はい」

「しゃーないじゃん、今まで人の家に出入りなんてしたことなかったんだもん、な、栄」

「だったらなおさら教えてあげなければいけないだろう」

「………」

 不審げな栄の表情に男は「あ!」と声をあげた。

「自己紹介が遅れたね。私は旗右良一(りょういち)。雪が中学まで入っていた施設で働いていて、今は彼の保護者になっている。能力のことも雪から聞いて知ってはいるので何か困ったことがあったら言ってくれ」

 男は優しそうに笑った。

「……しばらくこいつ、ここに置いてやっていい?俺と同じ部屋でいいからさ」

「ああ、構わないよ」

「ありがとー、先生!」

 雪が嬉しそうに階段を駆け上がる。砂城と西夜もそれに続いた。栄だけは良一の前で立ち尽くしていた。

「えっと……『こんにちは、お邪魔します』」

「いや、違うな」

「え?」

「君は今日からここで暮らすんだ。『ただいま』だな」

 ニコニコしたままで右手を階段の方に向けた。















「これで居場所が分からへんのはあと三人か」

 そう広くはないが一通りの家具が揃った部屋で砂城と西夜は腰を下ろした。雪は机の横の椅子に座る。栄もそれに倣って床に座り込んだ。

 西夜はランドセルを部屋の片隅に置く。

「そのうち二人は名前分かったぜ。琉真=アークライトと筑波あづみ。ただなぁ、いるのがイギリスなんだよ」

「イギリス?」

「時々日本に来るらしいから、もうちょっと調べてみるけど」

(あと…一人?)栄の胸中を一人の少女がよぎった。自分や巴への接し方を見ていれば分かるが、ナヲは能力者にことさら親切だった。そう接されていた人がもう一人がいた。

「栄クン?」

 砂城が顔を覗き込んできた。いや、全て自分の憶測でしかない。新参者の自分はここは黙っておくのが賢明だろう。

「……少し考え事をしていただけだ」

 慌ててかぶりを振った。















 その夜、栄は雪のベッドを半分使わせてもらうことになった。自分は床でもよかったのだが、雪が強くそう勧めた。凍死しそうな夜に数人でカラオケボックスやマンガ喫茶で寝泊まりしたことはあったが、普通のベッドで眠るのは多分初めてだ。熟睡する雪の頬に向かって恐る恐る素手を伸ばしてみた。

(本当に…利かないんだな)



 愛おしげに頬から手を離すと栄も深い眠りについた。















「すみません、寝坊してしまいまして」

 寝坊、という概念がまるでなかった好きな時に眠り好きな時に起きるストリートの習慣を引きずっていた。部屋にかけられていた制服がなくなっていた。雪はとっくに登校したようだ。

