かむがたりうた 第参章「イエ」




われと来て遊べや親のない雀



        小林一茶



















天井を見て

一瞬別の世界かと

思った







「…………ああ、そうか」

 うっすらと開いた目をこすりながら安は掛け布団を上げた。この三日で俺の人生は大きく変わった。本当に別の世界に来てしまったように。でもこの選択が間違っていなかったと

『にゃ』

よかったのだと思いたい……

 ぼやけた視界にうつったのは客間の壁ではなく、真っ黒の

「にゃ?」

 猫。



  バリバリバリ





「にゃー!」

すいません、前言撤回。

「せ……西夜………」

やっぱりちょっと血迷ったかもしれない。













「だって天川さんが」

 白飯、みそ汁に焼き魚と煮物、漬物が並ぶ食卓を安は初めて実際に見た。しかし、その立派な朝食より、頬の引っ掻き傷の方が気になる。

「確かにハルは殴ってでも起こせって言ったけどね。でもこんなことに能力使わなくても…」

「気にせーへんでいいよ、減るもんやないし」

 大きなちゃぶ台の向かい側で得意げに鳴く。

 黒猫を膝に乗せて悪びれもせず西夜は言う。

(俺の寿命が減るって!)

「すみません、太榎さん。西夜さんはいつもこうなので」

 横から急須を持ってきたのは和服の上品な老女だった。

「どういう意味や、婆ちゃん」

 西夜が口を挟む。

「あ…いえ…こちらこそロクに挨拶もしないで」

「私はお父様とは少し面識があるんですよ」

「そうなんですか?」

「遅れましたが、時実鏡子(ときざねきょうこ)と申します。西夜さんと東子さんのお世話をさせて頂いています。よろしくお願いいたします」

 深々と頭を下げる。

「あ、太榎安です。お世話になります」

「困ったことがあったら遠慮なく仰ってくださいね」

(今、誰かさんの性格に困ってます)喉まで出かけた言葉を飲み込んだ。

「あ、東子、おはよー」

 西夜が声をかけた先には襖に体半分隠れた少女がいた。

「ウチの妹の東子」

 言われると、少女は黙って顔を見せた。

 前も後ろも切りそろえられた髪。小柄で色白の立ち姿に白と赤の袴が映える。少女は無表情のまま安に軽く頭を下げた。

「はじめまして、太榎安です」

 返事はない代わりに西夜が割って入った。

「念のため、東子に手ぇ出したりしよったら、全身全霊をもってブチ殺すから☆」

(わぁやっぱり俺、この恐怖屋敷出て行きたいかも)













