かむがたりうた 第拾章「ゴミ」
山路を登りながら、こう考えた。
智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。
住みにくさが高じると、安い所へ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生れて、画が出来る。
人の世を作ったものは神でもなければ鬼でもない。やはり向う三軒両隣りにちらちらするただの人である。ただの人が作った人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。あれば人でなしの国へ行くばかりだ。人でなしの国は人の世よりもなお住みにくかろう。
夏目漱石「草枕」
真っ白な世界が不意に町並みに塗り替えられた。安の視線の先にいるのは佇む女性。
「母さん!」
白いワンピースを来た、痩せた女性が振り返る。長い髪を風になびかせながら、虚ろな瞳が安を映した。
「やす…し……」
安が駆け寄ると、女性は安の首を両手で掴み押し倒した。
「…な…なにを……か…さ…ん……」
締めつけられる首に掛けられた手を振りほどこうと、もがく。
「ごめんね……ごめんね……安……あなたが産まれなければよかったのにね……でも…安心して……母さんもすぐに行くからね……」
「やめ…やめて……俺は死にたくなんか…!」
「…ごめんね」
手に力が込められ、苦しみと痛みに安の顔は歪む。
「……あ…さ……」
全身の力がスッと抜けた。意識をなくし、世界がブラックアウトした
次の瞬間、部屋の天井が目に入った。寝たままの安の目から一筋の涙がこぼれ落ちる。
「母さん…」
早朝の境内で少女はかざした手をゆっくりとさげた。
「思い出していただけたかしら。太榎安さま」
誰も見ていないところでクスクスと笑う。焦茶の髪が朝の涼しい風に揺れた。
「ご自分の罪を」
「校歌斉唱」
その声を合図にガタガタとパイプ椅子が揺れる音がする。立ち上がらされた全校生徒…入学式は明日なので、二学年しかいなかったが…は聞き慣れた校歌を何の感慨もなく歌う。
これを皮切りに安達の二年目の高校生活が始まった。
「じゃぁ、泉原君、安のお守りよろしくね」
文系理系・公立私立と目指す大学受験によってクラス分けされた二年は、遥歌と都音は公立文系、安と泉原は私立理系、とクラスが分けられた。分けられたと言っても隣のクラスだ。小学生の頃からクラスが違うことはよくあったし、それほど離れた気はしなかった。担任も嫌いな先生ではない。安は大きくあくびをする。
「いい天気で眠いのか?」
出席番号順に並べられた前の席の泉原が振り返る。すっかり春めいた桜の樹を窓から眺めながら泉原は笑った。
「いや、今朝ちょっと夢見が悪くて…」
「そいじゃさ、眠気覚ましに放課後遊びに行かねえ?今日半ドンなのに入学式の準備で部員がほとんど駆り出されて、部活休みなんだよ」
泉原は大げさに両手を振り回したが、安は首を横に振った。
「ちょっと寄りたいところあるから」
「そっか、しゃーないな」
泉原はそれ以上の追求はしなかった。
放課後、安が向かったのは大きな総合病院だった。制服姿で受付に挨拶をすると、見知った看護士の女性が会釈した。
「母さんは相変わらずですか?」
「ええ」
彼女が悪いわけではないが、すまなそうに返す。外科のエレベーターで五階に上がると、安は慣れた様子で個室の白い扉を開けた。
「母さん」
返事はない。目を閉じてベッドに横たえられた壮年の女性は、ひどく痩せこけていて顔色も芳しくなかった。枕元にスツールを引きずってきて、そこに座る。骨の形まで分かる土色の手を握ると、安は自嘲気味に笑った。
「ごめんね、しばらく来れなくて。春休みはいろんなことがあったんだ」
ピクリとも体を動かさないが、安は続ける。
「あの神社に居候が増えたんだ。琉真って言うすごく頭のいいハーフの子。それで毎日賑やかでね。すごく楽しい……」
笑って早口でまくしたてていたが、一呼吸おいて眉をひそめた。
「ねぇ、母さん」
今までと対照的にゆっくり迷うように問いかける。
「どうして俺を殺そうとしたの?」
「茅原さん、これから新しいクラスの懇親会があるんだけど来られるわよね?」
モダンな校舎に綺麗な教室。机や椅子もよくある学校のものではない。『お嬢様学校』と呼ばれる綾楓女学院。
教室で帰り支度をしていた砂城は。新しい名前も知らないクラスメートに声をかけられた。