「おはよう、栄君」

「あら、寝てていいのよ。服、雪君のなんだけど、ぴったりでよかったわ。栄君、背が高いから」

 居間に入ると、穏やかな口調が返ってきた。枕元にあった服はこの人が用意してくれたのか。

「すみません、お邪魔してるのに。良一さんは今日はお仕事は?」

 栄の問いに良一は新聞を読みながら苦笑した。

「雪が『先生』なんて呼ぶから誤解してるみたいだけど、私は児童養護施設の職員だよ。平日に休んで土日は出勤なんだ」

「そうなんですか。あ、何かお手伝いします。えっと…」

「円香(まどか)よ。それじゃ、手袋脱いでお昼ご飯の準備頼もうかしら。卵割ってくれる?」

「卵…割る……?」

 目の前に差し出された三個の楕円形の白い物体に栄は固まった。

「あ、割るの苦手だった?」

「これ…何ですか?」

『え?』夫婦の声が重なる。

「卵って弁当によく入ってる黄色くてこう渦を巻いたような」

「……卵焼きのこと?それを今からこれで作るのよ」

「卵ってあれが原型じゃないんですか?」

 良一と円香は同時に吹き出した。特に良一はツボに入ったのか、机をバンバンたたきながら声をこらえる。

「栄君、料理はいいからこっちにおいで。学校行ったことないんだろう?勉強教えてあげるよ。足し算引き算はさすがにできるだろうから、九九を覚えるところからかな」















「ただいまー、先生」

「雪!何なんだ、この子は!」

「な、何やらかしたの、栄?」

 いきなり浴びせられた叫びに、制服姿の雪はたじろいだ。

「何って…私は知っていることを言っただけで…」

「高校三年の物理と数学をスラスラ解くんだぞ!一体どこで覚えたんだ?」

「廃品回収とか捨てられてる参考書を拾って…」

「すげーじゃん、栄!俺よりよっぽど頭いいんだ!学校行けよ!絶対楽しいって!」

 雪は栄の両肩をつかむと心底嬉しそうにブンブンと遠慮なく上半身を振り回した。

  ピンポーン

「あら、誰かしら」

 会話を遮ったインターホンの音に雪は眉をひそめた。

「俺が出るよ」

 玄関の扉を開くと、そこには雪の思った通りの人物が立っていた。

「どーも、『ウチの』栄がお世話になってるようで」

 グレーのスーツ姿の青年が頭を仰々しく下げる。

「池条……ナヲ…」















「言っとくけどな、栄は自分の意志でここに来たんだぜ」

「知ってる。巴から全部聞いた。お互い栄の頭脳と能力は喉から手が出るほど欲しいはずだ。だから手を結ばないか?」

 差し出された右手を、雪は何のためらいもなく払いのけた。

「巴の能力はほしいけど、テメーには何の興味もない」

「お前、まさか俺の能力を…?」

 顔色が変わるナヲに、雪は意地悪く笑う。

「悪いね」

「クソッ!好きにしろ!ただどうなっても知らねーからな!」

「ナヲ…」

 吐き捨てるナヲは、居間から出てきた栄と目も合わせなかった。

「すまない」

 その声が聞こえる直前に扉は乱暴に閉められた。















 それ以来は本当に楽しい毎日だった。平日の昼間は高校に入学するための勉強をしてー数学と理科は問題なかったが、国語・社会・英語は勉強したことがほとんどなかったためだー休日にはしょっちゅう砂城や西夜と東子が遊びに来た。勉強は飲み込みの早さに良一が舌を巻くほどだった。良一は雪と同じ考えらしく、戸籍すらない自分が高校に入るための非常に煩雑な手続きをこなしてくれていた。















「栄クン、雪に拾われてホントによかったわね」

 円香が出してくれた紅茶を上品な仕草で口に運びながらしみじみと砂城は言った。

「ああ」

 栄は俯いて口の端だけで笑った。

「栄クン可愛いんだけど、砂城には雪がいるからなぁ」

「雪にはその気はあらへんのにな」

 隣で西夜が平然と言い放つ。

「よくぞ言ってくれた、西夜!」

「ぶー、いいもん!砂城だって、もうちょっと大人になれば、すっごい美人になるんだもん!そうなってから言い寄ってきても遅いんだからね、雪!」















 猛暑の夏が過ぎ、秋になり、冬が近づいた頃、突然その日はやって来た。

「琉真=アークライト?」

「ああ、今日本に来てるんだって。会いに行く。栄も来るか?」

 雪の問いに栄は気楽に頷いた。

 電車を何度か乗り継いで着いたのは小さな古い一軒家だった。庭先で待ち構えていたのは、低学年…いや幼稚園児にも見える幼い金髪碧眼の少年。雪は彼に流麗な英語で話しかけた。少年もそれに英語で答える。栄の分からない速さで。数十分笑顔で会話し、握手を交わすと手を振って別れた。栄は初めて疎外感を感じた。