「その…」

 焼き魚を口に運びながら安は言う。

「無口な子だね」

「あぁ、東子は喋れへんのや」

 西夜が答える。

「え?」

「東子にも能力があってな、預言者の力。全てを見通し預言する能力。その代わり、預言以外の言葉は口に出来へん」













「ハルさんから聞いたけど、お前今日からフシギ少年の家で居候なんだって?」

 放課後、帰宅の準備をしていた安に泉原が話しかけてきた。遥歌は卒業式の準備で生徒会室に呼び出されて行っていた。

 安が転校を取り止めにし、戻って来た時、クラスは一時騒然としたものだが、それなりにクラスメートの帰還を祝い、すぐにまたいつも通りの生活に戻って行った。

「あはは、フシギ少年かぁ。言い得て妙。神社の離れだけどね」

「でも意外、安が他人と暮らそうとするなんて。どっちかってと人と距離置くタイプじゃん」

「うーん、なんとなく頑張ってみよーかなーと」

「何をだよ」

「いろいろ」

 大きく伸びをする安を見て、泉原はポリポリと頬をかいた。

「…まぁ、いい傾向なんじゃない?」



 ひょい、と覗き込んだ顔に智樹は手を止める。透き通る白い肌に横だけ伸ばした茶色の髪と奇妙なほど整った顔だち。

「あれ、今日は人が少ないですね」

「卒業式の準備にかり出されていつも以上に人いないんだよ」

「俺と泉原の二人だけで、都音入れても三人。バスケやめてオセロでもするかって言ってた……痛っ」

 茶化す部員を智樹は殴って止める。それに架織は笑いながら答えた。

「でも二人が三人になってもあんまり意味がないんじゃ…」

 当然の指摘に重い沈黙が流れる。

「…オセロやめて大富豪でもするか、部長?」

「………やめろ」

 架織は空笑いしながら上着をを着たまま、体育館に入る。

「今日は練習なしで帰りますか?」













「天川!旗右を知らないか?」

 講堂でパイプ椅子を並べる遥歌に飛びついて来たのはある教諭だった。

「知りませんけど……どうかしたんですか、河合先生?」

「どうもこうもないっ!旗右を特待生で取ってくれる大学があったんだ!で、説明するから放課後来いって言ってたのに…」

「……逃げられたんですか『また』」

 冷ややかな遥歌の言葉に河合教諭は大きく頷く。

「旗右は一体何が不満なんだろーなぁ」

 がっくりと肩を落とす中年の物理教諭に苦笑する。

「もう、来週卒業ですし、いいかげん諦めたらどうですか?先輩、経済的にも大学行くの難しそうですし…」

「わかってるよ。だからこうして、学費免除で返済不要の奨学金まで出るなぁ……」

 資料の束を抱えて力説するのを横目に、遥歌は椅子の並びを正して行った。













 帰路、通学路を歩く安に、反対側からやってくる姿が見えた。

(旗右先輩…)社交辞令にぺこりと頭を下げるとすれ違いざま低い声がした。

「あの家から出て行け」

「え?」

「水吹の兄の口車に乗せられているようだが、命が惜しければこれ以上水吹に関わるな。父親の二の舞になりたいか?」

「ち、ちょっと!旗右先輩!それって…」

 ぐいっと深緑の制服の裾をつかむ。

「触るな、放せ」







放せ 化け物が







父さんに似た 低い声







革手袋越しの手で安の手が強くふりほどかれる。

反動で数歩後ずさり、呆然とする安。

それを見ようともせずに再び栄は人ごみの中に姿を消した。





『放せ』







安は少しよろめき、石塀に背中を預ける。

得体の知れない頭痛に襲われ、頭を抱えた。







 それは記憶







『放せ 化け物が』





次第に荒くなる息遣いを必死で抑える。

引き戻されて来る記憶を必死で抑える。

流れ出る一筋の汗。

心臓の音が自分でも聞こえる。







 だめだ

 だめだ

 来ちゃだめだ

 ここに来ちゃだめだ

 ここに来ちゃだめなんだ







『嫌わないで』







 目眩が した。















「太榎さん!」

 流れ出す声を止め、安を現実に引き戻したのは少年の声だった。頭を覆っていた手を少し放すと、自分の顔を覗き込み伺っていたのは架織。

 安は徐々に自分の神経を街の中に返す。

「トネ…」

「真っ青ですよ。大丈夫ですか?」

 架織は気遣わしげに目を細める。

「あ…うん……だいじょぶ…ありがと」

 呼吸のペースも元に戻ってくる。

「体調悪いならお医者さんでも…せめて家まで送りましょうか」

「いや、ちょっと目眩がしただけ。大丈夫だから」

「そうですか?」

 そこで安は架織の顔をしっかりと見た。

 彼は顔を上げた安に穏やかに笑った。

「びっくりしましたよ。声かけようとしたら、いきなりフラついて気分悪そうにして」

「いや……いいから……ありがとう」

 架織は不安げに分かりました、と言って頭を下げ、安が今来た方向に歩いて行った。途中何度か振り返ったが、安は気がつかなかった。

 まだ痛む頭を押さえる。

「……『放せ』…か」

 微かに口を歪めた。















「えー!じゃぁ安クンまだ帰ってないの?マジで?」

 居間で西夜の鼻先二センチまで寄って叫んだのは高い声。

 この辺りのものではない黒いセーラー服。金に染めた長いウェーブヘアに人の目を引く美しい容貌。勝ち気な瞳に筋の通った面長の顔。恐らくその辺のモデルなど問題にならないのではないだろうか。

「砂城がわざわざ会いに来たんだよっ!」

 西夜は笑ってコーヒーカップを置いた。

「でも確かに遅いよなぁ、帰宅部って言うとったのに」

 外は夕暮れが支配していた。

「どうしたのかなぁ」



  俺は何をやってるんだろう。

  帰らなきゃいけないのに、こんなところ来て。

 ふと気づくと十五年も住み慣れた家の前にいた。今日帰らなきゃいけないのはここじゃないと言うのは分かっている。郵便受けを見ると何日分かの新聞とチラシ、電気代の明細書。

  もう決めたんだ頑張るって

(郵便止めとかなきゃ)

  だから

 それらと一緒に分厚い封筒が入っていた。

(俺あて?)