「茅原さん、お綺麗で人柄もよさそうなんですもの。ぜひお友達になりたいわ」
上品な笑顔だが「茅原グループのお嬢さんと仲よくしておきたいわ」とありありと顔に書かれている。
「ごめんなさい。これから断れない用事があるの」
「あら、そう。じゃぁ次の機会があったら、ぜひいらしてね」
意外にあっさりと引き下がった。
砂城は喧噪の残る教室を足早に立ち去った。ここで友達を作ろうとは思ってなかった。どうせ家柄しか見ていない。性格も容姿も同性に好かれるタイプではないことは自分が一番知っていた。それで構わない。高級車がこれでもかと横付けされた校門を出て、五分もかからない駅で電車に飛び乗った。
帰り道。
新宿駅で乗り換えをする時、安はふと思い立ってコンビニに飲み物を買いに寄った。都会の真ん中にしては広いコンビニは数人の客がちらほらといるだけだった。ペットボトルがこれでもかと詰め込まれた冷蔵棚のドアを開け、五百ミリの炭酸飲料を取り出す。
ドアを閉じた時、ふと小学校高学年くらいの少年が目に入った。濃紺無地のバンダナで頭を巻いて、薄汚れてよれよれになったトレーナーとハーフパンツ。手にはこれまたよれよれのレジ袋を提げている。少し生意気そうな少年がパン売り場で立っていた、次の瞬間、袋に大きな菓子パンを数個レジ袋に投げ込んだ。
「万引き……?」
少年は安の視線には気づかず、急ぐように早歩きで店を出る。安は飲み物を慌てて元の売り場に戻すと、少年の後を追った。
「ちょっと!キミ!」
少年は平然とした顔で振り返った。
「なに、あんた?」
「今盗ったでしょ?その袋の中見せて!」
チッと舌打ちして、乱暴に袋を渡す。
「やっぱり!」
予想通り、袋の中にはメロンパンが二個とビッグサイズのあんぱんが三個入っていた。
「何で分かったんだよ?」
「あれだけ堂々とやってたら嫌でも目につくよ。店員さん連れてくるよ!」
「なんだよ、見つかるわけなかったのに!」
意味不明な叫びをあげる少年。
「俺の美しすぎる顔に免じて、許してやってくれね?」
二人の会話に横やりが入った。
「こいつ生活かかってんだ」
「池条さん?この子と知り合いですか?」
声の主は池条ナヲだった。
昨日見たスーツ姿とは打って変わって、ラフな格好。白いジャケットに黒の上下。胸元で高級そうなシルバーチョーカーが揺れている。眼鏡も伊達だったのかコンタクトか、今はかけていない。
「で…でも悪いことには変わりないですよ…!」
「おかたいなぁ、安。じゃぁこう言ったらどうだ、こいつは能力者だ、って」
「安?」
「能力者?」
安と少年は同時に声をあげた。
「安ってあの太榎の?最悪だったと思ったのに、やっぱラッキーだ、オレ!」
はしゃぐ少年は安に向かって愛想程度に頭を下げる。
「はじめまして、巴(ともえ)ッス」
「こいつの能力は『無条件で運がいいこと』」
ナヲが補足した。
「運が…いい?あ、だからさっき見つかるわけないって」
「でも、おかげで太榎安に会えた」
巴がニカッと笑う。
「巴って苗字?名前?」
「苗字でも名前でもねぇ。俺は昔から『巴』としか呼ばれてねーからな」
「どういう…こと?」
「知りたいならついて来いよ。ただパンは返さねーからな」
巴は中央公園の方を指差した。
「ナヲ、今日は仕事は?」
「有給は使い切る主義なの、オレ」
ピッと指を立てると、逆方向に歩いて行った。
「よぉ、巴。収穫はどうだ?」
「あんまし。途中で邪魔が入ってな」
「そこのお坊ちゃんは、新入り…なわけないよな」
「俺のお客さん」
公園の奥に行くと、巴と同じように薄汚れた服を来た様々な年代の人が声をかけてきた。もっとも最年少は巴のようだったが…。
「アンパン盗って来てくれたか?オレもう二日くらい何も食ってないんだよ」
安と同じくらいの年頃の男が声をかけた。
「ほら」
男にえいっと投げつけた。袋の中をチラッと見たら、パン以外のものも結構入っていた。
「おおっ!サンキュー!」
「……巴君」
「『巴』でいいぜ」
「巴…ここってホームレスの…」
「ホームレスってか、ストリートチルドレンみたいなものだけどな。年寄りはともかく、若いのには家があってたまに帰るヤツもいるし、逆に時々ふらっと来てすぐに帰るヤツもいる」
「巴は?」
安の問いに悪びれもせず笑って返した。
「親兄弟家なしの天涯孤独であります」
態度や口調がナヲによく似ていた。
「でも…養子とか施設とか」
「俺はこっちの方がいいんだよ。言っとくけど…」