 帰り道、駅までの道のりで雪は急に立ち止まった。

「雪?」

「お前さー、もういいよ。ストリートに戻れよ」

「え?」

 聞こえなかったわけではない。言っていることが信じられなかったのだ。

「琉真の方がお前より頭もいいし能力は都合のいいものだし」

 一呼吸おいて雪は栄に言った。

「琉真が俺らの仲間に加わってくれるって。だからもういらねーんだよ、お前のこと」

「う…嘘だろ?雪!」

「何度も言わせんなよ。お前のこと必要なくなったのに、そんな厄介な能力持ってる奴にうろちょろされるとこっちとしてもジャマなんだよ」

「何を!」

 栄が慌てて雪の手を握った。

「触んな、気持ち悪い」

 見たことのない冷たい瞳。手を振り払うと雪は踵を返した。















「見てんだろ、都音架織」

 栄が見えなくなるのを確認してから、雪はどこの方でもなく声をあげた。

「はい、でもどうして決心されたんです?」

 雪の背後の路地から小学高学年ほどの子がニコニコしながら顔を出す。

「あの琉真と栄がいれば、もう砂城達は俺がいなくても大丈夫みたいだからだよ」

「子離れですか」

 冗談めかしく架織は笑って白い布に包まれた手のひらに収まるほどの物を差し出した。

「?」

 布を開けるとそこには一本のサバイバルナイフ。

「切れ味はお墨付きですよ」

「いや」

 雪はそれを包み直すと架織に返した。

「これはいらない。俺が決める。じゃあ、俺の望みを言おうか」















 栄は人ゴミの片隅で座り込んでいた。不意に自分に影が覆いかぶさって来た。

「やっぱり捨てられたか、栄」

 久々に見る顔が二つそこにはあった。

「巴の…能力か」

「ああ、ただ道を歩いてたんだけどな」

 巴はふいっと顔をそむけた。

「やっぱりお前に普通の生活なんて無理なんだよ」

 言って、右手を差し出した。手袋をした右手でそれを握って立ち上がる。

「同じ穴のムジナなんだよ。雪達みたいなお上品な連中とは根本的に相容れねー」

「私は…雪の考えていることが分からない」

 俯いて呟く。

「だったら戻って来いよ」

「ナヲ!こいつはオレらを裏切った……」

「いや、いい」

 巴の声に栄の声が重なる。

「私は…一人でやって行く」

 言うと、ナヲの手をそっと離した。















 何日くらい経っただろう。

 何日くらい食べていないのだろう。

 公園や路上で寝泊りするのは慣れていたが、こんなに誰とも話さなかったのは初めてではないだろうか。

(このまま…死んでもいいか…)

「栄!」

 最初は空耳だと思った。うっすらと目を開くとそこにあったのは、一番見たかった顔。

「ゆ…き……何でここに?」

「東子が教えてくれた!池条ナヲや巴のところ行ったんじゃなかったのかよ!」

「今さら…戻れるか……」

「お前には生き残ってもらわなきゃ困るんだよ!砂城達と池条ナヲ達の架け橋になるために!俺が…俺のやり方が悪かったのか!なら謝る!だから今すぐ池条ナヲに…」

 栄は首を横に振る。

「雪…雪の目的はなんだ?仲間を集めてると思ったら突き放して…私は…私はどうすれば…教えてくれ。何がしたいんだ?あの時、琉真=アークライトと何を話していた?」

「もう喋るな!栄!」

 雪は栄の骨と皮だけになったような体を全身で抱きしめた。

「お前は…俺の代わりに」

 耳元で囁く。

「え?」

『能力解除』

 その次の瞬間、雪の服の袖がチリチリと焦げて行った。

「雪!お前?」

「栄とは違って、俺は自分の意志で能力を消せるんだよ」

「なっ!」

 全身を徐々に炎で焼かれる雪は最期の力で栄の右手を強く握った。

「俺は…もう……疲れたんだよ。砂城……達を…よろしく……頼む」

「雪!ゆき!待て!お前が死んだら私はどうすればいい!」

「ああ…お前ら……やっと会えたな……」

 雪が最期に見せたの穏やかな凪いだ海のような笑顔だった。

 残されたのは淀んだ色をした灰。

「ゆきぃいいいいいいいいいいい!」

 叫びが空を穿つ。涙が止めどなく溢れ落ちる。地面に這いつくばり、風が運ぼうとした灰を必死で集めようとする。

 何の意味もない愚かな姿。そんな栄の手の甲に一粒の白い結晶が落ちて来た。

「雪……?」

 空から降る雪は灰と砂を混ぜてしまう。

「やめろ!やめろ!ゆきっ!ゆきっ!ちくしょぉおおおお!」

 まるで神に祈るように土に頭をつけ、あらん限りの力で地面を叩き付ける。手が血まみれになる栄に容赦なく雪は降り続けた。

「雪…どうしたの……?」

 公園の入り口で砂城と西夜が佇んでいた。砂城は栄の両肩を揺り動かす。

「ねぇ、雪はどうしたのよ!答えなさいよ!」

「………こうなることが分かっていたから、雪は私を遠ざけたのか?」

「バカッ!本気でそんなこと思ってるの?あんたの能力さえなかったら、とっくにボコボコにしてるわよ!雪は筑波あづみの能力を聞いて、彼女が敵に回った時、あんたの居場所だけでも隠そうと思ったのよ!」