 てっきり父親の仕事の何かだと思ったら、宛名面に書かれたのは「太榎安様」という字。裏返し、差出人を見て固まった。





−太榎万夫−





  だからもうこれ以上かき乱さないで















「あかん、電話も出ーへんし、LINEも既読つかん」

 スマホを置いて西夜は言う。

「いくらなんでも遅すぎよぉ」

 ウェーブした髪を手で梳きながら砂城は返す。

「家出?」

「まさか。昨日来たばっかりで…トコちゃんは知らない?」

 東子は表情を変えずに首を横に振った。

「よね」

 二人で大きなため息をつく。

「まぁ、大丈夫でしょ。子供じゃないんだし」















「…駅です。お降りのお客様は…」

 電車がホームを滑り出る。





  俺は何をしてるんだろう





 降りた安は小さなメモを手にしていた。





  父さんあなたは





 そこに書かれていたのは一件の住所。





  どこまでついてくるつもりですか





 十分ほど歩いただろうか。

(確かこの辺)

 着いたのはある家の前。





  どこまで俺を動かせば





 古くも新しくもない、ひっそりとした佇まいの小さな一軒家。表札はない。白く塗られた壁に映える茶の窓枠。その向こうは二階の一つを除いて、全てカーテンでふさがれていた。





  俺は一人で生きられるのですか





 不意にその時、窓に人陰が映っているのが目に入った。二階から自分をじっと見下ろしている女性の姿。長い黒髪に透き通るような白い肌。濁った緑色の和服。黒い瞳と目が合った。





 途端、安の体中に痛みが走る。頭の中に流れ込んで来る映像。





  無数の人 人 人。





 歴史の教科書で見たような古い和服を着た男 女。





 何かをしきりに話す人。

  叫ぶ人。

  歩く人。

  走る人。

  泣く人。

  笑う人。

  書く人。



 ひどく遠くで誰かの声が聞こえた。

(誰?)

 悲しげに微笑む女。

(誰?)

 目に映ったのは写真でしか記憶のない男。

(父さん……?)

 笑って話しているが何も聞こえない。

  何も聞こえない。

 次の瞬間、安は受け身もとらずアスファルトに倒れこんだ。



 最後に見たのは

 遠く、ガラスの向こうでただ自分を見つめる女性の瞳だった。















 見慣れない天井が目に入った。

「やっと起きたか」

 低い声に上半身を起こし、周りを見渡すと、古いワンルームアパートのソファベットに寝かされていたことが分かった。

「目が覚めたなら出て行け。迷惑だ」

 声の主に目を丸くする。

「き、旗右先輩?なんで…」

「私の部屋だ。道端で倒れた貴様を引きずってくるのがどれだけ大変だったと思う?」

「す…すみません」

 畳み掛ける栄に謝りつつ、先輩は一人暮らしなのかと思いめぐらす。

「あの方がどうしても助けろと仰るから…でなければ捨ててきたものを…」

「そうだ!あの方って…」

 『あの女の人』という言葉を出す前に栄が遮った。

「貴様、何故あそこにいた?」

「え?」

「何故あの場所を知っていた?」

 冷たく厳しい目。

「あ…その…父から俺へっていう名義で郵便が届いてたんです」

 鞄から取り出した分厚い茶封筒と手に握っていたメモを差し出した。

「中には古い本とメモが入ってて、本は古文みたいで読めなかったんですけど、メモにはあの家の住所が書いてて…」

 くしゃくしゃになったメモを広げて見せる。

「気になって…」

 革手袋をした手で安からメモを取り上げた。

 しばらくの沈黙の後

「この字はナヲか…」

 ポツリと独り言を言った後、ゴミ箱に投げ入れた。

「ともかく二度と近づくな。あの家にも、水吹の家にも…」





  バタン





「安!」

 タイミングよく玄関のドアを開けたのは、その西夜だった。

「連絡もらって驚いたで!栄さんにいじめられたりカツアゲされたりしてへん?」

 走ってきたそのスピードのまま、安に抱きつく。

「だから大丈夫って言ったでしょ」

 聞き慣れない声が西夜の向こうからした。

「やっほー、栄クン」

「砂城」

 手を振る美女に、あからさまに嫌そうな顔をする。そんな態度は気にも留めず、彼女は安に向き直った。

「はじめまして、太榎安くんね」

 強気な瞳はそのままにたおやかに笑う。

「茅原砂城(かやはらさき)よ。砂の城、って書いてサキ、可愛い名前でしょ?あ、呼ぶ時は『砂城ちゃん』でお願いね。安くんかわいーから『サッキー☆』とか気安く呼んでくれてもオッケー。綾楓女学院の二年C組一二番。ついでに九月二七日生まれ天秤座のB型。好きな食べ物はハーゲンのチーズケーキ…」