安を指差し、意地悪く笑った。
「栄も十四歳まで、ここで暮らしてたんだぜ」
「旗右先輩が?」
「きゆう…あ、そっか今は旗右って苗字なんだよな。絶対無理だと思ってたのに、無事高校卒業したらしいじゃねーか」
「ここって……一体…」
「ゴミダメだよ」
「え?」
吐き捨てるように言ったがその目には凛とした空気が流れていた。そうあることが自分の誇りであるように。
「ぬくぬく育った奴には理解出来ねー社会に捨てられたゴミの集落だ」
「でも…」
安は声を振り絞った。
「やっぱり盗みはよくないよ。何か…もっと何か方法があるだろ?」
「太榎様のご高説なんて聞く気ねーぜ」
巴は肩をすくめた。
「なら」
安はためらったが口にする。
「言霊使ってでも止める」
「てめーにそんな権利あるのかよ?」
「巴君」
厳しい目で言う巴の言葉にかぶさるように、少女の声がした。肩より少し長い黒髪に穏やかな表情。青緑のアンサンブルに、柄であふれたロングスカート。
「今日、始業式で時間があったから…ケーキ焼いてきたんだけど、みんなで食べる?」
少しおどおどしながら大きめのケーキ箱を差し出す。巴の顔がパッと華やいだ。
「マジ?ありがとー、比呂乃!」
その様子を見て心底嬉しそうに弓比呂乃はホッと微笑んだ。
「弓さん…でしたっけ」
チョコレートケーキの奪い合いをする巴達を眺めながら安は少女に尋ねた。
「は、はい!」
「あなたはここによく来るんですか?」
服がきれいでアイロンの痕まで見えるところからここの住人でないことは見て取れた。
「はい…初対面の方にこんなこと言うのはどうかと思うんですが……その…父の再婚相手と折り合いが悪くてあまり家にいたくないんです。だから休日とかは親戚のやってる無認可保育所でお手伝いしてるくらいで…」
重い空気を取り払おうと比呂乃は笑顔を見せた。
「太榎さんは弘英高校ですよね、その制服。私、都立星ヶ丘の二年なんです。近所ですね」
「俺も二年…同い年ですね」
二人は穏やかに笑った。
「じゃぁ、俺そろそろ行きます」
安は立ち上がると、ズボンについた砂を払った。
「あ、せっかくなんで…」
比呂乃はバッグからメモ帳とペンを出すと何やら走り書きをした。
「これ、私のIDです。何かあったら」
「それじゃ、後で登録しておきます」
書かれたIDを登録して簡単な挨拶を送ると比呂乃の携帯が鳴った。
「ありがとうございます」
嬉しそうに笑う。あどけなさの残る嫌味のない可愛い子だと思った。こんな子と上手く行かない義母の気持ちが理解出来ないくらいに。
早く帰ろうと、安は歓楽街の裏道を通り抜けていた。似たような店が卑猥なキャッチフレーズを掲げる中、安が通ると同時に一軒の店の通用口が開かれた。
「それじゃお先に失礼します」
「また明日ー」
「砂城ちゃん!」
派手なメイクで固められた女性の姿を見て安は思わず声をあげた。
「や、安クン!何でこんなところに!」
「それはこっちの台詞!砂城ちゃんのバイト先ってまさか…」
「あーバレちゃったらしょうがないか」
砂城は髪をかきあげる。
「大企業のお嬢様じゃなかったの?」
「砂城は縁切られちゃってるから、学費は家が出してくれてるけど自分の生活費は自分で稼がなきゃ、なの」
「でも年齢制限とかいいの?」
「砂城、高校一年留年してるから問題なし!もっとも十八歳になる前から歳ごまかして働いてたけど」
あっけらかんと答える。
「問題なくないよ!旗右先輩や西夜達は知ってるの?」
「知ってるわよ。お金がいるのよ。紅音もいるし」
「紅音ちゃんも砂城ちゃんが育ててるの?」
「うん、言ってなかったっけ?」
平然と頷く砂城。混乱する安はそれ以上言葉をつなげなかった。
「砂城ちゃんのことなら、みんな知とったよ。ただ本人が言わへんのなら他人が口出しすることやないやろ。ウチらに何ができるわけでもなしに」
湯のみを両手で持ちながら、居間で西夜が事も無げに言った。
「そりゃそうだけど…でも……」
「それより池条さんや巴君に会うたことの方が驚きやわ。さすが運がええだけが取り柄のことはあるなぁ」
言うと、茶をゆっくりとすすった。
「これで安が出会っとらへん生き残っとう能力者はあと一人。僕らの誰も居場所が把握できてへん人が一人いる。栄さん達も探しとうけど、いかんせん手掛かりがのうてな」
「『あと一人』だってさー。俺のこと完全に忘れられてるね」
右耳だけにつけていたイヤホンを外して、ケラケラと笑った。長めの髪を後ろに束ねて、よれよれのシャツを構わず着ている。