 砂城も地面に膝をついた。

「何でバカなのよ……みんな…みんな……」

 西夜が砂城の体を支えた。

「近いうちに連絡する」

 冷やかなその声に栄の涙はようやく薄らいだ。















「栄君!」

 良一は玄関を開けるなり飛び出して来た。

「さっき水吹くんから電話があって雪が……」

「私が…殺した……」

「あ、ああ。とりあえず中へ」

「私が……私が…雪を…殺した……」

 ボロボロになった栄を見て痩せこけた姿に円香は驚いた様子で台所に駆けて行った。貰い物のケーキや買い置きしていた菓子を皿に開け、栄の前に出した。

「……いらない……」

「食べなさい!」

 いつになく強い口調を栄に投げかける。

「雪は自分で死を選んだんだろう、君に全て託して。ならば君はそれに応える義務がある」

 良一も険しい顔で栄に言った。

「君はどうしたい?」

『すげーじゃん』

 何故だろう、突然この言葉が思い出された。

『すげーじゃん、栄!俺よりよっぽど頭いいんだ!学校行けよ!絶対楽しいって!』

「……っこ…」

「え?」

「……学校に…行きたい………です」

 なんて身勝手なんだろう。こんな時に…学校だなんて……。ボロボロ涙がこぼれ落ちる。

「よし、よく言えたな。ならここにいればいい」

「いえ」

 涙を左袖で拭いながら栄は首を横に振った。

「後見人になって…いただければ……生計を立てるメドがついたら出て行きます。ここは雪との思い出が多すぎて……辛いですから」

「そうか…そうだな。君は理系が得意みたいだからコンピュータの勉強をするといい。すぐに身を立てれるようになるだろう。それまでは…」

 円香がスッと銀行の通帳と印鑑を差し出す。名義人は『旗右雪』中にはかなりの…一人で暮らすには十分すぎる額の…数字が刻まれていた。

「あの子が遺して行った物だよ。こっそりとアルバイトとかしていたらしい。自分に何かあったら栄君に渡してくれ、と頼まれていた」

『あんたの能力、いくらで売る?』

 反芻される最初の言葉。良一はどこか寂しげに言った。

「しかし学校に行くのなら、苗字がなければ困るだろう。高校の入試準備の手続きは全て私の名前でしていたから、旗右栄、それでいいか?」

「きゆう…さかえ……」

 栄は喉の奥で繰り返した。それは自分が背負うべき十字架。

「はい。ありがとうございます」

 一呼吸置いて栄が口を開いた。

「それからあと一つだけ聞きたいことが」

 栄はおずおずと聞き出した。

「雪ってどういう経緯でここに来たんですか」

「……」

 問いかけに良一はしばらく黙っていたが口を開いた。

「雪は四歳位の頃私の働いている施設に来た。父親はアルコール依存症でな、ギャンブルも好きで相当借金もあったらしい。時々、施設にまで取り立てが来てたからな。数年前に亡くなったよ。母親は雪の弟か妹を産む時に亡くなった。その子はどうしているのかは分からない」

 一息ついて栄の顔を見た。

「だから嬉しかったんじゃないかな。念願の弟ができて」

「でも私は…」

 栄はまた涙を落とした。

「雪に…何もしてやれなかった…」

「そんなことない。君自身が雪が生きていたという証だ。雪が遺して行ったものだ。だから……」

 良一は目を凛とさせた。

「だから君は生きろ、旗右栄!」















 翌日、西夜からの連絡に応じ、着いたのはこじんまりとした一軒家だった。

「伊邪那美…様が…ここに……」

 ゴクリ、と喉を鳴らす。玄関を通されると、自分より少し年上の少女が頭を下げた。

「栄様ですね。水吹西夜様から伺っております」

 二階に通されて扉をノックした。

「どうぞ、栄様」

 扉を開けると窓辺に佇んでいたのは自分と同じ年頃の和服姿の少女。

 長い黒髪に透けるような白い肌、そして端正な顔立ち。栄は一目で心を奪われた。















 それは決して愛してはいけなかった人















「貴方が…栄様ですか?」

「はい。でも『様』なんてつけていただく資格はありません。私が雪を…そして貴女を殺しました」















 これが物語の始まり

 ひとつの長い物語の終わりと 始まり



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