「黙っとったら美人」

「てめぇが黙れ☆」

 口を挟んだ西夜に笑顔のまま黒い言葉を返す。

(ハイテンション生物が二人になった)安は頭痛が起こりそうな状況を嘆く。

「察しはついてると思うけど、西夜クンたちと同じ神の能力を持つ人と言えば分かるかしら」

 能力…ということは……

「じ…じゃぁやっぱり旗右先輩も……」

「右に同じってね」

 事も無げに砂城は続ける。

「ちなみに砂城と栄クンは超ラブラぶべっ!」

 言葉の途中で栄の革手袋が砂城の顎にぶつけられた。

「太榎、西夜。これを持ってさっさと帰れ」

(はいっ超ラブラブ☆でないことはよく分かりました)











「砂城」

 部屋を出て行った安と西夜に続こうとする砂城を呼び止めた。

「貴様と西夜はいつまで太榎を騙しているつもりだ?」

「あぁ、それで栄クン、キゲン悪かったんだ」

「質問に答えろ」

「だましてなんていないわよ。隠してることが多いだけ。砂城は栄クンほど優しくないの」

 ニヤリと口の端で笑い扉を開ける。

「じゃーね」

 扉は閉められた。















「ごめんね、西夜。迎えにこさせちゃって…わざわざ…」

「ちゃうやろ!謝るのはそこじゃないやろ!」

 夜道に声が響いた。

「遅くなるんなら電話くらいしてよ!どれだけ心配したと思っとんの?」

 心配?

「ったく何があったか知らへんけど…」

「西夜、心配とかしなくていいよ」

「は?な、何言うとるん?心配ってするなって言われてせーへんもんとちゃうやろ!」

「?そーなの?」

「『そーなの?』って…」

「ごめん」

 安は一呼吸おいて呟いた。

「分からないんだ、そういうの」

 月がきれいな夜だった。

「西夜、話したいことがある」















 西夜をつれて着いたのは

「ここって安の家?」

 安は鍵を開けて中に入る。

「ずっと父さんと二人でここで暮らしていたんだ。でも俺は…父さんの顔も声もほとんど知らない」

「え?」

 リビングの電気をつけて安はソファに座った。西夜もその向かいに座る。

「小さい時、母さんがいなくなって、父さんは大学にこもりきりだったから、しばらくは近所の人が来てくれたりもしたけど、すぐに来なくなって、それからは……」

 ソファの背もたれから背を離す。

「ずっとここで父さんを待っていた。毎月、父さんが一か月分の食費を封筒に入れて、テーブルに置いていなくなる。俺はそれで学校帰りに弁当を二つ買って毎日毎日、何時間でも」





  それは気の遠くなるほど





「今日こそは父さんが早く帰ってくるかもって、じっと座って待っていて」





  滑稽な話





「今日こそは一緒に夕飯を食べれるんじゃないかって」





  『あの日』から





「結局一度も俺のいる時に帰っては来なかったけど」





  気の遠くなるような時間を

  一人でただ待って過ごして来た

  拒絶されてると

  避けられていると考えないように





「俺にとっては家に帰ったとき人がいることも、帰りが遅くて心配されることも、食事が用意されてることすら……不自然すぎて怖くなる」

「それじゃウチが…」

「ううん、西夜が声をかけてくれたのは本当に嬉しかったし、このままじゃ絶対ダメだから頑張ろうと思ったけど…やっぱりムリな気がする」

 うなだれるように頭を下げた。

「ごめん西夜……本当にごめん」

「なんで安が謝るん?そんなのあかんに決まっとるやろ!そないして安は万夫さんの影を追い続けるんか!いつまで?一生?安は何もしてないのに、悪くないのに謝ってそんなのおかしすぎるやろ!」