「まぁ、死んだと思われてるから仕方ないかなー。こんなにピンピンしてるのになー」
頭をかきながら、盗聴器の受信機を鞄の中へしまった。
「なー、ユエ」
足下でじっと見つめる黒猫に向かって青年は冗談めかしくスネた仕草をした。
「あんなに可愛いのになぁ、比呂乃ちゃん」
パン
玄関に頬を叩く音が響いた。
「何時だと思ってるの?あなたの帰りが遅いとお父さんに叱られるのは私なんですからね!」
「ご…ごめんなさい」比呂乃は頬を押さえながら、泣きそうな顔で頭を下げた。
「ったく…しおらしい顔して夜遊びばかりして勝手な子!夕飯はどうせいらないんでしょ!あなたの分は用意してないわよ!」
乱暴に吐き捨てられた声に肩を震わせる。
「ゴミみたいな子!」
何も言わずに比呂乃は二階への階段を上がった。部屋に入った途端、こぼれてきた大粒の涙。
(私は…私は…ゴミ屑ですか?)一人で繰り返した。
「ナヲ…さん……」
ピンポーン
インターホンを鳴らしてから、かなりの時間を置いてゆっくりと扉は開かれた。
「旗右先輩、また頼み事が…」
遥歌は笑顔で言うと、灰色がかった顔色をした栄はよろよろと歩み寄った。
「天川…か……」
栄は遥歌に触れないように突き飛ばす。
遥歌はアパートの外廊下に尻餅をついた。それを見て栄は玄関で倒れ込む。
「旗右先輩!」
立ち上がり駆け寄る遥歌。
「私に……触れるな……」
その言葉を最後に栄は気を失った。
「………ゆ…き…」
一言うわごとを残して。
「お客さん、着きましたよ」
タクシーの運転手が声をかける。後部座席でナヲはすっかり熟睡していた。
「お客さん、起きてください!お客さん!」
後ろの扉を開けてナヲの肩を揺り動かす。
「……う…」
「お客さん!」
「………ミラ…」
「お客さん!」
ハッと目を開いた。寝ぼけた頭を振り払うように首を振る。
「悪かった。今下りる」
「四三二〇円になります」
現金の代わりにタクシー券を渡し、タクシーを見送った。
「…ミラの夢なんてどのくらいぶりか…」
手を握られている。
温かい手の感触。
懐かしい感触。
「……ゆき…」
「ゆき?」
ソファベッドに横たえられていた栄は目を見開いた。
「あ、目が覚めました?貧血だと思いますよ。どうせロクに食べてなかったんでしょう?」
笑顔で言う遥歌に栄はギョッとした。
手袋のない素手の栄の右手を、両手でしっかりと握っていたからだ。思わず手を振り払う。
「お前…何ともないのか?」
「何がです?」
フフッと笑うと遥歌は首を振った。
「って言いたいところなんですが、全部知っちゃっているんですよ。先輩の能力も。大丈夫、あたしには利きませんよ」
普段と変わらない少し意地の悪い笑顔。
「貴様も能力者…いや、そんなはずは…」
「秘密です」
未来が変わってしまうので、と付け足した。
「でも先輩の能力がなくなったわけじゃないので、普段はちゃんと手袋してくださいね」
ウィンクすると台所に駆けて行った。
「よし、シチューできましたよ。あとレトルトとかでも栄養ありそうなの買い込んできましたから。学校行ってたら昼ご飯食べなきゃだけど、卒業してから手抜いてたでしょう?」
体を起こし、立ち上がる。
「すまない。いくらかかった?」
棚から財布を取り出す。
「守銭奴の先輩からお金取るなんて怖くてできませんよ。その代わり、また仕事頼みますね」
それ以上のやり取りは無駄だろう。遥歌の利口さを誰よりも知っている栄は財布をしまった。そして差し出された皿を、一言礼を言ってから受け取った。
あれはどのくらい前のことになるだろう。まだ自分が路上や公園で寝泊まりし、ゴミのように見られていた頃だった。
「すげえ、栄!これでテレビ見れるのか?」
巴が目をキラキラさせて覗き込む。
「あまり顔を近づけるな、感電するぞ」
川辺で巴が拾ってきたスクラップを直していたとき、橋の上から呼ぶ声がした。
「なぁ、あんただろ?栄って」
ニヤニヤしながら言う自分より少し年上の少年。
明るく染めた茶の髪が目を引いた。
「あんたの能力、買ってやるよ」
「?」
「俺は旗右雪(ゆき)。上から読んでも下から読んでもキユウユキ。なぁ、あんたの能力いくらで売る?」
それが出会いだった。
自分を人間として扱った最初の人間との出会いだった。
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