 西夜は思わず立ち上がった。

「もっと怒れや!万夫さんにも親戚にも…無神経だってウチにも怒ればいいやろ!」

「…ごめん。俺、怒り方がよく分からないんだ」

「また謝っ…」

「でも代わりに西夜が怒ってくれてちょっとすっきりした。ありがとう」

 無邪気な笑顔。西夜は拍子抜けしたように苦笑して腰を下ろした。

「安は…ウチに来るために頑張るって言ったやん。でもきっとそこが間違っとるんや。家ってそういうものとちゃうんや。頑張って自分が迎え入れられようとするんやなくて、無条件で自分を受け入れてくれる所……ってまぁ家出中のウチが言うても説得力ないけどな」

 ポリポリと頭をかく西夜に安は首を振った。

「ううん、西夜の家を見たら分かる気がする」

「そうや。温かい食卓とか今から帰るって電話もそんなこと全てこれから取り戻せばいい。いや、そんな難しく考えへんでも、朝起きたらご飯ができてて楽やなぁとかでいいのかも。悪いことがあったらみんなで一つずつ直してくんや」

それは誰でも知っているはずのこと

「家ってそういうものやろう」

誰も気がつかないこと

「ありがとう、西夜」











「さてっ」

 西夜はカバンを持つとリビングの扉に向かった。

「帰るの?」

「ううん、今夜はここに泊まる。で、安に任務をつかわすで」

「は?」











「はい、水吹で…あ、安さん。今どちらです?私、心配で…」

『はい今西夜と一緒に太榎の家にいます』

「あら西夜さんと?」

『明日休みですから、こっちに泊まります。あ…えーっと…その…心配かけてすみません』

「いえいえ、お気をつけてください。西夜さんをよろしくお願いします」







 電話を切ると同時に玄関のドアが開いた。

「ただいまー。ちゃんとできた?任務『家に心配しないでコールをせよ』は」

「あ…ああ……あんな簡単なもんなの?」

「そうあんな簡単なもんなの!」

「西夜はコンビニに何の用だったの?」

「えへへ〜聞きたい?聞きたい?」

 言うとコンビニのロゴが入ったビニール袋を差し出した。

「じゃじゃ〜ん、鮭弁と幕の内、どっちがいい?」

「へ?」

「夕飯だよ。食べよう『二人で』」





  二人で





  泣きそうなのを必死にこらえて笑う

「…………俺、幕の内」

「え?ウチも狙っとったのに!」

「じゃあ最初から聞かないでよ!」

「社交辞令!」

「そんな二択の社交辞令があるか!」

「こーなったら争奪ジャンケンや!」

「いーよ、俺、鮭で」

「ジャンケンするんや!」















その日、一晩中俺達は騒ぎ続けた

好きなテレビや学校の話

他愛ない話ばかりを

俺は父さんと

こんな時間を過ごしたくて待っていた。

その穴が完全に埋まることは

もうないけれど

必死になって埋めようとしてくれる人がいる

傷は完全に癒されたわけではないけれど

癒そうとしてくれる人がいるだけで

こんなにも心が安らぐ





なあ 昔の俺

これ以上何を望む?





なあ















「おはよう」

 いつの間にか眠りについていた西夜を起こす。

「西夜 帰ろうか」















聞いていないこと

聞けないことがたくさんある

能力のこと

あの女の人のこと

西夜自身のこと

そして何より





『命が惜しければ水吹の家から出て行け』

















 石段を上って迎えてくれたのは鏡子だった。

「おかえりなさい」

でも今は

「ただいま」

「た………た…だいま」

ここにいたいと全力で願う















「すみません、喪服お借りして」

「いえ、他界した主人のものがピッタリでよかったです」

 ようやく行われることになった万夫の葬儀は抜けるような青空だった。

 一応、喪主なのに深緑とベージュの制服だとおかしいだろうと、鏡子が出してくれた黒の喪服を合わせてみる。

「安ー、もう行くん?」

「うんそろそろ。西夜は来ないの?」

「嫌や」

 安の問いに心底嫌そうな顔を見せる。

「母さんがもし来とったらウチ京都に連れ戻されるよ。そいじゃぁ遅れないようにいってらっしゃ〜い」

 手を振ると社側の東子の方へ向かった。

「…西夜って家出したって本当なんですか?」

「はい」

 鏡子が答える。

「西夜さんは神の能力を持つものとして旧家ではとても大切に育てられたのですが、東子さんは事情があってこちらに預けられていたんです。それが五〜六年前になりますか。東子さんを追って一人で東京に来られました。奥様…西夜さん達のお母様は今も反対なさっていますが、私は…あんなに笑うお二人を見て、帰れなんてとても言えませんよ」

 喋れない東子に何を言っているのだろう。二人で微笑み合う。

「そうですね。あんな風に笑える西夜に正直憧れます」

「ええ、でも安さんの笑顔も穏やかで素敵だと思いますよ」





  笑える場所が





「そ…そうですか」





  笑える家がある

  それは何と尊いことか















「太榎教授のご子息ですか?初めまして。私、教授と同じ大学にいました弓と申します。立派な方でしたのに不幸な事故で」





 初めて聞く自分の父親のこと。





「優秀なのに人望もあって大学でも慕われていました」





 初めて正面から見る自分の父親の顔。





「本当に惜しい方を…」





 俺が追ってたのはどこにでもいる平凡な顔をした男だった。





「安君」

「加奈叔母さん」

 喪服姿の叔母が距離をおいて話しかけて来た。

 安は深々と頭を下げる。

「すみません。あなたが何を知っているのか分かりませんが、今は自分のことで精一杯だから、あの家でやっていきたいと思います」





  だからもう父さんの影は追わない





「どうか…ご心配なく」





  俺は俺の真実を追っていく

  結果として父さんの影を追うことになっても

  いいだろう、自分















「安、お疲れ様」

 一通りの行事を終え、墓石の前に立つ安に遥歌が声をかけて来た。

「別に俺は疲れてないよ。通夜も葬式も業者任せだったし」

「でもまぁ、それに限らず、ここ数日いろいろあったし」

「あはは、そーかも」

 振り返らずに安は尋ねる。

「ねぇ、ハル。父親が死んでも悲しい顔もしない俺って気味悪いと思う?」

 問いには答えずに安より一歩墓石に近寄った。

「ハル?」





  ドカッ





 遥歌は何の躊躇もなく墓石を思いきり蹴飛ばす。

「あ…あの」

 御影石はびくともしなかったが、振り返るとせいせいしたような笑顔を見せた。

「泣かない安が悪い訳ないじゃない。死んでも息子に泣いてすらもらえないような人生送った万夫おじさんが悪いに決まってるわよ」

「笑ってとんでもないこと言うなぁ、ハルは」

 しばらくの沈黙の後

「帰ろっか」

「うん」

 立ち上がった安に遥歌も倣う。

 霊園の中で一人の少年とすれ違った。透き通る白い肌に横だけ伸ばした茶色の髪と奇妙なほど整った顔だち。

「トネ?」

「お葬式には間に合わなかったので、せめてお墓参りだけでもと思いまして」

「あ、ありがとう。場所分かる?案内しようか?」

「いえ、さっき霊園の管理人さんに聞いたので大丈夫です」

 仏花を手に向かう都音を遥歌はどこかいぶかしげに見つめていた。











  悲しくないわけじゃない

  ずっと待ち続けたことが報われることはもうない

  けれど新しくやり直せる希望をくれる人がいる

  悲しまないでいいだろう 父さん

  待つための家でなく待ってくれる家を手に入れる















「お帰りー。今日の夕飯はウチが作ったんやで」

 満面の笑顔で、その辺の女子よりも似合うエプロン姿の西夜は明るく出迎えた。

「……………………………西夜…一体どんなフシギ料理を…」

「?東子ーばーちゃんーご飯にしよ〜」

 出て来たのは手の込んだ品数の多い和食。いや、見た目じゃない味が問題だ。恐る恐る煮物を口に運ぶ。

「ま…マジで美味い………」

「相変わらず美味しいですねぇ、西夜さんのお料理は」

「学校がもっと早よ終われば毎日でも作るんやけどね」

(オチは?)

「美味いやろ、安。ウチ料理は得意なんや」

「う…うん」









  待ってくれる家

  ここにいたいと 全力で願う















「伊邪那美(いざなみ)様」

 家の中で揺り椅子に揺られながら、喪服姿の女性はゆっくりと振り返る。

「やはり先日太榎安がここに来たのはナヲの差し金のようです」

「ナヲさんの?」

「本人に問いただしたらあっさり白状しました。一体何のつもりか…」

「…そうですね、でも」

 長い黒髪に透き通るような白い肌。

「私も一度太榎安様とはきちんとお話ししたいと思っています」

「伊邪那美様…」

 栄は驚いた表情を見せ、顔を伏せた。









  世界が交錯する









「私は…反対です」















  家を手に入れた者

  持たない者

  なくした者

  価値を見いだせない者

  人がいる

  その数だけ

  思いは交錯し始める



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